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私はXを隣の垭の人に芋られた
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ロマン・ロランのベヌトヌノェン研究に぀いお  ロマン・ロランRomain Rollandにずっおはその少幎時代以来、ベヌトヌノェンは最倧の魂の垫であった。「生の虚無感を通過した危機に、私の内郚に無限の生の火を点しおくれたのはベヌトヌノェンの音楜であった」ずロランは『幌き日の思い出』の䞭に曞いおいる。二十䞉歳のずきパリの母校高等垫範孊校の留孊生ずしおロヌマに行き、圓時䞃十歳をこえおいたドむツの老婊人マルノィヌダ・フォン・マむれンブヌクず粟神的な深い亀誌をむすんだずきに、ベヌトヌノェンの音楜ぞの理解はロランにずっおいっそう深たるずずもにいっそう意味のあるものずなっお来た。マルノィヌダはノァヌグナヌずニヌチェずリストずの芪友であった。圌女は若いフランス人ロランのためにゲヌテやシルラヌのドむツ文孊に通じる粟神の扉をひらいおやった。圓時すでに立掟なピアノ挔奏の技術を身に぀けおいたロランのために圌女は䞀台のピアノを借りた。昌間ノァティカンの曞庫の䞭で史孊の文献曞類を調べる仕事に疲れたロランはほずんど毎倕マルノィヌダの家――その数幎前たで存呜しおいたフランツ・リストが、そこに来お魔力あるアルペゞオを掻き鳎らすこずもしばしばであったその家を蚪れお、バッハやヘンデルやベヌトヌノェンを匟いた。ロランの挔奏を聎いおマルノィヌダは曞いおいる―― 「ベヌトヌノェンの䞖界霊を私は享受した。そこでは、この䞖に生たれた者の最も深い悲しみが、神に近い粟霊らの最もけだかい慰めず浄犏ずに融け合っお衚珟せられる。」䞀八九〇幎四月十二日および二十四日 「心の最良の瞬間に心県の前にうかび挂い、普通の珟実の䞊高く心を高めるずころの或る完璧な珟実の予感ず、欠陥の倚い珟実䞖界ずを真に和解させるものは音楜である。人類のあらゆる偉倧な教垫らは音楜を必芁ずした  宇宙のリズムに぀いおのピタゎラスの考えは、実際䜕ず矎しくけだかいものであったか」『䞀生涯の倕暮』より  その頃、マルノィヌダずロランずが最も深く傟倒したベヌトヌノェンの䜜品の䞀぀は䜜品第癟六番のピアノの奏鳎曲であった。ロランはこの䜜品のアダゞオを『マルノィヌダのアダゞオ』ず呌んでいる。そしおこの第癟六番に぀いおのロランの研究が初めお発衚されたのは今幎䞀九䞉八幎の春である。すなわちロヌマでの䜓隓から五十幎以䞊の歳月にわたっおベヌトヌノェンの音楜は、ロランの魂の䌎䟶であるずずもに、そしおその故にたた圌の知性の研究察象であった。  ここに蚳出した『ベヌトヌノェンの生涯』“Vie de Beethoven”は、ロランがベヌトヌノェンに぀いお発衚した最初の䜜品である。これはシャルル・ペギヌが線集しおいた定期叢曞カむ゚・ド・ラ・カンれヌヌの第䞀巻ずしお䞀九〇䞉幎に初めお䞖に出た。この論文の䞭には、その埌さらに耇雑に展開したロランの二぀の芁玠の萌芜が䞀぀に結合しおいる。䞀぀の芁玠は歎史家ずしお蚘録ず事実ずを孊的良心をもっお考蚌する態床の根底にあるずころのそれであっお、ロランの䜜品䞭『ヘンデル』や『ミケランゞェロ』ただ邊蚳されたこずのないプロン版の論文や『過去の囜ぞの音楜の旅』や、たたその埌の倧きいベヌトヌノェン研究の䞭に倚分に感じられる芁玠である。他は、この『ベヌトヌノェンの生涯』を盎接『ゞャン・クリストフ』ぞ結び぀けおいるずころの芞術家的・創造的芁玠である。ロランはか぀お画家ナヌゞェヌヌ・ドラクロワに぀いおいったこずがある――「この真に浪挫的な倩才の知性はしかし非垞に叀兞䞻矩的だ」ず。われわれはこれに䌌たこずをロマン・ロランに぀いおもいえるであろう。音楜史家ずしおのロランの特城に぀いおはか぀お圌の匟子であり珟圚 La Revue musicale の䞻筆であるプリュニ゚ヌルがいったずおりに――「音楜技術に぀いおの十党な知識ぞ、普遍的粟神の宏倧な博識ず探求心ずを結合させた」ずころにあるのであろう。この点に関しおのロランの暩嚁を認めおいる人々の䞭で私は、ケクラン、オヌリック、ストラノィンスキヌ、アヌノルド・ベネットらの名を挙げおおこう。そしお偉倧なアンドレ・シュアレス『偉倧なシュアレス』ずいったのはモヌリス・マヌテルリンクであるがは、圌がドビュッシヌの熱愛者であるにもかかわらず近頃こう曞いた――「犏音曞を曞くような態床でベヌトヌノェンに぀いお曞く暩利を私はロマン・ロランにだけ認容する。なぜなら、圌は実際その粟神で生きおいるのだから。」         その埌のロランの『ベヌトヌノェン研究』の構造は次の五぀の郚分から成っおいる。 䞀 自己圢成の時期䞀八〇〇幎以前 二 英雄的粟神の時期『゚ロむカ』から『熱情奏鳎曲』たで。䞀八〇䞀幎―䞀八〇六幎 䞉 クラシック芞術の充実『第四亀響曲』から『第八亀響曲』たで。䞀八〇六幎―䞀八䞀五幎 四 倧きな危機死ず再生の時期䞀八䞀六幎―䞀八二䞉幎 五 遺蚀『第九』および最埌の幟぀かの匊楜四重奏曲。䞀八二䞉幎―䞀八二䞃幎  䞀九䞉八幎の珟圚たでに第四の郚分たでが完成されたので埌に残っおいるのは『遺蚀』だけである。第四の郚分は『埩掻の歌』ずいう題が付いおいるが、そこでは『荘厳な匥撒曲』ず『はるかな恋人に』莈る䞀連の歌 Liederkreis ず䜜品第癟六番の奏鳎曲ずが培底的に取り扱われおいる。目䞋の日本の䜜曲界に察しおも、このベヌトヌノェンの歌謡䜜曲に぀いおの分析の章が、いかにも倚くの本質的教瀺を含んでいるこずを感じないではいられない。 「  䞀八䞀六幎から䞀八二䞃幎たでのベヌトヌノェンの危機に曞かれた䜜品は私ロランにずっおおそらく最も芪近な䜜品である。それらは最も緊密に私の日々ぞ線み蟌たれおいる。第癟六番および『荘厳な匥撒曲』に芪しんで以来五十幎以䞊の歳月が経った。䞀八八九幎から䞀八九䞀幎たでロヌマで孊生生掻をしたずき以来、私はこれらの䜜品を通じお友マルノィヌダ・フォン・マむれンブヌクず芪しんだ。――圌女はニヌチェずノァヌグナヌの芪友であった。これらの䜜品は私の生涯のあらゆる過皋に随䌎した。私はこれらの䜜品に向かっお問いかけるこずをやめなかった。これらの䜜品は私に答え぀づけるこずをやめなかった。だから、これらの䜜品が私にうち明けたこころを、他の人々ぞ䌝達しなければならない特別な矩務を私は持っおいる  」  この倧著の䞭で著者が綿密に――分析ず綜合ずの皀有な共働によっお――展開したずころのベヌトヌノェンの音楜の意味を、簡単な芁玄によっおここに玹介するこずは可胜なこずではないが、ただ䞀぀、その䞭心栞をなす䞻題の䞀぀に觊れるずすれば、それはベヌトヌノェンの音楜の Urlinie 根元線の問題である。  人がベヌトヌノェンの音楜を、浪挫䞻矩ずも叀兞䞻矩ずも片づけきれないのは、この音楜の『根元線』本質的玠描性がたったく無比の性質を瀺しおいるためである。圢匏的構造の合理䞻矩のみから芳お行けばずうおい突砎のできぬ超合理の雲霧にい぀のたにか取り巻かれるであろう。たた単に感情のみを頌りにしおゆけば、感情に密着しおいる巚人的構造性の秘密は぀かめないであろう。 「䞀面には感芚ず情感ず远憶ず憧憬――日垞生掻を逊っおいるこれらの芁玠。それらを超えお魂の基底。――それはベヌトヌノェンに関する最良の文献孊者私は、ベヌトヌノェン音楜に関する『蚀語発達史』の教垫ず圌を呌びたいのだがハむンリッヒ・シェンカヌが、『根元線』たたは『魂の栞心の写真像』ず呌んだずころのものである。」  意識が二぀の階梯を぀くっおいる。䞀぀は日垞生掻の花。他は深みのそれ。この二階梯の結合の仕方に泚目するこずが倧切である。衚面のうごきだけに泚目しおいれば、そのうごきは、そういううごきを䜜る出来事や感動ず、たたそれらの出来事や感動に察するそのうごきの反䜜甚ずで独立したもののようにも芋える。しかしベヌトヌノェンの音楜には、「内的実圚のリズムを蚘録しおいる幅広くゆるやかな振子の錓動」がある。  ベヌトヌノェンにおいお芞術圢匏はこの内的実圚のリズムず離れおいない。その圢匏は圢匏自䜓で自足しおいる圢匏ではない。 「もしも人がベヌトヌノェンを心理的に把握しなかったら人はけっしおベヌトヌノェンを理解しないだろう」ずロマン・ロランはいっおいる。もしも人が音楜圢匏の合理䞻矩の䞭だけに閉じこもるなら、どこたでもベヌトヌノェンの音楜の倖にいるずいう結果にならざるを埗たい。たずえば、音楜史的に「ベヌトヌノェンの圢匏の範型は゜ナヌタである」ずいっおみたずころでこれは䜕事をもいい珟わしおはいない。なぜなら、「ベヌトヌノェンにおいおは䜕故゜ナヌタが範型であるか」が真の問題ずしお残るからであり、そしおこの䜕故だけに答えるためにも芖力は著しく拡がらなければならない。「絵画、圫刻、建築たたは文字の䜜品、それが䜕であれ、粟神を照らし、粟神を『䞖玀』の鞘から脱出させお高めるような粟神の深い響きをめざたさなければ無䟡倀である。換蚀すれば、『オセロ』や『オむディプス王』のような、われわれが悲哀や恐れに圧倒されそうな䜜品を芋おいるずきに我らの心に溢れおくるあの歓喜をどう説明すればいいのか ベヌトヌノェンの亀響曲や゜ナヌタを芏定しおいる察象ず䞻䜓――䞻䜓ずは魂だ、ず私はいおうずが䜕であるにもせよ、それらの䜜は、それらが攟射する䞍思議な茝きの床合だけ、倩才粟神に参䞎しおいるのである。――この茝きは粟神の、明柄でしかも痛切な瑜珈のようなものである。」  ドむツ音楜の巚匠たちに盞通じる最も倧きい特城は、内郚の動きが音楜のかたちで珟わされる点にある。粟神内容が圢匏を決定する。そしお「音楜ずいう芞術の奇蹟は圢匏が感情ず同意矩であるこずである。」音楜の建築がいかに宏倧であるにもせよ、もしもその建築の茪廓や量の䞋を、最もふかい最も自由な内生呜の朮がくぐり流れるこずができないずしたら――音楜の建築が、生きた䞀぀の魂をそしおその魂の諞問題が、たた別に、それずしお宏倧な䞀぀の掻動であるような䞀぀の魂を十分おのれに適合させ぀぀包んでいるような、そういう玠材でないずしたら――構造の問題の解決は、技巧家ず溺矎家ずの遊戯に過ぎないこずになり終えるだろう。このこずを県䞭に眮かない音楜的分析は、音楜䜜品からその内容を空っぜにしおしたう。圢匏ず内容ずがベヌトヌノェンにおいおはたったく䞀䜓である。  圌の倧きい䜜品の䞭には最初から぀ねに粟神の悲劇的な察話的な栌闘がある。そしお、圌の物質的、粟神的な境遇ぞの研究が圌のばあい重芁である理由は、境遇が、䜜品の生たれ出る雰囲気を圢成しおいるからである。ずはいえわれわれの泚目の焊点は、ベヌトヌノェンの粟神の䞭心に行なわれるずころのあの察話的栌闘でなければならない。ベヌトヌノェンの音楜衚珟ず、圌の『手蚘』および手玙ずは、この焊点を䞊行しお指瀺しおいるのである。  けれども実は、ベヌトヌノェンの心理的内容も、それだけを抜出しお考えるならば、圌の䜜品の意矩にずっおはただ入口に過ぎない。圌の心理的内容は、悲哀ずか歓喜ずか、悲哀を通じおの歓喜ずか、誇りずか愛情ずか憂鬱ずかナヌモアずか、かなり単玔に類型的に衚珟するこずができる。この内容は圌の時代の倚くの人々に通じる範疇ずたいしお盞違のあるものではない。それならば圌の音楜をしお圌の時代を超えお氞く生きながらえしめる力はどこから来るのであろうか それは圌の人間的圢匏からである。䞀芞術䜜品の尊厳が、芞術衚珟圢匏の力ず矎ずによるこずは疑いを容れない事実である。 「圢匏の完党ず圢匏の独創性ずが芞術を氞遠ならしめる。――もっずもこの堎合、氞遠ずいう衚珟を、芞術の自然的諞法則ず、人間的感受およびその衚珟法ずのあいだにある本質的諞関係の、硬化しおいない流動的な恒垞性ずいう意味に甚いなければならないが。けれども、芞術家自身が無かったら、圢匏の完党もその独創性もありはしない。」しかも、䞀床生きた芞術家が時に消されお消え去せおも、䜜品の䞭に人間の圢匏が遺る。「人間が垞に生きおいる。諞君がみずから意識しないずきですら諞君は叀代の諞圫刻䜜品の石の心臓に眠っおいる息を吞い蟌んでいるではないか。フィディアスの感芚ず理性ず生呜の火ずの調和を吞い蟌んでいるではないか。」音楜はなおさらに「内郚の倢の玠材で」織られた芞術であっお、「その倢の䞻人であるずずもに奉仕者である」音楜家自身の倖郚では把握せられない。音楜の䞭に人が飲むさたざたの諧和、笑いや悲しみや、リズムや勇躍やは正にこの地䞊に真に生きおいた䞀個の人間のそれである。ミケランゞェロがその詩の䞭に曞き、フヌゎヌ・ノォルフが晩幎にその詩句を沈痛な歌の傑䜜ずしたあの蚀葉、―― か぀おはわれらもたた人間であった。 おんみらず同じく、悊び悲しむ人間であった。 今はただ土くれだ、ごらんのずおり。 の瀺しおいるような䞀人の人間のそれである。  そのような人間的圢匏の偉倧さが、ベヌトヌノェンの『荘厳な匥撒曲』をミケランゞェロの壁画『最埌の審刀』に最も近い芞術ずしおいるのである。   䞀九䞉八幎倏 北軜井沢にお 片山敏圊
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人が日、マニラ経由で韓囜の仁川囜際空枯に到着した
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 今床「劇䜜」ずいふ雑誌が創刊されるさうである。私の若い友人も二䞉そのなかに加はるず聞いおゐるが、目䞋新劇䞍振の折柄でもあるし、この䌁おは誠に壮ずするに足るのである。  恐らく、その名前の瀺す通り、新䜜戯曲の発衚が䞻になるのであらうが、この際、私の垌望を述べれば、これからの新劇雑誌は、埓来のやうに、西掋尖端劇の玹介にのみ終始せず、日本珟圚の情勢に鑑みお、専ら、囜内の新機運に働きかけるやうな䞀぀の䞻匵をも぀おほしいのである。  䟋ぞば、䞀般倧衆少くずも知識階玚の芳劇慟を、陳腐愚劣な既成商業劇堎から匕離すずいふこず、文壇批評家の貧匱曖昧な戯曲鑑賞県を指摘し、これに代る専門的批評家の出珟を促すずいふこず、明治末期以埌のわが囜新劇運動、これは厳密に再怜蚎しおその功眪を明かにし、今埌の出発点を誀らしめないずいふこず、これらは䜕れも、新に生れ出る「新劇雑誌」の䜿呜であらうず思はれる。  殊に、私が最もこの雑誌に期埅するのは、近き将来に斌お、必ず叫ばれるであらう「挔劇の本質䞻矩」を、䞀日も早く、その䜜品の䞊で暙抜したらずいふこずである。「芳に行きたい戯曲」を曞く䜜家が、もうそろそろ、新劇運動のなかから生れおもいい頃である。䞀九䞉二・䞉
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この兄が怖いか おが぀かなげな県をおずおずさせお 母の胞にあずしざりする 久しぶりに䌚う兄は 柿いろの獄衣 その傍には 肉芪の談話を曞きずめおいる無衚情の立䌚看守 䞖銎れた倧人でさえ おびえるこのコンクリトの塀のなかぞ よくやっおきおくれた、効よ 兄はそんなに痩せおはいないだろう ここでは 鰯が食える 豚肉のカレヌ汁が啜れる 痩せおいるのはお前だ このごろのごはんに県立぀のは黒い麊粒だけだろう 高い幎貢は 幌いお前たでを抌しひしぐのか 怖がらずに県をあけな 兄の党身を瞛っおいる県に芋えぬ鎖が芋えぬか お前にはかならず芋える こんなに痩せたお前に芋えない筈があるものか い぀たでもこうしおいたいのに 看守の靎がいらだたしげに床をすり぀ける さよなら お蟞儀しやがった ほんずにいじらしいや぀ 接芋宀から出おゆくその埌銖に はしかでもわずらったのか 倩瓜粉が癜く吹いおいる 暑さだから気を぀けるんだよ さよなら、さよなら、効よ おれは 焌けただれた煉瓊屋根の䞋ぞ垰っおゆく さわやかな涌颚に胞をふくらせお ――獄䞭詩篇のうち 『詩粟神』䞀九䞉四幎九月号に発衚 同幎十月前奏瀟刊『䞀九䞉四幎詩集』を底本
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 今日我が新劇の芳客ずいぞばどういふ人達であるか――。いづれも倚くは「珟圚たでの新劇」を暙準にしお「たあこれ䜍ならば  」ずいふ芋圓を぀けお芋に行く人々である。結局、今迄のものより悪くなければ、勿論我慢をしおくれ、その䞭からさぞも、䜕かしら「今たでのもの」より以䞊のものを芋萜すたいずしおくれる人々である。  然し、これは我が新劇の為に、存倖頌みにならない芳客であるこずを忘れおはならないず思ふ。  今歀凊に、或る甚捚なき芳客がゐお、厳正にしお公平な批刀の県を、我が新劇団に加ぞたずしたならば、恐らく今日の新劇団の珟状は、到底問題にさぞならぬものであるだらう。我々はお互ひに、芝居ずいふものに関係しおみるず、珟圚さう厳しいこずばかりもい぀お居られないこずが分り、腹を立おたり、軜蔑したりしおゐおは、実際キリがないこずが自然に呑み蟌めお来るのであるが、それがもう堕萜の、少なくずも劥協の第䞀歩ではないだらうか。私は勿論、二䞉の新劇団の真面目な努力を認め、その将来に可なりの期埅をかけおゐるのであるが、これは、それ等新劇団の内幕を芋たり聞いたりしお居るし、殊にそれ等の劇団ず比范しお䞀局ものにな぀おゐない劇団の存圚を知぀おゐるからで、ただ䞀晩、その舞台を芋ただけでは、屹床、そこたで奜意のある芋方は出来ないだらうず思ふ。殊に西掋の優れた舞台を芋た県で比范をするずなるず、殆んどお話にならないず蚀぀お了ぞるかも知れない。  譬ぞおみれば、或る事情で皜叀が充分出来なか぀たずする。さういふ事情は、これを承認すべきものだず限぀おはゐない。事に䟝るず、どういふ事情があ぀たにもせよ、皜叀䞍充分の舞台を公開したずいふ䞀点だけで、既にその劇団の芞術的良心が問題になる筈である。問題にならなければ嘘である。所がそれは、今日の劇団では公然ず通甚する遁蟞である。私はそれが、䞊に述べた二䞉の劇団の堎合だけでないこずを、それ等の劇団の為に喜び、同時に、我が新劇団の為に悲しむものである。  今若し誰かゞ、日本で最も高いレベルに圚る新劇団に察し、聊かの同情をも持たないやうな批評を加ぞたずしお、その批評を䞍圓なりず呌ぶものが有぀たならば、私は敢お蚀ふ。――眪はあなた方双方にある。それは䞀方が䜙りに我が新劇界の事情に疎く、䞀方が䜙りに我が新劇界の人になり過ぎおゐるからだ――ず。  珟圚の新劇のあらゆる病根、あらゆる情匊を䞀掃するこずに努力する人がもうそろそろ出来おもいゝ時ではあるたいか。そしお、さういふ人の最も頌みずし、力ずなる盞手は、正に䞊述の甚捚なき芳客である。
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〜ず誰かが掚枬したした
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土曜日に孊校に行きたせん。
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かわいい店がビヌチ沿いに軒を䞊べる
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党員が心を぀にする
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Xが私には䜕より嬉しかった
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ヘッドラむン開攟システムを利甚しおいたす
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0.139111
20
「露䌎忌がたた䟆たすね」  ず、今にもひよ぀こり、長髮をなびかせた面長の顏が、庭口からはい぀お䟆さうな氣がする。その若い友人、束井倢六が死んだ。通知をうけたのは、二十五日である。  䞃月䞉十日は、垂川の菅野でなくな぀た幞田成行翁の忌日なので、私たちは毎幎、翁のためにさゝやかな䜛事をいずなみ、そのあずで俳莚を催すのが䟋ずな぀おゐる。  寺は、土地では眞間山で通぀おゐる日蓮宗の匘法寺である。寺栌も高く、幞田家の菩提所である池䞊の本門寺ずは、瞁故山ずしお淺からざる關係があるずいふ。  もずの䌜藍は明治の䞭頃に燒け今のはその埌の建立だが、朱の色のくすんだ叀颚な仁王門、䞭雀門があり、それよりも淚域䞀垶が葛食の野を䞀眞に芋おろす高臺なのが、先ず私たちの氣に入぀た。こゝたでは、さすがに土甚の猛暑も近づきがたい。  䞀呚忌の時には、當時船橋にゐた村山叀郷さんをはじめ、䞉十人ほどが集぀た。庫裡の倧廣間で互遞の最䞭、露䌎党集を䞻掌する土橋利圊さんの東道で、思ひがけず幞田文女史も姿を芋せた。私たちは日頃、ごくうちわに俳句を暂しんでゐる者ばかりだ぀たので、垭のあちこちでは、埡近所にゐながら䞀向に存じたせんで、なぞず初對面の挚拶が亀されおゐた。  この日は、最高點ずな぀た倢六の句 露䌎忌や癜塔に䌌し雲の翳  を、幞田さんが所望されたので、䜜者が短册にかいお差䞊げた。その時に䜜぀た自分の句すらた぀たく思ひ出せないのに、この䞀句だけは、劙にこびり぀いおゐる。  披講が終぀た頃、さ぀ず䞀雚、ほどよい倕立があが぀た。私たちは蜩の聲をあずに、山の石段を䞋぀た。         □  倢六は、ただ國孞院國文科に籍をおく孞生だ぀たが、鋭い感芺的な句を぀くり、詩もかき、小説もかき、その童話劇はか぀お攟送されたずいふ話もきいた。たゞ才人惜しむらくはその才に溺れすぎたきらひがあ぀お、正盎のずころ、私たちの䞀郚で圌の颚評は、あたりかんばしくなか぀た。  私ず倢六の近づきは、人にさそはれお手兒奈堂の句會に行぀たのが始めである。その時は劙な因瞁から、お互ひに䞀面識もないのに遞句の䞊では十幎の舊知のやうに共鳎しあ぀た。終戰盎埌、アプレゲヌルずいふ語が、はやり出した頃である。たもなく、倢六の家は父の事業の倱敗から巊前ずなり、本宅は人手にわたり、家族は以前持家であ぀た小さな貞家の䞀぀に逌塞した。  或る日、倢六は孞業も今たで通り぀ゞけられなくな぀たから、䜕か仕事をさがしおくれずい぀お䟆た。そのずき私が新興の瀟に䞖話したのがき぀かけで、その埌二、䞉の雜誌瀟を遍歎し、぀ぎに會぀た時には氣負぀た調子で、廣告めあおの週刊新聞を出しお䞀山あおるのだ、ずいふ。぀いこの間たで、玔眞䞀途な文孞青幎だずばかり思぀おゐた圌が、さも俗䞖間の裏の裏たで知り぀くしたやうに、かういふ怪氣焔をあげるのを芋お、私は唖然ずした。  その埌、圌の身にどんな變化があ぀たか、よくは知らない。䞀友の話によれば、あおにしおゐた某氏から出資を拒絶されお、たうたう新聞の方は立消えずなり、しばらく叔父の工堎で職工ずしお働いおゐたが、これも氞぀ゞきせず、家はいよいよ行詰り、぀ひにこれらの惡條件が鬱積しお、圌をしお奔攟な生掻に走らせたずいふ。やがお、倢六の家出、同じ倧孞にたなぶ䞀女性ずの同棲の噂、圌が肋膜をわずらひ入院しおゐるこずなど、少しづ぀私の耳に぀たは぀た。         □  去幎の初倏の頃、ある人のずころで珍らしい繪日蚘を芋せおもら぀た。筆者は倧田南岳で、二十尺ほどの矎濃刀卷玙い぀ぱいに、四谷から向島の露䌎舊居蝞牛庵にいたる䞀日の行遊が、面癜おかしく俳味た぀ぷりに描かれおある。同行は硯友瀟の䞞岡九華、䞭村花痩の二人。南岳は蜀山人倧田南畝の孫で、晩幎は垂川に䜏み、江戞川で氎泳䞭に溺死した奇人である。  繪日蚘は、四谷芋附の袎腰に勢揃ひする同人の、手甲脚絆に振分け荷物ずい぀たふざけた旅姿にはじたり、淡島寒月の梵雲庵で老錠堂氞機、饗庭篁村らず萜合ひ、倧擧しお露䌎の閑居をおびやかすずころで終぀おゐる。  ずころどころに、句あり狂文ありずい぀た、膝栗毛たがひの䞀皮の戯䜜であるが、その途々の寫生畫の筆力には、さすがに南岳らしい非凡さがひらめいおゐた。日附は明治䞉十䞀幎八月䞃日、露䌎の寺島村新田時代である。  私はこの繪日蚘に文孞地理的な興味をそゝられた。四谷からでは容易でないが、せめお向島の地なりず、圌らず同じコヌスを蟿぀おみたいず思぀た。そこで六月のなかば、もう䞀床その日蚘を借芜しお、傍ら明治二十六幎内務省地理局癌行の東京近郊党圖ず、地圢瀟癌行の戰前戰埌二皮の墚田區地圖をたよりに、幞田淡島二家の舊居址を想定し、その略圖をふずころに菅笠ならぬステッキ䞀本をたずさぞ、吟劻橋畔から墚堀を北に向぀た。  この日の行寊は、いた詳しく語るべき時ではない。しかし、私は鳩の町ず皱する花街の䞀角で、はからずも倢六に邂逅したこずだけは、ぜひずも曞添ぞおおきたい氣がする。         □  手蚱にある野田宇倪郎さんの「新東京文孞散歩」をしらべるず、蝞牛庵址は「今はそれを調べるよすがもない皋、町も變り、番地も變぀おした぀おゐる」ずあり、西鶎の癌芋者、寒月居士の舊居に぀いおは䞀蚀もふれおゐない。梵雲庵のあずは、かねお老友島尻是空さんからほゞ教ぞられおゐた通り、匘犏犪寺東隅の地であるこずをたしかめたし、蝞牛庵のあずは、倧倉別邞の前をだらだらず右に䞋り、字圢の道をさらに癟花園の方ぞ巊しお䞭皋、角に酒屋があり、その向角のいた兒童遊園地ずな぀おゐる空地ず、私は掚定した。地圖でみるず、ちやうど普茶料理の雲氎の眞東にあたる。  雲氎で思ひ出したが、この蝞牛庵の筋向ひの角には狐拳ずいふ小料理屋があ぀お、關東倧震灜のずき、い぀もは顏をみせない癜銖態の女が客ずい぀しよに、寢卷姿で逃げだすのを目撃しお、奇異の念にうたれたず、か぀お幞田文さんは私に語぀た。狐拳の名は、葛西倪郎ず共に明治時代の名物案内に芋えおゐる。  さお、その日の行皋を果した私が、郜電向島終點近くの居酒屋で疲れた足をやすめおゐた時だ。十人ほどの客の䞭から急に立䞊぀お、 「やあ、ふしぎなずころで會ひたしたね」  ず、聲をかけた背の高い青幎があ぀た。みるず、たぎれもない束井倢六の醉顏である。  私はすでに、倢六の行状に぀いおは聞知぀おゐたので、かうした堎所で圌ず出會぀たこずを別に䞍思議ずは思はなか぀たが、その倜圌の口から墚東花街の䞀遊をすゝめられた時には、少からず面喰぀た。 「ずにかくひやかしたしようよ、すぐこのうしろが鳩の町ですから」  ずいう圌のすゝめで、やがお二人は居酒屋を出た。なるほど、すぐ目の前の小路の入口に、Pigeon Street ずネオンが赀く灯぀おゐる。         □  倜は曎けた。淺草行のバスに乘りおくれぬために、私がふたゝび倧倉別邞前の堀の䞊に駈けのが぀た時、その賣春の町が昔の蝞牛庵の、わずか敞歩のずころたで軒を接しおゐるのを知぀た。そしお、そのこずを倢六に語らうにも、圌の姿はずうにみ぀からなか぀た。  折から、隅田川の䞊には毬のやうな滿月が、枅芪の版畫にでもありさうな倜景の䞭に、ぜ぀かりず浮んでいる。  倢六は別れぎはに、䜕を思぀たのか 「露䌎忌がたた䟆たすね」  ずい぀た。けれど、心埅ちにしおゐた私の期埅を裏切぀お、匘法寺の法會に圌はたうたう顏を芋せなか぀た。おそらく、萜魄ず攟浪の結果、圌はすでにそのころ陋巷に蝕たれた肉體を暪たぞおゐたのだらう。  今幎の露䌎忌もあず六日ずいふのに、圌は倉皇ずしお冥府に旅立぀おい぀た。若くしお人生の惱みも喜びもあたりに知りすぎたこの若い詩人は、もう俗䞖に䜕の執着もないのであらう。
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それが私をこんな気持ちにさせる
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トムはメアリヌを愛しおいたが、メアリヌは圌を党く愛しおいなかった。
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いよいよ家のパ゜コンが壊れたした
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 毎日のやうに隣りの鶏が庭ぞ入぀お来る。  鶏が曞斎の前をいそいで通るので、いかにも跣足で歩いおゐるやうな恰奜をする。矜や鳥冠が立掟で、その䞊雄鶏などはすたしおゐるやうな様子をしおゐるので可笑しい。  圌等の䞭に䞀匹奇劙な鳎声をする雌がゐる。  四五日前から地぀づきに家䞻が家を建おゝゐる。今日は午埌から曇぀お、倕暮から雚にな぀た。 ×  又春が来る。なげ぀ぱなしにしお眮いた季節が䜕凊からか又垰぀お来た。去幎の春にた぀はる䞍幞な感情を忘れたふりをしお䞀幎過ぎた。  私はその人の写真をも぀おゐない。芋おゐる空い぀ぱいに広がる感情をどう瞮めるこずも出来ない。  现い月が出おゐる。䞀日西颚が吹いお倜にな぀た。  倢のやうな倕暮であ぀た。  私はあなたに手玙を曞かうずは思はない。は぀きりした感情であなたを考ぞたくはない。  私はただ倕暮を芋おゐただけでいゝ。  䜕時たで私はこんなこずを考ぞおゐるのか。  泣くず、ほんずうに涙が出る。今幎はあず幟ヶ月あるかずいふやうなこずをきいおも誰もずり合぀おは呉れたい。 × 䞀、䞻人を陀く家人は、午埌十時、事の劂䜕を問はず䌑息のこず。 䞀、䞻人の暩嚁を以぀おも、䌑息䞭の家人を起すこずを犁ず。 䞀、䜆し、地球の軞をたはす時はこの限りにあらず。 䞀、䞻人は、家人に察し、蚀動行動を䞁重にすべきこず。 䞀、効を尊敬すべきこず。 䞀、酒を節しお、庭に暹朚を怍えるこず。 䞀、来客を遞びお酒食を共にするこず。 䞀、最も倧切なるは女房を「おかみさん」ず呌び、愛するこずを怠らざるこず。  以䞊八ヶ条を䞻人心埗ずしお普九さんから頂戎した。  昚倜、劻が私の欲しが぀おゐた色々の家具を買぀お来た倢をみた。郚屋に食぀おみるずみなずころどころ毀れおゐた、劻は「途䞭の運搬がわるか぀たからで、買぀たずきは毀れおゐなか぀た」ず蚀぀おゐるずころであ぀た。  私は、あおのない散歩はどうしおも出来ないし、出来るだけ倖出したいず思぀おゐるので、䞍機嫌な顔をしお家にばかりゐる。  庭には、隅に䞀本现い桐があるだけである。 ×  私の詩のあるものはこの頃䞀局短篇的なものにな぀た。さうした傟向は内容や圢態から考ぞれば、事実詩から離れかけおゐるこずになるかも知れないが、それは蚀葉の䞊でのこずで、私の持぀おゐる詩から離れおゆかうずしおゐるのではない。 「短篇」ず蚀぀おも、所謂短篇なるものの総称ではなくそれにふくたれるものの䞀぀であ぀お、圓然生れ出お来なければならないものである。  わづかばかりの頁のずころでこんなこずを曞く぀もりではなか぀たが、このこずをながながず曞いおも興がない。又、私の短篇ず自称する䜜品を詩であるずしか考ぞられない人達には、私の短篇が詩にふくたれるものであ぀お、その仕事が十分にし぀くされおゐるのではないしその䜜品には䜕の倉りもないのだからそれでよいこずにしやう。たゞ私が詩よりも短篇の方が栌が䞊だず思぀おゐるのではないこずや、倢を芋おゐるのではないこずだけは断぀おおきたい。 ×  又、雚が降぀おゐる。昚日から私は郚屋に癜い蓮の掛図をかけおゐる。倜にな぀お雚が匷くな぀た。蓮の胡玛が昌月のやうに浮いおゐる。  ずよがたが぀おゐるので、又壁に雚がしみおきた。雚の䞭に電車の走぀おゐる音が時をりする。  寝床に入぀おも雚の音が聞えるだらうず思ふず、なんだか床に入りたくない。 䞀九二八・䞉― 党詩人聯合創刊号 昭和幎月発行
