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|---|---|---|---|---|---|---|---|
文学の一部門たる戯曲が文学の大勢に従はない訳はない。それで「これからの戯曲」といふ問題は「これからの文学」が如何なるものであるかを解決することによつて、自ら明らかになる訳であるが、然し、それだけではまだ十分ではない。何となれば、文学の中でも、小説は小説、抒情詩は抒情詩、戯曲は戯曲で、それぞれ、ジャンル(様式)としての進化を遂げなければならないからである。故に、「これからの戯曲」は「これからの文学」なる一般特質を有つであらうと同時にその特質と並んで、別に一つの特質を示さなければならないことになるのである。
私は、与へられた問題を、かく狭義に解釈して、「これからの戯曲」が「これまでの戯曲」から、如何なる点で区別さるべきかを述べてみることにする。
先づ、それがためには、「これまでの戯曲」とはどんなものであるか、それをはつきりさせておかなければならないが、元来、旧いものといひ、新しいものといひ、その区別は批判者の立場によるものであることを注意しなければならない。私は、一方、眼を世界劇壇の大局に注ぎながら、しかもなほ自分の足を、飽くまでも日本現代の戯曲界の上に置くものである。それ故に欧米に於ては、既に「これまでの戯曲」に属するものにも、日本に於ては、十分「これからの戯曲」として認めらるべき様々の傾向があることを主張したいと思ふ。さうかといつて、これまでいろいろな機会に移入された欧米劇界の流行品が、悉く、日本に於ける「これからの戯曲」を暗示するものであるといふ考へ方にも与し難い。
そこで私は、今日、劇壇及び一般世間に通用してゐる所謂「戯曲」といふものの既成観念に対して「これからの戯曲」が、如何なる新しい道を指示するか、指示しようとしてゐるか、それだけのことを、いろいろの方面からやや具体的に列挙して見る。
一、「戯曲的」といふ言葉の内容が示す通り、従来、事件乃至心的葛藤の客観的形象を戯曲の本質と見做してゐたのであるが、古来の名戯曲が、よつて以てその名戯曲たる所以を発揮してゐた「美」の本質が、寧ろ、より主観的な、「魂の韻律」そのものにあることを発見して「これからの戯曲」は一層この点を強調する心象のオオケストラシヨンにあらゆる表現の技巧を競ふであらう。その結果「何事かを指し示す」戯曲より、「何ものかを感じさせる」戯曲へと遷つて行くであらう。この意味で、戯曲が次第に小説的になるといふ見方は当たらない。小説的になるといふよりも、寧ろ詩的になるのである。
公衆は、舞台に「物語」を要求する愚さを覚るであらう。「どうなるか」といふ興味につながれて幕の上るのを待たなくなるであらう。人物の一言一語、一挙一動が醸しだすイマアジュの重畳は恰も音楽の各ノオトが作り出す諧調に似た効果を生じることに気づくであらう。俳優の科白は、単に「筋」を伝へるものではなく、常に、ある「演劇的モメント」を蔵してゐることがわかるであらう。
戯曲家は、そこで初めて、真の芸術家となり得るのである。
一、活動写真の進歩は、演劇の領土を狭くしたことは事実である。演劇の眼にのみ訴へる部分は悉く活動写真といふ自由な表現形式に圧倒された観がある。この結果は、演劇に於ける「台詞」の位置を確立せしめた。演劇は、一層戯曲の言葉に頼らなければならなくなつた。この意味で「これからの戯曲」は、いはゆる「観るための演劇」より「聴くための演劇」に、より以上本質的価値を発揮しなければならないであらう。戯曲家は、ゆゑに、何よりも詩人たることを必要とする。
一、従来の戯曲作法は、成るべく場数を少くすることを教へた。
「これは五幕だが、三幕にまとめられるものだ」とか、「これを一幕に仕上げられないやうでは駄目だ」とかいふ批評さへ通用した。三幕八場、乃至五幕十二場といふやうなものもありはしたが、それらは、少くとも作劇術の標本にはなり得ない性質のものであつた。古くはシェイクスピイヤ、ミュッセ、さてはイプセンにさへ、場数の多いものはあるが、それらの戯曲は例外の如く取扱はれて来た。然るに、近頃、先駆的色彩を有する劇などに於て、屡々十場、二十場といふ戯曲が現はれ出した。これから益々この傾向が著しくなるであらう。これには色々理由もあるであらうが、ある人々の如くこれをもつて単に活動写真の影響なりとするのは些か早計である。
成るほど、映画的手法を漫然と取入れてゐる作家もあるにはあるだらうが、それよりもつと重大な原因がある。
第一に舞台装飾の最近傾向が、実写的克明さと浪漫的華美とをしりぞけて、専ら観念的、象徴的、暗示的単純さを強調するところから、場面転換に経費と時間とを要しなくなつた結果、劇作家は、従来の如く、場数の制限を受けることが少くなつたのである。
実際、劇作家は、ここで初めて旧い作劇術の拘束を脱したといつてよい。
いふまでもなく、場所と時間とを限られることが戯曲創作上、最も大なる苦痛である。戯曲の人物が、往々にして「不必要」な口を利き、「不必要」な動作をすることによつて、作品の「生命感」を稀薄にし、芸術的効果を減殺することがあるのは、ややもすれば「不必要」に幕を開けて置かなければならないからである。時と場所と、人物との間に空隙が生ずるからである。必要な時に、必要な場所に、必要な人物のみを現はし、その人物が必要なことのみを云ひ、行ふことによつて、如何に戯曲の生命が溌剌さを加へることであらう。
「これからの戯曲」が、必ずしも場数の多いものになるとは限らないが、無理に場数を少くする不自由さから、漸次解放されることはたしかである。将来、舞台装置の機械的進歩と共に、それこそ、映画に近い場面転換が行はれるかもしれない。さういふ舞台を予想した戯曲を、私もそろそろ書かうと思つてゐる。
場数の多い戯曲が生れる理由はその他にもある。勿論第一の理由と関連はしてゐるが、これは戯曲そのものの文学的進化に直接結びついてゐる理由である。即ち、感情の昂揚、論理の破壊、ファンテジイの強調、視角の変化、感覚の遊離、潜在意識の探求、これら新文学の特色は、戯曲の構成に、より端的な、より飛躍的な手法を選ばせた。連続する事件の常識的観察を排して、極めて短時間に圧搾された生命の現象的効果を、断片として、次ぎ次ぎに捉へて行くことが小説に於てさへ、一つの新味ある表現上の発見となりつつあることを見ればわかる。
小説に於ける「一行アキ」の効果は、やがて戯曲に於ける場面転換の効果である。
「これからの戯曲」といふ問題について、まだ論ずべきことも多々あるが、要するに、以上は、その一端にすぎない。初めにも述べたやうに、日本の現代劇は、まだその基礎が出来上つてゐない。基礎とは、西洋劇が今日まで築き上げた「写実」の境地に外ならない。わが劇壇から将来、『烏の群』や『死の舞踏』や、『叔父ワーニヤ』が生れるとしても、それは決して、「これまでの戯曲」と呼ぶことはできないやうな気がする。(一九二九・六)