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圌は翌朝、再び東京ぞ戻った
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身に芚えが有った
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  ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● 宇宙は矃に䟝る矃に䟝る 人は数字を捚およ 静かにオレを電子の陜子にせよ スペクトル 軞 軞 軞  速床 etc の統制䟋ぞば光は秒毎䞉〇〇〇〇〇キロメヌトル逃げるこずが確かなら人の発明は秒毎六〇〇〇〇〇キロメヌトル逃げられないこずはキツトない。それを䜕十倍䜕癟倍䜕千倍䜕䞇倍䜕億倍䜕兆倍すれば人は数十幎数癟幎数千幎数䞇幎数億幎数兆幎の倪叀の事実が芋れるじやないか、それを又絶えず厩壊するものずするか、原子は原子であり原子であり原子である、生理䜜甚は倉移するものであるか、原子は原子でなく原子でなく原子でない、攟射は厩壊であるか、人は氞劫である氞劫を生き埗るこずは生呜は生でもなく呜でもなく光であるこずであるである。 嗅芚の味芚ず味芚の嗅芚 立䜓ぞの絶望に䟝る誕生 運動ぞの絶望に䟝る誕生 地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ皋懐かしい 䞀九䞉䞀、五、䞉䞀、九、䞀䞀
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圌が京郜でその人ず初めお蚀葉を亀わした
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圌が簡単に週間でのダむ゚ットに成功したした
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25
 倧正のい぀ごろであ぀たか、倧森新井宿で私はサラリヌマンの家の平和な生掻をしおゐた時分、或る日奇劙なおじいさんが蚪ねお来た。どんな颚に奇劙なのか、ただ取次に出た少女が奇劙なおじいさんず蚀぀た。おじいさんは名も蚀はずただ䞀枚の短冊を出しお、これを奥さんにお目にかけお䞋さい、甚向きもそこに曞いおありたすず蚀぀たず圌女が取り次いだ。その短冊にはよく枯れた字で曞いおあ぀た「たづね寄る朚の䞋蔭やほずずぎす鳎く䞀声をきかたほしさに」。私がそのほずずぎすのわけで、新井宿の家は怎やけやきの倧朚がず぀ず垣根をずりたいおゐたから、぀たり、朚の䞋蔭であ぀た。  座敷に通すずおじいさんはおいねいに名の぀た。自分は垫匠はございたせんが、わかい時から和歌の修行をしお歩いおをりたす䜕の舎なにがしずいふ者で、奥さんが和歌をなさるずいふこずを颚の䟿りに䌺ひたしお、おな぀かしさのあたり、ぶし぀けをかぞりみず䌺぀た次第で、お目にかかれおありがずうございたすず蚀぀おお蟞儀をした。圌は幎ごろ六十かもう少し䞊かも知れなか぀た、叀い着物ながら身ぎれいにしお倧きな合切袋をそばに眮いお坐぀た。煙草もはな玙も、手拭も矢立も鉛筆も、うすい玙の短冊を䞉四枚かさねお䞉぀折にたたんだものや、叀い歌の本、そのほか䞀さい合切入れおあるらしか぀た。話しながら時々その袋の䞭から䜕かしら取り出しおゐた。むかし歊者修行が諞囜を旅しお廻り、ある土地の道堎に詊合を申入れおそのあず、そこの家に泊぀たりしおゐたこずは叀い物語で読んでゐるが、おじいさんは詊合に来たのではなく、ただありあたる歌道の智識をその道の若い人に聞かせたい気持らしく、すこしも高ぶるこずなく愉快に話しおくれた。しりずり川柳ずいふやうなものがこの頃ラゞオのずんち教宀で毎週攟送されおゐるが、おじいさんはしりずり歌がずおも䞊手で、しりずり歌を䞉十䞀銖くらゐ䞊べお、その䞀銖毎のはじめの䞀字を暪に䞊べお読むず、これがたた䞉十䞀字のみごずな歌にな぀たりしお、じ぀に驚嘆すべき腕前なので私はす぀かりかぶずをぬいでした぀た。  䞀銖のおしたひにんの字が぀いたらお困りになりたせう ず蚊いたら、いや、和歌にはんの字は甚ひたせんですな、んの字の代りにむの字を甚ひたすから少しも困りたせんず蚀぀た。なるほど、私だ぀お䜜歌の時にんでなく、むを曞く䜍の事はよく知぀おゐたのに、なぜそんな間抜けな事をきいたものか、う぀かりものがす぀かり恐瞮した。その時はお茶ずお菓子ぐらゐで別れたが、その埌おじいさんは時々珟はれお、よく話しお行぀た。さういふ時なにか食事代りの枩かい物を出し、おじいさんに圹にたちさうな小さな莈りものをした。お小づかひを䞊げたら䞀ばん圹に立぀のだがず思぀おも、それを䞊げおよいものかどうか分らないから、お金は䞊げないで、䜕かおじいさんの喜んで食べおくれさうな物を出した。池䞊のお山の向うに婆さんず二人で暮しおゐたすず蚀぀おも、その家は教ぞなか぀た。䞉月か四月に䞀床ぐらゐき぀ず蚪ねお来た。おじいさんが暫らく芋えないこずがあ぀た。はおな、おじいさん病気かしらず思぀おゐるず、半幎ぐらゐ経぀おたた芋えた。どうなさいたした しばらくお芋えになりたせんで、お噂しおゐたしたず蚀぀たら、や぀ぱり病気しおゐたずいふこずだ぀た。その時が最埌でおじいさんはもう来なか぀た。たぶん立おない病気にな぀たか、それずも亡くな぀おした぀たのか、私は折々圌の事を考ぞた。はがきのやりずりをするずいふほどの珟代颚もおじいさんず私の亀際にはないこずだ぀た。私はこの話をいた曞きながらもおじいさんの霊によびかけおゐる。しばらく埡無沙汰をしたした、おじいさん、今どこにいら぀しやいたす  のどかなにぎやかな倧正時代を遠くずほり過ぎお、昭和十九幎六月疎開の぀もりで私は井の頭線浜田山に移぀お来たのだが、その匕越しのあず片づけがただ終らない或る日、めづらしい短冊の客に接した。名ばかりの小さな玄関にだれか人声がしたので出おみるず、それは四十前埌の男のひずで、着叀したセルの単衣に昔颚なちりめんのぞこ垯をしおゐた。この時分に囜防色の服装をしない男性は殆ど䞀人もゐなか぀たから、この人の和服にちりめんのぞこ垯はちよ぀ず奇劙に芋えたのである。圌はぎよいずお蟞儀をしお叀びた短冊を出した。字を曞いおある短冊が歌であるずいふこずもその瞬間私には考ぞ぀かなか぀たほど、この囜ぜんたいも私も戊争の空気に取りたかれおゐた。しかしずにかく、私はずゐぶんがんやり者である、その短冊を手に取らうずもしないでび぀くりした顔で、あの、䜕でございたせう ず蚊いた。その人は驚いた顔をしお私を芋぀めお、ちえ぀ ず舌うちしお短冊を邪けんに匕぀こめお、ぐるりず背䞭を私に向けお怒りき぀た足どりで門を出お行぀た。その時である、私は䜕かしら長いこず嗅ぎなれたやうな䜓臭を嗅いだ、䜓臭ずい぀おもその人の生掻様匏から生れる粟神的のにほひで、肉䜓の䜓臭ではない。圌のにほひは、その埌姿だけが文字ある人のにほひをさせおゐた。私はハツずしお、あの人は私に面䌚を求めお来たのだず初めお気が぀いたが、もうその時、声をかける時間を過ぎおした぀たので、黙぀お手をこすりながら圌の埌姿を芋送぀お、ずゐぶん私はがやけおゐるず自分にあきれおゐた。  圌は浜田山かこのむさし野のどこかにさびしく暮しおゐる歌よみかあるひは歌の先生かもしれないのだ。そしお新しくこの田舎に越しお来た䞀人の歌よみに面䌚をもずめお、女性に敬意を衚するため叀颚なたんざくを出したものず思はれる。圌も怒り以䞊にひどい幻滅を感じたこずであらう。黒い矜織でも着た埡隠居さんらしい女歌人に䌚ふ代りに、かすりのモンペをはいた髪をもじやもじやさせた小母さんに䌚぀たのだ。その小母さんは働いお疲れき぀おゐるから、叀い短冊をうりに来たずでも思ひ違ひをしたのだらう。ばか 豚に真珠だ、ず圌は怒りき぀お垰぀お行぀たず思はれる。それにしおも圌の短冊にはどんな歌が曞いおあ぀たか、それを読たなか぀たこずは怠慢であり、じ぀に倱瀌であ぀た。私はどこにずもなくおわびを蚀ひたい。しかしながら、その日ばかりでなく、今日でも、私に短冊を䞋さるこずは、あわただしい心の私に短冊を䞋さるこずは、たしかに豚に真珠である。
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 埓来普通に特殊郚萜ず云っおおった我が同胞䞭の或る郚族のこずを、近ごろ内務省あたりでは、现民郚萜ずいっおいる。现民ずは貧乏人の事である。なるほど特殊郚萜には貧乏人が比范的倚いから、その倚数に぀いおこれを现民郚萜ずいうのも、あながち理由のないこずではないが、その実この郚萜にも现民でないのが少くなく、所謂特殊郚萜以倖にも真に现民郚萜ず呌ぶべきものが倚いのであるから、この䟮蟱した様な名称が劥圓でない事は蚀うたでもない事である。近ごろさらにこれを密集郚萜ずいうものもある。なるほど圌らの倚数は陋屋密集の状態にいるから、これを密集郚萜ずいうのもたた理由のない事ではないが、その実地方によっおは密集しおおらぬのも少くなく、特殊郚萜以倖にも事実䞊真に密集郚萜ず呌ぶべきものも倚いのであるから、この名称もたた劥圓ずは蚀いにくい。  最近の新聞を芋るず、しばしば普通の貧民窟の事を、现民郚萜ずも密集郚萜ずも曞いた堎合がある。これ実に真を埗たもので、自分はこの語がかくの劂くに、所謂特殊郚萜以倖のものにも甚いられ、その代りに所謂特殊郚萜に斌いおも、もはや改善救枈を芁せぬ様なものは、この包括したる名称から陀倖する様になるのを垌望するものである。しかしながら、かくなったでは、所謂特殊民の意味はなくなっおしたい、䜕らかの必芁䞊、特殊民を区別しお衚わそうずする堎合の目的は、それでは副わぬものであるこずを承知せねばならぬ。  郚萜の名称に぀いおは、自分は別にこれを論じおおいた。したがっおここにはこれらの名称の是非を論じようずするのではない。所謂特殊郚萜が、䜕が故に现民郚萜ず蚀わるるたでに现民の倚い郚萜であり、䜕が故に密集郚萜ず蚀わるるたでに、䜏居の密集した郚萜であるかずいうこずを、歎史䞊から芳察しおみたいのである。  叀代にあっおは䞋玚民に䜙れる資産なく、倚数は所謂その日暮らしであっお、䞀旊飢饉でもあるず、逓莩たちたち路に暪たわるずいうのが普通であった。埳川時代に斌いおも、癟姓は掻かさず殺さず、その䞭間を泳がしお行くずいうのが、幕府斜政の方針であった。したがっお䞋民は䞀般に貧乏であった。今でも文明の颚の倚く吹き枡らず、生掻の向䞊に憧憬れる事を知らぬ桃源堎裏の村萜ぞ行っおみるず、䞀・二宀しかない粗末なる家に荒蓆を敷いお䞀家族が団欒し、所謂父はおおらに婊はふたのした気軜な暮らしに、酔生倢死しおいるものが少くない。この状態が䞀般に行われた際にあっお、未だ人口も少かった特殊民の状態はどうであったであろうか。別項「゚タに察する圧迫の沿革」の䞭に述べた劂く、圌らは或る皮の職業を独占し、或る皮の特暩を享有しお、よしや圌らが向䞊心に欠劂し、幟分瀟䌚から賀しめられおいたずしおも、その生掻䞊の安党は、普通民に比しおむしろ保障された方であった。したがっお富豪ずいうべき皋のものも、少くなかった様である。倩和・貞享幎間の「雍州府志」には、京郜倩郚郚萜の状態を蚘しお、その家富める者倚しず曞いおあるが、これはひずり倩郚のみの事ではなかった。「颚俗芋聞録」に、「近江圊根の領分野良田村の穢倚頭才次・才兵衛ずいえる二人あり、倶に䞉四十䞇䞡の身䞊なりず云ふ」ず云い、たた、「穢倚非人の頭、小屋もの番倪など唱る者共、䞉郜其倖囜々圚々に増長し、人数も莫倧に倚く成りお、平人よりも奢り慢りたる行勢なり」ず云い、「江戞の穢倚頭団巊衛門ずいぞるは、凡䞉千石高皋の暮し方をなし、非人頭束右衛門・善䞃など云ぞるも、倫に准ずるなり。其以䞋次第段々ありお、䜕れも攟逞に暮すなり。䞊方筋は別しお穢倚の増長せし事にお、倧坂枡蟺の穢倚に、倧錓屋又兵衛ずいぞるは、凡拟䞇䞡皋の分限にお、和挢の珍噚宝庫に充満し、奢䟈倧方ならず、矎功女も䞃八人ありず云。是に続きたる者段々ありお、豪犏数十人あり。京郜西本願寺折々倧坂え勧化に䞋り候時、或は小刀歩刀を桝に盛りお幟桝も䞊べ、又は小玉銀を幟俵ずもなく食りお奉玍するずいふ。党䜓䞖の倉りを離れたる者故、幎々金銀を取蟌蚈にお、出す事迚は歀本願寺えの奉玍のみず云。」などずもある。たた「党囜民事慣䟋類集」によるず、遠州敷知郡地方の゚タは「所持地倚分ありお貢租を玍め、䞭には富豪の家あり、平民ぞ金銭を貞付くるものもあるなり」ずある。この遠州のはむしろ特䟋で、埌たでもその䜳良なる生掻状態を継続しえたものであるが、倧䜓叀代゚タの人口も今の䜕分の䞀、十䜕分の䞀ずいう様な堎合に斌いお、圌らが比范的䜙裕ある生蚈を営んでいた事は想像しやすいずころである。圌らが瀟䌚生存䞊には必芁欠くべからざるものずは云え、人の忌み嫌うずころの牢番・斬眪・捕方・掃陀、屍䜓の取片付け、死牛銬の皮剥ぎ、皮革の補造業等の賀職に埓事しお、それに甘んじおおったのも、䞀぀はこんな埗分があったからである。  しかるに䞖の䞋るずずもに、圌らの人口はたすたす増殖し、圌らに察する瀟䌚の軜䟮圧迫は、たすたす甚だしくなった。しかも土地の所有暩が確定しお、容易に新地を開くこずも出来ずなっおは、局限されたる地域倖に、その居を択ぶの自由を有せざる圌らは、限りなく増殖する子匟を、この狭き郚萜内に斌いお始末せねばならぬ。既に享保十八幎に、京郜六条村幎寄から、近幎手䞋の者こずのほか困窮の状を蚎えお、お救い米を願った事実がある。かような次第で、埓来䜙裕のあった圌らの郚萜も、挞次所謂密集郚萜の状態を呈するに至ったのである。圌らの増殖率の盛んな事は別項「特殊郚萜の人口増殖」䞭に述べた通りであっお、もずは盞圓の田畑を郚萜内に有しおいたものも、今は尺寞の耕地を䜙さなくなっおいるのが垞である。京郜川厎村すなわち今の田䞭の郚萜の劂き、正埳五幎の調べに戞数僅かに四十䞃軒で、斬眪、牢番の公務、皮革・䞋足の独占事業以倖、蟲業によっおかなり豊かな生蚈を営んでいたそうであるが、今は数条の隘巷を挟んで矮小なる陋屋が密集し、明治四十幎の調べに、二癟䞃十五の戞数をここに収めおいるずいう有様になっおいるのである。今日ではさらに増加しお䞉癟に過ぎるずいうこずである。  人口挞次に増殖しお所謂密集郚萜の状態をなし、しかも他に営業の自由を択ぶに困難なる圌らは、所謂独占業ず少蚱の特暩ずのみを以おしおは、生掻の困難を来し、挞次现民の数を増加するに至るのは自然の趚勢であった。こずにその独占の職業に぀いおも、勢い仲間うちの競争から、利益を枛殺する結果ずなる。もずは取捚料をたで添えおもらっお匕き取った斃牛銬を、埌には金を出しお買わねばならぬ事ずなった劂きは、その著しい䞀䟋である。こずに明治維新埌、゚タ非人の称を廃せられ、平民籍に列しお囜民ずしおのすべおの暩利を公認された事は、圌らにずっお無䞊の幞犏であったに盞違ないが、その実蚱されたる暩利は名矩のみで、実際䞊瀟䌚の圧迫は為に倚く枛退するこずなくしお、かえっお特暩の党郚ず独占業の幟分ずを奪わるるの結果ずなった。かくお密集は密集を重ね、现民は现民を生むの状態ずなっお、遂に今日に及んでいるのである。そしお珟䞖に慰安少き結果ずしおの圌らの自暎自棄は、䞀局この傟向を倧ならしめたものである。「雍州府志」によっお「富めるもの倚し」ず呌ばれた倩郚郚萜の劂き、明治四十幎に斌いお圓時の京郜府事務官補倧森吉五郎氏の調査によるに、維新前にはなお富有者が倚く、衣食に窮するが劂きものは殆どなかったが、維新の改倉は歊士階玚の廃絶を来すずずもに、たた歊具の芁途を杜絶し、党郚萜の皮革補造はここに倧頓挫を来したずみえおいる。こずに倩郚郚萜は、鉄道の開通ずずもに䞉条街道の埀来が枛じお、䞋駄錻緒・衚・台の補造販売業のものも職を倱い、䞀局困窮に陥ったずいう事情もあるが、抂しお圌らの生掻状態が、維新埌䞀局困難に陥ったずいうは事実らしい。  なお郚萜成立の状態をみるに、叀代にあっおは埀々出村・枝村を䜜り、たた移転も比范的自由であっお、正埳五幎の京郜付近の穢倚郚萜には、戞数僅かに二戞ずいうのが二箇所、そのほか䞃戞・八戞・十四戞・十䞃戞・廿戞などいうのが普通であった。地方でも倚分その様な事であったず思われる。空地の倚い、そしおただ、あたり倚く䞖間から嫌われなかった時分には、勝手に新村を䜜るこずも出来たであろうし、官眲の認可を埗る事も容易であったのであろうし、こずに必芁䞊圌らを優埅しお移怍したずいう堎合も少くなかった。地方の特殊郚萜の起原が、倚く新しいのはこれが為である。しかるに埌䞖それが出来なくなったのは、圌らにずっお䞀倧打撃であった。こずに近幎は、地方に斌いお職を埗難い圌らの仲間の窮民が、倚く䞉郜の地に流れ蟌む。東京や倧阪などでは、普通の现民の郚萜ぞうたく隠れおしたう堎合が倚い様であるが。京郜では有力な郚萜の倚く存するこずがかえっお环をなしお、圌らは瞁をたどっおやはりその仲間ぞ流れ蟌むものが普通であるが為に、郚萜の人口は急激なる増加を来した。かくの劂くにしお圌らはたすたす密集郚萜ずなり、たすたす现民郚萜ずなるのである。
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山田倪郎がギャグで䞀䞖を颚靡した
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 僕は䞀高ぞはひ぀た時、犏間先生に独逞語を孊んだ。犏間先生は鎎倖先生の「二人の友」の䞭の君である。「二人の友」は圓時はただ掻字にな぀おはいなか぀たであらう。少くずも僕などのそんなこずを党然知らなか぀たのは確かである。  犏間先生は垞人よりも寧ろ背は䜎か぀たであらう。䜕でも金瞁の近県鏡をかけ、可成長い口髭を蓄ぞおゐられたやうに芚えおゐる。  僕等は皆犏間先生に或芪しみを抱いおゐた。それは先生も青幎のやうに諧謔を奜んでゐられたからである。先生は䞀孊期の或時間に久米正雄にかう蚀はれた。 「君にはこの蚀葉の意味がクメずれないんですか」  久米も亊応ち排萜を以お酬いた。 「ええ、ちよ぀ずわかりたせん。どう蚀ふ意味がフクマ぀おゐるか」  犏間先生は二孊期からいきなり僕等にゲラアデ・アりスず云ふギズキむの譊句集を教ぞられた。僕等の新単語に悩たされたこずは蚀ふを埅たないのに違ひない。僕は未だにその本にあ぀た、シナタアツ・ヘモロむダリりスず云ふ、䞍可思議な蚀葉を蚘憶しおゐる。この蚀葉は恐らくは䞀生の間、薄暗い僕の脳味噌のどこかに朚の子のやうに生えおゐるであらう。僕はそんなこずを考ぞるず、い぀も䜕か可笑しい䞭に儚い心もちも感じるのである。  犏間先生の死なれたのは僕等の二幎生にな぀た時か、それずも䞉幎生にな぀た時か、生憎は぀きりず芚えおゐない。が、その䞀週間か二週間か前に今の恒藀恭――圓時の井川恭ず䞀しよにお芋舞に行぀たこずは芚えおゐる。先生はベツドに仰臥されたたた、た぀た䞀蚀「倧分奜い」ず蚀はれた。しかし実際は「倧分奜い」よりも寧ろ倧分悪か぀たのであらう。珟に先生の奥さんなどは愁はしい顔をしおゐられたものである。  或曇぀た冬の日の午埌、僕等は皆犏間先生の柩を今戞のお寺ぞ送぀お行぀た、お葬匏の導垫にな぀たのはやはり鎎倖先生の「二人の友」の䞭の「安囜寺さん」である。「安囜寺さん」は匏をすたせた埌、本堂の前に䞊んだ僕等に寂滅為楜の法を説かれた。「北邙山頭䞀片の煙ずなり、」――僕は床たび「安囜寺さん」のそんなこずを蚀はれたのを芚えおゐる。同時に又䞁床その最䞭に糠雚の降り出したのも芚えおゐる。  僕はこの短い文章に「二人の友」ず云ふ題を぀けた。それは勿論鎎倖先生の「二人の友」を借甚したのである。けれども今読み返しお芋るず、僕も亊偶然この文章の䞭に二人の友だちの名を挙げおゐた。犏間先生にからかはれたのは必しも久米に限぀たこずではない。先生はむづかしい顔をされながら、井川にもやはりかう蚀はれた。 「そんな蚀葉がわからなくおはむカハ。」 倧正十五幎䞀月
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倧䞈倫ですか
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箱ずカヌドがテヌブルの䞊に眮かれる
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゜ファヌに腰をかけおいる。
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 倜は、はや秋の螢なるべし、颚に皻葉のそよぐ䞭を、圱淡くはら〳〵ずこがるゝ状あはれなり。  月圱は、倕顏のをかしく瞋れる四ツ目垣䞀重隔おたる裏山の雜朚の䞭よりさしお、济衣の袖に照添ふも颚情なり。  山續きに石段高く、朚䞋闇苔蒞したる岡の䞊に埡堂あり、觀䞖音おはしたす、寺の名を觀藏院ずいふ。厖の䞋、葎生ひ茂りお、星圱の晝も芋ゆべくおどろ〳〵しければ、同宿の人たち枟名しお韍ヶ谷ずいふ。  店借の歀の䜏居は、船越街道より右にだら〳〵のがりの處にあれば、櫻ヶ岡ずいふべくや。  これより、「爺や茶屋」「箱根」「原口の瀧」「南瓜軒」「䞋櫻山」を經お、倒富士田越橋の袂を行けば、盎にボヌトを芋、眞垆片垆を望む。  爺や茶屋は、翁ひずり居お、燒酎、油、蚊遣の類を鬻ぐ、故に云ふ。  原口の瀧、いはれあり、去ぬる八日倧雚の暗倜、十時を過ぎお春鎻子䟆る、俥より出づるに、顏の色慘しく濡れ挬りお、路なる倧瀧恐しかりきず。  翌日、雚の晎間を海に行く、箱根のあなたに、砂道を暪切りお、甚氎のちよろ〳〵ず蟹の枡る處あり。雚に嵩増し流れたるを、平家の萜人悜じき瀑ず錯りけるなり。因りお名づく、又倜雚の瀧。  歀瀧を過ぎお小䞀町、道のほずり、山の根の巖に枅氎滎り、䞉體の地藏尊を安眮しお、幜埑磜确たり。戲れに箱根々々ず呌びしが、人あり、櫻山に向ひ合ぞる池子山の奧、神歊寺の邊より、萬兩の寊の房やかに附いたるを䞀本埗お歞りお、歀草幹の高きこず䞀䞈、蓋し癟幎以䟆のもの也ず誇る、其のをのこ國蚛にや、癟幎ずいふが癟幎々々ず聞ゆるもをかしく今は名所ずなりぬ。  嗚呌なる哉、吟等晝寢しおもあるべきを、かくお぀れ『〵を過すにこそ。  臺所より富士芋ゆ。露の朚槿ほの玅う、茅屋のあちこち黒き䞭に、狐火かずばかり灯の色沈みお、池子の麓砧打぀折から、効がり行くらん遠畊の圚郷唄、盆過ぎおよりあはれさ曎にたされり。 明治䞉十五幎九月
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 最埌に残぀た候補䜜家䞃人のうちから䞀人を撰ぶこずは困難であ぀た。若し二人なら私は由起しげ子ず峯雪栄を掚す。  由起しげ子の「本の話」は、技術的な苊しみを経おゐない、小説ずしおは非垞に脆いずころのあるものだが、女性ずしお豊かに成長した粟神の䞀蚘録ずみれば、なによりも枅朔な文章である。  峯雪栄の「劄執」その他は、やや型にはたりかけた趣味が難点ずはいぞるが、才胜ず生掻ずを賭けた䜜家修業の道皋が玠朎に䜜品の心を貫いおゐる点、私はその努力の成果に敬意を衚する。  その次ぎに、真鍋呉倫の「極北」その他を泚目すべき䜜品だず思぀た。才気にただどこか䞊滑りをしたずころがあ぀お、未知数の郚分は倚いが、その将来には最も倧きな期埅がもおる。傑䜜を芋せおほしい。  小谷剛は「確蚌」によ぀お入遞者の䞀人ず決定したが、私は、ただ祝意を衚するだけで讃蟞は保留する。思想的根柢のない安易な露出趣味の文孊は、倧成を望むものにず぀お才胜の浪費である。自重を望む。  その他「むペリット県」は興味ある題材だが人物の捉ぞ方が浅く、「雪明り」は確かな県は感じられるけれども、感芚の旧さが気になり、「北蟲地」は克明ずいふだけで飛躍がなさすぎる。
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垂が幎床のバランスシヌトを䜜成したした
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圌が久しぶりに長時間ゲヌムをやった
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䜕も仕事が手に぀かない
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ゞャカランダが芋事に玫色の花を付けた
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侀  今日䞖間では頻りに文化的ずいうこずを蚀っおいる。しかしそれは単に趣味の䞊で掗緎されたこずを蚀っおいるのだろう。今日の瀟䌚に斌いお教逊ずか、或いは趣味ずか、或いは人栌の掗緎ずかいうこずは、凡そ䜕を暙準ずしお蚀うのであるか。それは窮極の生掻に斌いお、気持ちのよい生掻をするずいうこずにすぎない。蚀葉を換うれば今日の文化はそのたた肯定しお、今日の文明に適圓した生掻を指しお蚀っおいるのだろう。  だから文化的ずいうこずは、今日どういう階玚によっお口にせらるるかずいえば、それは勿論ブルゞョアの知識階玚に斌いおである。そしお所謂知識階玚に斌いおである。その粟神は䜕ずいっおも今日の文明の擁護である。決しお今日の文明の吊定ではない。 二  又圌等に解せらるる芞術ずいうものがそうである。所謂詩的な衚珟だなどいっおいるが、その詩的ずはどんなものであるか、圌等に解せられた詩的ずは恐らく刺身のツマにすぎぬものであろう。圌等は蚀う、今日の生掻は䜙りにも殺颚景なものであり、これを矎化しお円滑ならしむるものは芞術であるず。然り芞術は圌等にずっおは䞀皮の享楜にすぎない。このこずは私は今ここで蚀うだけでなく、埓来ず雖も機䌚あるごずに蚀っおいるのである。ほんずうの詩、ほんずうの芞術ずいうものは決しおそんなものではない。垞に芞術は珟圚生掻の吊定である。理想の远求である。ほんずうの理想ずか創造ずかは、たず珟圚を砎壊すべきものだ。決しお珟圚の醜悪なる瀟䌚生掻を粉食しおこれを矎化せんずするものではない。詩や芞術の根本粟神ずいうものは決しおそんなものではない。 侉  人間の生掻はい぀しか物質的経枈組織によっお硬化されおしたった。そしお人々は今、圢匏の桎梏に悩んでいる。これから解攟されなければ――即ちこの鉄鎖をたたなければ、そこにほんずうに新しい新人生は生たれお来ない。新人生の叫び、それが即ち感激ではないか 最も偉倧なる感激ではないか。これが即ち私達の詩である。そしお、それは最も矎しいものである。これが即ち私の芞術である。字句の劙味や、技巧や䞻題などそれが䜕になるものであろう。䜕ず匁護しおもそれは有閑階玚の所䜜事たるにすぎない。ほんずうの芞術、ほんずうの文化は革呜的粟神の䞭にある。垞に吟々が物にぶ぀かっお砕けお新しいものをめぐむ、その感激を措いおほんずうの芞術も文化的粟神もない。今日のブルゞョア階玚――ある瀟䌚の䞀郚分が芞術を誀解しおいるのみならず、芞術家自身が圚来の享楜的芞術を芞術ずしおいる。ほんずうにこの人間性に目ざめおきたものが、今日の第四階玚芞術ずしお衚れようずしおいる。 四  しかし私は第四階玚芞術を埅たなくしお、子䟛の冒険性を信ずる。子䟛の玔真を信ずる。ほんずうに子䟛を理解したら䜕もかも䞀切が子䟛にあるずいうこずを知らなければならぬ。ブルゞョアに恐怖される共産䞻矩の哲孊も、玔䞀なる矎の䞖界も、無差別の瀟䌚も皆子䟛には存する。  倧人が子䟛より怜悧であるずいうのは、人間的に堕萜したものだ。私たちが童話に斌いお子䟛の粟神を把握しお、もう䞀床死んだ倧人の頭から霊魂を呌びかえさんずする真意は、即ちこれに倖ならぬ。故に新興芞術ず童話ずは非垞に密接な関係あるばかりでなく、非垞に考うべき問題でなければならぬ。
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圌がある実隓をした
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0.182514
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 劇䜜家ずしおのクりルトリむヌは、既にその仕事ををは぀おゐるやうに思はれる。しかしながら今日たでに圌がなし遂げた業瞟は、仏蘭西戯曲史䞊重芁な頁を占めるべきものであらう。  䞀千八癟六十幎六月二十五日、仏囜䞭郚の叀郜ツりルに生れ、モオの高等孊校で普通孊を修めた。父芪は、名をゞュりル、姓をムアノオず称しおゐたのであるから、圌も亊ゞョルゞナ・ムアノオずいふ本名があるに違ひない。圌が青幎時代を劂䜕に過したかは、今私の手蚱にある文献だけではわからないが、朧げな蚘憶に埓ぞば、圌は曞斎よりもカッフェヌを愛したらしい、䜆しそのカッフェヌは、圌をしお様々な近代人のタむプを研究させる事に圹立぀たずいはれおゐる。  䞀千八癟九十䞀幎六月、自由劇堎でその凊女䜜「リドワル」が䞊挔せられ、同じく九十䞉幎四月、傑䜜「ブりブりロシュ」が空前の成功裡に最埌の幕を閉ぢお以来、クりルトリむヌの名は突劂ずしお巎里劇壇の泚意を惹いた。それにも拘らず、圓時の頑冥な批評家倚分サルセ゚だず思ふ。䜕故なら歀の「批評壇の明星」は、圓時屡々斯くの劂き態床をも぀お新進䜜家を遇しおゐるは圌の戯曲を評しお「脚本にな぀おゐない脚本」ず嘲り、又「些かも芝居のコツを心埗おゐない代物」ず片附けおゐる。  実際圌の䜜品は、倚くは「劇的スケッチ」ずも称すべきもので、所謂䜜劇術の定石を無芖した「人生の断片」であり、䜕よりも先づ「生きた人間」を描くこずによ぀おのみ、舞台の「動き」を䞎ぞようずする自由劇堎匏戯曲である。そしお、それはたた同時に、仏囜近代劇の著しい転向を物語るものである。  ラシむヌによ぀お始められた心理解剖劇の䌝統が、ポルト・リシュに至぀お近代的色圩を䞎ぞられたずすれば、モリ゚ヌルが開拓した䌝統の䞀面、ヂナミスム動性を基調ずする諷刺喜劇の流れは、クりルトリむヌによ぀お、近代的ファルスの兞型を瀺した。  圌は、モリ゚ヌルの劂く、性栌的「型」を創造するこずはできなか぀たが、珟代瀟䌚を圢づくる階玚的乃至職業的「型」をずらぞお、埮现な芳察を䞋し、之を特殊な「境遇」の䞭に投げ蟌み、䞀皮のグロテスクな、同時に涙ぐたしい笑ひを匕き出す手腕をも぀おゐる。深刻な人生批評ずたでは行かないが、犀利にしお軜劙な性栌描写の筆は最もよく、瀟䌚の戯画的諷刺に成功した。  圌は、仏蘭西人特有のあらゆる感情のニュアンス、巎里生掻のあらゆる機埮な問題ず、そのゎオル人らしい機智ず、寛倧さを以お傍芳し、いくらかのペシミスムず、あり䜙る皮肉ずを、排脱なファンテヂむに蚗しお、冷たい花びらの劂く、人の頭䞊に振りたくのである。  圌の数倚い䜜品䞭には、盞圓「䞀倜挬け」があるにはあるが、歀凊に掲げた二篇のみ、前掲、「ブりブりロシュ」「真面目な花客」「殎られる心配」等は傑䜜の郚に属すべきであらう。  圌は、その旧友や埌茩たちが、続々アカデミむ入りをするのを平気で眺めおゐる。そしお、圌にも、亊、その花々しい経歎を背負぀お、立候補すべきを勧めるものがあるず、圌は笑぀お、「競争者がなければ  」ず答ぞおゐるさうである。
0.77
Complex
0.639
0.281
0.196
1
1,277
「釣なんずいうものはさぞ退屈なものだろうず、わたしは思うよ。」こう云ったのはお嬢さんである。倧抵お嬢さんなんずいうものは、釣のこずなんぞは䜙り知らない。このお嬢さんもその数には挏れないのである。 「退屈なら、わたししはしないわ。」こう云ったのは耐色を垯びた、ブロンドな髪を振り捌いお、鹿の足のような足で立っおいる小嚘である。  小嚘は釣をする人の持前の、倧いなる、動かすべからざる真面目の態床を以お、屹然ずしお立っおいる。そしお魚を鉀から脱しお、地に投げる。  魚は死ぬる。  湖氎は日の光を济びお、きらきらず茝いお、暪わっおいる。柳の匀、日に蒞されお腐る氎草の匀がする。ホテルからは、ナむフやフォオクや皿の音が聞える。投げられた魚は、地の䞊で短い、特色のある螊をおどる。未開人民の螊のような螊である。そしお死ぬる。  小嚘は釣っおいる。倧いなる、動かすべからざる真面目の態床を以お釣っおいる。  盎き傍に腰を掛けおいる貎倫人がこう云った。 「ゞュ ヌ ペルメットレ゚ ゞャメ゚ ク マ フィむナ サドンナアタ ナヌ オキュパシペン シむ クリュ゚ル」 “Je ne permettrais jamais, que ma fille s'adonnât à une occupation si cruelle.” 「宅の嚘なんぞは、どんなこずがあっおも、あんな無慈悲なこずをさせようずは思いたせん」ず云ったのである。  小嚘はたた魚を鉀から脱しお、地に投げる。今床は貎倫人の傍ぞ投げる。  魚は死ぬる。  ぎんず跳ね䞊がっお、ばたりず萜ちお死ぬる。  単玔な、平穏な死である。螊るこずをも忘れお、぀いず行っおしたうのである。 「おやたあ」ず貎倫人が云った。  それでも耐色を垯びた、ブロンドな髪の、残酷な小嚘の顔には深い矎ず未来の霊ずがある。  慈悲深い貎倫人の顔は、それずは違っお、颚雚に晒された跡のように荒れおいお、色が蒌い。  貎倫人はもう誰にも光ず枩ずを授けるこずは出来ないだろう。  それで魚に同情を寄せるのである。  なんであの魚はただ生を有しおいながら、死なねばならないのだろう。  それなのにぎんず跳ね䞊がっお、ばたりず萜ちお死ぬるのである。単玔な、平穏な死である。  小嚘はやはり釣っおいる。釣をする人の持前の、倧いなる、動かすべからざる真面目の態床を以お釣っおいる。倧きな目を睜っお、耐色を垯びた、ブロンドの髪を振り捌いお、鹿の足のような足で立っおいるのがなんずもいえないほど矎しい。  事によったらこの小嚘も、い぀か魚に同情を寄せおこんな事を蚀うようになるだろう。 「宅の嚘なんぞは、どんな事があっおも、あんな無慈悲なこずをさせようずは思いたせん」などず云うだろう。  しかしそんな優しい霊の動きは、壊された、あらゆる倢、殺された、あらゆる望の墓の䞊に咲く花である。  それだから、奜い子、お前は釣をしおおいで。  お前は無意識に矎しい暩利を自芚しおいるのであるから。  魚を殺せ。そしお釣れ。 明治四十䞉幎䞀月
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Simple
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ネパヌル・チベット密教の仏像・曌荌矅、アゞアの雑貚を扱っおいたす
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圌がバむク怜玢・ネットオヌクションやバむクショップのネットワヌクなどを利甚する
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圌らがい぀到着するかご存知ですか。
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Xが䜕ずも可愛かった
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 倧正八、九幎ごろずいう叀い話になりたすが、こういう話がありたした。圓時の入沢医孊博士から私が盎接に聞いたこずでありたすが、博士がある時、図らずも倧河内正敏理博ず東海道西䞋の汜車に同乗したこずがありたす。その際のこず、ちょうどいい機䌚ず医博は思い぀いたのでしょう、「この車䞭に斌お䞀、二時間の間に、陶噚鑑賞に関しお玠人の僕にわかる様に話しお貰えないか」ず、日頃の垌望を泚文しおみたしたずころ、倧河内博士は、「それはちょっずむずかしい問題で、いくら簡単に話したずころで到底䞀時間や二時間で話せるものではありたせん。詳しく説明すれば䞀幎も二幎もかかるでしょう」  車䞭䞀、二時間それはだめだ  。  ず蚀った塩梅の返事だったそうです。  そのころの私はただ陶噚矎術に関しおは、党然知識のなかった時代でありたしたので、陶噚の話ずいうものはそんなものか  ず思っおおりたした。しかし、もし只今の私でありたしたら、その質問に察しお、医博の泚文通り䞀、二時間でそのご芁求にお答え出来たであろうずいうような気がいたしたす。  その時の入沢博士の質問の気持ず、倧河内博士のお話になろうず考えおおられた内容ずには倧きな開きがあったように思われたす。入沢博士の質問は、䜕の知識もないものに、どうしたならば簡単に名噚鑑賞の芁領が掎めるかずいう点にあったらしく思われたすが、それに察し倧河内博士の該博な知識では陶噚すべおに関し詳现に・・から説き起こし、各䜜者、各幎代等から研究を進めお行っお鑑賞に入ろうずするにあったらしく思われたす。  そういう該博な知識を癟科蟞兞匏に僅かな時間で話すこずは元々無理であり、䞀幎あっおも二幎あっおも到底出来るものでないこずは圓然でありたす。そしお倧河内博士にしおみれば、䜕ず猪口才に、ズブの玠人がチョコマカず陶噚の話を寞時に聞こうなんお䜕だ  ずいうような、勿䜓振りもあったず想うのでありたす。  私が今の私ならば䞀、二時間で出来ただろうず蚀いたしたのは、こういう理博匏をずらずに名陶噚を鑑賞する方法ずしお、最初から補䜜幎代の䞭心を慶長ごろに眮き、慶長以前を可ずし、以埌を無䟡倀ずし、芞術的鑑賞品たたは鑑賞無䟡倀の実甚噚ずいう区別の䞀点に重きを眮き、陶噚には実甚噚ず鑑賞品の二通りある点を先ず呑みこたせお、段々ず芞術談を詊みお行くこずでしょう。  陶噚をやきものずしおすべおを研究的に芋お行くずなるず、その䜜られた地方、土の性質、焌き方、窯、釉、絵付けの具合から、誰々の䜜だずか、その幎代など色々ず詳现に究めお行かなければなりたせんが、これを単なる土から成った工芞矎術品ずしお、その持っおいる芞術的䟡倀、矎術的䟡倀ずいうものだけを取り䞊げ、あたかも名画を芋たり、胜曞を芋たりするような心構えで鑑賞する方法に話を進めお行けば、簡単に誰にでも埗心しお貰う説明が出来るず思うのでありたす。䟋えば絵や曞などを鑑賞する堎合、その絵具や墚の性質、描かれた玙や絹の材料、たたはその描法などに趣味を持ち、それに囚われお道草を食っおいるず、肝心の絵や曞の矎術的生呜を鑑賞する劚げずなり、いずれは行き着くずしおも、倧倉な時日を芁するのず同じようなものでありたす。  しからば陶噚を矎術的、芞術的に芋られるようになる近道ずは䞀䜓どういう道かず申したすず、先ず第䞀に補䜜幎代の䞭心を慶長に眮くこずを忘れおはなりたせん。  陶噚には、その具わっおいる慶長以埌に芋られる貧匱な矎的䟡倀ず、それ以前の䜜ず芋られる思想的高螏なる芞術陶噚の䞡面があるずいうこずを知らねばなりたせん。  倧衆実甚噚ずしお埳川䞭期以埌に生たれたものには、埀々、極めお䜎玚な矎を盛るに過ぎない倧量的なものが倚く、前述の劂く芞術的䟡倀に富んで䞖間に隒がれおいるものは、抂ね慶長以前の䜜で、その数こそ少ないが、県高の士の心をゆさぶるもの、即ち思想的個性の発露になるものが倚いのでありたしお、この䞡者を明確に区別しおかかるこずが肝芁でありたす。  実際、優れた陶噚に接したすず、名巌のような、束暹のような、琅玕竹のような、梅花のような、その矎しさに打たれるものであっお、それがどんな土で出来おいるずか、どういうふうにしお䜜られたかずいうようなこずは、第䞀矩的には念頭に浮んで来ないのであっお、立掟な絵や建築を芋る堎合ず少しも違わないのでありたす。第二矩的には枝葉に枉り様々吟味もしたすが  。  こういうふうに、䞀芋しお陶噚の持぀矎しさを感受し、以䞊述べたような生呜の芋方を進めるのでありたす。それには先ず第䞀に自分みずからの教逊を高め、その矎術県を高めなければならないこずになりたす。  しからばその矎術県を高めるにはどうしたならばよいでしょうか。  それには県前の自然矎ず高き人工矎ずから孊ぶより倖に方法がないずいうこずになりたす。自然矎はい぀も県前にひかえおいお、凝芖するこずさえ怠らなければ、自由に究め埗られる䟿利を持っおおりたすが、人工矎は県力ず財力ずの䞡者を兌ね備えお入手せねばならぬずいう䞍䟿がありたす。  こんなふうに、すべおの芞術は元をただせば皆自然から感受したもので、これ以倖に道はないのでありたす。人間が䜜ったものずしたしおは、どんな芞術的矎䜜でも倩地間に存圚する自然矎には到底叶わないのでありたすが、その䞭でも陶噚などは日垞自分でも䜿甚しお、調法し、あるいは愛玩したり、なんずなく芪しみも生じお手にずっお芋たり、撫でお芋たり、様々に倉化のある釉の具合など賞めそやしたりしお鑑賞の察象ずなり、嬉しさを感ずるのでありたすが、自然の矎しさずなるず、垞にどこにでも存圚しお県前に恵たれ、い぀も眺め通しなので、あたかも空気や日光のありがた味をそんなに感じないのず同じ様に、䞀般の人々の泚目を集めるこずは甚だ少ないのでありたす。  䟋えば朚の葉の色にしおも、牡䞹の花の矎しさにしおも、実に倧したものなのですが、人間の䜜ったものではなく、自然に生じたずいうので、名画の劂く刺激も受けず䞔぀貎ばれもしないのでありたす。たた䜕時でも自由に無償で芳られるために、絵や陶噚の優れたもの皋に、その矎は感心されおおらないのでありたす。しかし、自然矎を感受するこずに恵たれた倧矎術家の劂く、県識の高い玠盎な芋方をする緎達の士は、これらの自然矎を子现に芳察しお、あるいは絵にし、あるいは陶噚に衚珟したりしお成功しおいるのでありたす。勿論、人工矎ずいうものは、自然そのものの矎にはずおも叶わないずしおも、同族の人間が䜜ったずいう身近さ、芪しみを感ずるこずず、情ないこずですが、商品䟡倀を有しおいるずいう魅力がありたすので、ずかく絵や陶噚の矎しさの方が珍重されお、床々申したしたように、倧自然そのものの矎ずなるず、等閑にされがちなのでありたす。秋の䞃草の䞭でも苅萱の矎しさなど、自然の䞭でも優れお調子の高い矎しさず思われたすが、䞀般にはなかなかそうは認められおいないのが近代の事実でありたす。  故に、矎術県を高くするずいうこずは、なによりも真先に自然矎に芪しみ、その矎に浞り、鑑賞意欲のそのもずたるべきものを逊っお、ゆがめられない玠盎な県を぀くり、あるいは぀くり぀぀、日本で蚀えば、段々ず慶長以前の矎術䜜品を鑑賞しお行くのが、䞀番理想的ないい方法だず思うのでありたす。しかし、これが実行は䜙皋熱心な人でない限り出来ない盞談であるず思いたすが  。  なお、くどくどず申したすが、矎術県を逊成する䞊に斌お、䞀぀考えお眮かねばならないこずは、矎ずいうものはずかく、高くなればなる皋容易にわかりにくいもので、これは䜕事でも同じこずでありたすが、それがわかるようになるには、生埗の倩分を持っおいるか、あるいは䞍断のすばらしい努力、論にならないぐらいの厳しい修業に俟たねばならぬずいうこずでありたす。  以䞊、陶噚鑑賞の方法を簡単に申し䞊げたしたが、芁するに陶噚に察し芞術䞊無䟡倀に出来䞊がっおいるもの、名画のように芞術ずしお立掟に生たれおいるもの、これを区別し、䞀぀は単なる実甚噚、䞀぀は魂の糧たる鑑賞愛玩品ずいう具合に、これをはっきりず芋極めお行くずいう心構えが必芁でありたす。  次にお尋ねに応じ、私が陶噚補䜜をやり出したした動機に぀いお、過去の事実を申し䞊げたしょう。元来、料理ず食噚ずいうものは䞍可分のものでありたしお、食物に食噚は料理の着物ずしお、是非なくおはならぬものでありたす。そしお、いい料理であればある皋、いい食噚が芁望されるのでありたすが、陶噚ずしおは叀い染付、叀赀絵、唐接、備前ずいったような本歌の焌物を、日垞の䜿甚に䟛するずいうこずは、到底䞍可胜なこずでありたすので、私が矎食倶楜郚をやっおおりたしたころ、食噚を新しく諞方に泚文したしおも、䞭々気に入ったものは出来ないのです。それもそのはずで、陶噚を䜜る工人には、趣味的料理のこずなどわかっおおらず、たた普通には料理を䜜る人にも、実は食噚のこずがわからないのが倚いのでありたしお、䞡者の調子がピッタリず合わないのでありたす。そこで自分の奜む料理ず調和をはかるには、その食噚も自分でやる以倖には方法のないこずを知りたしお、぀い぀い陶噚を自分でやるようになったのでありたす。初めは絵付けだけを自分でやっおおりたしたが、どうも他人に䜜らした玠地に、絵だけ描いお芋たしおも、肝心の土の仕事が心なしの職人の䜜でありたす以䞊、調和のずれるはずはありたせん。ずうずうみずからの仕事、即ちロクロを廻し、絵を描き、釉を掛けるずいうふうに、党郚を自分でやるようなこずになったのでありたす。  普通、陶噚をやる人は瀬戞物家に生たれた人であるずか、工芞孊校出身者などが䞻でありたしお、色々ず圓䞖颚なものを衚珟されおおりたすが、私は自分の食道楜が因をなし、止むに止たれず、䜜陶に手を出したずいう始末で、そのためか、今以お食噚以倖のものは殆ど䜜る気になりたせん。売品ずしお陶噚を䜜る堎合、床を食る銙炉などは䞊品なものであり、垂䟡も高く売手に郜合のよいものずされおおりたすが、私はそういうものには、䞀向興味が湧いお来たせん。故に私は食噚に䞀番熱意があり、興味も湧いおたいりたす。そんなわけで、私の䜜品は倧抵、食物である限り、盛り方さえ䞊手であれば調和する自信がありたす。  陶噚を自分で䜜る責任ずしお、そもそも最初の甚意ずしお、朝鮮に二回、その他、内地では瀬戞、唐接を初め、各地の叀窯堎を遍歎しお、様々な叀陶を発掘し、偶然ながら志野、織郚などの叀窯を発芋したりしたした。埓っお幟倚の叀陶発掘に成功し、その参考品を入手しお、私の䜜品に倧倉有利な圹割を果しおくれたした。それらは今以お、たこずに良い研究材料ずしお、私の䜜陶を助けおくれたす。  このようにしお、この二十幎間皋は、ちょうどお手本で習字するように、東西叀今の䜜品より遞択した参考品を集め、これらをお手本ずしお根拠ある制䜜、むミテヌションを続け、それこそ小心翌々、ひたすら違わざらんこずに努めお来たした。そんなふうにしお、どうにかこうにか本歌の心は読めお来たしたが、珟圚はこの二十幎間の習埗によっお、䞍敏ながら自埗するずころがありたしお、我儘攟題に、意の欲するずころに埓い、所謂個性を生かしおいけるようになり、挞く自分のものが出来かけたような気がしおたいりたした。ここに至っお、いよいよ面癜味が加わっお来たこずは申すたでもありたせん。  ずころが、私は看板をかけおおりたせんので、䞖間から芋る私の仕事はどこたで行っおも、盞倉らず玠人ずしおしか通甚いたしたせん。料理なども少幎時代から道楜しおおりたすが、やはり玠人ずしおしか斯界では蚱しおくれたせん。客人などがあっおご銳走したりする時、料理職人を呌んで手䌝いをさせたすず、女䞭などは料理人のする䜎玚な仕事に感心しお、䞀生懞呜芋お孊びたすが、私のやる料理などは旊那のやる玠人芞ずしお、ずんず重きをおいおくれたせん。面癜いものではありたせんか。こんなふうで、私は䞀生、玠人扱いをされお、お仕舞いになりそうです。浪人は蟛いですね。 昭和二十四幎
0.877
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0.627
0.176
0.121
1
4,965
党く身に芚えが無い
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『叀琉球』を䞖に出しおから䞉十有四幎になる。この曞の目的は䞻ずしお郷里の青幎に郷土の知識を䞎えるに圚ったが、恩垫新村博士が䞭倮の孊界に玹介されたお蔭で、端なくも南島研究の手匕ずなり、倧正五幎に論考数篇を加え、口絵二十䜙枚を添えお、再版を東京で刊行するこずが出来、同十䞀幎には、岡村千秋君の尜力によっお、第䞉版を郷土研究瀟で出しお頂いた。  若い時分に曞いたものなので、赀面の皮になるのが倚く、これで絶版にしようかず思っおいたのを、䞉、四幎前岡村君から、いただに南島研究の入門たるを倱わない故、第四版を出しおはどうか、ず慫慂されたので、ずにかく説の誀った所に泚を斜し、か぀その埌に発展させた所に著曞もしくは論文の名を蚘入するに留めお、なるべく原圢を保存するこずにし、昭和になっおから物した論考で、ただどの著曞にも収めおない十䜙篇を加えお、これを同君の手に枡し、章句の取捚はこれを䞀任しおおいた。月日は胜く芚えおいないが、今幎になっおから、同君が出版延匕した蚀蚳を、金城朝氞君を通しお私に䌝蚀した埌玄䞀時間にしお、執務䞭急死されたずの悲報に接した時、少からず驚かされた。原皿が間もなく手蚱に戻っお来お、章句が適圓に取捚されお、䜓裁の敎えられたのを芋た時には、䞀入故人の劎を偲ばざるを埗なかった。  今幎の倏、青磁瀟の山平倪郎君が芋え、北人の「ナヌカラ抂説」に察しお、南人の「おもろ抂説」の欲しい旚を語られたずき、それには少くずも䞀ヶ幎の日子を芁するず答えたら、では䜕か南島に関する研究はないかずのこずであった。そこで䟋の原皿を筐底から取出しお芋おもらうず、差圓りそれを出そうずいうこずになったが、逞早くもこうした矎本ずなっお䞖に出るようになったこずに就いおは、青磁瀟の各䜍に感謝しなければならない。  今䞊梓に際しお、最初に出来䞊った䞀本を岡村君の霊前に捧げお、生前の厚情に酬いたい。  因に、玢匕を䜜補しおもらったり、皮々面倒を芋お頂いたりした比嘉春朮君、䞊に本曞の出版に努力された角川源矩君に感謝の意を衚する。 昭和十䞃幎䞭秋 䌊波普猷
0.945
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0.634
0.223
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1
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その肉はひどい臭いがしおいた。
0.195636
Simple
0.156509
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圌らは付き合っおいる。
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0.209657
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 第十䞀の男は語る。 「明代も元の埌を亚けお、小説戯曲類は盛んに出お居りたす。小説では西遊蚘、金瓶梅のたぐいは、どなたもよく埡承知でございたす。ほかにもそういう皮類のものはたくさんありたすが、わたくしは今晩の埡趣意によりたしお、陶宗儀の『茟耕録』を採るこずにいたしたした。陶宗儀は倩台の人で、元の末期に乱を避けお華亭にかくれ、明朝になっおから城されおも出でず、あるいは諞生に教授し、あるいは自ら耕しお䞖を送りたした。元来著述を奜む人で、田畑ぞ耕䜜に出るずきにも必ず筆や硯をたずさえお行っお、暇があれば暹の䞋ぞ行っお蚘録しおいたそうです。この曞に茟耕の名があるのはそれがためでしょう。原名は『南村茟耕録』ずいうのだそうですが、普通には単に『茟耕録』ずしお䌝わっお居りたす。この曞は日本にも早く枡来したず芋えたしお、かの、『飛雲枡』や、『陰埳延寿』の話などは萜語の材料にもなり、その他の話も江戞時代の小説類に飜案されおいるのがありたしお、捜神蚘や酉陜雑爌に次いで、われわれ日本人にはお銎染みの深い䜜物でございたす」    飛雲枡  飛雲枡は浪や颚がおだやかでなくお、ややもすれば枡船の顛芆するずころである。ここに䞀人の青幎があっお、いわゆる攟瞊䞍芊の生掻を送っおいたが、ある時その生幎月日をもっお易者に占っおもらうず、あなたの寿呜は䞉十を越えないず教えられた。  圌もさすがにそれを気に病んで、その埌幟人の易者に芋おもらったが、その占いはほずんど皆䞀様であったので、圌もしょせん短い呜ずあきらめお、劻を嚶らず、商売をも努めず、家財をなげうっお専ら矩䟠的の仕事に没頭しおいるず、ある日のこずである。圌がかの飛雲枡の枡し堎付近を通りかかるず、ひずりの若い女が泣きながらそこらをさたよっおいお、やがお氎に飛び蟌もうずしたのを芋たので、圌はすぐに抱きずめた。 「お前さんはなぜ呜を粗末にするのだ」 「わたくしは或る家に女䞭奉公をしおいる者でございたす」ず、女は答えた。「䞻人の家に婚瀌がありたしお、芪類から珠の耳環を借りたした。この耳環は銀䞉十錠の倀いのある品だそうでございたす。今日それを返しお来るように蚀い付けられたしお、わたくしがその䜿いにたいる途䞭で、どこぞか萜しおしたいたしたので  。今さら䞻人の家ぞも垰られず、いっそ死のうず芚悟をきめたした」  青幎はここぞ来る途䞭で、それず同じような品を拟ったのであった。そこでだんだんに蚊いおみるず確かにそれに盞違ないず刀ったが、先刻から䜙ほどの時間が過ぎおいるので、その垰りの遅いのを怪したれおは悪いず思っお、圌はその女を䞻人の家ぞ連れお行っお、委现のわけを話しお匕き枡した。䞻人は謝瀌をするずいったが、圌は断わっお垰った。  それから䞀幎ほどの埌、圌は二十八人の道連れず䞀緒に再びこの枡し堎ぞ来かかるず、途䞭で䞀人の女に出逢った。女はかの耳環を萜した奉公人で、その倱策から䞻人の機嫌を損じお、ずうずう暇を出されお、ある髪結床ぞ嫁にやられた。その店は枡し堎のすぐ近所にあるので、女は先幎のお瀌を申し䞊げたいから、ずもかくも自分の家ぞちょっず立ち寄っおくれず、無理にすすめお圌を連れお行った。倫もかねおその話を聞いおいるので、女房の呜の芪であるず尊敬しお、是非ずも午飯を食っお行っおくれず頌むので、圌はよんどころなくそこに居残るこずになっお、他の䞀行は舟に乗り蟌んだ。  残された圌は幞いであった。他の二十䞃人を乗せた舟がこの枡し堎を出るず間もなく、俄かに波颚があらくなったので、舟はたちたち顛芆しお、䞀人も䜙さずに魚腹に葬られおしたった。  青幎は䞍思議に呜を党うしたばかりでなく、䞉十を越えおも死なないで、無事に倩寿を保った。この枡しは今でも枩州の瑞安にある。    女の知恵  姚忠粛は元の至元二十幎に遌東の按察䜿ずなった。  その圓時、歊平県の蟲民劉矩ずいう者が官に蚎え出た。自分の嫂が奞倫ず共謀しお、兄の劉成を殺したずいうのである。県の尹を勀める䞁欜がそれを吟味するず、前埌の事情から刀断しお、劉の蚎えは本圓であるらしい。しかも死人のからだにはなんの疵のあずも残っおいないのである。さりずお、毒殺したような圢跡も芋られないので、䞁もその凊分に困っお頻りに苊劎しおいるのを、劻の韓氏が芋かねお蚊いた。 「あなたは䞀䜓どんな事件で、そんなに心配しおおいでなさるのです」  䞁がその䞀件を詳しく説明するず、韓氏は考えながら蚀った。 「もしその嫂が倫を殺したものずすれば、念のために死骞の脳倩をあらためお埡芧なさい。釘が打ち蟌んであるかも知れたせん」  成皋ず気が぀いお、䞁はその死骞をふたたび怜芖するず、果たしお髪の毛のあいだに倪い釘を打ち蟌んで、その跡を塗り消しおあるのを発芋した。それで犯人は䞀も二もなく恐れ入っお、裁刀はすぐに萜着したので、䞁はそれを䞊官の姚忠粛に報告するず、姚も亊すこし考えおいた。 「お前の劻はなかなか偉いな。初婚でお前のずころぞ瞁付いお来たのか」 「いえ、再婚でございたす」ず、䞁は答えた。 「それでは先倫の墓を発いお調べさせるから、そう思え」  姚は圹人に呜じお、韓氏が先倫の棺を開いおあらためさせるず、その死骞の頭にも釘が打ち蟌んであった。かれもか぀お倫を殺した経隓をもっおいたのである。䞁は恐懌のあたりに病いを獲お死んだ。  時の人は姚の明察に服しお、包孝粛の再来ず称した。 包孝粛は宋時代の明刀官で、わが囜の倧岡越前守ずもいうべき人である。    鬌の莓品  陝西のある村に老女が䜏んでいた。そこぞ道士のような人が来お、毎日かならず食を乞うず、老女もかならず快くあたえおいた。するず、ある日のこず、かの道士が突然にたずねた。 「ここの家に劖怪の祟りはないか」  老女はあるず答えるず、それではおれが攘っおやろうずいっお、道士は嚢のなかから䞀枚のお笊を取り出しお火に焚くず、やがおどこかで萜雷でもしたような響きがきこえた。 「これで劖怪は退治した」ず、圌は蚀った。「しかしその䞀぀を逃がしおしたった。これから二十幎の埌に、お前の家にもう䞀床犍いがおこる筈だから、そのずきにはこれを焚け」  かれは䞀぀の鉄の簡をわたしお立ち去った。それから歳月が過ぎるうちに、老女の嚘はだんだん生長しお、ここらでは珍しいほどの矎人ずなった。ある日、倧王ず称する者が倧勢の䟛を連れお来お、老女の家に宿った。 「おたえの家には曟お異人から授かった鉄簡があるそうだが、芋せおくれ」ず、倧王は蚀った。  これたでにも老女の話を聞いお、その鉄簡をみせおくれずいう者がしばしばあるので、圌女はその莋物を人に貞すこずにしお、本物は垞に自分の腰に着けおいた。きょうもその莋物の方を差し出すず、倧王はそれを取り䞊げたたたで返さないばかりか、ここの家には嚘がある筈だから、ここぞ呌び出しお酒の酌をさせろず蚀った。嚘はあいにくに病気で臥せっお居りたすず断わっおも、王は肯かない。どうでもおれの前ぞ連れお来いずおどし぀けお、果おは手籠めの乱暎にも及びそうな暩幕になっお来た。  老女はふず考え付いた。この倧王などずいうのはどこの人間だか刀らない。かの道士は二十幎埌に犍いがあるずいったが、その幎数もちょうど笊合するから、倧事の鉄簡を甚いるのは今この時であろうず思ったので、腰に぀けおいる本物の鉄簡をそっず取っお、竈の䞋の火に投げ蟌むず、たちたちに雷はずどろき、電光はほずばしっお、火ず烟りが郚屋じゅうにみなぎった。  しばらくしお、火も消え、烟りも鎮たるず、そこには数十匹の猿が撃ち殺されおいた。そのなかで最も倧きいのがかの倧王で、先幎逃げ去ったものであるらしい。かれらのたずさえお来た諞道具はみなほんずうの金銀宝玉を甚いたものであるので、老女はそれを官に蚎え出るず、それらは䞀皮の莓品ず芋なしお官庫に没収された。  泰䞍華元垥はその圓時西台の埡史であったので、その事件の蚘録に朱曞きをしお、「鬌莓」ずしるした。鬌の莓品ずいう意である。    䞀寞法垫  元の至元幎間の或る倜である。䞀人の盗賊が浙省の䞞盞府に忍び蟌んだ。  月のうす明るい倜で、䞞盞が玗の垷のうちから透かしおみるず、賊は身のたけ䞃尺䜙りの倧男で、関矜のような矎しい長い髯を生やしおいた。䟍姫のひずりもそれを芋お、思わず声を立おるず、䞞盞は制した。 「ここは䞞盞の府だ。賊などが無暗にはいっお来る筈がない」  みだりに隒ぎ立おお怪我人でもこしらえおはならないずいう遠慮から、䞞盞は圌女を制したのである。賊はそのひたに、そこらにある金銀珠玉の諞道具を片端から盗んで逃げ去った。前にいう通り、その賊の人盞颚俗は倧抵刀っおいるので、䞞盞は官兵に呜じおすぐにその捜査に取りかからせ、省城の諞門を閉じお詮議したが、遂にそのゆくえが知れずに終った。  その翌幎になっお、賊は玹興地方で捕われお、逐䞀その眪状を自癜したが、かれは案倖の小男であった。圌は圓倜の顛末に぀いおこう語った。 「最初に城内に入り蟌みたしお、䞞盞府の東の方に宿を仮りおいたした。その晩は非垞に酔っお垰っお来お、前埌䞍芚のおいで門の倖に倒れおいるのを、宿の䞻人が芋぀けお介抱しお、ずもかくも二階ぞ連れ蟌たれたしたが、寝床ぞはいるず無暗に嘔きたした。それから倜の曎けるのを埅っお、二階の窓からそっず抜け出しお、檐づたいに䞞盞の府内ぞ忍び蟌みたしたが、その時には俳優が舞台で甚いる付け髯を顔いっぱいに付けお、二尺あたりの高い朚履を穿いおいたした。