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九月一日の大地震のために、東京・横浜、この二つの大きな都市をはじめ、関東一帯の建物は、あるいは壊れたり、あるいは焼けたりしてしまいました。そして、たくさんな人間が死にましたことは、もうみんなの知っていることだと思います。いままで動いていた汽車はトンネルやレールが破壊したために、もう往来ができなくなりました。また、毎晩華やかな街を照らしていた電燈は、装置が壊れてしまったために、その後、幾日というものは、都じゅうが真っ暗になり、夜は、ランプをつけたり、ろうそくをともさなければなりませんでした。
そんなように、いままでつごうがよく、便利であったものが、すっかり狂ってしまって、三十年も四十年もの昔に帰ったように、不便なみじめな有り様になったのでありました。
こういうめにあいますと、いままで、便利な生活をなんでもなく思っていた人々ははじめて、平和な日のことにありがたみを感じたのでありました。そして、また、それが昔のようになるのには、どれほど、多くの労力と日数とがかからなければ、ならぬかということを知ったのであります。
私たちは、けっして、ひとりでに、この世の中が便利に、文明になったと思ってはいけません。たとえば、一つのトンネルを掘るにも、どれほど、多くの人たちが、そのために苦しみ働いたかを考えなければならないのです。
また、電気が、にぎやかな街々につくのも、てんでの家にきたのも、そこには、たくさんな人たちの労力とそれに費やされた日数があったことを考えなければなりません。
こうして、この世の中は、みんなの力によって、文明になり、つごうがよくゆき、そして平和が保たれてきたのでありました。
けっして、自分独りが、どんなに富裕であっても、また学問があっても、この世の中は、すこしもつごうよくいくものでもなければ、また文明になるものでもないことをよく知らなければなりません。それを知るには、こんどの災害はいい機会といっていいのです。
それですから、困っている人たちを困らない人たちは救わなければなりません。そして、いままでのように、みんなが自分の才能をふるって、この世の中のために有益に働き、ますますつごうがよくいくように早くしなければならないのだと思いました。
もう一つ、この機会に、私たちは、知らなければならないことがあります。それは、この世の中のために働いているものは、ひとり、人間ばかりでなく、馬も、牛も、よく人間のために働いているということです。
この、ものをいうことのできない、おとなしい、かわいそうな動物を、心ある人間は、憐れんでやらなければなりません。いじめられるからといっていじめてはなりません。
太郎と二郎とは、よく、朝起きるときから、夜寝るまでの間に、幾たびということなく、けんかをしたかしれません。それは、ほんとうにたがいに憎み合ったからではなく、かえって仲のいいためではありましたけれど、つねにいい争うのには、どちらか無理なところがありました。
お父さんは、どういったら、二人がおとなしくなるだろう。どんなお話をして聞かせたら、身にしみて聞くだろうと頭をなやましていられました。
あるときのこと、お父さんは、近所の人たちといっしょに、夜警をしていられました。なんといっても、まだみんなは、おちつくことができずにいました。そして、火事をどんなにおそれていたかしれません、夜警をしなければ、みんながおちついて、夜も眠ることができなかったからであります。
往来を見ていますと、日が暮れてからも、避難をする人の群れがつづいて通りました。五人連れになったもの、三人連れのもの、また、二人、四人というふうに、いずれも、ぞうりをはいたり、また、はだしになったりして、わずかばかりの荷物を負って、男も、女も、ふうなどはかまわずに、たいていはまったく逃げ出したままの着の身、着のままで、一刻も早く、この怖ろしい都を逃れて故郷の方へ帰ろうとするものばかりでありました。そうした群れが、はや幾日つづいたことでありましょう。
なかには、手を引かれて、もう歩けなくなったのを、お母さんやお父さんに、はげまされて、とぼとぼとゆく小さな子供もありました。
この道を通って、みんなは、汽車の立つ駅の方へとゆくのでした。
「ほんとうに、気の毒な人々ですね。」と、夜警をしている近所の人たちが、その中でも、子供を三人も四人もつれて、みすぼらしいふうをして、さも疲れたようすで歩いてゆく家族のものを見ましたときにいいました。
「休んでおいでなさい。」
「おむすびも、お菓子もありますから、めしあがっておいでなさい。」
夜警をしていた、太郎のお父さんや、近所の人たちは、口々にこういいました。
すると、疲れた家族のものは、こちらを向いて、ちょっと躊躇しましたが、ついに立ち止まって、
「どうぞ、おむすびを一つ子供らにやってください。」と、父親らしい人がいいました。
「さあ、さあ、たくさんありますから、みんなめしあがってください。」と夜警の人々はいって、盆を持ってきて差し出しました。
子供らは、腹が減っていますので、みんなおむすびを喜んで食べました。
やがて、その人たちは、厚くお礼をいって、また道を歩いてゆきました。
「あんなような子供があっては、汽車に乗るのが、どんなに骨おりだかしれません。」
彼らの去った後で、みんなは、その人たちの停車場に着いてから先のことなどを想像して同情したのでありました。
昼から、夜となく、つづいた避難する人たちの群れも、さすがに、真夜中になると、いずれも、どこかに宿るものとみえて、往来がちょっとの間はとだえるのでした。
空を仰ぎますと天の川が、下界のことを知らぬ顔に、昔ながらのままで、ほのぼのと白う流れているのでありました。
「もう、何時ごろでしょうか。」
「二時をすこし過ぎました。」
あたりは、しんとしていました。このとき、あちらから、山なりに荷物を積んで、荷馬車がやってきました。
その荷車を引いているのは、白い馬でありました。そして、先に立って、手綱を引いている男は、体のがっしりした大男でありました。馬も、男も、だいぶ疲れているように見えたのであります。
太郎のお父さんは、これを見て、
「どこからきたのですか、よほど、遠いところからきなされたとみえますね。」と、やさしく声をかけられました。
ゴト、ゴトと重い荷車を馬に引かせてきた男は、手綱をゆるめて立ち止まりました。
「横浜から、今日の昼ごろ出かけてまいりました。これから、もう一里も先へゆかなければなりません。馬もだいぶ疲れています。」と答えました。
「そうとも、ここから横浜までは、十里あまりもありますからね。」
「六郷川の仮橋を渡ってきなすったのですね。」
「ええ、そうです。また、この荷物を下ろして、すぐに、今夜のうちに帰るつもりです。」と、馬を引いてきた男はいいました。
「また、遠い道を帰るのですか。」