そうしお、品物をぬすみ出すず、それを近所の塔の䞊に隠しお眮いお、ふたたび自分の宿ぞ戻っお寝おいるず、倜の明けた頃に官兵が捜査に来たした。しかし、わたくしが昚倜泥酔しお垰ったこずは宿の䞻人も知っおいたすし、第䞀わたくしは䞀寞法垫ずいっおも奜いほどに背が䜎い䞊に、髯などはちっずも生やしおいないで、人盞曞ずは党く違っおいるものですから、官兵は碌々に取調べもしないで立ち去っおしたったのです。それから五、六日経っお、詮議もよほどゆるんだ頃に、塔の䞊からかの品々を持ち出したした」    蛮語を解する猎  これは杜圊明ずいう俳優の話である。  杜が江西地方からかえっお韶州に来お、旅宿に行李をおろすず、その宿には先客ずしお貎公子然たる青幎が泊たっおいた。かれは刺繍のある矎しい衣服を着お、玉を食りにした垜をかぶっおいたが、ただその穿き物だけが卑しい皮履であるので、杜もすこしく䞍審に思ったが、䞀倕自分の宀ぞ招埅しお酒をすすめるず、貎公子の方でもその返瀌ずしお杜を招いお饗応した。  招かれお、その宀ぞ行っおみるず、柱に䞀匹の小さい猎が぀ながれおいお、芋るから小ざかしげに立ち廻っおいた。貎公子はやがおその綱を解いお攟すず、猎はよく人に銎れおいお、巧みに酒垭のあいだを呚旋し、䞻人が蛮語で䜕か呜什するず、䞀々聞き分けお働くのである。杜もおどろいおその子现を蚊くず、貎公子は笑いながら説明した。 「実はわたしの家の䟍女が子を生みたしお、その子はひず月ばかりで死にたした。そのずきにこの小猎も䞁床生たれたしたが、芪猎を猟犬に噛み殺されおしたったので、倜も昌も母を慕っお啌き叫んでいるのが䜕分にも可哀そうでしたから、䟍女に蚀い぀けお育お䞊げさせたした。人間の乳を飲んで育ったせいか、人にもよく銎れ、たた自然に蛮語をおがえお、こうしおわたしの甚を達しおくれるのです」  成皋そうかず、杜も思った。圌は間もなくかの貎公子に別れ、枅州ぞ行っお呉ずいう圹人の家に足をずどめおいるず、ある日、ひずりの旅人が䞀匹の猎を連れお城内に入り蟌んだずいう報告があった。 「それは䞖間に名の高い倧泥坊だ」ず、呉は蚀った。「たず䜕げなく、人の家を蚪問しお、家内の勝手を芋さだめお眮いお、倜になっおから其の猎を攟しお盗みを働かせるのだ。倧方おれの所ぞも来るだろうから、その猎めを奪い取っお、䞖間のために害を陀かなければならない」  翌日になるず、果たしお呉に面䌚を求めに来た者がある。杜がそっず隙き芋をするず、圌はたさしく先日の貎公子で、きょうも猎を連れおいた。呉は面䌚しお、かれず䞀緒に飯を食っお、その垭䞊でかの猎を貰いたいず蚀い出すず、圌も初めは堅く拒んだ。 「呉れるのが嫌ならば、ここでその猎の銖を斬っおみせろ」ず、呉は蚀った。  呉は同知ずいう官職を垯びお、倧いに勢力を有しおいるので、圌も匷いお争うわけにも行かなくなったず芋えお、結局枋々ながらその猎を呉に譲るこずになった。呉は謝瀌ずしお癜金十䞡を莈った。  貎公子は垰るずきに猎にむかっお、なにか蛮語で蚀い聞かせお立ち去った。圌はそこに蛮語の通蚳が聞いおいるこずを知らなかったのである。通蚳は呉に蚎えた。 「あい぀は猎にむかっお斯う蚀い聞かせたのです。お前は圓分飲たず食わずにいろ。そうすればきっず瞄を解いお攟すに盞違ない。おれは十里さきの小さい寺にかくれお埅っおいるから、すぐにそこぞ逃げお来いず  」  そこで念のために果物や氎をあたえるず、猎は決しお口にしないのである。さらに人を぀かわしお窺わせるず、果たしおその䞻人もただ立ち去らないで、そこらに埘埊しおいるこずが刀ったので、呉はすぐにその猎を撃ち殺させた。    陰埳延寿  むかし真州の倧商人が商売物を船に積んで、杭州ぞ行った。時に鬌県ずいう術士があっお、その店を州の圹所の前に開いおいたが、その占いがみな適䞭するずいうので、その店の前には倧勢の人があ぀たっおいた。商人もその店先に坐を占めるず、鬌県はすぐに蚀った。 「あなたは倧金持だが、惜しいこずにはこの䞭秋の前埌䞉日のうちに寿呜が終る」  それを聞いお、商人はひどくおそれた。その以来、なるべく船路を譊戒しお進んでゆくず、八月のはじめに船は揚子江にかかった。芋るず、ひずりの女が岞に立っお泣いおいるのである。呌びずめお子现を蚊くず、女は涙ながらに答えた。 「わたくしの倫は小商いをしおいる者で、銭五十緡を元手にしお鎚や鵞鳥を買い蟌み、それを舟に積んで売りあるいお、垰っお来るずその元手だけをわたくしに枡しお、残りの儲けで米を買ったり酒を買ったりするこずになっお居りたす。きょうもその銭を枡されたしたのを、わたくしが粗盞で萜しおしたいたしお、どうするこずも出来たせん。倫は気の短い人間ですから、腹立ちたぎれに撲ち殺されるかも知れたせん。それを思うず、いっそ身を投げお死んだ方が優しでございたす」 「人間はいろいろだ」ず、商人は嘆息した。「わたしも実は寿呜が尜きかかっおいるので、もし金で助かるものならば、金銀を山に積んでも厭わないず思っおいるのに、ここには又わずかの金にかえお寿呜を瞮めようずしおいる人もある。決しお心配しなさるな。そのくらいの銭はわたしがどうにもしお䞊げる」  圌は癟緡の銭をあたえるず、女は幟たびか拝謝しお立ち去った。商人はそれから家ぞ垰っお、䞡芪や芪戚友人にも鬌県が予蚀のこずを打ち明け、䞇事を凊理しおおもむろに死期を埅っおいたが、その期日を過ぎおも、圌の身になんの異状もなかった。  その翌幎、ふたたび杭州ぞ行っお、去幎の岞に船を泊めるず、かの女が赀児を抱いお瀌を蚀いに来た。圌女はそれから五日の埌に赀児を生み萜しお、母も子も぀぀がなく暮らしおいるずいうのであった。それからたた、かの鬌県のずころぞゆくず、圌は商人の顔をみお䞍思議そうに蚀った。 「あなたはただ生きおいるのか」  圌は曎にその顔をながめお笑い出した。 「これは陰埳の臎すずころで、あなたは人間ふたりの呜を助けたこずがあるでしょう」    金の箆  朚八刺は西域の人で、字は西瑛、その躯幹が倧きいので、長西瑛ず綜名されおいた。  圌はある日、その劻ず共に食事をしおいるず、あたかも来客があるず報じお来たので、小さい金の箆を肉ぞ突き刺したたたで客間ぞ出お行った。劻も続いおそこを起った。  客が垰ったあずで、さお匕っ返しおみるず、かの金の箆が芋えないのである。ほかに誰もいなかったのであるから、その疑いは絊仕の若い䞋女にかかった。䞋女はあくたでも知らないず蚀い匵るので、圌は腹立ちたぎれに折檻しお、遂に圌女を責め殺しおしたった。  それから䞀幎あたりの埌、職人を呌んで家根の぀くろいをさせるず、瓊のあいだから䜕か堅い物が地に萜ちた。よく芋るず、それは曩に玛倱したかの箆であった。぀づいお枯らびた骚があらわれた。それに因っお察するず、猫が人のいない隙をみお、箆ず共にその肉をくわえお行ったものらしい。䞋女も䞍幞にしおそれを知らなかったのである。䞖にはこういう案倖の出来事もしばしばあるから、誰もみな泚意しなければならない。    生き物䜿い  わたしが杭州にある時、いろいろの生き物を䜿うのを芋た。  䞃匹の亀を飌っおいる者がある。その倧小は䞀等より䞃等に至る。かれらを几の䞊に眮いお、合図の倪錓を打぀ず、第䞀の倧きい亀が這い出しお来お、たんなかに身を䌏せる。次に第二の亀が這い出しお、その背に登る。それから順々に這い登っお、第䞃の最も小さい亀は第六の甲の䞊に逆立ちをする。党䜓の圢はさながら小さい塔の劂く、これを烏亀畳塔ず名づける。  たた、蝊蟆九匹を逊っおいる者がある。垭ちゅうに土をうずたかく盛りあげお、最も倧きい蝊蟆がその䞊に坐っおいるず、他の小さい蝊蟆が巊右に四匹ず぀向い合っお列ぶ。やがお倧きいのがひず声鳎くず、他の八匹もひず声鳎く。倧きいのが幟たびか鳎けば、他も幟たびか鳎く。最埌に八匹が順々に進み出お、倧きいのにむかっお頭を䞋げおひず声、さながら瀌をなすが劂くにしお退く。これを名づけお蝊蟆説法ずいう。  束江ぞ行っお、道士の倪叀庵に仮寓しおいた。その時に芋たのは、鰍を切るの術である。䞀尟は黒く、䞀尟は黄いろい鰍を取っお、磚ぎすたしたる刃物に䜕かの薬を塗っお、胎切りにしお互い違いに継ぎ合わせるず、いずれも半身は黒く、半身は黄いろく、銖尟その色を異にした二匹の魚は、もずの劂くに氎䞭を泳ぎ廻っおいた。  土地の人、衛立䞭ずいうのがその魚を鉢に飌っお眮くず、半月の埌にみな死んだ。
0.635
Complex
0.619
0.192
0.175
0.876
7,426
その堎合は、各々のサヌビスを受けられたせん
0.209389
Simple
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0.146572
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21
ポットにはほずんどコヌヒヌは残っおいない。
0.227455
Simple
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21
『博物誌』ずいう題は“Histoires Naturelles”の蚳であるが、これはもうこれで䞖間に通った蚳語だず思うから、そのたた䜿うこずにした。  フランスにおける原著の最初の出版は䞀八九六幎で、四十五の項目しかなかった。䞀九〇四幎にフラマリオン瀟から出たのが、たず圓時の決定普及版ず蚀っおよく、䞃十項目から成っおいる。この蚳はそれに拠ったものである。ボナヌルの挿絵もこの版では原本から匕き写すこずにした。  さきに、若干郚の限定版を䜜ったが、それには明石哲䞉君が特別に描いおくれた絵を数枚入れた。念のためにここに蚘しおおく。  ルナヌルの死埌、党集に収められおいる『博物誌』は、倚少、この版ず内容が違うけれども、わざわざそれに埓う必芁はないず思った。  なお、同じ著者の『葡萄畑の葡萄䜜り』にも、この『博物誌』にある数項目が加えられおいるが、『葡萄畑  』は、もちろん『博物誌』よりも前に䞖に出たのである。  ルナヌルの䜜品ずしおは、この『博物誌』が『にんじん』に次いで人口に膟炙しおいる。それにはいろいろの理由がある。たず、その頃のフランス文壇及び読曞界は、この䜜家の独特な才胜を、かかる「圱像」のうちにだけしか芋いだし埗ず、ゞャヌナリズムはたた、圌にファンテゞストのレッテルを貌っお、䞀回䜕行ずいう短文をやたらに曞かせた。  圌が自然を愛し、草朚犜獣のいのちを鋭く捉えたこずは事実であるが、その奇譊な芳察をこういう圢匏で纏めようずいう意図はもずもず著者自身にはなかったかも知れないのである。  ずころが、この類のない圢匏は、たたたた圌の存圚を明確に色づけ、倧衆の蚘憶に入り易くした。  同時に、「ちっちゃなものを曞くルナヌル」の名声は、圌をたすたす「小さなもの」のなかに閉じこめたこずは争うべからざる事実である。  しかし、圌の本領は必ずしも、文字でミニアチュヌルを描くこずではない。『博物誌』のなかのあるものは、既にそれを蚌明しおいる。ひろい正矩愛、執拗な真実の探求、玔粋な生掻の讃矎、こずにきびしいストむシスム、高邁な孀独な魂の悲痛な衚情がそこにある。  なかには蚳しおは面癜くもない蚀葉の排萜や、若干、安易な思い぀きもあるにはあるがしかし、党䜓から蚀っお、やはり、「叀兞」のなかに加うべき名著だず思う。  西欧には、わが俳文孊の䌝統に類するものは皆無だず蚀っおいいが、この『博物誌』をはじめ、ルナヌルの文孊のなかには、いくぶんそれに近いものがありはせぬか、ずいうこずを、私はか぀お『葡萄畑  』の序文のなかで指摘した。  ルナヌルの簡朔な衚珟、ずいうよりもむしろ、その「簡朔な粟神」が、脂肪でふずった西欧文孊のうちにあっお、圌を少なくずも閑寂な東掋的「趣味」のなかに生かしおいるず蚀えば蚀えるだろう。「蟋蟀」「暹々の䞀家」などその奜適䟋である。  フランス近代の最も独創的な䜜曲家、モヌリス・ラノェルが、この『博物誌』のなかから数線を遞んで、自らこれを䜜曲した。「孔雀」「蟋蟀」「癜鳥」「かわせみ」「小王鳥」の五぀である。ルナヌルは性来の音楜嫌いを暙抜しおいるが、皮肉にもその䜜品が䞖界䞭の矎しい喉によっお普く歌われおいるのである。  序ながら、フランスの小、䞭孊校では、よく曞取の問題がこの曞物のなかから出るずいう話を聞いた。圌の文章は、単玔なようでいお「間違い易く」、ひず癖あるようで、その実、最も正しいフランス語ずいう定評のある所以であろう。 昭和二十六幎䞀月
0.58
Complex
0.616
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0.894
1,445
船よ、船よ。倧海原の真只䞭でも わたしはお前を芋぀け出す。 わたしは行っおお前にたずねよう、 䜕を護っおいるのか、 䜕をもくろんでいるのか、 お前のめざす目的は䜕なのだ。 ある船は倖囜ぞ行っお商業取匕をする。 ある船は母囜にずどたり、倖敵を防ぐ。 たたある船は高䟡な荷物を山ず積んで家路をいそぐ。 おヌい、空想よ、お前はどこぞ行くのだ。 ――叀謡  ペヌロッパを蚪れようずするアメリカ人は長い航海をしなければならないが、それがたたずないよい準備になる。浮䞖のわずらいや雑甚がしばらくは党くなくなっおしたうので、新しい鮮かな印象を受けいれるのには最適な粟神状態ができあがるのである。地球の䞡半球をわか぀広茫たる海原は、人生行路に暪たわる䞀ペヌゞの癜玙のようなものだ。ペヌロッパではほずんど気が぀かないうちに䞀぀の囜の地勢や人皮が別の囜のものず混りあっおゆくのだが、この堎合はそういうふうにだんだんず移りかわっおゆくのではない。あずにした陞地が芋えなくなった瞬間から、すべおが空虚になり、それがかなたの岞を螏むたで぀づき、そこで突然、新奇な隒々しい別の䞖界に䞊陞するのだ。  陞の旅ならば、颚景は次々ず぀ながっおおり、人物や事件もそれからそれぞ連結しおいる。そのために、人間の生掻の物語は切れずに぀づけられ、別離の情はさほど感じられない。じっさい、われわれは旅路のさきぞ進むに぀れお「のびる鎖」をひきずっおゆくのだ。この鎖はきれない。䞀環ず぀たぐっおゆけばわれわれはもずのずころぞもどるこずができる。そしお、最埌の環はやはりただわれわれを故郷にむすび぀けおいるのだず感じる。ずころが、広い広い海の旅はたちどころにわれわれを故郷からきりはなしおしたう。安党に錚をおろした静かな生掻から解きはなされ、䞍安な䞖界にただよい出たのだずわれわれはしみじみ感ずる。想像のなかだけでなく、珟実に、われわれ自身ず故郷ずのあいだには深淵がひろがる。その深淵は嵐や恐怖や䞍安にさらされおいお、われわれに故郷を遠くはなれおしたっお垰りはどうなるこずやらわからない、ずいう感じを抱かせる。  少くずもわたしにずっおは、そういうふうだった。故郷の陞地が぀いにひずすじの藍色の線になり、䞀点の雲のように氎平線にかすかに消え去っおゆくのを芋た時に、わたしは、わずらわしい䞖間のこずに぀いお曞き蚘した䞀巻の曞物をずじお、しばし瞑想に時をすごし、それから次の曞物をひらこうずしおいるような気がした。わたしにずっおな぀かしいものをすべお残しおきた囜が、今や芖界から消えようずしおいる。わたしがふたたび蚪れるたでに、そこにはさたざたな倉転がおこるだろう。わたしの身の䞊にもどんな倉化がおこるかもしれない。だれにもせよ、攟浪の旅に出るずきに、行方もさだめぬこの䞖の朮に流されお、自分がどこにゆき぀くか、わかっおいるものはあるたい。い぀たた垰っおこられるか、少幎時代をすごした囜に果しお運よく垰っおこられるかどうか、だれにもわかりはしないのだ。  掋䞊ではすべおが空虚なのだ、ず前に述べたが、いい改めなければならない。癜昌倢に我を忘れ、恍惚ずしお幻想にひたるのを奜むものにずっおは、海の旅はいろいろず瞑想するにもっおこいのものごずで充満しおいる。だが、それは、あるいは深海の驚異であったり、あるいは倧空の䞍思議であったりしお、人の心を䞖間的な俗事からきりはなそうずするものだ。凪いだ日にはわたしは奜んで船尟の手摺にもたれかかったり、メむンマストによじのがったりしお、静寂な倏の海の胞にだかれお数時間もずっずもの思いに沈んだものだ。たたはるか氎平線にうかぶ金色のむら雲を眺めおは、気たたに空想しおそれをなにかの劖粟の囜に仕立お、自分で぀くりだした生きものをそこに䜏たわせたり、そしおたた、しずかにうねる倧波が銀色のからだをころばせおゆくのを芋お、この波はこの劖粟の囜の岞蟺でたのしく消えおゆく぀もりなのかず思ったりしたものである。  安心ずも恐怖ずも぀かぬなにか甘矎な気もちに胞をおどらせながら、わたしは県のたわるような高いずころから、深海の怪物どもがおどりたわる異様なありさたを芋おろした。いるかの矀は船のぞさきにはねたわり、さかたたは悠然ずその倧きなからだを氎䞊にあらわす。貪欲なふかは玺碧の氎のなかを物の怪のようにさっず突っぱしる。県䞋に暪たわる氎の䞖界に぀いお、今たでに読んだり聞いたりしたこずを、わたしは想像力逞しくすっかり思いおこす。底知れぬ谷間をさたよう魚の矀。倧地のいしずえにひそたりかえる異圢な怪物。持倫や船乗りたちの話をいやがうえにも物凄くする奇怪なたがろし。  はるかに遠く海原の果おをすべっおゆく垆が、たた別のそこはかずない想いの皮になるこずもある。䞖界のひずかけにすぎない、この船が、厖倧な人間瀟䌚にもどろうずしお船路をいそいでいるすがたはなんずおもしろいではないか。船はたさに人間の発明力の栄えある蚘念塔ではないか。それは、このように、颚ず波ずを埁服し、䞖界の果おず果おずを぀ないだのだ。南の囜の豪華な産物を荒涌たる北の囜に運び、倩のめぐみを亀換するみちをひらいたのだ。孊問の光ず、文化の恩恵ずをひろめ、かくしお散りぢりになっおいた人類をむすびあわせたのだ。その人類のあいだに、か぀おは自然が乗りこすこずのできない障碍を投げかけおいたかず思われたのだが。  ある日われわれはかなたに、なにかよく圢のわからないものが挂っおいるのを芋぀けた。海䞊では、どんなものでも、呚囲の茫掋たるひろがりの単調をやぶるものは、人の泚意をひく。それは船のマストだずいうこずがわかったが、船のほうは完党に難砎しおしたったに違いない。乗組員のなかにはこの垆柱にハンカチでわが身をしばり぀け、波にさらわれたいずしたものがあったのだが、今はただそのハンカチの砎れたきれが残っおいるだけだった。船名をたしかめるべき跡はなにもなかった。この難砎船はあきらかに数カ月も挂流しおいたのだ。貝殻がいく぀も矀がっおこびり぀いおいたし、長い海藻が䞡偎に぀いおゆらゆらしおいた。だが乗組員はどこにいるのだろう、ずわたしは考えた。かれらの苊しいたたかいはすでにずっず以前に終わっおいた。かれらは嵐が叫び狂う䞭で溺れおしたい、今は癜骚ずなっお、海底のほら穎のあたりに暪たわっおいる。沈黙、忘华が、波のように、かれらの䞊を閉じこめおしたい、だれもその最埌を物語るこずはできない。その船のあずを远っお、どんなに嘆きの声が挂っおいったこずか。故郷の家のさびれ果おた炉ばたでどんなに祈りが捧げられたこずか。恋人が、劻が、母が、毎日の新聞を、䜕べん読み返しお、この倧海原の攟浪者の消息を探し求めたこずか。期埅が暗くかげっお憂慮ずなり、憂慮が恐怖ずなり、そしお恐怖が絶望ずなった。ああ、愛する人の胞に垰るかたみはひず぀もないのだ。ただ知りうるのは、この船が枯を出垆しお、「その埌は颚の䟿りもなかった」ずいうこずだけである。  この難砎船の残骞が芋えたために、䟋によっお、陰気な話がいろいろずもちあがった。特にその日の暮れがたにはそうだった。今たで凪いでいた倩候が、あやしく荒れ暡様になっおきお、静かな倏の航海にも、ずきずしお突然おそいかかるこずのある嵐のきざしが芋えおきたずきだ。船宀では暗がりがランプのがんやりした光でなおのこず䞍気味になっおいたが、われわれはそのランプをずりかこんで、めいめい難砎や遭難の話をした。船長の話は短かかったが、わたしの心を匷くうった。 「わっしが航海しおおったずきのこずですがな」ず圌は蚀った。「䞊出来のがっちりした船でしたが、ニュヌファりンドランドの掲にさしかかったずき、あのあたりによくおこるひどいガスがかかっお、遠くのほうはたるで芋えなくなったんです。昌のうちでさえ駄目でしたが、倜になるず、いよいよ濃くなっお、船の長さの二倍もはなれたら、なにがなにやら党く芋わけが぀かんのです。わっしはマストのおっぺんにあかりを぀け、船銖にはやすみなく芋匵りをおいお、小さい持船に泚意しおおりたした。い぀も掲に錚をおろしおずたっおいるもんですからな。颚は匷くお、わっしたちの船は猛烈な早さで氎をきっお進んでいたんです。突然、芋匵りが倧声で叫びたした。『前方に船が芋えるぞう』叫ぶか、叫ばないうちに、もうこっちの船は、盞手にのりあげおいたんです。小型のスクヌナヌで、錚をおろしお、わきばらをこっちに向けおいたんですな。乗組員はみんな眠っおいお、あかりをあげおおくのを忘れおおったのです。こっちは、それのちょうどたんなかに突き圓ったわけです。わっしたちの船は力は匷いし、なりは倧きいし、目方は重いずきおたすから、むこうは波の䞋に沈んでしたい、わっしたちは、その䞊を通りこしお、どんどん進んでいっおしたいたした。めちゃめちゃになった船がわっしたちの䞋に沈んでゆくずき、わっしにちらっず芋えたのは、二、䞉人の半裞䜓の男があわれにも船宀から飛びだしおくるずころでした。寝台からはねだしおきおも、叫び声をあげながら波にのたれおしたうだけのこずでした。圌らが溺れかかっお叫ぶ声が颚のたにたに聞えおきたした。その声を運んできた疟颚で、こちらの船はさっずすすみ、声はそれっきり聞えなくなっおしたいたした。あの叫び声はどうしおも忘れられたせん。しばらくたっおからやっずわっしたちは船の向きを倉えるこずができたした。それほど早く突っぱしっおいたんです。わっしたちは芋圓の぀くかぎり、その持船が碇泊しおいた堎所に近いずころぞもどっおきたした。濃霧のなかを、数時間もぐるぐる廻っおみたした。号砲もうちたしたし、生き残ったものの呌び声が聞えはしたいかず思っお耳をすたしおもみたした。だが、なに䞀぀聞えたせん。わっしらは、その埌その人たちのこずを芋たこずも聞いたこずもないんです」  じ぀のずころ、こういう物語のために、しばらくは、わたしの快適な空想もどこかにいっおしたった。嵐は倜ずずもに激しくなった。海は怒り、狂いに狂った。恐ろしい陰惚な音を立おお、波激が突進し、砕け散った。淵は淵に呌びこたえた。ずきたた、飛沫をちらす倧波のなかをいなびかりのひらめきがわななきながら通りぬけるず、頭䞊にむらがる黒雲は、ちりぢりにひき裂かれたように芋え、そのあずの暗闇はいっそうすさたじくなるのだった。雷は狂乱する倧海原にずどろきわたり、山なす波にこだたしお、殷々ず鳎り぀づけた。この蜟々ひびいおいるほら穎のような波のなかを、よろめき、氎に突っこむ船を芋おいるず、それが平衡をずりもどし、浮力を保っおいるのが奇跡のように思われた。垆桁は氎にもぐっおは出、出おはもぐり、舳は波に埋たっおいるずいっおよいほどだった。ずきどき、倧波がのしかかっおきお、船をうちたかしおしたうかずも芋えた。巧劙自圚に舵をあや぀っお、どうにかその衝撃をたぬがれたのだ。  わたしが船宀にひきさがっおも、恐ろしい光景はなおあずを远っおきた。ひゅうひゅうず垆綱になりわたる颚は、匔いのずきの人の泣き声のようだった。船がさかたく海を難航しおゆくずき、マストはきしみ、船宀の板壁は匵り぀めおうめき、身の毛のよだ぀ような恐ろしさだった。波浪が舷偎をどうっずばかり流れおゆき、たさに耳もずで咆哮するのを聞くず、あたかも死神がこの氎に浮んでいる牢獄のたわりで怒り狂い、獲物をもずめおいるような気がした。ほんの䞀本釘がゆるみ、板の継ぎ目がひず぀口をあけようものなら、死神は䟵入しおくるかもしれないのだ。  しかし、海が凪ぎ、順颚が吹く晎れた日には、こんな陰鬱な思いはたちたちにしお、すっかり消え去っおしたう。海の䞊で奜倩ず順颚ずに恵たれるず、心はおのずず楜しくなっおしたう。垆を匵り぀め、どの垆も颚にふくらみ、さざ波の䞊を心地よくたっしぐらに進んでゆくずき、船はなんず気高く、勇壮にみえるこずだろう。倧掋に君臚しおいるようではないか。わたしは、海の旅に぀いおの倢想で䞀巻の曞物を満たしたいほどだ。わたしにずっお、海の旅は、絶えるこずのない倢想なのだ。だが、もう䞊陞の時刻だ。  倪陜がきらきら茝くある朝、「陞だ」ずいうあの胞がわくわくする叫びがマストの䞊から聞えおきた。アメリカ人がはじめおペヌロッパをのぞみ芋たずき、その胞にどんな甘矎な感情がおしよせるか、身をもっお䜓隓したものでなければ思いもおよばないものである。ペヌロッパずいう名をきいただけで、次から次ぞず連想がいっぱいになるのだ。そこは垌望の囜であり、幌幎時代にきいたこずや、勉孊の幎を重ねおいるあいだに熟考したこずが、すべお満ちおいるのである。  このずきから入枯の瞬間たでは、䞀切が烈しい興奮のうずにたきこたれおしたう。護衛の巚人さながらに海岞を遊匋しおいる軍艊。アむルランド海峡に差し出おいるアむルランドの岬。峚々ずしお雲に頂きをかくしおいるりェヌルズの山々。すべおが匷い感興をそそるのだ。マヌゞヌ河をさかのがるずき、わたしは望遠鏡で海岞地垯を偵察した。きれいにかりこんだ灌朚林や緑色の芝生のなかに点圚する枅楚な癟姓家を、あきもせず眺め、楜しんだ。寺院の厩れかかった廃墟には蔊がはいたわり、村の教䌚の尖塔は、近くの䞘の䞊にぬきでおいる。どれもこれも、いかにもむギリスらしい。  朮流も颚も党く工合よく、船はただちに桟橋に぀くこずができた。ひずびずが぀めかけおきおいた。甚のない芋物人もいれば、熱心に友だちや芪戚を埅っおいる人たちもいる。わたしは、船荷の受取人である商人を芋わけるこずができた。算盀をはじいおいるような額やそわそわず萜着かぬ物腰でそれずわかったのだ。圌は䞡手をポケットに぀っこみ、考えごずにふけりながら口笛をふき、行ったり来たりしおいた。矀衆は圌にわずかだが空き堎所を぀くっおいた。この時ばかりはこの男が重芁な人間であり、みんなは敬意をはらったのである。友だち同士が互いに盞手を芋぀けるず、そのたびに海岞ず船ずのあいだには䞇歳の声や挚拶が、くりかえし取りかわされた。わたしは、なかでも䞀人の若い女性に目をずめた。粗末な掋服を着おいたが、そのふるたいに心をひかれたのだ。人ごみのなかから、前にのりだし、その県は近づく船をいそがしげに芋やり、だれか埅ちこがれた人の顔をさがしおいた。圌女は萜胆しお、いたたたれないようだったが、そのずき、わたしには、かすかな声が圌女の名前を呌んでいるのがきこえた。声の䞻は航海䞭ずっず病気をしおいた氎倫で、船の人々の同情の的になっおいたのである。倩気がよいずきには、同僚がデッキの日かげにマットを敷いおやったものだが、このごろでは、いよいよ病勢が぀のっお、ハンモックに寝たきりになっおしたい、ただわずかに、死ぬ前にひずめ女房に䌚いたいずあえぎあえぎ蚀っおいた。われわれが河をさかのがっおいるあいだに、圌はひずに助けられおデッキにあがり、今は垆綱によりかかっおいた。顔はひどくや぀れ、血の気は倱せおすさたじかったから、愛する人の県にさえも、圌がわからなかったのは、たったく無理からぬこずだった。しかし、圌の声をきくず、女の県はそのすがたをずらえ、すぐに悲しい物語のすべおを読みずった。圌女は䞡手をにぎりしめ、かすかに叫び、それから、ものもいえずに苊しみもだえ、指を組みあわせお、立ち぀くしおいた。  今や、だれもかれもいそがしく、ざわめいおいた。芪しい人たちが再䌚し、友人同士が挚拶をかわし、商人たちは事務の盞談だ。わたしだけが、ひずりがっちでがんやりしおいた。䌚う友人もなければ、歓呌の声にむかえられるのでもない。わたしは祖先の囜に足をおろした。――だが、わたしが感じたのは、自分は異囜の人間だずいうこずだった。
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にはデヌタファむルのファむル名を指定したす
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29
 今は䞖にないアむルランドの詩人む゚ヌツが曞いた舞螊劇の䞀぀に「鷹の井戞」ずいふのがある。その鷹の井戞がこの䞖にあるずしたら、どの蟺にあるのだらうか 詩人の蚀葉を借りおみよう。 「はしばみの枝々うごき 日は西にしづむ  颚よ 朮かぜよ 海かぜよ  いたは眠るべき時なるを  なにを求めおさたよひ歩く」  その西に沈む倕日も芋られお、朮颚に吹きさらされた小さい島である。岩ず石の険しい道をのが぀お行くず、䞉本の抛の暹がどんぐりを萜し枯葉をおずす井戞があ぀た。井戞ずいふ名ばかりで、氎が涞れお萜葉にうもれた土のくがみず芋えるけれど、䜕十幎に䞀床か二床か、ほんの䞀瞬間そこから氎が湧いお、その氎をのむ人は老いず死なず、氞久に生きられるずいふ。その井戞の粟が矎しいわかい女の姿をしお、たた或るずきは鷹の姿にな぀お、井戞を守぀おゐる。  その氎を飲みたくお、若いずきにこの島に来たたた、もう五十幎も井戞を芋守぀おゐる老人がゐた。或る時は鷹の声に誘はれお井戞から離れおゐる間に、又疲れおうたたねをしおゐる間に井戞の氎が出たらしく萜葉のぬれおゐるこずがあ぀おも、ただ䞀床も自分の芋おゐる前で氎の出たこずはなか぀た。冷たい無衚情の顔぀きで石に腰かけおゐる井戞の粟に、老人は声をかけおみおも、粟は䜕も蚀はない。  さ぀そうずした䞀人の青幎がこの岩山の厖をのが぀お来た。井戞の秘密をある饗宎の垭で聞いた青幎は、すぐその垭を立぀お舟に垆をあげ明方の海をわた぀おこの島に来たのである。青幎はその抛の暹のそばの井戞の所圚を老人に蚊いおみるが、老人はもう五十幎もこの島にゐお、ただ井戞の氎が湧き出すのを芋ない。岩ず石ず枯山のこの島はわかい人の䜏むずころではないず、青幎を远ひかぞさうずする。青幎は井戞の氎が湧くのを埅぀お、自分の掌ですく぀おでも二人で䞀しよに飲たうず玄束する。老人は青幎に芋匵りをたのんで岩に腰かけお眠るず、井戞の粟はい぀の間にか䞊衣をぬいで、鷹の぀ばさを垂れお、鷹の声で鳎く。  鷹が鳎く、鷹が鳎く、青幎は山の空を高くずぶその鷹を远ひかけおゆくず、その間に井戞の氎が湧いおたたすぐ湧き止む。  今から十䜙幎前に東京で「鷹の井戞」の舞螊を芋るこずが出来た。䌊藀道郎氏が老人に、千田是也氏が青幎、䌊藀貞子氏が鷹の粟に扮しお、みんなが面を぀けおをど぀た。それを芋おゐるうちに「鷹の井戞」は西颚の吹く遠くの島でなく、も぀ず近いずころにあるやうな気がした。愉しいもの裕かなもの、涌しいものが䞀瞬間でも湧き出す井戞が、その「鷹の井戞」が、どこかにあるのかしら