「あすの晩方に、あちらへ着きます。そして、あさっては一日馬を休めます。」と、男は、答えました。
夜警の人々は、この話を聞いて、人間も、馬も、どんなに疲れることだろうと思いました。
こんなことは、平常多くあることでありません。汽車が通っていれば、汽車で運搬されるのです。こうした、変事があったときは、みんなが助け合ったり、骨をおらなければならないのであります。
男は、また、手綱を引いて、ゆこうとしました。すると、馬は、もうだいぶ疲れているものとみえて、じっとして、歩こうといたしませんでした。もっとこうして、休んでいたいと思ったのでありましょう。
しかし、いつまでも、男はそうしていることができないのを知っています。休めば、休むほど、疲れは出てきて、だんだん歩けなくなるものだからです。
「ど、ど、さあ、歩くだ。」と男は、馬を心からいたわるように、やさしくいいました。
このとき、男は、けっして、馬をしからなかったのでした。ひとり人間だけではなく、馬でも、牛でも、感情を解するものは、しかるよりは、やさしくしたほうが、いうことをきくものです。
馬は、また、重い荷車を引いて歩いてゆきました。
「こんなときは、馬もなかなか骨おりだ。」と、そのとき、太郎のお父さんといっしょに夜警をしていた人たちは感じたのであります。
翌日のことでした。太郎と二郎とが、またちょっとしたことから、けんかをはじめましたときに、お父さんは、昨夜見た、あわれな子供らや遠いところから歩いてきた馬の話を二人にしてきかされました。
「かわいそうな人たちのことを思ったら、けんかどころではないだろう。」と、いわれましたときに、二人は、ほんとうに感心をいたしました。
太郎と二郎は、自分のいままで読んでしまって重ねておいた雑誌や、書物や、またおもちゃなどを不幸な子供たちにあげたいとお父さんに申しました。
「それは、いい考えだ。」とお父さんはうなずかれました。そして、二人は、またお父さんに向かって、
「白いお馬は、もうお家へ帰ったでしょうか。」と兄弟は、一日の間に幾たびも思い出しては、聞いていたのでありました。
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毎週一回、やかましく云へば演劇に関する時評、くだけて云へば芝居四方山話といふやうなものを書くことになつたのですが、日本の劇壇に親しむやうになつてから頗る日が浅く、市村座が二長町とかに在るといふやうなこともつい此の間知つたばかり、人気俳優沢田正二郎君の舞台も、一二ヶ月前に一度見たつきり、左団次氏が武蔵屋であるか松坂屋であるか、さういふことも、たうたう覚える機会がなく、水谷八重子嬢は、もう三十ぐらゐになる方かと思つてゐたりした、うかつな人間ですから、どうせ、面白い噂の種を拾ひ集める芸当などは、僕の柄ではないのです。
と云つて、「週評」と銘打つたからには、何か時事問題に触れた議論なり、意見なりを書かねばなりますまいが、これまた、新聞は気の向いた時にしか読まない、劇場の方に関係してゐる人とは、殆ど面識がない、さういふ状態ですから、大事なことを知らずに過ごす場合がないとも限らない。
そんなら、どうして、かういふ役目を引受けたか――そこには一口に云へない理由があるのです。
僕は元来、今現に日本に在るやうな芝居、つまり、歌舞伎劇を始め、新派劇、新劇……さういふ芝居を、もう少しどうかしたいと思つてゐる人間です。自分の力で出来ることなら勿論、人の力、殊に時事新報の読者諸君あたりの力を藉りてでも、骨董趣味、通俗趣味、文学青年趣味の芝居から一歩踏み出した、さうかと云つて、馬鹿に超然と世間を看おろしたやうなものでなくつてもいゝ、芝居は芝居らしく、いくど観ても飽きないやうな、然し、三時間も見てゐればたんのうするくらゐな、若し云ひ得れば「芸術的な芝居」を造り出したいと思つてゐるのです。
少し言葉が過ぎました。実はさういふ芝居があつて欲しい、どこからか生れて来さうなものだと、常々思つてゐるわけなのです。
そこで、此の『演劇週評』は、僕の希望なり、信念なりを、読者諸君にお伝へする一つの機会にしたい、さうして、それから生れて来るものゝ為めにともども声援者の役目を果したい、そのつもりで、その時々の問題を捉へて、何か云つて見ることにします。
今週は、別に何も云ふべきことがない。――では困りますが、実際ない。
たゞ新劇協会が去る廿三日から三日間、帝国ホテルで現代劇を三つ上演しました。そのうち、正宗白鳥氏作『人生の幸福』が、万人の予期に反して、驚くべき舞台効果を発揮したといふ噂を聞きました。僕は、不幸にしてそれを観てゐませんが、事実、此の脚本の中に舞台的生命が発見されたとしたならば、それは小説家正宗白鳥氏の新しき芸術的世界がひらけたことになり、舞台監督畑中蓼坡氏の決定的功績を称揚しなければなりません。
そればかりではない。日本の新劇は、「舞台」といふものを、もう一度見直さなければならない機運に到達したのです。
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○
信州に発甫という珍らしい地名の温泉地があります。絵を描く人々や、文士などの間には相当知られているようですが、一般にはまだ知れ渡ってはいないようです。それというのも、一つは土地が草深く里離れがしていて、辺鄙なために少々淋しすぎるのと、もう一つは交通の便もあまりよくはないことと、それから温泉地としてみましても、新規な設備なども整っていないことが、しぜん都会人を呼びえない原因なのでしょう。
一昨年、松篁がそのところにいって、幾日か滞在して、写生か何かをやったり、山登りをしたりして遊んできましたが「とても静かな土地で、土地の人も醇朴でいい温泉地ですから、お母アさんも一度いって見ませんか」といいますので、私も誘われて、ちょうど昨年の六月七日に京都を発って、その発甫へいって見ました。
この時の一行は、私と松篁の外に、松篁のお友達が二、三人加わっていました。
夜汽車で京都を出まして、夜の引明け頃松本から乗合で出ました。するとまだ朝の気が立ち罩めている間に、早くも発甫へ着いたので案外その近いのに驚いたくらいですが、それでも都離れのした山麓の田舎で、いい気持ちの土地であることが感じられました。
その発甫には二、三ヵ所の温泉地が散在していて、これを一たいに総称して発甫といっているようです。しかし私どもの志したのは、この山麓の温泉地ではなくて、更に山の上の「天狗の湯」と称ばれる温泉なのでした。「天狗の湯」はその名の如く、むかし天狗が栖んでいたところなのでしょう、とても幽邃の境地だというのです。すでにこの山麓の温泉地でさえ、塵に遠い静寂な土地であるのに、この上幽邃といっては、どんな処だろうと、私は胸をおどらしながら、馬上の旅人になったのでした。
○