0.635
Complex
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 小島政二郎君  僕の䜜品展瀺䌚の暡様は、埌䟿で蚘事の出おいる新聞ずいっしょに送りたすから、それをご䞀芧ください。  ここではアメリカで食べたお料理のこずをざっず曞いおご芧に䟛したしょう。飛行機がハワむに着くず、䞎田さんが迎えに来おくれお、ホノルルの本町通りで自身経営しおいるシティ・グリルずいうのぞ連れお行かれ、ここでアメリカにおける最初の食事をずったわけです。食甚ガ゚ルの脚をオリヌブ油でフラむにしたのを出されたが、これはなかなか矎味でした。  食甚ガ゚ルは、日本でも盛んに䜿われおいたすが、なんのこずもなく、別においしいずも思ったこずはありたせんでしたが、シティ・グリルで詊食しおからずいうもの、食甚ガ゚ルに察する認識を新たにしたした。それで、アメリカ本土ぞ枡っおからも、興味を持っお機䌚あるごずに食べおみたしたが、サンフランシスコ、シカゎ、いずれもだめ、食甚ガ゚ルはシティ・グリルにずどめをさしたす。  ハワむは、意倖に食べ物のうたいずころで、アロハ飛行堎で出されたアむスクリヌム、コヌヒヌの玠晎らしかったこず。コクがあっお、ネバリが匷くっお、あんなにうたいアむスクリヌムは぀いぞ口にしたこずがありたせん。いただに忘れ兌ねおいたす。ハワむのコヌヒヌ、これも玠晎らしくいい。颚土のせい、気候のせい、コヌヒヌそのものがすこぶる䞊等なのでしょう。その䞊、ミルクの味のいいこず。たさに近来の掘り出し物です。  サンフランシスコでは、出迎えに来おくれたひずに連れお行かれたグロットずいうむタリア料理店。魚垂堎の近くにあったので、これはうたいだろうず思った通り、ここの䌊勢えびは日本の䌊勢えびよりもむしろ優れおいはすたいかず思ったほどでした。わけおもここのサラダが優秀でした。殊に、サラダ菜の歯圓たりがサクサクずしおいお、しかも味があっお、日本ではずおも食べられないものの䞀぀でしょう。  しかし、倖囜はどこの囜の料理でも、食噚ず盛り付けの点で萜第です。どんな䞀流の店でも、実に぀たらぬ食噚を䜿っお、盛り付けになんの泚意も払っおいたせん。鍋やフラむパンから無造䜜に皿ぞザヌッずあけお平気でいたす。目に蚎える矎感に぀いお鈍感なのに驚くほかありたせん。この点、盛り付けを含めお日本料理の高さずいうものは、䞖界無比だず思いたす。食べ物は単に舌だけで味わうものではなく、党感芚を喜ばせるものでありたいずする日本人の矎食孊は、実に䞖界の最高を行くものだず思いたす。いうたでもなく、店構えも立掟、すべおが枅朔ずいうこずも第䞀条件でありたすが、それだけで終わっおいるアメリカ料理の奥行きの浅さを僕は感ぜずにはいられたせんでした。  サンフランシスコからシカゎぞ飛ぶ飛行機の䞭でサヌノィスされたゞュヌスのうたさ、日本で売っおいるゞュヌスにあらず。サラダ菜もすこぶる矎味、これはアメリカ菜ではなく、むタリア菜の由。  ただ牛肉、豚肉、魚のうたいのに行きあわず。シカゎの話は埌ほど。取りあえず以䞊を飛行䟿に蚗したす。四月䞉十日、草々。
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あたりデヌタが参考にならない
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二぀質問しおもいいですか。
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13
 幹事の䞀人ずしお䞀蚀したす。  文孊座はおかげで順調に日立ち぀ゝあるこずを先づみなさんに報告したいず思ひたす。劇団の粟神ずいふやうなものも、次第には぀きりしお来るこずでせう。これは、宣蚀めいた空文によ぀お珟はされるものではなく、座員めいめいの仕事に察する熱情ず自信から生れお来るものですから、䜕れは舞台の䞊で実を結ぶこずゝ倧いに期埅しおゐる次第です。  第䞀回の詊挔を芳お䞋さ぀た方もあるず思ひたすが、劇壇䞀郚の人々は、この詊挔ずいふ意味を正圓に理解せず、われわれの䌁図するずころを軜率に芋逃したやうです。これは間に合せの、ごたかしの、「点取り䞻矩」の新劇舞台に銎らされた県には、至極も぀ずもなこずで、文孊座の珟圚行ひ぀ゝあるトレむニング、基本緎習にはさぞかし興味がもおたいず察せられるのです。  しかし、ほんたうの芝居奜き、芞術を心で感じ埗る人達なら、われわれの皚拙な運動こそ、たこずに、新劇が「倧人」になるための唯䞀の健康な道であるこずを認める筈です。  挔劇は挔劇によ぀お楜したせるものでなければなりたせん。挔劇独自の「方法」をこの時代に探し求めるこずは容易な業ではないのです。  ずは蚀ぞ、私は、自分も含めお、誰をも匁護する぀もりはありたせん。䞀぀の結果は結果に違ひないからです。  第䞀回の詊挔に䞍満を感じられ、たたは興味をもたれた諞君は、今床の詊挔の結果に぀いおも、曎に忌憚のない批評をしお䞋さるこずを垌望したす。
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Complex
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0.91
614
 人はこの語の意味する明瞭なる理念を知るものは皀であるが、屡宇宙ずいう語を口にする。だが、宇宙に関する近代的理念は思ったよりも空挠である。この空挠性は最近の䞖玀に斌ける包括的思玢が欠けおいるからである。その原因は、統䞀された䞭䞖玀の文明厩壊に次いで、極床の個人䞻矩が跋扈したからである。玀元埌千䞉癟幎頃には、人は明に、たた倧に信じお、圌の宇宙に関する理念を語り埗た。その埌、知識は駞々乎ずしお長倧足の進歩を瀺し、宇宙に関する䞭䞖玀の理念は䞍完党ずなり、圓時の包括的思玢も終に信ぜられざるに至った。人は现密なる特殊事項を研究するこずに䞀倉し、ノェサリりス、ガリレオ及びギルバヌト等が、初めお近代的なる科孊的方法を以お、特性的なる論文を発衚し぀぀あった。そしおここ四癟幎間は、䞀般性から特殊性ぞの䞀反動があった。  文明が長足の進歩を遂げ、瀟䌚の機構が急遜に倉化し぀぀あるので、包括的なる宇宙の理念を考えるこずは、今困難である。近時の歎史はこの反動が極端ずなったこずを瀺しおいるようである。今や到るずころに斌お、人は特殊性に没頭しお、䞀般性を忘华ししかも、かかる態床を瀺すこずを以お、賢明のしるしずもしおいる。生物孊の意芋を述べる物理孊者は小犯眪を犯すものず芋られ、賢明に芞術を研究する実業家の商業的敏捷性もたた疑われ぀぀ある。人は人類の利益のために働くよりも寧ろ圌等みずからの、たたその囜家の利益を専門ずしお考えおいるので、倧戊争が頻々ずしお起る。ここ四癟幎間の人の努力は専門化の䞀競争に狭められ、兞型者は唯それ圌の仕事にのみ熱䞭しお、間接に関係ある殆ど䞀切の他のものに無智である。四癟幎前には専門化ずいう新芳念は神聖であっお、これに次いだ䞖玀の驚異的なる運動ず䌁画ずを発芋したほどの茝しい光を発しおいた。そしお包括性ずいう旧芳念は挞次に衰退しお、専門化によっお埗られた䞊立しない知識の堆積䞭にうずもれおいる。科孊も、産業も、スポヌツも、いずれも燊然ずしお光を攟っおいるが、圹には立たない。人は今宇宙を芋んずする慣習を再孊しなければならない。材料は䞭䞖玀ず比范にならないほど豊富であっお、驚くべき芖芚を錓吹するこの慣習が再来すれば、産業界及び政治界に斌ける近代の乱雑なる情勢は忍ぶべからざる空虚なものずなり、人は科孊的理論に斌けるが劂く、瀟䌚の機構に斌お、優雅性を必芁ずするだろう。宇宙が明瞭に芋られるならば、瀟䌚もたた明瞭に芋られ、そしおその䞍健党性も明ずなっお、排陀されるだろう。  だから、科孊的新聞ずいう技術が必芁である。かかる技術はただ存圚しおいないけれども、その性質の劂䜕なるものなるかを知っお眮く必芁がある。科孊的新聞の機胜は最近の科孊的研究の雰囲気ず事実ずを民衆に知らしむるにある。就䞭その雰囲気を知らしむるこずが、重芁なる圹割である。事実の正確は願わしいものであるけれども、雰囲気の正確に比すれば、さほど重芁なるものではない。珟圚の科孊的新聞は䞻ずしお圌等のポケットマネヌを埗んずする科孊者によっお、たたは研究に没頭するには䜙りに幎取った科孊者によっお行われおいる。埓っお圌等の仕事は離ればなれであっお、先ず圌等の動機にもずづくスタむルに欠点があり、次に、墓堎に近づいおいるものを感動せしむる粟神的なるデコンセントレヌションがある。これらの兞型的なる科孊的新聞蚘者は圌等の仕事を嚯楜ず宗教ずの甚語で考えおいるけれど、本来の技術ずしおは、科孊的新聞は瀟䌚的なるものである。それは産業に科孊を応甚するこずによっお創造された文明の機構に必芁なるささえである。  科孊の雰囲気が䞀般的に理解されなければ、近代の瀟䌚は厩壊する。将来の瀟䌚は恐らくば科孊の各分掟に斌ける雰囲気ず、䞻芁なる事実を簡単に瀺し、そしお蚘者の意芋に拘泥しない非個人的新聞を必芁ずするだろう。科孊者に接觊したものは、劂䜕なる者でも、最近の科孊的仕事の䞀般的説明が、劂䜕に屡研究者の態床ではなくお、劂䜕に事実を䞎うるにあるこずを知るだろう。䟋えば、今日の孊理的物理孊の指導者は、玄䞉十歳の人であり、その思想は玄五十歳たたはもっず幎取った人々によっお拡匵されたものであっお、これらの広く読たれた説明は若い創造的思想家の心理を瀺しおいない。ハむれンベルクずディラヌクずの革呜的にしお、困苊な、茝かしい報知は神秘䞻矩を産たない。それは創造的なものが非創造的なものに察しお刺戟を䞎えたための成長である。  神秘䞻矩は理解し胜わざる者の産物であり、理䌚の代甚品であり、哲孊のマルガリンである。科孊的新聞蚘者の態床は創造的劎䜜者のそれを孊び、これらの劎䜜者が考えたた行うずころのものを報告しなければならない。圌は科孊的暩嚁者が圌等みずからの研究分掟の事実に぀いおは正しいこずを仮定しなければならない。圌は掻力論者が劂䜕に有名なる経隓的生物孊者であっおも、圌等が名誉をかち埗た実隓宀内では、機械孊者ずしお厳重にこれを芳察しなければならない。文明はこれを実行する者の党泚意を芁求する科孊的新聞の確立を必芁ずする。本来の科孊的新聞蚘者は党力を挙げおその技術を行わねばならない。然るずき瀟䌚は氞続的なる非個人的説明から、珟圚の瀟䌚問題を解決する必芁なる態床を孊び、そのナヌモアたたは粟神を粉食せんずした離ればなれの曞を嘲笑するに至るだろう。  宇宙を語り、そしおこれを䌝えるには、固よりかかる科孊的新聞蚘者たるこずを必芁ずする。だが、䞖俗的なる普通の新聞蚘者も、将来に斌おは、これず同様科孊的であらねばならない。珟圚の枢軞囜家及び民䞻䞻矩的囜家に斌ける新聞を芋るに、いずれもその民族たたは囜家の特殊性に自己陶酔的なる、離ればなれの埡蚗を述べおいるに過ぎず、䞖界的なる、たた人類党䜓の安寧幞犏に関する䞀般的の抱負をこれから聞くこずを埗ない。事実を事実ずしお報告しないほどだから、文明の雰囲気を語らんずするものは、䞀人もいない。特に我囜の新聞蚘者に至っおは、科孊的知識に党然無智であるためか、神秘䞻矩に終始しお、囜難を救わんずしおいる。ハむれンベルクやディラヌクの劂き革呜的にしお、困苊な、茝かしい蚘者は䞀人もいない。唯非創造的なる政府及び民衆を刺戟した停の成長を芋お、これに満足せんずしおいる。  われらは固より日に新にしお、日に日にたた新ならんずし぀぀ある今日の瀟䌚に斌お、玠朎なる昔時の新聞蚘者たらんこずを欲せず、たたそれが蚱されないこずを知る。だが、その「無冠の垝王」説を回顧するずきは、蚘者自身倧なる誇を感ぜざるを埗ない。ノィクトル・ナヌゎの「剣筆を殺さずおば、筆剣を殺さん」ず蚀った語に、若い血を躍らせる。かかる時代は再珟しないだろうけれども、昔恋しさの感に堪えない。降っお「瀟䌚の反射鏡」説に至り、新聞はここに䞀の技術ずなったけれども、この機胜を保存すればわれらはなお新聞蚘者を尊重する。だが、この頃の新聞に至っおは、培底的でなければなるべく倚く瀟䌚を反射せしめず、ずいうよりも、党然瀟䌚を無芖しお、時の政府の反射鏡たらんずしおいる。茿論を代衚せずしお、政府の提灯を持っおいるだけである。そしお圌等は矛盟極たる統制の名の䞋に、これを圌等の職域奉公ず心埗おいる。  今日の新聞は党然その存圚理由を倱い぀぀ある。埓っお人はこれを無くもがなのものずしおいるけれども、他に代っおその機胜を果たすものなきが故に、圌等は已むを埗ずなおこれを賌読し぀぀ある。偶・・りェルズの劂き、公民ずしおかかる新聞を賌読するは矩務に反するが故に、そのボむコットを瀺唆するものがあっおも、他にこれに代わるものがなければ、䞍甚の物も有甚化され぀぀あるのが、今日のだらしない状態である。  将来の新聞は科孊的でなくおはならない。珟圚に斌お、党くその態床を䞀倉しおも、決しお早くはあるたい。ロヌれンベルヒの「二十䞖玀の神話」こうした空虚の思想に魅せられお、昭和の科孊的時代を神秘化せんずするに至っおは、沙汰の限である。神秘䞻矩は理解し胜わざる者の産物であり、理䌚の代甚品であり哲孊のマルガリンである。いずれにしおも、本物ではなく莋物である。  将来の珟圚でも決しお早くはない新聞蚘者は創造的䜜者であらねばならない。六十歳の、たたこれよりも、もっず幎取ったものの蚀に聎いお、神秘䞻矩を尊奉するに至っおは、その存圚理由を倱うのは明である。芋よ、圌等は既にその存圚理由を倱わんずし぀぀ある。詊みに街頭に出お、民衆の蚀うずころを聞け、圌等は殆んど挙げお今日の新聞玙を無甚芖し぀぀あるではないか。昭和十六幎九月
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0.383
0.832
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俺達は貧困ず窮乏の底で生れた 俺達は圧迫ず䞍劂意の䞭で生長した 俺達は鋌鉄になった 俺達は珟代が芁求する 共産䞻矩者になった 俺達は地䞋から生み出された 光りを持たない暗黒ず攟浪ず死に瀕した珟実であった 堪え難い生掻の溶鉱炉の䞭ぞ投げ蟌たれた 旋颚ず熱気ず断末魔の苊悶ず没自我の䞭で生れた儘の俺達は俺達を倱った残滓を捚おた掗緎された 鉱石は銑鉄になった俺達は戊線に召集された そこで益々鍛われお行った 銑鉄は鋌鉄になった俺達は前衛闘士になったのだ 最早化孊の劂な魔術でも俺達を倉ずる事は出来ない 俺達は䜕よりも匷い 䜕よりも固い 俺達は䜕よりも必芁だ 俺達は珟代が芁求する鋌鉄だ 革呜的共産䞻矩者だ 俺達は匟䞞になっお敵の腹の䞭に飛び蟌む 俺達は刃物になっお切り぀ける。敵の生呜のずどめをさす 俺達は茝かしい光明の圌岞迄レヌルを架ける 俺達は機関車になっお驀進する 俺達は䞀人䞀人が柱になり桁になり各々の材料になり鉄筋建築の囜家を創り䞊げお行く 暎颚雚も火焔も぀なみも俺達を砎壊する事は出来ない 俺達は茝かしい䞻矩者だ 俺達は䜕より固い鉄鋌だ。 『文芞戊線』䞀九二九幎十䞀月号に今村桓倫名で発衚『今野倧力・今村恒倫詩集』改蚂版を底本
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Xを誰が想像しただろう
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私は日本的なむメヌゞを受けたす
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圌が久し振りに苺のショヌトケヌキを焌きたした
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     䞀  僕の二十六歳の時なりしず芚ゆ。倧孊院孊生ずなりをりしが、圓時東京に䜏せざりしため、退孊届を出す期限に遅れ、期限埌数日を経お事務所に退孊届を出したりしに、事務の人は芏則を厳守しお受け぀けず「既に期限に遅れし故、䞉十円の金を収めよ」ずいふ。倧正五六幎の䞉十円は倧金なり。僕はこの倧金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを埗ず陀名凊分を受くべし」ずいぞり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にしお陀名凊分を受けん乎、今埌の就職口を劂䜕せん」ずいひしが、畢に陀名凊分を受くるこずずなれり。  僕の同玚の哲孊科の孊生、僕の為に感激しお曰、「君もシ゚リングの劂く陀名凊分を受けしか」ず シ゚リングも亊僕の劂く䞉十円の金を出し枋りしや吊や、僕は未だ寡聞にしおこれを知らざるを遺憟ずするものなり。      二  僕達のむギリス文孊科の先生は、故ロオレンス先生なり、先生は䞀日僕を路䞊に捉ぞ、嚓々数千蚀を述べられおやたず。然れども僕は先生の蚀を少しも解するこず胜はざりし故、唯雷に打たれたる唖の劂く瞠目しお先生の顔を芋守り居たり。先生も亊僕の容子に倚少の疑惑を感ぜられしなるべし。突劂ずしお僕に問うお曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答ぞお曰く、“No, Sir.”先生は――先生もたた雷に打たれたる唖の劂く瞠目せらるるこず少時の埌、僕を埌にしお立ち去られたり。僕の芪しく先生に接したるは実にこの路䞊の数分間なるのみ。      䞉  僕等「新思朮瀟」同人の列したるは倧正倩皇の行幞し絊ぞる最埌の卒業匏なりしなるべし。僕等は久米正雄ず共に倏の制服を持たざりし為、裞の䞊に冬の制服を着、恐る恐る倧勢の䞭にたじり居たり。      四  僕はケ゚ベル先生を知れり。先生はい぀もフランネルのシダツを着られ、シペオペンハり゚ルを講ぜられしが、そのシペオペンハり゚ルの本の䞊等なりしこずは今に至぀お忘るるこず胜はず。      五  僕は確か二幎生の時独逞語の出来のよかりし為、独乙倧䜿グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰ぞり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、䞀぀には喜倚床に髪を刈りに行きし時、独乙語の先生に順を譲り、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜にあらず、今なほかく信じお疑はざる所なり。  僕はこのアルントを郁文堂に売り金六円にかぞたるを蚘憶す、時来星霜を閲するこず十䜙、僕のアルントを知らざるこずは少しも圓時に異るこずなし。知らず、倩涯のグラアフ・レツクスは今果赭顔旧の劂くなりや吊や。      六  僕は二幎生か䞉幎生かの時、矢代幞雄、久米正雄の二人ず共にむギリス文孊科の教授方針を攻撃したり。堎所は䞀぀橋の孊士䌚通なりしず芚ゆ。僕等は寡を以お衆にあたり、倧いに凱歌を奏したり。然れども久米は勝誇りたる為、応ち心臓に異状を呈し、本郷たで歩きお垰るこず胜ず。僕は矢代ず共に久米を担ぎ、人跡絶えたる電車通りをや぀ず本郷の䞋宿ぞ垰れり。昭和二・二・䞀䞃
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私はすぐ圌女に電話したした。
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亀裂の入぀た荘皌泥地に䞀本の棍棒を挿す。 䞀本のたた倧きくなる。 暹朚が生える。 以䞊 挿すこずず生えるこずずの円満な融合を瀺す。 沙挠に生えた䞀本の珊瑚の朚の傍で豕の様なヒトが生埋されるこずをされるこずはなく 淋しく生埋するこずに䟝぀お自殺する。 満月は飛行機より新鮮に空気を掚進するこずの新鮮ずは珊瑚の朚の陰欝さをより以䞊に増すこずの前のこずである。 茪䞍茟地 展開された地球儀を前にしおの蚭問䞀題。 棍棒はヒトに地を離れるアクロバテむを教ぞるがヒトは了解するこずは䞍可胜であるか。 地球を掘鑿せよ。 同時に 生理䜜甚の霎らす垞識を抛棄せよ。 䞀散に走り 又 䞀散に走り 又 䞀散に走り 又 䞀散に走る ヒト は 䞀散に走る こずらを停止する。 沙挠よりも静謐である絶望はヒトを呌び止める無衚情である衚情の無智である䞀本の珊瑚の朚のヒトの脖頞の背方である前方に盞察する自発的の恐懌からであるがヒトの絶望は静謐であるこずを保぀性栌である。 地球を掘鑿せよ。 同時に ヒトの宿呜的発狂は棍棒を掚すこずであれ。 事実䞔氏は自発的に発狂した。そしおい぀の間にか䞔氏の枩宀には隠花怍物が花を咲かしおいた。涙に濡れた感光玙が倪陜に出䌚぀おは癜々ず光぀た。
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     䞀 山を蚪れる人々 明ければ、去幎の正月である。初春の月半ばは、信濃・䞉河の境山のひどい寒村のあちこちに、過したこずであ぀た。幟すぢかの谿を行き぀めた山の入りから、曎に、うなじを反らしお芋あげる様な、岚の錻などに、さう蚀ふ村々はあ぀た。殊に山陜の䞘根の裟を占めお散らば぀た、䞉河偎の山家は寂しか぀た。峠などからふり顧るず、必、うしろの枯れ芝山に、ひなたず陰ずをく぀きり照しわける、早春の日があた぀お居た。花に瞁遠い日ざしも、時ずしおは、二䞉の茅屋根に陜炎をひら぀かせるこずもあ぀た。気疎い顔に、たぢ〳〵ず日を暮す、日なたがこりの幎よりの姿が、目の先に来る。其は譬喩ではなか぀た。豊橋や岡厎から十四五里も奥には、もう、かうした今川も埳川も長沢・倧久保も知らずに、長い日なたのたどろみを続けお来た村があるのだ。 青やかな楚枝に、莟の梅が色めいお来るず、知倚院内の䞇歳が、山の向うの䞊囜の檀那芪方を祝き廻る぀いでに、かうした隠れ里ぞも、お初穂を皌ぎに寄぀た。山坂に銎れた接島倩王の神人も、銬に瞁ない奥圚所ずしお択り奜みをしお、立ち廻らない凊もあ぀た。 日本人を寂しがらせる為に生れお来たやうな芭蕉も、江戞を䞀足螏み出すず、もう倧仰に人懐しが぀お居る。奥州出矜の倧山越えに、魄萜すたでの寂寥を感じた。人生を黄昏化するが理想の鏡花倖史が、孀圱蕭条たる高野聖の俀をぜ぀ゝり浮べた倩生の飛隚道も、謂はゞ囜ず囜ずを繋ぐ道路の幹線である。雲端に霟る、ず桃青居士の誇匵した岩が根道も、远ひ剥ぎの出るに倀する䜍は、人通りもあ぀たのである。 鶏犬の遠音を、里あるしるしずした詩人も、実は、浮䞖知らずであ぀た。其口癖文句にも勘定に入れお居ない甚途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裟分けられた家畜が、斗鶏や寝ずの番以倖に、山の生掻を刺戟しお居た。 私は、遠州奥山の京䞞を蚪れた時の気分を思ひ出しお芋た。村から半道も、朚銬路を䞊぀お、䞀぀家に蚪ねた故老などの、倖出還りを埅぀間の枋茶が促した、心のやすらひから。京䞞なども、もう実は、わざ〳〵芋物に行く倀打はない皋開けお居た。 駿・遠の二州の源遠い倧河の末の、駅路ず亀叉したあたりには、ほんずうは倧昔から山の䞍思議が語られお居た。歊家の䞖枡りに萜䌍した非埡家人の、平野を控ぞた通の生掻を捚おゝからの行動が、其ずお぀もなく叀い䌝説の実蚌に、挙げられる様にな぀お行぀た。 飛隚・肥埌・阿波其他早耳の琵琶坊も、足ためな䞇歳も、聎き知らぬ遠山陰の芪方・子方の村が、峯谷隔おた里村の物資に憧れ出す時が来た。其は、地方の領家の勢力䞋から逃げこんだ家の由緒を、完党に忘れ果おゝからであ぀た。其昔から持ち䌝ぞた口立おの系図には、利仁・良文や所瞁もない埡子様などを、元祖ず立おゝゐた。其䞊、平家・盛衰蚘を端山の村たで匟きに来る琵琶房䞻があ぀た。時には、さうした座頭の房を、手舁き足舁き連れこんで、隠れ里に撥音を響かせお貰うたりもした。山圊も朚粟もあきれお、唯、耳を柄しおゐる。さうした山の幟倜が偲ばれる。日が過ぎお、山の土産をうんず背負はされた房様が、奥山からはふり出された様な姿で山口の村ぞ転げ蟌んで、口は動かず、目は蠣の様に芋぀めたきりにな぀お居たりする。山人の奜奇に拐された座頭が、い぀か、山の岩屋の隠れ里から、隠れ座頭がや぀お来る、など蚀ふ話を生んだのであらう。 さうした出来心から降぀お湧いた歎史知識が、村の䌝ぞに元祖ず蚀ふ埡子様や、䜕倧将軍ずかもすれば、䜕倩子や某の宮、其お぀きの郜の埡倧身であ぀たかず、村の系図の通称や官名ばかりの人々のほんずうの名が知れお、山の歎史はたずもに明りを受けた。焌畑や岩地う぀た぀きも、匵り合ひが぀いお来る。盲僧の軍蚘語りの筋は、山にも里にも瞁のなくな぀たず぀ずの昔の、ず぀ずの遠囜の事実ず聞きずる習慣があ぀たのなら、かうした事は日本囜䞭の山家ず蚀ふ山家に起る筈がなか぀たのである。 日本の囜のただ出来ぬ村々の君々の時代から、歎史物語は、神だけに語る資栌が考ぞられおゐた。神が珟れお、自身には人の口を蚗りお語り出す叙事詩は、必その村その囜の歎史ず信じられお来た。囜々の語郚の昔から、囜邑の神人の淪萜しお、祝蚀職ずなり、陰陜垫の配䞋ずな぀お、唱門垫・千秋䞇歳・猿楜の類になり降぀おも、其筋がゝ぀た物語は、神の口移しの歎史で、今語られおゐる土地の歎史ず蚀ふ考ぞ方は、忘れられき぀おは居なか぀た。盲僧や盲女の、神寄せの埌に語り出す問はず語りの文句も、さうした心持ちから受け入れられたのである。京・鎌倉の公家・歊家の物語も、結局は、山圚所の由来ずしお聎かれたのも道理である。だから歀入蚣も呑み蟌たないで、むやみず奥圚所の由緒曞きを、故意から出た山人のほら話ず、きめおかゝ぀おはならないのである。      二 垞䞖神迎ぞ こんな話は、山家ばかりで蚀ふ事ではなか぀た。京䞀巡、「梯子や打ち盀」觊り売぀お戻぀おも、ただ冬の薄日の残぀お居る郊倖の村に居ながら、「昔は源氏の歊士の目をよけお」ず隠れ䜏んだ貎人の、膚濃やかに、力業に堪ぞなんだ俀を説く、歯぀欠け婆ばかりの出お来る圚所さぞある。だから、非埡家人ずしおの冷遇に居たゝたらずな぀た前からあ぀た、若い埡子ず其埌芋衆を始めずする系図は、実は、日本䞀円の叀い村々に、持ち䌝ぞられた所の草分けの歎史であ぀たず蚀ぞる。 若く匱かな神が、遥かな神の郜からさすらうお村に来た。其を斎うたのが村の賓客の初めで、旅にや぀れた埡子をいたは぀たのが、元は村の神䞻で、村の芪方の家の先祖ず説く神話が、前の様な歎史を語らぬ、䞀方の村々に行はれおゐる。恐らく今䞉四癟幎も以前には、歀を語らぬ村ずおは、犁裡・幕府のお蔭も知らぬ山家・海隈に到るたで、六十䜙州の䞭にはなか぀たであらう。 歀は日本囜の元祖の村々が、海岞に篷屋を連ねた倧昔からあ぀た神の故事である。幌い神が海のかなたの垞䞖の囜から、う぀かり玛れお、歀土に挂ひ寄る。歀を拟ひあげた人の嚘が育みあげお、成人させお埌、其嫁ずな぀お生んだのが、村の元祖で、若い神には埡子であり、垞䞖の母神には埡孫の埡子だず考ぞられた。さうした䌝ぞが村々に䌝ぞられお居る䞭に、色々に倉化しお行぀た。旅の疲れで死んだずも蚀ふ。村の創立埌遥かの埌の事実で、村の倧家のある代の䞻人に拟はれお、其家に今の様な富みを䞎ぞお埌、棄おられたずも蚀うおゐる。歀若い男埡子が、凊女神に替぀お居る凊もあ぀た。平野で止぀た村には、野に適はしい倉化が䌎ひ、山の盆地に囜を構ぞた地方では、山の臭ひをこめた物語に倉぀お行぀た。垞䞖の若神を懐き守りした嚘の話が、山囜に限぀おは、き぀ず忘れられなか぀たばかりでない。蚀ひ合した様に、殆ど氞久ず蚀ふ皋生きおゐた姥埡前の癜髪姿に倉぀お居た。歀だけが、海の村ず山の村ずの、生掻様匏から来た信仰の倉化を語るものである。 垞䞖の囜からは、ゆくりなく流れ寄る若神の倖に、毎幎きた぀お来る神及び其䞀行があ぀た。初めは初春だけ、埌に至る皋臚時の蚪れの数が増した。其来臚の皀なるが故に、歀をたれびずず称ぞおゐた。歀神の䞀行こそ、わりこんで村を占めた、其土地の先䜏者なる粟霊たちの悩たし・嫉みから、村を救うおくれる唯䞀の救ひ䞻であ぀た。 歀垞䞖神の䞀行が、春毎の遠䞖浪に揺られお、村々に蚪れお、村を囲む庶物の粟霊を圧ぞ、村の平安の誓玄をさせお行぀た蚘憶が、山囜に移るず倉぀お来た。垞䞖神に圧ぞ鎮められる粟霊は、倚くは、野の粟霊・山の粟霊であ぀た。其代衚者ずしお山の粟霊が考ぞられ、埌に、山の神ず称せられた。山の神ず垞䞖神ずが行き倀うおの争ひや誓ひの神事挔劇が初春毎に行はれた。村の守り神が其時する事は、呪蚀を唱ぞるこずであり、村の土地・家々の屋敷を螏み鎮めるこずであ぀た。さうしおわざをぎをするのが、劫初から恐らく眔極の埌ぞかけお行はれるものずの予期で、繰り返された村の春の幎䞭行事であ぀た。 青垣山にずり囲たれた平原などに、村囜を構ぞる様になるず、垞䞖神の蚘憶は次第に薄れお行぀お、歀に替るものが亡くな぀た。さうしお山の神が次第に尊ばれお来お、垞䞖神の性栌が授けられお来る。垞䞖及び其神の玔な郚分からは、高倩原䞊びに其凊に䜏む倩぀神の考ぞが出お来た。村人ず亀枉深い春の初めの祝犏ず土地鎮め、村君・囜䞻の健康を寿ぐ方面の為事は、山の神が替぀おするこずにな぀た。぀たり山の神ず村人ずの間の感情が、以前よりは、申し合せの぀きさうな理䌚ある皋床たで、柔らいで来たのだ。村の生掻を基瀎ずした囜の生掻、其䞭心なる宮廷、叀く溯る皋、神を迎ぞ神を祭る堎所ず蚀ふ矩の明らかに芋える祭りの堎所ずしおの宮廷にも、春の蚪れに来向ふ者は、垞䞖神でなく、山の神ずな぀た。初春ばかりか、宮廷の祭り日や、祓ぞの日などには、き぀ず、かはたれ時の埡門におずなひの響きを立おた。村々の瀟々にも、やはり時々、山の神が祭りの䞭心ずな぀お、呪蚀を唱ぞ、反閇を螏み、わざをぎの振り事、即神遊びを勀めに来た。 さうした祭り日に、神を埅ち迎ぞる、村の嚘の寄り合うお、神を接埅く堎所が甚意せられた。神の接埅堎だから、いちず蚀はれお、こゝに日本の垂の起原は開かれた。山の神は、勿論、里の成幎戒を受けた埌の浄い若者の扮装姿であ぀た。垞䞖神がさうであ぀た様に。埌、挞く山の䞻神に仕ぞる凊女を定めお、䞀人野山に別居させる様にな぀お、野宮の起りずな぀た。山の神に仕ぞる巫女が、野宮に居お、祭り日には神に代぀お来る様にもな぀た。山の神は里の神人の䞀時の仮装ではあるが、山の神の信仰が高た぀お、山の䞻神の為に、山の嫁埡寮が進められたのである。 祭り日の垂堎には、村人たちは沢山の䟛ぞ物を甚意しお、山の神の矀行或は山姥の里降りを埅ち構ぞた。山の神・山姥の舞螊の採り物や、身に぀けたかづら・かざしが、神䞊げの際には分けられた。歀を乞ひ取る人が争うお亀換を願ふ為に、䟛ぞ物に善矎を尜す様にな぀た。歀山の土産は祝犏せられた物の暙であ぀お、山人の山づずは歀である。歀が、歌垣が垂堎で行はれ、垂が物を亀易する堎所ずな぀お行く由来である。さうしお、山人・山姥が里の垂日に来お、無蚀で物を求めお去぀た、ず蚀ふ䌝説の源でもある。其時の山づずを我勝ちに奪ひ合ふ颚が、埌のうそかぞ神事などの根柢をなしおゐ、又、祭りの舞人の花笠などを剥ぎ取る颚をも生み出したのである。 山づずは䜕なに。山の蔓草や矊歯の葉の山瞵や、「あしびきの山の朚梢」から取぀たずいふ寄生朚の頭食や、山の立ち朚の皮を剥いで削り掛けた造り花などであ぀た。かうしお易ぞられた山づずは、初春の家の門や、家内に懞けられた。牀柱には山かづら、戞口や調床に到るたで、山ぞ行぀た様に芋せる山草、軒に削り掛け、座敷に垂す繭玉・逅花・若朚の䜜枝が、叀くしお新しい幎の始めの喜びを衝昂げお来るのも、其因瞁が久しいのだ。 歀䞉州の山家の門束は、東京などのずは違぀お居た。さう蚀ぞば、歳神なども垞䞖神や先祖のみ霊に近づいた考ぞで、祀られお居た。さう云ふ話に這入らない䞭に、春の初めの歀「蚀ひ立お」も、めでたく申しをさめねばならなくな぀た。「たう〳〵たらり」長々しいこずを䜕より先にする蚀祝ぎの蚀ひ癖が出たず思うお、読者に斌おも、初笑ひを催しお頂きたせう。
0.59
Complex
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私はバスで通孊しおいたす。
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Simple
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13
鎌倉を生きお出でけん初鰹 芭蕉 目には青葉山ほずずぎすは぀鰹 玠堂  初が぀おが出だしたず聞いおは、江戞っ子など、もう矢も楯もたたらずやりくり算段  、いや借金しおたで、その生きのいいずころをさっずおろしお、なにはさおおき、たず䞀杯ずいう段取りに出ないではいられなかったらしく、未だに葉桜ごろの人の頭にピンず来るものがある。ずころで初が぀おずいうもの、いったいそんなにたで隒ぎたおられるゆえんはなにか。前掲の句の䜜者は元犄時代の人だから、その時代に江戞っ子が初が぀おを珍重したのはうかがえるが、今日これは通甚しない。 「鎌倉を生きお出でけん」ず想像し぀぀圓幎の江戞で歓迎された初が぀おは、海路を䞉厎廻りで通ったものではあるたい。陞路を嚁勢よく走っお運ばれたものであろうが、それにしおも日本橋の魚河岞に着く時分は、もはや新鮮ではあり埗なかったろう。それでも江戞っ子は狂喜しお、それがために質たで眮いたずいうから倧したものだ。  私の経隓では、初が぀おは鎌倉小坪持垫町の浜に、小舟からわずかばかり揚がるそれを第䞀ずする。その芋所は、今人ず昔人ず䞀臎しおいる。鎌倉小坪のか぀お、これは倧東京などず、いかに嚁匵っおみおも及ぶずころではない。  珟今、東京に集たるか぀おは持堎が遠く、時間がかかりすぎおいる。それはそれずしお、初が぀おずいうもの、それほど矎味いものかずいう問題になるが、私は江戞っ子どもが倧ゲサにいうほどのものではないず思う。  ここでいう江戞っ子ずいうのは、どれほどの身分の人であるかを考えるがよい。富者でも貎族でもなかろう。質を眮いおでも食おうずいうのだから、身分の䜎い人たちであったろう。それが跳び䞊がるほど矎味がるのであるが、およそ人物の皋床を考えお、ハンディキャップを぀けお話を聞かなければなるたい。  冬から春にかけお、しびたぐろに飜きはおた江戞人、酒の肎に䞍向きなたぐろで蟛抱しおきたであろう江戞人  、肉のいたみやすいめじたぐろに飜きはおた江戞人が、目に生新な青葉を芋お爜快ずなり、なにがなず望むずころぞ、さっず倖題を取り換え、いなせな瞞の衣を぀けた軜快な味の持ち䞻、初が぀お君が打っお出たからたたらない。なにはおいおも  ず、なったのではなかろうか。  初が぀おに舌錓を打ったのは、煮たのでも、焌いたのでもない。それは刺身ず決たっおいる。この刺身、皮付きず皮を剥ぐ手法ずがある。皮の口に残るのを嫌っお、皮だけを早く焌く方法が工倫された。土䜐の叩きがそれである。しかし、土䜐の叩きは、郜䌚の矎味い料理に通じない土地っ子が、やたらに名物ずしお宣䌝したので、私の目にはグロであり、䞋手ものである。焌きたおの生暖かいのを出されおは、なんずなく生臭い感じがしお参っおしたう。しかし、土䜐づくりは皮付きを手早く焌き、皮ごず食うずころに意矩があるのだろう。  元来、どんな魚類であっおも、皮ず肉の䞭間に矎味局を有するものである。それゆえ、皮を剥ぎ、骚を去っおしたっおは、魚の持ち味は半枛する。物によっおは、党枛するずたでいっおも過蚀ではなかろう。それはもずよりか぀おだけにかぎったこずではない。たいのあら煮が矎味いずいうのも、実は皮も骚もいっしょに煮られおいるからなのである。  昔は春先の初が぀おを、やかたしくいったが、今日では倏から秋にかけおのか぀おが䞀番矎味い。これは茞送、冷凍、冷蔵の䟿が発達したこずによるものず思われる。倧きさは五癟匁から䞀貫匁ぐらいたでを䞊々ずする。
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 日本料理の革新を叫んで星岡を始めたころ、私が板堎ぞ降りお仕事をしだすず、料理材料のゎミが䞉分の䞀しか出ないず、ある料理人から蚀われた。料理材料の䞍甚分を私が凊理するず、捚おるずころが枛少しおしたうからである。私は今でもそれを誇りにしおよいず思っおいる。ある時、板堎ぞ降りお行っおみるず、ふろ吹き倧根を぀くるずいうので、勇敢に倧根の皮を剥いおいる。皮だから捚おおしたえばそれたで、糠味噌ぞ入れれば挬けものになるし、そのほか、工倫次第でなんにでも重宝に䜿える。  こんなこずを廃物利甚ず人は呌んでいるが、倧根の皮の郚分ずいうものは、元来、廃物ではない。廃物だず蚀うのは、料理知らずのたわごずである。皮の郚分にこそ、倧根の特別な味もあり栄逊もある。だから、元々、皮を剥いお料理すべきものではない。皮を剥く堎合は、お客料理ずしおの䜓裁か、たた、倧根が叀くお皮が無䟡倀になっおいる堎合ずかにかぎるのである。そこのずころが分らない料理人は、なんでも皮を剥いおしたう。私は鎌倉で、倧根を食う堎合は、い぀でも畑から抜きたおのものを甚いる。もちろん、そういう新鮮な倧根は、皮などもったいなくお剥けるものではない。  その道理の分らない無教逊な料理人は、鎌倉で抜きたおの倧根をあおがっおも、皮を剥いおしたう。食う盞手が私である堎合には、そんなもったいないこずをしおはいけないず蚀っお、い぀も教えおやるのだが、もちろん、盞手にもよる。半可通のお客が来おいれば、そのお客に合わしお皮を剥くのも、ずきには必芁ずなろう。だが、倧根の皮は、貎重なものであるずいうこずを、初めから呑み蟌んでいるのでなければ、ほんずうの料理人ずは蚀えない。料理の憲法を孊ばない茩は困ったものだ。単に倧根にかぎらない。䟋えば、わさびの軞である。あれをみな捚おおいるが、わさびの軞の色は青々ずしお枅々しく、シャキシャキしお歯圓りの感觊もよし、味もちょっず蟛くお、䜿いようによっおは、皮肉にもたたよいものである。箞掗いなどに配しおもシャキシャキしお掻きる。他の䜕物をもっおしおも、わさびの軞に優るものはざらにない。  私がこういう話をしだすず、至らない若者の䞭には、ケチで蚀うかのように考えるものもあるが、ケチであるかないかはほかのこずを芋れば分る。私がそうせずにおられないのは、料理し埗るものを料理しないずいうこずは、料理人ずしお冥利が぀き、暩嚁にもかかわるず思うからだ。  料理材料ずいうものが䜕䞇䜕千あるか知らないが、ひず぀ずしお、それ独自の持ち味を有しないものはない。どんなものにも、ほかのものでは代甚し埗ない持ち味があるものだ。倩が぀くり地が぀くった自然の力がものを蚀っおいるからである。料理が材料の持ち味を掻かすこずにあるずすれば、利甚し埗るものすべおを利甚しおこそ、初めお料理ずいう名に䟡し、料理人たるの資栌があるず蚀い埗る。それこそ料理の心ず蚀うものである。 昭和十幎
0.6
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スタッフが事務所䜜りのお手䌝いをさせお頂きたす
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 貎問に曰、近来嚌婊型の女人増加せるを劂䜕思ふ乎ず。然れども僕は嚌婊型の女人の増加せる事実を信ずる胜はず。尀も女人も家庭の倖に呌吞する自由を捉ぞたれば、圓代の女人の男子を芋るこず、猛獣の劂くならざるは事実なるべし。こは勿論嚌婊型の女人の増加せる結果ず蚀ふこず胜はず。又産児を免るべき科孊的方法䞊びに道埳的論も略完党に具りたれば圓代の女人の必しも亀合を恐れざるは事実なるべし。若し今日の瀟䌚制床に若干の倉化を生じたる埌、あらゆる童子の逊育は瀟䌚の責任になり了らん乎、この傟向の今日よりも䞀局増加するは蚀ふを埅たず。然れども畢に亀合は必然に産児を䌎ふ以䞊、男子には冒険でも䜕でもなけれど、女人には垞に生死を賭する冒険たるを免れざるべし。若し垞に生死を賭する冒険たるを免れずずせば、絶察に亀合を恐れざるは垞人の善くする所にあらざるなり。よし又倩䞋の女人にしお悉亀合を恐れざるこず、入济を恐れざるが劂きに至るも、そは少しも嚌婊型の女人の増加せる結果ず云ふこず胜はず。䜕ずなれば嚌婊型の女人は啻に亀合を恐れざるのみならず、又実に恬然ずしお個人的嚁厳を顧みざる倩才を具ぞざる可らざればなり。教坊十䞇の劓は倚しず雖も、真に嚌婊型の女人を求むれば、恐らくは甚だ倚からざる可し。倩䞋も亊教坊ず等しきのみ。旊に呉客の倫人ずなり、暮に越商の小星ずなるも、豈悉病的なる嚌婊型の女人ず限る可けんや。この故に僕は嚌婊型の婊人の増加せる事実を信ずる胜はず。況や貎問に答ふるをや。聊か所思を蚘しお拙答に代ふ。高免を蒙らば幞甚なり。 倧正十䞉幎十䞀月
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茞出業界は青息吐息だ。
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 西掋料理、䞭囜料理に添えおあるあのからしを芋るたびに、どうも気になっおしようがない。日本料理に付けられた堎合などはなおさらである。  元来、西掋からしずいうもの、肝心の蟛さが䞀向蟛くなく、第䞀倧切な銙味がなっおいない。蟛味も銙味も共に優れおいる日本からし。しかも、安䟡で存圚しおいるものを、なにをもっお西掋からしをありがたがるのか。わたしにはさっぱりその気が知れない。あの小麊粉ずからし粉を混ぜ合わせたような粟気のない西掋からしのいったいどこがよいのだろう。  なるほど、日本からしは䜿甚に臚んで溶くずいうちょっず手間のかかるキラむはあるが、それずおからし粉を湯呑の底にでも入れお、日本玙を䞀枚眮き、少しばかり湯をそそぎ、灰あるいは炭火のおこったのでも入れれば、それだけですむこずではないか。  しかし、日本からしは西掋からしのように色が矎しくない。キメがあらい。これを改良したら質においおは、西掋からしにたさるこず数等である。  矎味で効果的で経枈的であるこずを実行しないのは、食べ物に察する䞍芋識であり、陋習を改めない暪着さは充分責めねばなるたい。  ビフテキに䞀床日本からしを付けおみるがいい。どんなにうたく食えるだろうか。日本からしはおでんず玍豆にかぎる出合い物だなどずばかり決めこんでいおは、物笑いの皮である。  独りこのこずばかりではない。だいたい西掋ものでさえあれば、おんからなにもかもがよいように思ったりする癖が悪い。むしろ、西掋人ず食卓に向かい合いでもしたような堎合は、日本からしの優れおいるこずを、教えおやるくらいの芋識を持ちたいものだ。昭和十䞉幎
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圌がボヌずする
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 䜵し、䜕にせよ今床の政倉は、第二維新だ。猟官の噂もだんだん聞くが、考ぞお芋れば、是れも無理はない話しさ。それは埡䞀新の際には、歊士が皆な家犄を持぀お居たから遊んで居おも十分食ぞたのだ。尀も脱藩の浪士などの間には、䞍平家も少しはあ぀たが、倧抵な人は所謂恒の産があ぀たから、そんなに隒がなく぀おもよか぀たのだ。西郷などは、固より䟋倖だが、それは流石に立掟なもので、幕府が倒れた時に、最早平生の志を遂げたのだからこれから山林にでも匕き籠぀お、悠々自適、颚月でも楜んで、䜙生を送らうず云ひ出した䜍だ。凊が今の政党員は、倚くは無職業の埒だから圹人にでもならなければ食ぞないのさ。だからそれは猟官もやるがよいが、䜵し䞭には䜕んの抱負もない癖に、぀たり財政なり倖亀なり、自分の䞻匵を実行するために、就官を望むのではなくお、䜕んでも善いから月絊に有り就きさえすればよいずいふ颚な猟官連は、それは芋぀ずもないよ。
0.744
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0.625
0.223
0
1
398
       䞀 姓名の由䟆ず順䜍  わが茩はか぀お『國語尊重』ず題しお、わが國固有の蚀語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今たたこれに關聯しお、わが國民の姓名の曞き方に぀いお䞀蚀したいず思ふ。  わが國の姓名の癌生癌達の歎史はこゝに述べないが、芁するに今日吟人の姓ず皱するものは寊は苗字ずいふべきもので、苗字ず姓ず氏ずはその出處を異にするものである。  姓は元䟆身分の分類で、䟋ぞば臣、連、宿犰、朝臣などの類であり、氏は家系の分類で、䟋ぞば藀原、源、平、菅原、玀などの類である。  苗字は個人の家の名で、倚くは土地の名を取぀たものである。䟋ぞば那須の與䞀、熊谷の盎寊、秩父の重忠、鎌倉の權五郎、䞉浊の倧介、䜐野の源巊衛門ずいふの類である。  昔は苗字は歊士階玚以䞊に限られたが、維新以䟆癟姓町人瞜お苗字を蚱されたので、皮々雜倚な苗字が出珟し、苗字を氏ずも姓ずも呌ぶ事にな぀お今日にいた぀たのである。  わが國固有の颚俗ずしお家名を尊重する關係䞊、當然苗字を先にし名を埌にし、苗字ず名ずを連合しお䞀぀の固有名を圢づくり、これを以お個人の名皱ずしたので、苗字を先にするずいふこずに、歎史的意味の深長なるものがあるこずを考ぞねばならぬ。  東掋民族は抂しお苗字を先にし名を埌にするの颚習である。支那人はその適䟋である。  ペヌロツパでもハンガリヌなどでは即ちマギアヌル族で東掋民族であるから、苗字を先にし、名を埌にする。  西掋では家よりも個人を尊重するの颚習から出たのか吊かよく知らぬが、抂しお姓を埌にし名を先にする。  ゞペヌゞ・ワシントン。ゞペン・ラスキン。ゞ゚ヌムス・ワツト。ペヌテル・ペヌレンス。バりル・ゎヌガンなどの類で、前名は即ち個人のキリスト教名埌名は即ち家族名である。  印床は地理䞊東掋に屬するが、民族がアヌルダ系であるから、矢匵り名を先にし姓を埌にする。ラビンドラナヌト・タゎヌルずいぞば、前名は即ち個人名で、埌名のタゎヌルは家名である。        二 歐颚暡倣の惡䟋  珟今日本では、歐文で通信や著䜜や、その他各皮の文を曞く堎合に、その眲名に歐米颚にロヌマ字で名を先に姓を埌に曞くこずにしおゐるが、これは由々しい誀謬である。小さい問題のやうで寊は重倧なる問題である。  わが茩の名は䌊東忠倪であ぀お、忠倪䌊東ではない。苗字ず名ずを連接した䌊東忠倪ずいふ䞀぀の固有名を二぀に切斷しお、これを逆列するずいふ無法なこずはない筈である。  個人の固有名は神聖なもので、それ『〵深い因瞁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。  然るに今日䞀般にこの蜉倒逆列を甚ゐお怪したぬのは、畢竟歐米文明枡䟆の際、䜕事も歐米の颚習に暡倣するこずを理想ずした時代に、䜕人かゞ斯かる惡䟋を䜜぀たのが遂に䞀぀の慣䟋ずな぀たのであらう。  今曎これを改めお苗字を先にし名を埌にするにも及ばない。逘蚈な事であるずいふ人もあるが、わが茩はさうは思はない。過ちお改むるに憚るなかれずは先哲の名蚓である。  况んや若しも歐米流に姓名を蜉倒するずきは、こゝに芿面に起る難問がある。それは過去の歎史的人物を呌ぶ時に劂䜕にするかずいふ事である。  埳川家康ず曞かずしお家康埳川ずいい、楠正成ず曞かずしお正成楠ずいひ、玀貫之ず曞かずしお貫之玀ずいふべきか。これは逘皋變なものであらう。  過去の人は姓名を順䜍にならべ、珟圚の人は逆蜉しおならべるずいふが劂きは勿論䞍合理であるばかりでなく、寊際においおその取扱ひ方に窮するこずになる。  この點においお支那はさすがに培底しおゐる。劂䜕なる堎合にも姓名を蜉倒するやうな愚を挔じない。  匵䜜霖は劂䜕なる堎合にも䜜霖匵ずは名乘るたい。李鎻章は䞖界の䜕國の人にも鎻章李ず呌ばれ、たたは曞かれたこずがない。  䞖界の䜕國の人も支那では姓を先にし、名を埌にするこずを知぀おをり、支那の颚習に埞぀おゐる。䞖界の䜕國の人も日本では姓を先にし、名を埌にするこずを知぀おゐる筈であるが、日本人が率先しお自ら姓名を蜉倒するから、倖人もこれに埞ふのである。        䞉 圌我互に慣習を尊重せよ  或人は、日本人が自ら姓名を蜉倒しお曞く事は國際的に有意矩であり、歐米人のために䟿宜倚きのみならず、吟人日本人に取぀おも郜合がよいずいふが、自分はさう思はぬ。  結局無識の歐米人をしお、日本でも姓を埌に名を前に呌ぶ颚習であるず誀解せしめ、有識の歐米人をしお、日本人が固有の颚習を捚おゝ倖國の慣習にならうは劂䜕にも倖國に對しお柔順過ぎるずいふ怪蚝の感を起さしむるに過ぎぬず思ふ。  それよりも、吟人は必ず垞に姓前名埌を培底的に勵行し、䞖界に日本の國颚を了解させたならば各國の人も日本の慣䟋を尊重しおこれに埞ふに盞違ない。  逘談に亘るが瞜じお歐米の慣習ず日本の慣習ずが党く正反對である寊䟋が甚だ倚い。  䟋ぞば幎玀を蚘すのに、日本では幎、月、日ず倧より小に入り、歐米では、日、月、幎ず逆に小より倧に入る。  所圚を蚘すのに、日本では、國、府瞣、垂、町、番地ず倧より小に入るに、歐米では、番地、町、垂、府瞣、國ず、逆に小より倧に入る。  日本人が歐文を曞く堎合、この慣䟋を尊重しお、小より倧に入るのは差支ないが、その内の固有名は斷然いぢくられおはならぬ。  䟋ぞば地名の䞭にも姓名を具ふるらしいのがあるが、この堎合姓名を蜉倒するのは絶對に䞍可である。  東京垂の「櫻田本郷町」を「本郷町、櫻田」ずしおはいけない。鐵道の驛名の「矜前向町」を「向町、矜前」ずしおはいけない。同じ理由で「䌊東忠倪」を「忠倪䌊東」ずしおはいけないのである。  日本人が歐文を飜譯するずき、幎玀や所圚地の曞き方は、これを日本流に倧より小ぞの筆法に盎すが、固有名は矢匵り尊重しお圌の筆法に埞ふのである。  䟋ぞばゞペヌゞ・ワシントンず名を先に姓を埌にしお、日本流にワシントン・ゞペヌゞずは曞かない。  然らば歐米人も日本の固有名は日本流に曞くのが當然であり、日本人自らは、なほ曎培底的に日本固有の慣習に埞ふのが、當然過ぎる皋當然ではないか。        四 斷じお姓名を逆列するな  わが茩のこの所芋に對しお、或人はこれを孞究の過敏なる迂論であるず評し、霒牙にかくるに足らぬ些现な問題だずい぀たが、自分にはさう考ぞられぬ。  これは曟぀おわが茩が「國語尊重」の題䞋でわが國の國號は日本であるのに、倖人の蚛傳に远埞しお自らゞダパンず名乘るのは國蟱であるず論じたのず同じ筆法で、姓名蜉倒は矢匵り䞀぀の國蟱であるず思ふのである。  或人は又い぀た、汝の所論は䞀理窟あるが寊際的でない。汝は歐文に幎玀を蚘すずき西暊を甚ゐお神歊玀元を甚ゐないのは䜕故か、いはゆる自家撞着ではないかず。  わが茩はこれに぀いお䞀蚀蟯じお眮きたい。幎玀は時間を枬る基準の問題である。これは國號、姓名などの固有名の問題ずは党然意味が違ふ。  歐文で日本歎史を曞くずき、䟿宜䞊日本幎玀ず共に西歎を蚻しお圌我對照の䟿に資するは最適當な方法であり、歐文で歐掲歎史を曞くずき、西歎に埞ふは勿論である。  芁するに䞖間は未だ固有名なるものゝ意味を了解しおをらぬのであらう。固有名を普通名ず同䞀皋床に芋おゐるのであらう。  普通名は至る所で皱呌を異にするが、固有名は絶對性のものであり、䞀あ぀お二なきものである。  即ち日本人の姓名は唯䞀䞍二である。姓ず名ず連續しお䞀぀の固有名を圢づくる。  倖人がこれを劂䜕に取扱はうずも、それは倖人の勝手である。たゞ吟人は斷じお倖人の取扱ひに暡倣し、姓ず名ずを切り離しこれを逆列しおはならぬ。  それは䞁床日本の國號を倖人が䜕ず呌び䜕ず曞かうずも、吟人は必ず垞に日本ず呌び日本ず曞かねばならぬのず同じ理窟である。完 倧正十五幎二月「東京日日新聞」
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0.765
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フランス語は党く話せたせん。
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Simple
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そこが京郜駅東口より車で分だ
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0.233345
0.181491
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 挔劇の分野においお、明治時代は真に革新ず名づけられるやうな芞術運動も、啓蒙事業も殆ど䌁おられおゐない。  末束謙柄等によ぀お䞻唱された挔劇改良䌚の実䜓は、呚知の劂く、圚来の歌舞䌎劇を「文明開化」の名にそむかぬやうな粉食でこれを品䜍ある倖客接埅甚の、たた子女教育に害のない催し物たらしめようずした䞀郚「有力者」の䜙技的発案にすぎず、この機運に乗぀お、かの新掟劇の発生を芋たけれども、これたた、芖野の狭さによるマニ゚リスムにより、挔劇の近代化ずいふ肝腎な圹割を果すべくしお果し埗なか぀た。  坪内逍遥は、自他ずもに挔劇革新の倧先達を以お蚱しおゐるにも拘らず、その業瞟はシ゚むクスピダの擬叀䜓蚳に瀺される歌舞䌎の䌝統の教壇的再生であり、その指導䞋に集た぀た挔劇のアマチュアは、いはゆる珟代の科癜劇の初歩的技術をも身に぀けずに終぀たのである。  森鎎倖は、そのなかで、独り、日本の新しい挔劇の方向を、専門家ずしおではなく、むしろ、倖囜文孊玹介の卓越した芋識のうちに挠然ずながらこれを指し瀺した。即ち、泰西近代戯曲のいく぀かの珟代語蚳は、完璧ずはいぞないけれども、いはゆる西欧近代劇運動の流れを「文孊的に」圓時のわが劇壇に泚ぎ入れる、極めお倧きな効果をもたらした。しかしながら、圌の創䜜に成る戯曲は、内容の点でも、圢匏のうぞからも、それほど挔劇の近代化を目指した跡はなく、少くずも、圌の描く舞台のむメヌゞは、歌舞䌎俳優のある者が挔じるこずを前提ずしお怪したなか぀たやうに芋うけられる。  島村抱月が坪内ず袂を分぀た理由は、衚面はどうであれ、島村は、劇文孊者ずしお、坪内ずは党く別個の存圚であ぀た。圌はその資質ず才胜ずを芞術座の健党な育成のために、より掻かすこずができたら、その業瞟は、䞀劇団乃至䞀女優の名ず共に亡び去るべきではなか぀た。ずはいぞ、圌も亊、挔劇指導者ずしおは、根本的な䞀぀の問題を忘れおゐたやうに思はれる。぀たり、新しい挔劇が職業ずしお成り立぀ために、時代は䜕を求めるかずいふ問題である。  小山内薫は、わが囜の挔劇がこれらの人々の手匕によ぀お僅かに近代化の方向を探り぀぀、しかもなほ、舞台には過去の幻圱が長く尟を曳いおゐる時代に、はじめお劇堎の内郚ずの亀枉をもちはじめたのである。  即ち明治十四幎生れの圌は、同䞉十䞃幎二月、東京垝囜倧孊英文科䞀幎の孊生服をたず぀お、圓時川䞊䞀座から独立した新掟俳優䌊井蓉峰の真砂座出挔の手䌝ひずいふ仕事から挔劇掻動の第䞀歩を螏み出した。  それたでに既に、モオパッサンの短篇、特にマアテルランクの『矀盲』の翻蚳によ぀お、森鎎倖に認められ、『ロミオずゞュリ゚ット』の翻案を䌊井䞀座に提䟛し、など、文筆掻動の方面でも、なにがしの仕事はしおゐたが、圌を決定的に舞台芞術に結び぀け、挔劇人ずしお、名実ずもに、挔劇のために生涯を捧げようずする明治以埌最も華やかな知識人たらしめた玠因は、い぀たいどこに圚るか。  環境ず時代ずがこれほど雄匁にそれを語る䟋はけだし少からうず思はれる。青幎期よりその晩幎にいたるたでのあらゆる粟神の遍歎は、各皮の資料によ぀おほゞその茪郭を捉ぞるこずができ、その限りに斌お、圌が䜕ものであ぀たかの結論を䞋すこずは容易である。  小山内薫は接軜藩の蘭孊医にしお軍医の職に぀いた小山内玄掋の長子である。母は幕末旗本の家に生れ、遊芞を嗜み、瀟亀を愛した。䞀時広島に䜏み、薫はそこで幌幎時代を過したが、やがお東京麹町に居を構ぞ、効八千代ずずもに、知的芁玠に恵たれたいはゆる「山ノ手」有閑階玚の兞型的な家颚のうちに成長した。䌝統的な郜䌚趣味ず明治開化のハむカラ味ずの混合が、その家颚の色調ずな぀おゐたこずは、想像するに難くない。圌の玚友歊林倢想庵が、その䜏居の印象を「意気で高等な」ず極めお暗瀺的な衚珟で語぀おゐるのをみおもわかる。  圌は孊校では優秀な成瞟ををさめ、家庭では盞圓やんちやん坊䞻であ぀たらしい。もちろん父亡きあずの䞀家は、財政䞊の困難にも遭遇し、圌は長子ずしお、ある意味のあせりを感じたに違ひない。こずに人䞊すぐれた頭脳ず才気ずをいかに甚ふべきかに぀いお、おそらくは、圓時の秀才が悉く思ひ悩んだ劂く思ひ悩んだこずず思はれる。その時、文孊芞術の䞖界が圌を自然に招いたこず、しかも、そこに至る最も卑近な道が圌の日垞生掻ず盎結する劇堎の門に通じおゐたこずは、たた決しお偶然ではなか぀た。  青幎期の圌が、䞀方、舞台芞術の魅力に惹かれながら、䞀方たた、求道の心に燃えお内村鑑䞉の蚱に走぀た理由は自らも倱恋の結果ず称しおゐるが、圌の生涯を通じお、その蚀動に珟はれる狂信的ずもいふべき粟神䞻矩、た぀たくナりモアを欠いだ䞀皮の深刻癖は、耜矎享楜の远求に斌お人埌に萜ちなか぀た半面ずなんら矛盟するものではなく、圌にあ぀おは、たゞ、性栌ずしおの自己分裂が、思想的苊悩ずは関係なく、そのたた䞍安の盞貌を呈するにすぎなか぀たのである。  挔劇はもちろん圌を捉ぞお攟さなか぀たが、圌の教逊ず時代感芚は「明日の挔劇」が未墟の土壌であり、その開拓こそ、あらゆる意味に斌お自己に課せられた䜿呜なりず信ずるに至぀た、その道皋には、もちろんさたざたな奜運ず努力ずがあ぀た。今日よりみお、圌が、その圓時、挔劇革新の運動をリヌドする最も有力な条件をいち早く身に぀けたこずは、泚目に倀する。その条件ずは、第䞀に、西掋近代劇運動の消息に䞀応通じたこず、第二に、文孊界の新機運ず結び、高名な䜜家たちをその背景にもち埗たこずである。  そしお、曎に重芁なこずは、ちやうどこの時代ほど、挔劇界が圌の劂き人物の出珟を求めおゐた時代はないずいふこずで、圌はたさに、寞刻を誀らず登堎する俳優の劂く、ひろく䞖人の泚目を集めた。  挔劇革新の運動にはおのづから䞀぀の目暙がなければならぬ。明治以来今日たで、いはゆる「新劇」ず呌ばれるものは、この運動の実践に倖ならぬけれども、未だなんびずも、この「新劇」の行き着くずころを明確に指し瀺したものはないのである。  たゞ「新しい挔劇」の芁玠ずしおは、内容圢匏ずもにさたざたな芁玠を挙げるこずができる。その「新しさ」の皋床に斌おもたた、各人各様の芁求があり、それはそれでよいのであるが、小山内薫は、そのなかにあ぀お、比范的早く、そしお鮮明に日本挔劇の近代化ずいふ旗幟を掲げ、倖囜文献の枉猟により、たたその埌自ら欧掲の土を螏むこずによ぀お、ほずんど唯䞀人、埐々にではあるが、西欧近代劇の日本版を䜜補する詊みに成功したのである。  明治四十二幎十䞀月、日本新劇史䞊画期的ず称せられる「自由劇堎」第䞀回の公挔が、旧「有楜座」の舞台で行はれた。挔し物は、むプセン䜜、鎎倖蚳の『ゞョン・ガブリ゚ル・ボルクマン』、䞻挔俳優は、小山内を「片腕以䞊」ず恃む掋行垰りの若き歌舞䌎俳優垂川巊団次である。  自由劇堎の旗挙げは、たこずに䞀時代の芞術運動がなし埗る最も華々しい効果を収め、䞻脳の䞀人にしお挔出者たる二十九歳の小山内薫は、応ち劇壇、文壇を通じおの花圢ずな぀た。  自由劇堎は圓然のこずながら、甚だ短呜であ぀た。しかし、圌のこの経隓は、欧掲劇堎巡瀌のために、貎重なものずな぀た。  圌には、挔劇理論の垫がいくたりか欧掲にあ぀た。盎接には最もスタニスラフスキむの圱響を受けたかず思はれるが、ラむンハルトずクレむグは、ずもに、圌の䞻匵の拠りどころずな぀おゐた。  第䞀次欧掲倧戊埌の先駆的な動きも、圌は怠らず芋守぀た。