ところが、この馬の手綱をとってくれた男が、不思議と画の談のできる人物で、すでに私の名前なども知っていまして、京都や東京の先生方の名なども、誰彼と言ってはいろいろ話をするのでした。発甫は前にも言った通り、画家や文士の方などが、ちょいちょいやって来る関係上、この男も自然とそれを覚えたのでしょう。「あの向うに見える家は、東京の大観先生の別荘です」などと教えてくれました。
この男は土地の百姓には違いないのですが、かなり有福に暮らしていて、何も馬方などをしなくても生活してゆける身分だそうですが、生活は有福だからとて、遊んでいるのも詰らないという気持ちから、こうして馬の口を取って、時には旅人相手に働いているのだそうでした。
そういう人物でしたから、馬上の俄旅人の私も、お陰で退屈なしに山上の天狗の湯まで辿りつくことができました。私を乗せてくれた馬は、ひどく温順な馬でして、馬上初めての私も、何の危なげもなく悠然と乗っていたわけです。馬の背の鞍の両側に、旅人の納まる櫓が二つあって、片一方に一人ずつ、つまり二人が定法なのですが、乗るのが私一人なのですから、片一方にはいろいろの荷物を積んで、重さの平均をとったわけです。ゆらりゆらり揺られながら、信州の山路を登ってゆく気持ちは、なんとも言えませんでした。
○
山は、白樺の林です。なんとも言えない静かな上品さがあるもので、朝の気がその上に立ち罩めて、早晨の日の光が射しとおしてくる景色などは、言葉では言い切れない大きな詩味を投げかけてきます。ことにその木の間からは、六月だというのに、遠い山の雪の白さなどがちらと窺くやら、遅桜がほろほろ見える気持ちなどは、恐らく微妙な一幅の絵画で、私もその画の中の一つの添景であるような感じを湧かしました。
天狗の湯の宿は、山のほとんど巓に近いところで、やはり湯宿があります。そこへ着くと、とにかく寒いので私は早速薄綿のはいったドテラを借りまして、まず、座敷のまん中にごろりと横になり、そして肘枕です。山の中の一軒宿ですから、一向気がおけないのでした。
横になっていますと、小鳥などが、山の中らしい声で啼いています。言い知れない快よい爽やかさです。松篁達は、途中写生をしながら登って、暫くして着きました。
旅に出て、ほんとうにこんなに悠くりした気持ちになったことは稀です。設備が行き届いていなかったり、お愛想が十分でなかったりすることが厭な人は、発甫などはだめですが、そうでない人にはなかなかいい温泉地です。
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私がまだ六つか七つの時分でした。
或日、近所の天神さまにお祭があるので、私は乳母をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。
天神様の境内は大層な人出でした。飴屋が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直ぐ癒る膏薬を売っている店があります。見世物には猿芝居、山雀の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列べて出ていました。
私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。
側へ寄って見ると、そこには小屋掛もしなければ、日除もしてないで、唯野天の平地に親子らしいお爺さんと男の子が立っていて、それが大勢の見物に取り巻かれているのです。
私は前に大人が大勢立っているので、よく見えません。そこで、乳母の背中におぶさりました。すると、そのお爺さんのしゃべっている事がよく聞えて来ました。
「ええ。お立ち合いの皆々様。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山の鬼が食べたいと仰しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌にして差し上げます。足柄山の熊がお入用だとあれば、直ぐここで足柄山の熊をお椀にして差し上げます……」
すると見物の一人が、大きな声でこう叫りました。
「そんなら爺い、梨の実を取って来い。」
ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、まだ方々に白く残っているというような時でしたから、爺さんはひどく困ったような顔をしました。この冬の真最中に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われるより、足柄山の熊のお椀が吸いたいと言われるより辛いというような顔つきをしました。
爺さんは暫く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か考えが浮んだように、俄にニコニコとして、こう申しました。
「ええ。畏りました。だが、この寒空にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」
と空を指さしまして、
「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますから、どうぞお目留められて御一覧を願います。」
爺さんはそう言いながら、側に置いてある箱から長い綱の大きな玉になったのを取り出しました。それから、その玉をほどくと、綱の一つの端を持って、それを勢よく空へ投げ上げました。
すると、投げ上げた網の上の方で鉤か何かに引っかかりでもしたように、もう下へ降りて来ないのです。それどころではありません。爺さんが綱の玉を段々にほごすと、綱はするするするするとだんだん空の方へ、手ぐられでもするように、上がって行くのです。とうとう綱の先の方は、雲の中へ隠れて、見えなくなってしまいました。
もうあといくらも綱が手許に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体を縛りつけました。
そして、こう言いました。
「坊主。行って来い。俺が行くと好いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」
すると、子供が泣きながら、こう言いました。
「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」
いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯早くしろ早くしろと子供をせッつくばかりでした。
子供は為方なしに、泣く泣く空から下がっている綱を猿のように登り始めました。子供の姿は段々高くなると一緒に段々小さくなりました。とうとう雲の中に隠れてしまいました。
みんなは口を明いて、呆れたように空の方を見ていました。
そうすると、やがて不意に、大きな梨の実が落ちて来ました。それはそれは今までに見た事もないような大きな梨の実でした。西瓜ぐらい大きな梨の実でした。
すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直ぐ側に立っている見物の一人に、おいしいから食べて御覧なさいと言いました。
途端に、空から長い網がするすると落ちて来ました。それが、見ている間に、するするするすると落ちて来て、忽ち爺さんの目の前に山のようになってしまいました。
すると爺さんが青くなって叫びました。
「さあ、大変だ。孫はどうしたのでございましょう。孫はどうして降りて来るのでございましょう」
そう言ってる途端に、どしんという音がして何か空から落こって来ました。
それは子供の頭でした。
「わあ、大変だ。孫はきっと天国で梨の実を盗んでるところを庭師に捕まって、首を斬られたに違いない。ああ、わしはどうして孫をあんな恐ろしい所へ遣ったんだろう。なぜ、皆様方は梨の実が欲しいなどと無理な事を仰しゃったのです。可哀そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」
爺さんはこう言って、わあわあ泣きながら、子供の首を抱きしめました。
そうしてる内に、手が両方ばらばらになって落ちて来ました。右の足と左の足とが別々に落ちて来ました。最後に子供の胴が、どしんとばかり空から落っこって来ました。
私はもう初め首の落っこって来た時から、恐くて恐くてぶるぶる顫えていました。
大勢の見物もみんな顔色を失って、誰一人口を利く者がないのです。
爺さんは泣きながら、手や足や胴中を集めて、それを箱の中へ収いました。そして、最後に、子供の頭をその中へ入れました。それから、見物の方を向くと、こう言いました。
「これはわたくしのたった一人の孫でございます。わたくしは何処へ参るにも、これを連れて歩きましたが、もうきょうからわたくしは一人になってしまいました。
もうこの商売も廃めでございます。これから孫の葬いをして、わたくしは山へでも這入ってしまいます。お立ち会いの皆々様。孫はあなた方の御注文遊ばした梨の実の為に命を終えたのでございます。どうぞ葬いの費用を多少なりともお恵み下さいまし。」
これを聞くと、見物の女達は一度にわっと泣き出しました。
爺さんは両手を前へ出して、見物の一人一人からお金を貰って歩きました。
大抵な人は財布の底をはたいて、それを爺さんの手にのせて遣りました。私の乳母も巾着にあるだけのお金をみんな遣ってしまいました。
爺さんは金をすっかり集めてしまうと、さっきの箱の側へ行って、その上を二つ三つコンコンと叩きました。
「坊主。坊主。早く出て来て、お客様方にお礼を申し上げないか。」
爺さんがこう言いますと、箱の中でコトンという音がしました。
すると、箱の蓋がひとりでにヒョイと明いて中から子供が飛出しました。首も手も足もちゃんと附ていて、怪我一つしていない子供が、ニコニコ笑いながら、みんなの前に立ちました。
やがて、子供と爺さんは箱と綱を担いで、いそいそと人込の中へ隠れて行ってしまいました。
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記紀の死語・万葉の古語を復活させて、其に新なる生命を託しようとする、我々の努力を目して、骨董趣味・憬古癖とよりほかに考へることの出来ない人が、まだ〳〵随分とあるやうである。最近には、御歌所派の頭目井上通泰氏が、われ〳〵一派に向うて、暗に攻撃的の態度を示してゐる。これは偶、安易な表現・不透明な観照・散文的な生活に満足してゐる、桂園派の欠陥を曝け出してゐるので、歴史的に存在の価値を失うてゐる人々の、無理会な放言に対して、今更らしく弁難の労をとらうとは思はぬ。唯尠くとも、新芸術を解してゐると思はれる人々の、懐いてゐる惑ひを、開いて置かうと思ふのだ。
軽はづみで、おろそかであることを意味する常識一片の考へから見れば、古語・死語の意義を、字面通りにしか考へることの出来ないのも、無理ではない。而もさうした常識者流の多いのには、実際驚く。殊にひどいのは、自身所謂古語・死語を使ひ乍ら、われ〳〵一派の用語や、表現法を攻撃する無反省な輩である。
われ〳〵は敢へて、古語・死語復活に努めてゐる者なることを明言して憚らない。かういふわたしの語は、決して反語や皮肉ではない。我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。この千幾年来の闖入者が、どれだけ国語の自然的発達を妨げたかといふことは、実際文法家・国語学者の概算以上である。漢字の勢力がまだわれ〳〵の発想法の骨髄まで沁み込んでゐなかつた、平安朝の語彙を見ても、われ〳〵の祖先が、どれ程緻密に表現する言語を有つてゐたかは、粗雑な、概括的な発想ほかすることの出来ない、現代の用語に慣された頭からは、想像のつかない程である。かうした方面に注意を払ひ乍ら、物語類を読んで行くと、度々羨まれ、驚かれる多くの語に逢着する。更に、奈良朝に溯つて見ると、外的な支那崇拝は、頗盛んであつたに係らず、固有の発想法で、自在に分解叙述してゐる。物皆は時代を追うて発達する。唯語ばかりが、此例に洩れて、退化してゐる例は決して少くないのである。単綴・孤立の漢語は、無限に熟語を作ることは出来ても、国民の感情に有機的な吻合を為すことは出来なかつた。散文はともあれ、思想の曲折を尊ぶ律文に、固定的な漢語が、勢力を占めることの出来なかつたのは、この為である。其にも係らず、世間通用の語には、どし〳〵漢字の勢力が拡つて来てゐる。
さすれば、短歌に用ゐられる語は、当然愈減じて来る訣である。其で、此欠陥を埋めるには、どういふ方便に従へばよいか。之を補填するものとして、漢語・口語・新造語・古語を更に多く採り入れるといふことが、胸に浮ぶ。処が漢字・漢語は、熟語を除いては、既に述べたやうな根本の性質上、まづ今の分では、大した結果を予期することは出来ぬ。
口語は極めて有望なものであるが、此迄色々の人に試みられたやうな、無機的なものでなく、単語としてゞなく歌全体が、口語の発想法によつて、律動するやうなものでなくては、多くの場合無意義な努力になつて了ふのである。新造語も亦其通りで、二つの漢字を並べて、無雑作に捏ち上げられたものであつてはならぬ。全体に鳴り響く生命を持つたものでなければならぬ。