たゞ、圌の泚意は、䞻ずしおロシダ及びドむツに向けられ、埓぀お、圌の理論ず実践を通じ、挔劇創造のシステムは飜くたで「挔出」第䞀䞻矩であ぀た。  近代劇運動の䞀面が、その出発に斌お、「文孊」の䜍眮を高く舞台に芁求するものであ぀たに拘らず、そしお、圌も亊、自由劇堎創立の時代は、十分に挔劇の文孊的内容を重んじながら、次第に、その説を倉ぞお行぀たのは、欧掲の先駆劇、殊に、クレむグからメむ゚ルホリド、フックスなどに至る䞀皮の機械䞻矩の圱響を受けた結果であらう。  ずもかくも、小山内薫の出珟によ぀お、わが囜の挔劇愛奜者は西欧近代劇の舞台に぀いお語り埗るやうにな぀た。圌はたた、その点に斌お、倚くの劇䜜志望者に垌望ず刺激ずを䞎ぞた、ずも云ひ埗る。  たゞ遺憟なこずは、圌によ぀お芋出された才胜は二、䞉に止たらないが、圌の手によ぀お育成された劇䜜家は䞀人もなか぀たこずである。  自由劇堎の捲き起した興奮は、公平にみおやゝお祭り隒ぎの感がなくもなく、皋経お、蟛蟣な批評も珟はれたやうであるが、ずもかくも、その堎合の小山内薫を、やはり、圓時、䜕人も䌁お及ばなか぀た「新しき挔劇的雰囲気」の醞成に最も成功した䞀挔劇指導者の兞型ずみるこずは誀りであらうか。  倧正十䞉幎春、独逞から垰来した土方䞎志ず盞謀り、その出資によ぀お、日本最初の「新劇垞蚭通」築地小劇堎を創蚭した時、圌は、これを最埌の足堎ずしお、玔粋な挔劇的生掻に没頭しようず決意したやうである。 『築地小劇堎建蚭たで』ずいふ圌の圓時発衚した文章のなかで、――「私の今たで螏んで来た道は悉く錯誀であ぀た事を認めたす。私にず぀お䞀番密接だ぀た自由劇堎の運動をもその䞭ぞ数ぞ入れる事が出来るのです。や぀ず私はそこたで来たした、や぀ず私はそこたで来たのです」ずいふ䞀句が、誰の目にも぀く。  䞀芋おそろしく謙虚にみえるかかる述懐のなかに、小山内薫の支持者を途方に暮れさせ、圌の批刀者を焊ら立たせるなにものかがある。  圌は詩を曞き、小説を曞き、戯曲を曞き、そしお、倚くの感想ず評論を曞いた。しかし、圌は、なにを措いおも、新知識に富む舞台指揮者であり、挔劇教垫であり、特に、若き挔劇愛奜者にず぀お䞀皮の偶像的存圚であ぀たやうに思はれる。  そのこずを圌自身、誰よりもよく知぀おゐた。圌は、そこから䞀歩も退かず、たた、䞀歩も螏み出すこずを敢おしなか぀た。そこに悠々ず腰をおろしおゐたわけではない。それは時によるず䞍安極りなき立堎であるにも拘らず、それはたた同時に、圌の身に぀いた圹柄のやうなものずなり、圌は垞に奜んで先駆者の道を歩たうずしながら、先駆者の䞍運ず苊難ずを甘受する勇気はなく、むしろ、流行の尖端を行くものゝ誇りに䌌た優越感を味぀おゐたのである。  圌は、新しい挔劇の暹立を目指しお、最埌たで闘぀た。しかも、圌の目暙ずする「新しい挔劇」の正䜓を、圌自身぀ねに芋倱぀おゐた。なぜなら、圌には、圢の新しさは䞀応理解できたけれども、粟神の新しさにはどこかなじたぬずころがあり、芞術家ずしおの感受性に優先する生掻人ずしおの趣味ず颚習に斌お、倚分に、非近代的、非囜際的なものを包蔵しおゐたのである。埓぀お、近代の挔劇、ひいおは西掋の挔劇の、わが囜圚来の挔劇ず厳密に区別されなければならぬ䞀点に関しお、圌は、理論のうぞでも、実際のうぞでも、やゝ敏感でないず思はれる節々があ぀た。  それにも拘らず、圌の終始口にしたずころは、「歌舞䌎でも新掟でもない新しい日本挔劇」であ぀た。そしお、さういふ新しい挔劇ぞの道は、先づ西掋近代劇の移怍に圚りず信じおゐたのである。  この自ら気づかぬ矛盟が、圧倒的な名声に比しお、圌の生涯の業瞟を極めお圱響力の少いものにした。  築地小劇堎の旗挙に先だ぀お、圌がしばらく教壇に立぀た瞁故のある慶応矩塟の公開講挔で、「日本の䜜家のものは今のずころ挔出慟をそゝられないから、西掋戯曲の翻蚳をしばらく続けお䞊挔する」、ず公蚀したこずが、はしなくも劇堎䞀郚の物議をかもしたのは、たこずに興味のある事件である。すなはち、圌の県にも圓時の戯曲の生産は甚だ貧しく、か぀、圌の挔劇的抱負に適ふ劇䜜家は䞀人もゐないずいふこずを、圌は率盎に述べたのである。率盎にすぎたずいふ批難は圓るかも知れないけれども、圌は、かゝる重倧発蚀をなす以䞊、それを倱蚀ずみなされるやうな安易な衚珟によ぀おこれをなすべきではなか぀た。事実、倚圩で重量のある西欧戯曲の前で、日本の片々たる雑誌戯曲がいかに舞台映えのしないものか、そのこずだけなら、小山内を俟たずしお誰もが知りぬいおゐるこずである。しかも、そのこずを、挔劇革新の名に斌お、厳しく譊告するに応はしい圓代の人物は、たさに圌をおいお倖になか぀たのである。  圌は、ここに斌おも、理想家肌の珟実䞻矩者なる面貌を遺憟なく暎露した。圌は䞀面、日本挔劇の氎準に底知れぬ䞍満を抱きながら、己れも亊、その氎準に立぀ものであるこずを、故ら認めようずせず、ゎヌヅン、クレむグあたりの挔出䞇胜の䞀流掟を理論的な楯ずしお、䞀旊築きあげた領域を䜕人にも犯さしめぬずいふ身構ぞを瀺す結果にな぀た。たゞ、かゝる匱点を圌のみが非難されなければならぬいはれはない。穿぀おいぞば、圌はその晩幎に斌お、圌が順調にかち埗た劇壇の最高地䜍に察する代償を求められたのである。  小山内薫は、幎少にしお、鎎倖、独歩、藀村に近づき、文壇及び芞術界の錚々たる名前に早くも取り巻かれ、その存圚は、スタアトず共に、既に華々しく、そしお、独自なものであ぀た。それは、いはゞ、知識人の文化的センスを代衚し、最も俗悪な瀟䌚ずされた挔劇界に単身乗り蟌んだ最初のチャンピオンずいふ趣きがあ぀たからである。  近代文明囜の挔劇の圚り方をおがろげに察しおゐるにすぎぬ圓時の知識青幎小山内薫は、䞀躍、日本挔劇革新の䜿呜をその双肩に担ふ立堎におかれおした぀た。自ら求めた道ずはいひながら、それはあたりに重荷であ぀たに違ひない。倖囜挔劇の知識は、応ち、圌を䞀方の暩嚁ずはしたが、実際運動の面に斌ける圌の理論の䜓系は、容易に受売りの域を脱し埗ず、ために、わが挔劇界の特殊な歎史に挑戊する有効な歊噚は、旗印以倖には、䜕ひず぀甚意されおゐなか぀たのである。  圌自身、そのこずに気づかぬ道理はなく、自らの仕事を或は研究ず呌び或は実隓ず称し、床々挔劇孊校の必芁を力説し、時には圌自ら舞台に立぀決心をほのめかし、たたたた、未熟な新劇が盎ちに倧衆に呌びかける危険を云々したかず思ふず、翻぀お、商業劇堎のために通俗劇の筆を執る冒険を詊みた。  圌が、時代の芁求に応じ、たさに出るべき時に出で、占めるべき地歩を占めた皀有の頭脳ず才胜の持䞻であ぀たこずは疑ふ䜙地はないけれども、今日その業瞟を仔现に調べおみるず、岡倉倩心の矎術に斌ける、或は䞋぀お山田耕筰の音楜におけるほどの足跡をさぞ挔劇の畑に残しおゐないのは、果しお圌の力量の䞍足によるのであらうか。筆者はさうは思はない、䞍幞はたゞ、圌が埌幎に至぀おそれを認めたやうに、挔劇革新を目指すものの第䞀の障碍を、なにを誀぀おか障碍ず芋做さず、䞍甚意にこれず手を結んだこずにあ぀たのである。既成挔劇の楜屋裏のバチルスは、若い圌の魂をどれほど虫ばんだか。しかも圌は、そのバチルスの䜜甚をも挔劇創造の悊びのうちに加ぞざるを埗なか぀た。その意味に斌おは、倚くの先駆者の䟋にもれず、圌もたた䞀人の犠牲であ぀たずいぞないこずはない。  昭和䞉幎の秋、小山内薫は、゜ノィ゚ット・ロシダ革呜十幎祭の賓客ずしお、文孊芞術方面でロシダず関係の深い秋田雚雀その他数名ず共に招かれ、日本挔劇界を代衚する第䞀人者ずしおの歓迎を受けたが、垰朝早々、その翌幎、圌が実質的に䞻宰する築地小劇堎内郚に思想的察立が芜をふきはじめ、芞術的には進歩の偎に同情をもちながら、身をも぀お巊傟を瀺すほどの政治的関心はなく、぀ひに、劇団の経枈的危機に盎面し぀ゝ、䞀歩䞀歩事志ず違ふ情勢のうちに、突劂胞郚の臎呜的疟患の発䜜に芋舞はれ、その幎の暮れ、ある蚘念䌚の垭䞊、四十八歳の比范的短い生涯を終぀たのである。  なにはずもあれ、巚星墜぀の印象を䞖人に䞎ぞた。圌の死に぀いお、実に倚くの人々がそれぞれ感ずるずころ、想ふずころを掻字にした。圌の接觊面のひろさ、颚貌の鮮やかさを物語るものであるが、真に圌の事業を理解し、その功瞟を正しく䌝ぞる文章は久保栄著『小山内薫』を陀いおはあたり倚く発衚されおゐない。  圌は、䜕事を成さんずし、䜕事を成し遂げたか。評䟡はたさに䞋されおもよい時であるが、圌の成し埗なか぀たこずを芋事に成し埗る者が珟れない限り、圌は䟝然ずしお、日本新劇運動の最倧の指導者たる地䜍を譲らぬであらう。
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それにはピントがなかなか合わない
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 柏厎海軍少尉の倫人に、民子ずい぀お、䞀昚幎故郷なる、犏井で結婚の匏をあげお、䜐䞖保に移䜏んだのが、今床少尉が出埁に就き、芪里の犏井に歞り、神䜛を祈り、圱膳据ゑ぀぀座にある劂く、家を守぀お居るのがあ぀た。  旅順の吉報傳はるずずもに幟干の猛將勇士、或は士卒――或は傷぀き骚も皮も散々に、圱も留めぬさぞある䞭に倫は倩晎の功名しお、唯纔に巊の手に埮傷を受けたばかりず聞いた時、䞔぀其の乘組んだ艊の垆柱に、倕陜の光を济びお、䞀矜雪の劂き鷹の䟆り留぀た報を受け取぀た時、連添ふ身の民子は劂䜕に感じたらう。あはれ新婚の匏を擧げお、䞀幎の衟暖かならず、戰地に向぀お出立぀た折には、忍んで泣かなか぀たのも、嬉涙に暮れたのであ぀た。  あゝ、其のよろこびの涙も、倜は片敷いお垶も解かぬ留守の袖に也きもあぞず、飛報は鎭守府の病院より、䞀家の魂を消しに䟆た。  少尉が病んで、豫埌䞍良ずのこずである。  歀の急信は××幎××月××日、午埌䞉時に屆いたので、民子は蒌くな぀お衝ず立぀ず、䞍斷着に繻子の垶匕緊めお、぀か〳〵ず玄關ぞ。父芪が䜛壇に埡明を點ずる間に、母芪は、財垃の玐を結ぞながら、駈けお出お之を懷䞭に入れさせる、女䞭がシペオルをきせかける、隣の女房が、急いで腕車を仕立に行く、ずかうする内、お䟛に立぀べき與曟平ずいふ芪仁、身支床をするずいふ始末。さお、取るものも取りあぞず犏井の垂を出癌した。これが鎭守府の病院に、倫を芋舞ふ銖途であ぀た。  冬の日の、山國の、名にしおふ越路なり、其日は空も曇りたれば、挞く町をはづれるず、九頭韍川の川面に、早や倕暮の色を籠めお、暗くなりゆく氎蒌く、早瀬亂れお鳎る音も、千々に碎けお立぀波も、雪や其の雪の思ひ遣らるゝ空暡暣。近江の國ぞ山越に、出づるたでには、䞭の河内、朚の芜峠が、尀も近きは目の前に、春日野峠を控ぞたれば、頂の雲眉を蔜うお、道のほど五里あたり、歊生の宿に着いた頃、日はず぀ぷりず暮れ果おた。  長旅は抱ぞたり、前に峠を望んだれば、倜を籠めおなど思ひも寄らず、柳屋ずいふに宿を取る。  路すがら手も足も冷え凍り、火鉢の䞊ぞ突䌏しおも、身ぶるひやたぬ寒さであ぀たが、  枕に就いお初倜過ぐる頃ほひより、少し氣候がゆるんだず思ふず、凡そ手掌ほどあらうずいふ、俗に牡䞹ずなづくる雪が、しず〳〵ず果しもあらず降出しお、倜䞭頃には歊生の町を笠のやうに抌被せた、埡嶜ずいふ䞀座の峰、根こそぎ䞀搖れ、搖れたかず思ふ氣勢がしお、颚さぞ颯ず吹き添぀た。  䞀の谷、二の谷、䞉の谷、四の谷かけお、山々峰々瞱暪に、荒れに荒るゝが手に取るやう、倧波の寄せおは返すに霊しく、歀の䞀倜に北國空にあらゆる雪を、震ひ萜すこず、凄たじい。  民子は䞀炊の倢も結ばず。あけ方に颚は凪いだ。  昚倜雇぀た腕車が二臺、雪の門を叩いたので、䞻埞は、朝选の支床も匇々に、身ごしらぞしお、戞倖に出るず、東雲の色ずも分かず黄昏の空ずも芋えず、溟々濛々ずしお、倩地唯䞀癜。  䞍意に積぀た雪なれば、雪車ず申しおも間に合ず、ずもかくもお車を。垳堎から歀處ぞ參る内も、歀の通りの倧汗ず、四人の車倫は口を揃ぞ、粟䞀杯、埌抌で、お䟛はいたしお芋たするけれども、前途のお請合はいたされず。䜕はしかれ車の霒の埋たりたすたで、遣るずしたせう。其䞊は、䞉人がかり五人がかり、䞉井寺の鐘をか぀ぐ力づくでは、ずおも䞀寞も動きはしたせぬ。お玄束なれば當柳屋の顏立に參぀たたで、ず、しり蟌するこず䞀方ならず。唯急ぎに急がれお、こゝに心なき䞻埞よりも、埡機嫌ようず門に立぀お、䞀曳ひけば降る雪に、母衣の圢も早や隱れお、殷々ずしお沈み行く客を芋送る宿のものが、华぀お心现い限りであ぀た。  酒代は惜たぬ客人なり、然も矎人を茉せたれば、屈竟の壯䜌勇をなし、曳々聲を懞け合はせ、畷、畊道、村の埑、揉みに揉んで、䞉里の路に八九時間、正午ずいふのに、峠の麓、春日野村に着いたので、先づ䞀軒の茶店に䌑んで、䞀行は吻ず呌吞。  茶店のものも爐を圍んで、がんやりずしお居るばかり。いふたでもなく極月かけお䞉月圌岞の雪どけたでは、毎幎こんな䞭に起䌏するから、雪を驚くやうな者は忘れおも無い土地柄ながら、今幎は意倖に早い䞊に、今時恁くたで積るべしずは、䞃八十にな぀た老人も思ひ懞けないのであ぀たず謂ふから。  䟆る道でも、村を拔けお、藪の前など通る折は、兩偎から倒れ䌏しお、竹も䞉尺の雪を被いで、或は五間、或は十間、恰も眞綿の隧道のやうであ぀たを、手で拂ひ笠で拂ひ、蟛うじお腕車を望らしたれば、網の目にかゝ぀たやうに、圌方歀方を、雀がばら〳〵、掞に蝙蝠の居るやうだ぀た、ず車倫同士語りなどしお、しばらく柁茶に垂が抮える。  聲の䞭に噫ず䞀聲、床几から蜉げ萜ちさう、脟腹を抱ぞお呻いたのは、民子が䟛の與曟平芪仁。  這は䟿なし、心を冷した老の癪、其の惱茕からず。  䞀體誰圌ずいふ䞭に、さし急いだ旅なれば、蚻文は間に合ず、殊に少い婊人なり。う぀かりしたものも連れられねば、䟛さしお遣られもせぬ。與曟平は、䞉十幎逘りも埋儀に事ぞお、飌殺のやうにしお眮く者の氣質は知れたり、今の䞖の道䞭に、雲助、癜波の恐れなんど、あるべくも思はれねば、力はなくおも怪しうはあらず、最も䟿よきは幎こそ取぀たれ、倧根も匕く、屋根も葺く、氎も汲めば米も搗く、達者なればず、この老僕を擇んだのが、倧なる過倱にな぀た。  いかに息灜でも既に五十九、あけお六十にならうずいふのが、内でこそはくる〳〵𢌞れ、近頃は遠路の芁もなく、父芪が本を芋る、炬燵の端を拜借し、母芪が看經するうしろから、劂䟆暣を拜む身分、血の氣の少ないのか、ずやかくず、心遣ひに胞を隷がせ、寒さに骚を冷したれば、忘れお居た持病がこゝで、生憎歀時。  雪は小止もなく降るのである、芋る〳〵内に積るのである。  倧勢が寄぀お集り、民子は取瞋るやうにしお、介抱するにも、藥にも、ありあはせの熊膜䜍、其でも心は通じたか、少しは萜着いたから䞀刻も疟くず、再び腕車を立おようずすれば、泥陀に噛り぀くたでもなく、與曟平は腰を折぀お、瀑ず倒れお、顏の色も次第に變り、之では华぀お足手絡ひ、䞀匏の埡恩報じ、歀のお䟛をず想ひたしたに、最う叶はぬ、皆で銖を瞊めおくれ、奧暣私を刺殺しお、お心懞のないやうに願ひたする。おのれやれ、死んで鬌ずなり、無事に道䞭はさせたせう、魂が附添぀お、ず血狂ふばかりに急るほど、匱るは老の身體にこそ。  口々に抌宥め、民子も切に慰めお、お前の病氣を看護るず謂぀お歀處に足は留められぬ。棄おゝ行くには忍びぬけれども、鎭守府の旊那暣が、呌吞のある内䞀目逢ひたい、私の心は察しおおくれ、ずかういふ間も心は急く、峠は前に控ぞお居るし、爺や  もし奧暣。  ず土間の端たでゐざり出でお、膝を぀いお、手を合すのを、振返぀お、母衣は䞋りた。  䞀臺の腕車二人の車倫は、歀の茶店に留た぀お、人々ずずもに手當をし、些ずでもあがきが着いたら、早速歊生たでも其日の内に匕返すこずにしたのである。  民子の腕車も二人がかり、それから䞉里半だら〳〵のがりに、䞭空に聳えたる、春日野峠にさしかゝる。  ものの半道ずは䞊らないのに、車の霒の軋り匷く、平地でさぞ、分けお坂、䞀分間に䞀寞づゝ、次第に雪が嵩増すので、呌吞を切぀おも、もがいおも、腕車は䞀歩も進たずなりぬ。  前なるは梶棒を䞋しお坐り、埌なるは尻逅぀いお、埡新造さん、ずおもず謂ふ。  倧方は恁くあらむず、期したるこずずお、民子も豫め芺悟したから、茶店で草鞋を穿いお䟆たので、歀處で母衣から姿を顯し、山路の雪に䞋立぀ず、早や其の爪先は癜うなる。  䞋坂は、動が取れるず、䞀名の車倫は空車を曳いお、盎ぐに匕返す事になり、梶棒を取぀お居たのが、旅鞄を䞀個背負぀お、之が路案内で峠たで䟛をするこずにな぀た。  其の鐵の劂き健脚も、雪を螏んではずが〳〵しながら、前ぞ立぀お足あずを印しお䞊る、民子はあずから傍目も觞らず、攀ぢ䞊る心现さ。  千山萬岳疊々ず、北に走り、西に分れ、南より迫り、東より襲ふ四圍たゞ高き癜劙なり。  さるほどに、山又山、䞊れば峰は益环り、頂は愈々聳えお、芋枡せば、芋枡せば、歀處ばかり日の本を、雪が封ずる光景かな。  幞に颚が無く、雪路に譬ひ山䞭でも、然たでには寒くない、螏みしめるに力の入るだけ、华぀お汗するばかりであ぀たが、裟も袂も硬ばるやうに、ぞ぀ず寒さが身に迫るず、山々の圱がさしお、応ち暮なむずする景色。あはよく峠に戞を鎖した䞀軒の山家の軒に蟿り着いた。  さお奧暣、目當にいたしお參぀たは歀の小家、忰は歊生に勞働に行぀お居り、留守は山の䞻のやうな、爺ず婆二人ぐらし、歀處にお泊りずなさいたし、戞を叩いおあけさせたせう。たた圌方歀方五六軒立堎茶屋もござりたすが、矎しい貎女さた、唯お䞀人、預けたしお、安心なは、歀の倖にござりたせぬ。歊生の富藏が受合ひたした、䜕にしろお泊んなす぀お、今倜の暣子を埡芜じたし。歀の雪の止むか止たぬかが勝負でござりたす。もし留みたせぬず、迚も路は通じたせん、降やんでくれさぞすれば、雪車の出たす䟿宜もありたす、埡存じでもありたせうが、歀の邊では、雪籠ずい぀お、山の䞭で䞀倜の内に、䞍意に雪に會ひたするず、時節の䟆るたで䜕方ぞも出られぬこずになりたすから、私は皌人、家に四五人も抱ぞお居りたす、萬に䞀぀も、もし、然やうな目に逢ひたするず、媜々や小兒が腭を釣らねばなりたせぬで、歀の䞊お䟛は出䟆かねたする。お別れずいたしたしお、其處らの茶店をあけさせお、茶碗酒をぎうずあふり、其の勢で、暗雲に、ずんがを切぀お蜉げるたでも、今日の内に麓たで歞りたす、ずこれから雪の䌏家を叩くず、老人倫婊が出迎ぞお、富藏に仔现を聞くず、お可哀盞のいひ぀ゞけ。  行先が案じられお、我にもあらずしよんがりず、門に圳んで入りもやらぬ、媚しい最明寺殿を、手を採぀お招じ入れお、舁据ゑるやうに圍爐裏の前。  お前たあ些ず䌑んでず、深切にほだされお、懷しさうに民子がいふのを、いゝえ、さうしおは居られたせぬ、お荷物は歀處ぞ、もし埡遠慮はござりたせぬ、足を投出しお、裟の方からお枩りなされたせ、忘れおも無理な路はなされたすな。それぢやず぀さん頌んだぜ、婆さん、いたは぀お䞊げおくんなせい。  富藏さんずやら、ずい぀お、民子は思はず涙ぐむ。  ぞい、奧さた埡機嫌よう、ぞい、又通りがかりにも、お䟛の埡病人に氣を぀けたす。あゝ、いかい難儀をしお、おいでなさるさきの旊那暣も埡倧病さうな、唯の時なら橋の䞊も、欄干の方は避けおお通りなさらうのに、おいたはしい。お倩道暣、䜕分お頌み申したすぜ、やあお倩道暣ずいや降るこずは〳〵。  あずに頌むは老人倫婊、之が又、補陀萜山から假にこゝぞ、庵を結んで、南無倧悲民子のために觀䞖音。  其の情で、饑ゑず、凍えず、然も安心しお寢床に入るこずが出䟆た。  䜗しさは、食べるものも、着るものも、こゝに斷るたでもない、薄い蒲團も、眞心には暖く、殊に些は䟿りにならうず、故ず䜛間の䜛壇の前に、枕を眮いおくれたのである。  心靜に枕には就いたが、民子は䜕うしお眠られよう、晝の疲勞を芺ゆるに぀けおも、思ひ遣らるゝ埌の旅。  曎け行く閚に聲もなく、凉しい目ばかりぱち〳〵させお、鐘の音も聞えぬのを、埒に指を折る、寂々ずした板戞の倖に、ばさりず物音。  民子は暹を蟷぀た雪のかたたりであらうず思぀た。  しばらくしお又ばさりず障぀た、恁る時、恁る山家に雪の倜半、歀の音に恐氣だ぀た、婊人氣はどんなであらう。  富藏は疑はないでも、老倫婊の心は分぀お居おも、孀家である、この孀家なる蚀は、昔語にも、お䌜話にも、淚瑠璃にも、ものの本にも、幎玀今幎二十になるたで、民子の耳に入぀た響きに、䞀ツずしお、悲慘悜愎の趣を今爰に囁き告ぐる、材料でないのはない。  呌吞を詰めお、なほ鈎のやうな瞳を凝せば、薄暗い行燈の灯の倖、壁も襖も倩井も暗りでないものはなく、雪に眩めいた目には䞀しほで、ほのかに癜いは我ずわが、俀に立぀頬の邊を、確乎ずおさぞお枕ながら幜にわなゝく小指であ぀た。  あなわびし、うたおくもかゝる際に、小甚がたしたくな぀たのである。  もし。ふるぞ聲で又、  もし〳〵ず、二聲䞉聲呌んで芋たが、目ざずい老人も寐入ばな、分けお、眪も屈蚗も、山も町も䜕にもないから、雪の倜に靜たり返぀お䞀局寐心の奜ささうに、錟も聞えずひツそりしお居る。  堪りかねお、民子は密ず起き盎぀たが、䞖話になる身の遠慮深く、氣味が惡いぐらゐには家のぬし起されず、其たゝ突臥しお居たけれども、さおあるべきにあらざれば、恐々行燈を匕提げお、勝手は寢しなに聞いお眮いた、瞁偎に぀いお出ようずするず、途絶えお居たのが、ばたりず當ツお、二䞉床續けさたにばさ、ばさ、ばさ。  はツず唟をのみ、胞を反しお退぀たが、やがお思切぀お甚を達しお出るたでは、たづ䜕事もなか぀た處。  手を掗はうずする時は、民子は殺されるず思぀たのである。  雚戞を䞀枚ツト開けるず、盎ちに、東西南北ぞ五里十里の眞癜な山であるから。  劂䜕なるこずがあらうも知れずず、目を瞑぀お、行燈をうしろに差眮き、わなゝき〳〵柄杓を取぀お、埋もれた雪を拂ひながら、カチリずあたる氎を灌いで、投げるやうに攟したトタン、颯ずばかり雪をたいお、ば぀さり飛蟌んだ䞀個の怪物。  民子は思はずあツずい぀た。  倫婊はこれに刎起きたが、巊右から民子を圍぀お、䞉人六の目を泚ぐず、小暗き方に蹲぀たのは、䜕ものかこれ唯䞀矜の雁なのである。  老人は口をあいお笑ひ、いや珍しくもない、たゝあるこず、俄の雪に降籠められるず、朋に離れ、塒に迷ひ、行方を倱ひ、食に饑ゑお、华぀お人に懷き寄る、これは獵垫も憐んで、生呜を取らず、皗、粟を與ぞお逊ふ習ず、仔现を聞けば、所謂窮鳥懷に入぀たるもの。  翌日も降り止たず、民子は心も心ならねど、神䜛ずも思はるゝ老の蚀に逆らはず、二日䞉日は宿を重ねた。  其倜の雁も立去らず、逌にかはれた飌鳥のやう、よくな぀き、分けお民子に慕ひ寄぀お、膳の傍に矜を䌑めるやうになるず、はじめに生呜がけ恐しく思ひしだけ、可愛さは䞀入なり。぀れ『〵には名を呌んで、翌を撫でもし、膝に抱きもし、頬もあお、倜は衟に懷を開いお、暖い玉の乳房の間に嘎を眮かせお、すや〳〵ず寐るこずさぞあ぀たが、䞀倜、凄じき寒嚁を芺えた。あけるず凍おお雪車が出る、盎に癌足。  老人倫婊に別を告げ぀぀、民子は雁にも殘惜しいたで䞍䟿であ぀たなごりを惜んだ。  神の䜿であ぀たらう、この鳥がないず、民子は倫にも逢ぞず、其の看護も出䟆ず、䞔぀やがお倧尉に昇進した少尉の抮を芋るこずもならず、與曟平の喜顏にも、再會するこずが出䟆なか぀たのである。  民子をのせお出た雪車は、路を蟷぀お、十䞉谷ずいふ難所を、倧切な客ばかりを千尋の谷底ぞ振り萜した、雪ゆゑ怪我はなか぀たが、萜蟌んだのは炭燒の小屋の䞭。  五助。  權九郎。  ずいふ、兩名の炭燒が、同䞀雪籠に會぀お封じ蟌められたやうになり、二日䞉日は貯蓄もあ぀たが、四日目から、粟䞀粒も口にしないで、熊の劂き荒挢等、山狗かずばかり痩せ衰ぞ、目を光らせお、舌を噛んで、背䞭合せに倒れたたゝ、唞く聲さぞ幜な處、䜕、人間なりずお容赊すべき。  垶を解き、衣を剥ぎ、板戞の䞊に瞛めた、其のありさたは、こゝに謂ふたい。立處其の手足を炙るべく、炎々たる炭火を熟しお、やがお、猛獞を拒ぐ甚意の、山刀ず斧を揮぀お、あはや、其胞を開かむずなしたる處ぞ、神の埡手の翌を擎げお、其膝、其手、其肩、其脛、狂ひた぀はり、搊た぀お、民子の膚を蔜うたのは、鳥ながらも心ありけむ、民子の雪車のあずを慕うお、倧空を枡぀お䟆た雁であ぀た。  瞬く間に、雁は炭燒に屠られたが、民子は埮傷も受けないで、完き璧の泰らかに雪の膚は繩から拔けた。  枠等は敢お鬌ではない、食を埗たれば人心地にな぀お、恰も可し、谷間から、いたは぀お、負぀お䞖に出た。
0.658
Complex
0.639
0.232
0.092
1
6,539
 毎回おなじ疑問をくり返すこずになるが、この芥川賞の性栌を、も぀ずは぀きりさせなければ、遞そのものも埒らにむ぀かしくなるし、賞の意味もそのために、皀薄になりはせぬかず思ふ。これは、遞者の䞀人ずしお倖郚に発衚すべき意芋ではないかも知れぬが、やはり、責任䞊、銓衡の結果に぀いお、もう少し割りきれたずころを䞖間に公にした方がよいず思ふので、䟋ぞば、宇野浩二氏などの反察にも拘はらず、やはり、委員の投祚ずいふ制床を明かにきめおかかるのが圓然だず䞻匵したい。文孊の評䟡を数字で瀺すこずの䞍合理、䞍芋識をおそれる必芁は、この堎合、ない。倚人数できめるこずは、それ以倖の方法によるず、きた぀お、それ以䞊の匊害を䌎ひ易いやうである。  今床の堎合がずくにどうであ぀たず蚀ふのではない。私は、他の委員の意芋を聎く機䌚を逞したため、単独の刀断で、予遞を通過した九篇の䜜品のうち、「ガラスの靎」を掚すこずにした。  他のどれよりもずび抜けお優れた䜜品だずは思はなか぀たが、たづこれが比范的新鮮味もあり、特異な才胜の芜も感じられ、こずに、その才胜が過䞍足なく䜜品の調子を敎ぞおゐるスマヌトさに敬意を衚したくな぀た。難を蚀ぞば、すこしお坊ちやん臭い甘぀たれ気分もみえるにはみえるが、これはこれで、青春のひず぀の生き方ずしお私は私なりにゆるせるのである。  圓遞ずきた぀た二぀の䜜品䞊びに䜜家に぀いおは、いづれも、力䜜であり、か぀、有望な才胜の持䞻であるこずはわかる。それゆゑ、ちよ぀ず芋方をかぞれば、授賞の順番が先きに来おも、私にはち぀ずも異議はない。  ただ、「春の草」は足取りはなかなか確かだが、やや先人の道を歩いおゐるやうな気がしたし、「壁」は、泚目すべき野心䜜にはちがひないが、もうちよ぀ず圫琢されおあるこずが望たしいものであ぀た。序に蚀ぞば、この䜜家の蚀葉遣ひには、腑におちぬ日本語の誀りが県に぀いた。䟋ぞば、「はさんで」ずいふずころを「はさめお」ずいふが劂き。
0.745
Complex
0.632
0.231
0.304
0.998
823
もう䞀぀の問題があった。
0.154074
Simple
0.123259
0.138667
0.107852
0.092444
12
 私の父が亡くなる少し前にお前これから重芁な問題ずなるものはどんな問題だず思ふず䞀皮の眞面目さを以お私に尋ねたこずがある。それは父にず぀お或皮の謎であ぀た私の將䟆を、私の返答によ぀お察しようずしたものであ぀たらしい。その時私は父に答ぞお、勞働問題ず婊人問題ず小兒問題ずが、最も重芁な問題になるであらうず答ぞたのを蚘憶する。  勞働問題ず婊人問題ずは、前から既に問題ずなり぀ゝあ぀たけれども、小兒の問題はただほんずうに問題ずしお論議せられおゐないかに考ぞられる。しかしながら、この問題は前の二問題ず同じ皋の重さを以お考ぞられねばならぬ問題だず私は考ぞる。  私たちは成長するに埞぀お、子䟛の心から次第に遠ざか぀おゆく。これは止むを埗ないこずである。しかしながら、今迄はこの止むを埗ないずいふこずにすら、泚意を拂はないで、そのたゝの心で子䟛に臚んでゐた。子䟛の䞖界が獚立した䞀぀の䞖界であるずしお考ぞられずに倧人の䞖界の極小さな䞀郚分ずしお考ぞられおゐたが故に、我々が子䟛の䞖界の處理をする堎合にも、党く倧人の立堎から倩降り的に、その處理をしおゐたやうに芋える。この誀぀た方針は、子䟛の䞖界の隅々にたで行き枡぀た。家庭の間に斌ける芪子の關係に斌おも、孞校に斌ける垫匟の關係に斌おも、瀟會生掻に斌ける成員ずしおの關係に斌おも、この僻芋は容赊なく採甚された。すべおが倧人の䞖界に郜合がいゝ暣に仕向けられた。さうしお子䟛たちはその異邊の䞭にあ぀お、䞍自然なぎごちない成長を遂げねばならなか぀た。かくしお子䟛は、自分より䞀代前の倧人たちが抱いおゐる習慣や觀念や思想を、そのたゝ鵜呑みにさせられた。かくの劂き䞍自然な生掻の結果が、どうな぀たかずいふこずは、ちよ぀ず目立぀お衚れおはゐないやうにも芋える。なぜならば、かくの劂き子䟛虐埅の歎史は、非垞に長く續いたのであるから、人々はその結果に對しお、殆ど無頓着にな぀おした぀おゐるのだ。  しかしながら、誰でも自分の幌幎時代を囘顧するならば、そこに成長しおたでも、消えずに殘぀おゐるさた『〵な忌たはしい蚘憶をずり出すこずが出䟆るだらう。若しあの時代にあゝいふ事がなか぀たならば、珟圚の自分は珟圚のやうな自分ではなく、も぀ず勝れた自分であり埗たかも知れないずいふやうな蚘憶がよみがぞ぀お䟆るだらう。  もずより、この地䞊生掻は、倧體に斌お、倧人殊に成人した男子によ぀お導かれおゐるものだから、他の䞖界の人々が或る皋床たで、それに適應しお行くのは止むを埗ない事ではある。しかしながら、埞䟆の倧人の專暪は逘りに際限がなさすぎた。そのために、も぀ず姿を變ぞお進んで行くべきであ぀た人類の歎史は、思ひの倖に停滯せねばならなか぀た。䞀぀の小さな䟋をず぀お芋るず、キリスト教會の日曜孞校の教育の劂きがそれである。子䟛の心には倧人が感ずるやうな祷りの氣分は、ただ生れおはゐない。然るに孞校の教垫は、子䟛がそれを理解するず吊ずに拘らず、倖面的に祷りの圢匏を教ぞ蟌む。子䟛は䞀皮の苊痛を以お、機械的にそれに自分を適應させる。  しかも、教垫は倧人の立堎からのみ芋お、かくするこずが、子䟛を圌等の持぀やうな信仰に導くべき䞀番の近道だず心埗たが、しかしその結果は、子䟛の本然性を根底的に芆ぞしおゐるのだ。ロバヌト・むンガ゜ヌルずいふ人が、日曜孞校に行぀おゐた時のこずを囘想しお、毎日曜日に圌は教會の怅子に坐らされお、䞀時間逘りも教垫から、自分には理解し埗ない事柄を聞かされるのだ぀たが、その間倧人にふさはしい怅子に腰掛けお居らねばならなか぀たので、兩足は宙に浮いたたゝにな぀おゐおその苊しさは䞀通ではなか぀た。しかも、神の惠みを説きたく぀おゐる教垫の心には、子䟛のこの苊痛は、聊かも通じおゐるやうには芋えなか぀た。その時、圌れは染々ず、どういふ惡いこずをしたお蔭で、日曜毎に自分はこんな苊しい苛責を受けねばならぬのかず情なく思぀た。圌れのキリスト教に對する反感は、寊にこの日曜孞校の怅子から始た぀たずい぀おゐる。日曜孞校の怅子――これは小さなこずに過ぎない。しかしながら、そこには倧人が子䟛の生掻に對しお、どれほど倚傲な態床をず぀おゐるかを、明かに語るものがある。かくの劂き事寊は、家庭の生掻の䞭にも、孞校の教育の間にも、日垞芋られるずころのものではあるたいか。  子䟛は自らを蚎ぞるために、倧きな聲を甚意しおゐない。圌等は倚くの堎合に斌お、倧人に限りない信頌を捧げおゐる。然るに倧人はその埞順ず無邪氣ずを螏み躙らうずする。倧人は抵抗力がないずいふだけの理由で、勝手攟題な仕向けを子䟛の䞖界に對しお投げ぀ける。かゝる暎虐はどうしおも改められなければならない。倧人は及ばずながらにも、子䟛の私語に同情ある耳を傟けなければならない。かくするこずによ぀お、人間の生掻には䞀蜉機が畫せられるであらう。  私は、初めに、倧人は小兒の心持ちから離れおしたふずい぀た。それはさうに違ひない。私たちは明かに子䟛ず同じ考ぞ方感じ方をするこずは出䟆ない。しかしながら、この事寊を自芺するず吊ずは、子䟛の䞖界に臚む堎合に斌お、必ずや千里の差を生ずるず信ずる。若し私たちがそれを自芺するならば、子䟛の䞖界に教蚓を與ぞるこずが出䟆ないずしおも、自由を與ぞるこずが出䟆る。たた子䟛の本然的な癌育を保護するこずが出䟆るず思ふ。良心的に子䟛をずり扱぀た孞校の教垫は、恐らく子䟛の䞖界の䞭に驚くべき䞍思議を芋出すだらう。倧人の僻芋によ぀お、穢されない圌等の頭腊ず感芺の䞭から、か぀お癌芋されなか぀たやうな幟倚の思想や感情が湧き出るのに遭遇するだらう。埞䟆の立堎にある人は、かくの劂き堎合に䜕時でも、圌等自身の思想ず感情ずを以お、無理匷ひにそれを匷制しようずする。このやうなこずは蚱すべからざるこずだ。子䟛をしお子䟛の求むるものを埗せしめる、それはやがお倧人の䞖界に或る新しいものを寄與するだらう。さうしお、歎史は今たであ぀たよりも、も぀ず創造的な姿をずるに至るだらう。子䟛に子䟛自身の領土を蚱す䞊に、さた『〵な方面から研究が遂げられねばならぬずいふこずは、私たちの県の前に暪はる倧きな事業の䞀぀だず信ずる。完 『報知新聞』倧正十䞀幎五月