古語と口語との発想や変化に就いて、周到な観察をして、其に随応するやうな態度を採るべきである。唯古語を用ゐることについては、一度常識者流の考へに就いて、注意を払ふ必要がある。彼等は、かういふ妄信を擁いてゐる。われ〳〵の時代の言語は、われ〳〵の思想なり、感情なりが、残る隈なく、分解・叙述せられてゐるもので、あらゆる表象は、悉く言語形式を捉へてゐると考へてゐるのである。けれども此は、おほざつぱな空想で、事実、言語以外に喰み出した思想・感情の盛りこぼれは、われ〳〵の持つてゐる語彙の幾倍に上つてゐるか知れない。若し現代の語が、現代人の生活の如何程微細な部分迄も、表象することの出来るものであつたなら、故らに死語や古語を復活させて来る必要はないであらうが、さうでない限りは、更に死語や古語も蘇らさないではゐられない。反対の側から、此事を考へると、はやり語の非常な勢で人の口に上るのは、どうした訣であらう。我々の言語が、現代人の思想感情を残る隈なく表象してゐるものとすれば、はやり語なんかで、新らしく内界を具現する必要はない筈である。而も、われ〳〵の精神内容は、一日百個のはやり語を歓迎するだけの余裕と、渾沌とを残してゐる。又、他の方面から見ると、誰しも口癖を持つてゐないものはなからうが、其人々の精神内容が、何時も一つの言語表象に這入つて来るといふことは、他の理由は別として、我々が、微細な表象の区劃を重んじてゐぬといふことも、明らかに一つの理由でなければならぬ。此から推して見ても、現代の言語が、必しも現代人の心理に随応した総てゞあるといふことは出来ないであらう。其上我々の感情なり、思想なりが、一代毎に忘られて行つて、形さへ止めないものならば格別、実際日本武や万葉人の心は、現在われ〳〵の内にも活きてゐることを、誰が否むことが出来よう。今、古語・死語を用ゐる範囲を最小限度に止めても、尠くとも此心持を表象するに当つては、彼古語・死語を蘇らして、何のさしつかへがあるだらう。
このやうに古典的な心持でなくても、現に我々が日常其内に生きてゐる精神作用も、古語や、死語には緻密に表現せられてゐるに係らず、現代の言語には其表象能力を備へないものが往々ある。其等の内容を現すに、一々新語を造ることの出来ないわれ〳〵は、古人が用ゐ慣し而もわれ〳〵の祖先の生活内容が、一度は盛られて来たことのある言語を用ゐる事に対して、いひ知らぬ誇りと権利とを感じるのである。けれども単に其だけで以て、古語・死語の復活に努めてゐるのでない。われ〳〵は此内容を盛るに最適切な形式を、各時代の語彙の中から求め出さうと思ふのである。
われ〳〵の古語・死語をば復活せしめようと努めるのは、単なる憬古癖を満足せしめる為にするのだと思うてはならぬ。われ〳〵は骨董品に籠つてゐる、幾百年の黴の匂ひを懐しまうとする者ではない。われ〳〵の霊は、往々住すべき家を尋ねあてることが出来なくて、よすがなくさまようてゐることがある。其霊の入るべき殻があるとさへ聞けば、譬ひ幾重の地層の下からでも、其を掘り出さずにはゐられないではないか。妄りに今を信ずる人々よ。おん身らは自己を表現するに忠ならざるより、安じて放言してゐる。現在のわれ〳〵の生活は、現在のわれ〳〵の生きた語によつてのみ表されると。併しわれらの生命の律動には、我々の常に口にする語ばかりに、宿しきれないものがあるのである。
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彼は若い社会主義者だつた。或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。が、彼は屈しなかつた。それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。
彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。彼の論文は彼等以外に誰も余り読まないらしかつた。しかし彼はその中の一篇、――「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。それは緻密な思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。
そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。けれども彼等の会合へ顔を出すことは怠らなかつた。彼等は相変らず熱心に彼等の問題を論じ合つてゐた。のみならず地下水の石を鑿つやうにじりじり実行へも移らうとしてゐた。
彼の父も今となつては彼に干渉を加へなかつた。彼は或女と結婚し、小さい家に住むやうになつた。彼の家は実際小さかつた。が、彼は不満どころか、可なり幸福に感じてゐた。妻、小犬、庭先のポプラア、――それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。
彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。しかし彼の情熱は決して衰へた訣ではなかつた。少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。が、彼等は――彼の同志は彼自身のやうには考へなかつた。殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。
それは勿論いつの間にか一層彼等の会合から彼を遠ざけずには措かなかつた。そこへ彼は父親になり、愈家庭に親しみ出した。けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。彼は夜更の電燈の下に彼の勉強を怠らなかつた。同時に又彼が以前書いた十何篇かの論文には、――就中「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。
彼等も又彼に冷淡だつた。彼はもう彼等には非難するのにも足らないものだつた。彼等は彼を残したまま、――或は大体彼に近い何人かの人々を残したまま、著々と仕事を進めて行つた。彼は旧友に会ふたびに今更のやうに愚痴をこぼしたりしてゐた。が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。
それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。従つて今では以前よりも兎も角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。しかし彼の情熱は、――そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない訣ではなかつた。けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。
彼は確に落伍者だつた。が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。が、勿論そんなことは彼には全然わからなかつた。彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。
(大正一五・一二・一〇)