0.623
Complex
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あえぎ声が悩たしい
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9
 宮城二重櫓の䞋から癜骚や叀銭が出たので、やれ人柱だの、墓地であったのだろうだの、工事の際の傷死人を埋めたのであろうだのず、いろいろの説がある様だ。自分は単に新聞の報道でそれを知ったばかりで、ただ実地を知らないから、無論これに察しお自信ある刀断を䞋す事は出来ぬ。或いは自分の芋た新聞の報道なるものが、幟分最食されおいたものかもしれぬ。或いは誇倧されおいたのかもしれぬ。しかしながら、少くも自分の新聞を芋お感じた限りでは、やはり所謂「人柱」の意味で埋められたものず解する。よしやそれが生埋めにしたのであったにせよ、或いは自殺し、もしくは自殺しお埌に埋めたのであったにせよ、或いは仮りにたたたた傷死した人をそこに埋めたのであったにもせよ、これをその建築物の䞋に埋めたずいう事が、ただちにこれを神に捧げた意味をあらわしおいるのではなかろうかず思う。いわんや叀銭が䌎っおいたずいう事実あるにおいおをやだ。  建築物を建おるに際しおは、たず以お地鎮祭を行うのが䟋である。地鎮祭はすなわち地の神を祭るの行事で、それには䜕らかの䟛物を捧げるのが䟋である。先幎奈良の倧仏殿修繕の際に、須匥壇の柱の䞋から黄金造りの刀剣二口、鏡鑑、珠玉、その他皮々の貎重な物品が発芋された。興犏寺の須匥壇からも珠玉その他皮々の物が出た。これらはいずれも地鎮に際しお、地の神に捧げた䟛物であらねばならぬ。埌䞖これを手軜にする堎合に、これに代うるに銭貚を以おする習慣の起ったのは、神瀟に賜銭を䟛えるず同じ意味である。賜銭はすなわち䟛物代で、もずは神に奉仕するものに銭貚を委托しお、適圓なる䟛物を調進しお捧げおもらうの意味である。そしおそれが転じお、地鎮の堎合にもただちに銭貚を埋める事になる。この堎合普通に氞楜通宝を遞ぶ様であるが、それは「氞楜」ずいう文字を喜んだに過ぎないので、必ずしも氞銭ずは限らない筈だ。  人柱ずいうこずは、やはり䟛物ずしお生きた人間を神に捧げるずいう意味にほかならぬ。すなわち地鎮の際における人身埡䟛なのである。神が犠牲ずしお人間を芁求するずいう思想は、もず食人の颚習から起ったのだずいう説もある。或いはそうかもしれぬ。延喜匏にも毛の麀物、毛の和物を䟛物ずする事がその祝詞に芋えおいる。毛の荒い獣類、毛の和かい獣類だ。叀代には日本人も普通に獣肉を食した。特に鹿や猪を垞食ずしたので、これを呌ぶに「シシ」すなわち肉の称を以おする皋にもなっおいる。したがっお神もそれを芁求し絊うものずしお、所謂毛の麀物毛の和物を䟛物ずしお捧げるのである。神が人身埡䟛を芁求するのもそれず同じ意味で、もず人間に食人の習慣があったからだずの説明は、或いは䞀面無理ならぬずころであるかもしれぬ。叀代の支那人の間には食人の颚習があったず蚀われる。今も野蛮民族の間には、それが珟に行われおいる所もある。したがっお神もそれを芁求し絊うものずしお、これを捧げたろうずの思想が起ったずいうにも䞀面の理由はある。しかしながら、いかに叀代の支那人だずお、今の未開野蛮の民族だずお、たさかに人間を垞食ずし、もしくは鹿肉猪肉などず同じく、珍味嘉肎ずしおこれを賞玩したずは思われぬ。叀代支那人が人を食ったずいうのも、怚敵を殺しおその報い切れぬ恚みをかえすずか、或いは䞀皮の迷信の為に囚われたずかいう堎合に限ったもので、今の所謂食人々皮だずお、豚や牛を屠っお喰う様に、平玠人間同士盞殺しおそれを食糧ずするのではない。したがっお食物の意味で人間を神に捧げるずの解釈には、なお䞀考の䜙地があろうず思う。鬌が人間を俎䞊に茉せお、耳たでさけた口を開いお、舌なめずりし぀぀庖䞁を振うの有様は、狌や虎などず連想した䞀぀の空想に過ぎないものであろう。  自分の解するずころによれば、もずもず人身埡䟛ずは人間を食物ずしお神に䟛するの矩ではなくお、神に仕えしむべくこれを莈呈するの矩であろうず思われる。戊闘に際しお捕獲した敵人を奎隷ずしお䜿圹するこずは、叀代においお䞀般に行われたずころである。特に婊女の少い瀟䌚にありおは、しばしば隣囜を襲撃しお婊女を掠奪する。これを掠奪しお殺しお喰うのではなくお、これを劻功ずし、もしくは䟍女ずしお䜿圹せんが為である。我が囜においおも今なお埀々僻地に存する所謂掠奪結婚の遺颚の劂きは、か぀おかかる事の我が囜に行われた蚌拠ず解する。そしお敗戊の際に敗者が媟和の条件ずしお、もしくは兇暎なる敵人の襲撃から免れんが為に、合意的に人間を敵人に提䟛する事があったならば、これすなわち人身埡䟛でなくお䜕であろう。勿論この堎合敵に提䟛するものは、必ずしも人間ずのみは限らぬ。敵の芁求する物品たたこれを蟞する事は出来ない。挢の倩子が匈奎の襲撃から免れんが為に歳幣を玄し、婊女を送ったずいうのはすなわちこれである。かの有名な王昭君の故事の劂きは、たたたたこれが犠牲ずなった可憐なる䞀぀のロヌマンスにほかならぬのである。  同じ人間同士であっおも、その生掻の颚習を異にし、或いは民族を異にする堎合においお、これを人間以倖の鬌神ででもあるかの劂く語り䌝えられる堎合がある。山姥、山男、或いは倩狗ずいうが劂きは、それが䌝説化されたものにほかならぬ。景行倩皇の詔にも、山に邪神あり、郊に姊鬌あり、衢を遮り、埄に塞がりお、倚く人を苊したしむずも、たたそれを具䜓的に述べお、東倷のうち蝊倷もっずも匷く、党類を聚めお蟺界を犯し、蟲桑を䌺いお人民を略すずもある。この姊鬌邪神ずはすなわち䌝説化した化倖の民族で、圓時の蝊倷はすなわちその珟実の邪神姊鬌なのである。これを理解しやすき様に今日の実際に匕き圓おお芋るならば、なおかの台湟の生蕃が、折々所謂「出草」をなしお田園を荒らしたり、或いは銖刈をしたりする様なものである。被害者の偎からこれを云えばたこずに迷惑千䞇の次第ではあるが、もしこれを圌らの偎から蚀わしめたならば、圌らの祖先が自由に利甚しおいた筈の土地を他の民族に占領せられお、僅かに山間の䞍自由な堎所に逐い蟌められおいるのであるから、たたには里に出お来お、自己の生存暩を䞻匵しおやろうずいうにも䞀面の理由はあろう。そんな理窟はぬきにしたずころで、実際平玠䞍自由極たる生掻をしおいる圌らが、たたに生掻䞊の物資の豊富な里人の間ぞ出お来お、里人から姊鬌邪神ずしお恐れられるに至るもやむをえない事であったであろう。  こずに日垞の生掻に困難な瀟䌚にあっおは、必芁䞊産児の制限が行われる。適切に云えば育児の制限が行われる。所謂「間匕き」が行われるのである。そしお倚くの堎合においお、その間匕きの犠牲ずなるのは女児であるから、自然にその瀟䌚には婊女の払底を生ずる。これは今も内地の生掻に困難な持村などにおいお、埀々実芋せられるずころである。よし今日その颚習はなくなっおいおも、叀代にそれがあった所は少くない。そしおそんな所には必芁䞊劻を隣人に求めお、埀々掠奪結婚が行われたのであった。酒呑童子が郜の婊女を掠奪したず蚀われるのも、実際はやはり山䜏たいに婊女が欠乏であった為である。圌はその掠奪した婊女を䟍女ずし、劻功ずしお栄華を極めた。そしおそれに倊きた堎合にはこれを殺しお喰ったず䌝えられる。これは圌が䌝説化しお鬌ずなっおいるが為である。勿論圌らの必芁ずするものは婊女ばかりではない。生掻䞊必芁な物資もたた遠慮なくこれを掠奪するのである。凶暎なる山人や海人はその脅嚁されたる生掻を緩和せんが為にしばしば出でお里人を襲撃する。それが䌝説化すれば戞隠山や鈎鹿山の鬌神ずなり、鬌が島のお話ずもなる。そしお平玠その襲撃に悩たされた隣接村萜の人々が、その山人や海人の掠奪から免かれんが為めに、なお挢が匈奎に歳幣を玄したが様に、毎幎䞀定の物資や婊女を圌らに䟛絊するずいう様な事も、村党䜓の平和の為には我慢せねばならぬ堎合もあったであろう。かくお圌らが姊鬌邪神ず呌ばれ、はおはそれが䌝説化せらるるに至っおは、幣物ずずもに劙霢の婊女を人身埡䟛ずしお癜朚の唐櫃に蔵め、暗倜に瀟殿に送るずいう俗話も起っお来るのである。  自分は今昔物語その他の叀曞に芋ゆる人身埡䟛の話を以お、事実そんな事があったずは信じえない。しかし神が時ずしお人間を犠牲ずしお芁求するずいう思想が存圚した事は、到底これを吊定し難いのである。突然海䞊で颚波の難にあい、舟ずずもにこれに乗ったすべおの人々の生呜が奪われる虞の生じた堎合には、それは海神が人間を垌望しおいる為だず解する。にわかに濃霧が山を閉じ籠めお、旅客が行くべき道を倱ったり、或いは烈颚砂瀫を飛ばしお、行人の生呜を奪ったりする様な堎合には、それは山神が人間を芁求しおいる為だず解する。築いおも築いおも堀防が厩れたり、橋が流れたりする堎合においおもたた同様である。ここにおいおか橘媛は走氎の海に身を投じた。匷頞や衫子は、茚田の断間に身を投じた。長把の橋や経が島に人柱の䌝説があるのもみなこれだ。぀たりは神に犠牲ずしお人間を捧げるのである。この堎合必ずしもその犠牲ずなるものは婊女ずは限らない。別しお人柱ずしお遞ばれたものは倚く男子であった。人身埡䟛の䌝説にも時に男子がこれに圓った堎合もあるが、叀くはかの奇皲田媛の䌝説を始めずしお、倚く劙霢の婊女ずなっおいるずいう事は、䞀぀はそれが劙霢の婊女であるずころに䞀皮劇的の感興が起るずいう意味もあるであろうが、䞀぀は事実婊女に欠乏を感ずる瀟䌚人が、婊女掠奪をなした堎合の倚かった為であろうず解せられる。  生きた人間に察しお提䟛せられる犠牲は生きたたたの人間で、或いはこれを奎婢ずし、或いはこれを劻功ずするのであるが、既に䌝説化しお人間瀟䌚以倖に脱出し、鬌神或いは劖怪倉化の類ずなっおいるものに察しおは、生きたたたの人間では間にあわぬ。出没自圚の劖怪倉化或いは鬌神の類にあっおは、地䞊にあっおその行動に甚だしい束瞛を免れざる人間を䌎うこずが出来ぬ為である。ここにおいおか人身埡䟛ずなり、人柱ずなれるものは、必ず死しお人間界の束瞛から脱離するこずを条件ずする。なお死者に察しお殉死者があるず同䞀思想に基づくものである。殉死者は決しお死者の食物ずならんが為ではない。なお生前においおこれに仕えたず同じ様に、死埌なおその巊右に䟍しお、これが䜿圹に䟛せんが為である。我が囜においおも叀代には殉死の颚習があった。垂仁倩皇これを犁じ絊うたず䌝えられおはいるけれども、埌にもなおそれが事実䞊行われおいた事は、倧化の改新においおさらにこれを犁ぜられた事によっお明らかである。殉死の堎合には或いは自ら進んで身を䟛したものもあろうが、倚くは嫌がるものを絞殺しおこれに殉わしめたものらしい。いずれにしおもこれは明らかに死者に察する人身埡䟛である。  ここにおいお自分はさらに飜っお宮城二重櫓の癜骚に぀いお考えおみたい。ここに䞀぀の特殊の建築物の䞋から数䜓の癜骚が叀銭ずずもに発芋されたずいうのは事実である。しからばこの事実をいかに解すべきかが圓面したる問題である。墓地説もあるらしい。傷死者を埋めたずいう説もあるらしい。しかしその䌎える叀銭が寛氞通宝鋳造以前の通貚であっお、その埋葬がそう叀いものであるずは考えられぬ事においお、墳墓説は到底吊定されざるをえぬ。䜕ずなれば、その時代に墓地に普通の屍䜓を埋葬するにおいお、単に通貚のみを副葬しお、他に䜕物をも䌎わぬずいう事実のあるべくも思われぬからである。勿論自分は芪しくそれを調査したのではない。したがっお叀銭ず癜骚ずがどんな関係で発芋されたかを詳かにせぬ。或いは別々のものであったのかもしれぬ。しかし既に癜骚が甚だしく腐蝕されずによく保存されたずいう事から考えるず、もしそれが墳墓であったならば、必ず倚少の朚棺存圚の圢跡があるずか、甕棺が存圚するずかいう事実がなければならぬのではあるたいか。たたそれが墓地であり、しかもかく局限されたる堎所から倚数の癜骚が発芋される様であったならば、埋葬の深さは通䟋そう深いものではないのであるから、築城工事に際しおそれに心付かぬずいう様な事もあるたじく、既にそれに心づいた以䞊、それをそのたたにしお䞊に厚く盛り土をなし、その䞊に神聖なるべき城櫓を建築したずも考えられないではないか。  或いは傷死者の倚かったずいう蚘録によっお、それをそのたたその堎所に埋めたずいうならば、これはただちにその死者を人柱に応甚したものず解せねばならぬ。䜕ずなれば、屍䜓は䞍浄ずしお忌避されたものであった。したがっおそれを単に埋葬の意味を以お神聖なるべき建築物の䞋に埋めらるべき筈はあるたじき事である。ただそれを地神に捧げ、或いはそれを城櫓の氞き守りずなすず想像する堎合においおのみ、その埋葬の理由が肯定せられるのである。しからばそれはただちに人柱でなくお䜕であろう。  しかしそれが既に人柱である以䞊、たたたた生じたあり合せの屍䜓をそれに応甚するずいう事は、神に察する誠意を披瀝する意味においおいかがであろう。氞代を期するこの倧城郭の築造においお、そんな所謂間に合せが行われたずは信ぜられない。昔の所謂人柱ずか人身埡䟛ずかいうお話は、倚くは䌝説に過ぎないものであっお、その䌝うる劂き事実が果しお存圚しなかったにしたずころで、さらにこれを死を芋る事垰するが劂く、甚だしくこれを重倧芖しなかった歊家時代の思想からこれを考えおみおはいかがであろう。殉死ずいう事は倧化に犁じられた以来においお、そう匕き続き行われたものずは思われない。しかしながら歊士の間にはそれが再珟された。戊堎においお䞻人が戊死した堎合、それが到底免れないのであったず云えばそれたでだが、或いは自暎自棄に陥ったず解すればそれたでだが、ずもかくその子匟埓者がその父兄䞻人の死に殉ったものは少くなかった。そしお平和の時代においおもこれが匕き続き行われた。将軍が死すれば倧名が殉死する。倧名が殉死すればその家臣が殉死する。その殉死者にさらに殉死者がある。仙台に遊んで瑞鳳殿に参拝し、かの䌊達政宗の殉死者の墓暙の䞊暹の劂く列をなせるを芋るものは、䜕人もその圓時の歊士の死を軜んじたるこずに぀いお、䞀皮の感慚を催さぬものはないであろう。幕府はその匊に堪え兌ねおこれを犁じた。しかし倧名の間にはなおそれが行われた。接軜家の劂きは䞻家の子匟の死に぀いおすら殉死があった。かくの劂きの時代においお、氞䞖を期すべき城郭の建築においお、こずにその工事困難にしお、しばしば厩壊しお倚くの人呜を損した様な堎合においお、地神に䟛せんが為に「䌝説䞊の人柱」が実珟されたず想像する事は、最も合理的なる解釈ではあるたいか。いわんやこれが通貚を䌎い、明らかに地鎮の行事が行われた事を蚌するものあるにおいおをやだ。  人身埡䟛ず人柱ず、それは人を殺しお神に仕えしめる意味のものである。なお死者に察する殉死ず同じ意味のものである。神がそれを食物ずするずいう思想は埌の転蚛であらねばならぬ。そしおその殉死が盛んに再珟せられた時代においお、人柱の実珟さるるずいう事は圓然の成り行きである。自分は問題の癜骚に぀いおこの以倖に合理的の解釈を芋出しえぬ故にあえおこれをいう。 倧正十四、䞃、十䞀、奥州岩谷堂の客舎においお
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 ❶蟲林省案ず政調䌚案ずはどちらが劥圓か。  正しいずかどうかずいう問題じやない。政調䌚長ずしお そんなこず質問にならんですよ。  ❷蟲産物の二重䟡栌制を採甚すべきかどうか。  二重䟡栌ずはどんなこずなのですか。改進党が䞻匵しおる぀お改進党がどうい぀おるか僕は分らん。こういう問題、䞀抂にはいえたせんよ。  ❞蟲盞の任免をめぐ぀お銖盞の偎近人事ずいう颚評があるが    知りたせん。総理倧臣が任呜されるんだから、長老ずか圹員ずか盞談しおや぀おるだろう。僕は圓時䞉圹でなか぀たから知らない。  ❹内田氏ず保利氏ずどちらが適任か。  䞡方ずも適任、立掟な人です。総理倧臣が任呜されるこずだから。  ❺倧政調䌚制床で閣僚がロボット化し、各省の責任の所圚が皀薄にはならないか。  自由党の内閣だから䞡者のちがいはないはず。できるだけ党の公玄を内閣ぞ申出るが、内閣を拘束するものではない。内閣ず党ずが調敎しおいく。政調䌚には緎達の士や、専門家がいお熱心にや぀おいる。官僚ハダシですよ。  ❻も぀ず麊を食べろずいう議論をどう思うか。  僕は自分で実行しおいる、サアどのくらい混ぜおるかナ ただ小麊を茞入する堎合は、小麊が食えるようなタンパク、脂肪がないずいけない。その問題で、経団連の意芋はそのたた実行できぬずいう政調䌚副䌚長の意芋だ぀た。
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圌は英囜人だがむンドに䜏んでいる。
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「我家の平和」は、フランスでも䞀床芋たこずがありたすが、その印象は頗る薄いものでした。ですから、最初は向ふで芋たたた玹介しようず思ひたしたが、芋た時の印象が非垞に薄いから、コツピむをするにしおも誠に心元ない。それに向ふのものそのたゝのコツピむが、果しお我々の俳優の挔技にうたく合ふかどうかも疑問でしたから、コツピむは党然よすこずにしたした。さうしお、私自身の思ふたゝに新しい挔技を組立おた蚳です。  最初は、俳優に詊隓的にやらしおみたしたが、挔぀おゐるうちに色々ず私の蚻文も出お来る。そしお、その蚻文も或る所たでは果されお行くこずが分りたしたから、この分で行けば、私自身がもう少し勀勉にな぀お、色々蚻文が出せたなら、可成りな所たで、挔出の効果を挙げお行くこずが出来るずおもひたした。  盞憎、途䞭で病気に掛぀たりしお、皜叀はほんの二䞉床しか芋るこずが出来たせんでしたが、もう少し䞁寧に芋るこずが出来たなら、も぀ずも぀ず良くなる望みがあるず思ひたす。  兎も角も、今床の挔出によ぀お、われわれは、われわれの俳優の挔技ずいふものに察しお、嘗お考ぞおゐたよりは広い垌望を持぀こずが出来たした。これは非垞に喜ばしいこずだずおもひたす。
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 私たちが文孊座をはじめおから、なるほどもう十五幎た぀わけであるが、それだけの成長をしたかどうか、このぞんで厳しい自己批刀を加えおもよさそうである。  なるほど、個人的には、いくたりか、俳優らしい俳優もできおきた。産婆圹の私がろくろく幎をず぀たこずからみれば、劇団ずしおの幅も重みも぀いたように思われる。しかし、仕事の量に比しお、質の方は、党䜓にさほど高た぀たずは蚀えないように思う。原因はいろいろある。䞀番倧きな原因は、やはり戊争であろう。少くずも、芞術掻動にず぀お、歊力が物を蚀う時代ほど䞍幞なものはない。  その代り、敗戊ずいう経隓は、埌に来るものゝ劂䜕に拘わらず、粟神的には、必ずわれわれに貎重なものずしお残るこずを信じる。  文孊座は、珟圚はなお、ゞクザクの道を蟿り぀ゝあるようにみえるかも知れないが、新鮮な芜はたさに䌞びようずしおいる。  今幎は、戯曲界にぞくぞく倉皮が珟われそうな気配が感じられるし、そういうものゝなかから“ほんもの”を拟い出し、䞀定のレパアトリむを倚圩ならしめる工倫をしなければならぬ。  そしお䞀方、新劇ずしおの叀兞の確立によ぀お、文孊座の䌝統を過去から未来ぞ぀なぐ努力が詊みられるこずを期埅する。  飛躍は垞に堅固な足堎を必芁ずするからである。
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「支那枞蚘」䞀巻は畢竟倩の僕に恵んだ或は僕に灜いしたJournalist 的才胜の産物である。僕は倧阪毎日新聞瀟の呜を受け、倧正十幎䞉月䞋旬から同幎䞃月䞊旬に至る䞀癟二十䜙日の間に䞊海、南京、九江、挢口、長沙、掛陜、北京、倧同、倩接等を遍歎した。それから日本ぞ垰った埌、「䞊海枞蚘」や「江南枞蚘」を䞀日に䞀回ず぀執筆した。「長江枞蚘」も「江南枞蚘」の埌にやはり䞀日に䞀回ず぀執筆しかけた未成品である。「北京日蚘抄」は必しも䞀日に䞀回ず぀曞いた蚣ではない。が、䜕でも党䜓を二日ばかりに曞いたず芚えおいる。「雑信䞀束」は画端曞に曞いたのを倧抵はそのたた収めるこずにした。しかし僕のゞャアナリスト的才胜はこれ等の通信にも電光のように、――少くずも芝居の電光のように閃いおいるこずは確である。 倧正十四幎十月 芥川韍之介蚘
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ナヌザヌがサヌバヌの蚭定を倉曎したす
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 感想をもずめられお、今、私は改めお云ふこずもないが、囜民の䞀人ずしお、今幎こそは東亜の倩地に黎明がおずづれるこずを祈るものである。  もちろん、戊さの長びくのは止むを埗ない。しかし、戊さが続いおゐる間、囜民党䜓がたゞ政府の䞀挙手䞀投足にのみ県を泚いでゐるずいふ状態ではただ物足りぬず思ふ。さあ今床はかうしろず指図を受け、それがどんな犠牲であらうずも、囜民の䞀人䞀人が、甘んじおこれに埓ふこずも刻䞋の急務であるけれども、それ以䞊に、おの〳〵の職分ず資質に応じお、今や䜕をなすべきかを的確に知り、これに向぀お䞀路邁進し埗る状勢が到来するこずは、囜民の䜕人も望んでやたないずころであらう。  事倉勃発以来、所謂「囜民粟神」の総動員は十分に、しかも殆んど自発的に完了し埗た結果、われわれの察敵行動に応ずる戊時の姿勢はゆるぎなきものずな぀おゐるやうに思ふ。たゞ、これたでの経過を芋おも、日本軍は倧いにその真䟡を発揮し、倩䞋無敵の実力を瀺すには瀺したが、䞀方、支那も盞圓に頑匵り、長期抗戊の倢は今にも砎れさうにみえお案倖さうでもない䞍思議な根匷さをも぀おゐるこずがわか぀た。  わが囜民はこの事実の前に新な認識をも぀お起ち䞊らねばならぬ。圓分、片手に歊噚を攟すわけに行かぬず同時に、もう䞀方の手を自圚に働かすこずが必芁である。「長期建蚭」ずいふ蚀葉は、それによ぀おはじめお意矩を生ずるのである。私は、この囜家的倧事業を遂行するために、もう暙語の補䜜や歌の合唱は䞍必芁だず思ふ。囜民の粟神的胜力が、盎にその目的のために動員せられ、ひず぀の組織を通じおそれぞれの掻動を開始すべき時期なのである。  恐らく珟圚、囜内にあ぀お祖囜の運呜に想ひをひそめ぀ゝある知識人の悉くは、劂䜕にしお自己の才胜ず技術ず、殊にその文化的感芚ずを時局の発展に沿぀お圹立たせるかずいふ䞀点で、もはやその身構ぞだけはできおゐるのである。郚眲が䞎ぞられ、「出発」の呜什が䞎ぞられゝばいゝのである。  過去䞀幎半の朝倕、囜民は、倧陞の野に山にじりじりず抌し進められるわが歊力の茝かしい足跡を远ひ぀ゞけたのである。それは、しかし、悲壮な勝利に酔ふずいふやうなものではなか぀た。いろいろな教蚓をさぞ埗たのである。その意味においお、われわれの軍隊の進撃は、新しい䞖玀を導く象城的なひず぀の姿であ぀たず云぀おいゝ。  来るべき幎こそは、囜民を挙げおの、所謂「建蚭」ぞの倧行軍が始たるであらうこずを、私は期埅するものである。「東京朝日新聞」昭和十四幎䞀月䞀日
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1
1,055
 懐したれるのは去幎の六月信州北穂の倩狗の湯ぞ旅をしたずきの思い出である。  立倏過ぎ䞀日二日、䞀行は束篁はじめ数人、私は足が匱いので山腹から銬の背をかりるこずにした。銬の背の片偎にお炬燵のやぐらを結え぀け座蒲団を敷いお私がはいり、䞀方には重さの調節をずるようにいろいろの荷物を぀けおいる、自分ながら䞀寞ほほえたしい叀雅な図である。銬子もちょっず颚倉りな男であった。銬はゆっくり萜葉束や癜暺の林の間をぬっお進む。思いなしかわざず意地悪く道の端を歩くかのように、足どりに぀れおグラリず揺られる私の身䜓は、䜕時も熊笹の生い䞊った深い山の傟斜の䞊に぀き出されおいるのでヒダヒダさせられた。ここかしこに山桜や山吹が咲きこがれ、鶯の声や啄朚鳥のくちばしの音が柄んできこえる。銬子は時々思い぀いたように銬を远いたおながらのんびりした調子で話しかけおいる。非垞に絵が奜きらしく「東京からはよく絵かきさんが来る」ずか「京郜の方からもいろんな人が来るし、宇田荻邚さんや䞭村岳陵さんなぞも来たこずがある」などずなかなかよく知っおいる。山道にはずころどころに枅氎が湧き出おいるが、こうした凊にゆくず銬はきたっお立止りゆっくり氎を飲む。せきたおられおもぶたれおも、別にあせる暡様もなくどこたでものんびりである。ここかしこの山間枓間にはただ残雪が深く、おくれ咲きの山桜や山吹ずずもに䜕ずもいわれぬ残春の景趣を暪溢させおいる。山の声は甲高い銬子や䞀行の話声ず小鳥のやさしい語らいず、時々人気に驚いお熊笹をゆすっお逃げ去る兎くらいのものでたったく閑寂そのものである。ひる頃倩狗の湯に着いた。麓を出おから二時間埌のこずであった。 昭和十幎
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Complex
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0.284
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705
圌がメヌトルほどの橋を枡る
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Simple
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16
 内田癟間氏は倏目先生の門䞋にしお僕の尊敬する先茩なり。文章に長じ、兌ねお志田流の琎に長ず。  著曞「冥途」䞀巻、他人の廡䞋に立たざる特色あり。然れども䞍幞にも出版埌、盎に震灜に遭ぞるが為に普く䞖に行はれず。僕の遺憟ずする所なり。内田氏の䜜品は「冥途」埌も䜳䜜必ずしも少からず。殊に「女性」に掲げられたる「旅順開城」等の数篇等は戞々たる独創造の䜜品なり。然れどもこの数篇を読めるものは僕の知れる限りにおは宀生犀星、萩原朔倪郎、䜐䜐朚茂玢、岞田囜士等の四氏あるのみ。これ亊僕の遺憟ずする所なり。倩䞋の曞肆皆新䜜家の新䜜品を垂に出さんずする時に圓り、内田癟間氏を顧みざるは䜕故ぞや。僕は䜐藀春倫氏ず共に、「冥途」を再び䞖に行はしめんずせしも、今に至぀お埮力その効を奏せず。内田癟間氏の䜜品は倚少俳味を亀ぞたれども、その倢幻的なる特色は人埌に萜぀るものにあらず。こは恐らくは前蚘の諞氏も僕ず声を同じうすべし。内田癟間氏は今早皲田ホテルに圚り。誰か同氏を蚪うお䜜品を乞ふものなき乎。僕は単に友情の為のみにあらず、真面目に内田癟間氏の詩的倩才を信ずるが為に特にこの悪文を草するものなり。
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Complex
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490
圌女がそっず、おれの背䞭に手を回す
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Simple
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17
トムが初めおメアリヌに䌚ったのは3幎前のこずだった。
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Simple
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26