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百間の随筆を褒めるといふことは現今の常識だ。今更ほめるまでもないことであるが、その褒める仲間に馳せ参ずることをむろん躊躇するものではない。一体僕は悪い癖があつて、人がほめたり、又本であれば売れるといふものを、ただそれだけの理由で蔑視して了ふのである。悪い癖だがどうもなほらない。そこで百間、出版界に随筆時代を到来させた百間なるものをむろん読まうとは思はなかつたのだつた。たとひ旧友室生犀星が口を極めて褒めやうとも、よまうとは思はなかつた。がある雑誌で、偶然よんで、成程と思はないわけにゆかなかつた。やはり世評といふものは、ろくでもないものにも感ずるが、いいものにも敏感なものだといふことを感じさせられたのである。
百間氏の文章は、よけいなものをすつかりとつて了つた精髄的なものである。従来随筆といへば美文の標本みたいなものであることが慣はしであつたが、百間出でて之を更改して了つたといつていい。淡々として説き去るその文は併し凡庸の言ではない。つきすすめた心境にあつてのみ言はるべき際涯のものであることその文の虚飾を去つたるが如きである。まへに僕の「書窓」に百間お伽噺集「王様の背中」紹介辞に、虚無的肯定といふ変な字を用ひたが、之をいま改めやうとは思はない。謂ふ意味は、すべてを非定しつつ又新らしくそれを肯定するといふやうな捨身で積極的な心意である。百間随筆をよむと、どうしても僕はそうしたものを感ずる。人生の悲痛に徹した後の心であると思ふ。ほんとうの大人の文章であると思ふし、同時に「大人」に毒されない人間の素地の心だと思ふ。率直にしかも所謂淡々でなしに、淡々と語るこの文章の味は容易に出来るものではない。そしてこの様風は新らしい文章の指向を示し、又大勢を導いた。詩家によつて錬磨されつつある新らしい字句の使用法と共に、この簡明直截な文章法は将来発展してゆくに違ひない。此の百間随筆がいま私の尊敬する所の出版者によつて纏められるといふことは何よりの喜びだ。これは凡そ文章に心ある人、いやそればかりでなく人生習練の心をもつ人の誰もが読むべきものだと思ふのである。
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彼がスタイルシートを使っている
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Xが私には多かった
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私はバスで学校に行きます。
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音楽というものは、いったい悲しい感じを人々の心に与えるものです。いい楽器になればなるほど、その細かな波動が、いっそう鋭く魂に食い入るように、ますます悲しい感じをそそるのであります。そして、奏でる人が、名手になればなるほど、堪えがたい思いがされるのでした。
愉快な楽器があったら、どんなに人々がなぐさめられるであろうと、ある無名な音楽家は考えました。
その人は、どうしたら、愉快な音が出るかと、いろいろに苦心をこらしたのです。そして、笛や、琴のような、単純な楽器では、どうすることもできないけれど、オルガンのように、複雑な楽器になったら、なんとかして、その目的が達せられは、しないかということを考えたのです。
彼は、日夜、いい音色が出て、しかも、それがなんともいえない愉快な音であるには、どうしたら、そう造られるかということに研究を積んだのであります。彼は、最初、純金の細い線でためしました。しかし、その音色は、あまりに澄んで、冴えきっています。つぎに、金と銀と混じて細い線を造りました。これは、また、調子が高いばかりで、愉快な音ということができませんでした。
それから、幾たびも失敗して、長い間かかって、やっと、彼は、鉄と銀とを混合することによって、ついに、愉快な音色を出すことに成功しました。
彼は、この鉄と銀とからできた、一筋の線をオルガンの中に仕掛けました。すると、このオルガンは、だれがきいても、それは、愉快な音が出たのであります。
心を愉快にする、たとえば、いままで沈んでいたものが、その音を聞くと、陽気になるということは、たしかに、いままでの音楽とは、反対のことでした。これなら、どんな神経質な子供に聞かせても、また、気持ちのつねに滅入る病人が聞いても、さしつかえないということになりました。
けれど、ただ一つ困ることには、こうしたオルガンは、たくさん造られないことです。ただ一つの機械にはされなかったので、鉄と銀とで、できた一筋の線は、この音楽家の手で鍛えられるよりは、ほかに、だれも造ることができなかったからです。それは、火の加減にあったとばかりいうことはできません。まったく、この人の創作であったからであります。
ある日、金持ちのお嬢さんは、外国の雑誌でこのオルガンの広告を見ました。
無名の音楽家は、このりっぱな発明によって、すでに有名になっていました。そして、その人の手で造られた、オルガンは、ひじょうな高価のものでありました。
お嬢さんは、病気のため海岸へ保養にいっていました。そして、そこで、この広告を見たのであります。
それでなくてさえ気が沈んで、さびしいのを、毎日、波の音を聞き、風の並木にあたる音を聞くと、いっそう気持ちが滅入るのでした。それは、けっして、病気にとっていいことでありませんでした。
お嬢さんは、音楽が好きでしたから、こんなときに、バイオリンか、琴が弾いてみたいと思いましたが、医者は、かえって、神経を興奮させてよくないだろうといって、許さなかったのです。その医者は、音楽と神経の関係をば、かなり深く心得ていたからでありましょう。
「ここに、こういう心を愉快にする、オルガンがありますよ。」と、お嬢さんは、雑誌の広告を、まだそう年寄りでない医者に見せました。
医者は、黙って、しばらくそれを見ていましたが、驚いたというふうで、
「お嬢さん、もしこれがほんとうなら、音楽界の革命です。」といいました。
お嬢さんの顔は、青白くて、目は、澄んでいました。その目で、じっとこちらを見て、
「そうした革命はあり得ることです。なんで私たちが、それを信じてはならないというはずがありましょう。」と、お嬢さんは、答えました。
「いやまったく、それにちがいありません……。」と、医者は、いうよりしかたがなかった。
彼女は、高価な金を出して、そのオルガンをお父さんから買ってもらうことにしました。それほど、お嬢さんは、このオルガンに憧れました。海を望みながら、はるか、異国の空の下で、この愉快な音を出す楽器が、何人かによって奏でられたり、また、この楽器が鳴りひびく夜が、ちょうどいい月夜で、街の中を歩いている人たちが、歩みをとめて、しばらく、そばの建物の中からもれる、オルガンの音色に聞きとれている有り様などを想像せずにはいられなかったのであります。
あちらの国から、オルガンが着きましたときに、お嬢さんは、どんなに喜んだでありましょう。それから、毎日、毎夜、オルガンを鳴らしていました。
それは、ほんとうに、愉快な音色でありました。ちょうど、柔らかな土を破って、芽がもえ出るような喜びを、きく人の心に与えました。
浜の人たちは、このオルガンの音を聞いてから、夜も、うかれ心地になって、波打ちぎわをぶらぶら歩くようになりました。
「こんなに、魚が跳ねることは、めったにない。あのオルガンの音がするようになってからだ。」と、漁師で、いったものもありました。
お嬢さんは、病気ということを忘れて、夜もおそくまでオルガンを弾いていました。お父さんは、そのことを心配しました。そして、医者に、どうか注意してくれるようにと申されました。
医者は、たとえ、なんといっても、お嬢さんがいうことをきかないのを知っていましたから、当惑してしまいました。
「お嬢さん、夜、窓を開けて、そうして、いつまでも、オルガンをお鳴らしになるのは、いけません。」といいました。
「わたしは、あの波の音と、いま調子を合わせているのですよ。魚が、浮かれて跳ねると、浜の人たちはいっています。」と、お嬢さんは、怒りっぽい声で、音楽のほうに、気をとられていいました。
「いえ、お嬢さん、海の方から吹いてくる潮風で、オルガンがいたむからいったのです。」と、医者は、答えました。
彼女は、オルガンがいたむときいて、はじめてびっくりしました。
お嬢さんは、病気がよくならないで、とうとう死んでしまいました。そして、このオルガンは、この村の小学校へ寄付することになりました。
校長は、どんなに喜んだでしょう。また、音楽の教師は、どんなにこのオルガンを弾くのをうれしがったでしょう。
「みなさんは、この上等のオルガンに歩調を合わせて愉快に体操をすることもできれば、また、歌うこともできます。」と、先生は、生徒らに向かっていいました。
小学校は、小高いところにありました。学校の窓からは、よく紫色の海が見えました。窓の際には、オレンジの木があって、夏は、白い香りの高い花が咲きました。そして、秋から冬にかけては、真っ黄色に実が熟したのであります。
若い女の教師は、日が暮れるころまで、独り学校に残ってオルガンを鳴らしていることがありました。また、男の教師も、おそくまでこのオルガンを弾いていることがありました。オルガンの愉快な音色は、紫色の海の上までころげてゆきました。この楽器で体操や、唱歌をならった子供らは、いつしか大きくなって、娘たちは、お嫁さんになり、男は、りっぱに一人まえの百姓となりました。けれど、その人たちは、子供の時分にきいた、愉快なオルガンの音をいつまでも思い出したのであります。
長い年月の間に、学校の先生は、変わりました。けれど校長だけは、変わらずに、勤めていました。しかし、もう頭ははげて、ひげは白くなっています。
「みなさん、この学校のオルガンは、上等な品で、だれでも、この音をきいて、愉快にならないものはありません。みなさんも、毎日、このオルガンの音色のように、気持ちをさわやかに、この音色といっしょに歩調を合わし、また、勉強をしなければなりません。」と、校長は、生徒らを集めていったのです。
唱歌の先生は、校長のいったことを、まことにほんとうであると思っていましたが、小さな生徒らは、この学校のオルガンを、けっして、愉快な音の出るものだとは、信じていませんでした。
家に帰って、この話をお父さんや、お母さんにすると、「おお、学校のオルガンは、有名なもんだ。」と、感歎しましたが、しかし、子供たちは、どういうものか、そのオルガンを愉快とも、なんとも思っていませんでした。
これは、どうしたことでしょう?
もし、このオルガンを送った、年とった音楽家が、このオルガンの音色を聞いたら、すべてがわかることです。そして、きっとそのとき、つぎのようにいったでしょう。
「小さなものの耳は、たしかだ。ほんとうに、子供たちのいうとおり、このオルガンは、愉快な音がしない。こわれているからだ。しかし俺には、もう、それを新しく造るだけの気力がなくなった。このオルガンの役目は、これまでに十分果たしたはずだ……。」
鉄と銀とで造られた、一筋の線は長い間海の上から吹いてくる潮風のために、いつしかさびて、切れてしまったからです。たとえこの線は切れても、オルガンは鳴ったのでした。ただ、その証拠に、もはや、このオルガンの音色が海の上をころがっても、魚が、波間に跳ねるようなことはなかったのであります。
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僕は近頃、芝居はどこが面白いかといふ問題について頭を捻つてゐる。
少しそれがわかりかけたやうな気がする。そこへ、畏友山本有三氏から近著戯曲集『同志の人々』の恵贈に預つた。で、早速、そのうちの或るものを再読して見た。
山本有三氏には甚だ失礼ではあるが、僕の戯曲論の説明に、同氏の作品を一例として拝借することにする。それは、同氏の第一戯曲集たる『嬰児殺し』中に収められてある諸作から、今度の『同志の人々』中に収められてある諸作へと、或る著しい進化が認められ、此の進化が、僕の戯曲論を裏附ける為めに、極めて便利な性質をもつたものであるからである。
作品の発表順序について、僕はしつかりした記憶はないが、第一戯曲集の諸作は大部分、第二戯曲集の諸作よりも前期に属するものであることは疑ひない。
一口に云へば、前期の諸作は、主題として所謂「劇的境遇」が選ばれてをり、後期の諸作は、少くとも表面的に「波瀾の少い場面」が選ばれてゐる。『同志の人々』と『指蔓縁起』は別としても、『海彦山彦』『本尊』『熊谷蓮生坊』『女中の病気』みな然りである。勿論、内面的には「或る心理的の動き」があるけれども、これは小説にでもざらにある「心理の動き」である。作者は、つまり、外面的の「劇」から内面的の「劇」へ足を踏み込んだと云へる。
そこで、この内面的の「劇」であるが、前にも述べた通り、『海彦山彦』『女中の病気』程度の「劇」なら、特に之を「劇的境遇」と呼ぶ必要はあるまい。然るに、僕は、『海彦山彦』を以て作者の傑作と思惟するものである。『女中の病気』は恐らく之に次ぐものであらう。勿論『同志の人々』、『指蔓縁起』それぞれに面白くはあるが、作者の「最も佳きもの」は、前に挙げた二作のうちに、最も多く、最も明かに之を見出すことが出来ると信じてゐる。
こゝで僕は、此の事実を、僕のやゝ独断的な戯曲論に結びつける。
所謂「劇的」といふ言葉は、芸術としての戯曲を評価する場合に何等の標準を示すものではない。芸術として傑れた戯曲は、主題として所謂「劇的境遇」が選ばれる必要は少しもなく、それ以外に、もつと本質的な「劇的美」がある筈である。これは恐らく戯曲の近代的進化が、特に誇りとすべき発見であらうと思はれる。
戯曲の主題が所謂「劇的」でなければならないといふ主張は、小説の主題が所謂「小説的」でなければならないといふ時代の因襲的観念であつて、戯曲が戯曲たる所以は儼然として、その外にある。結論を急げば、戯曲の本質的「美」は、人生の真理を物語る活きた魂の最も諧調に満ちた声と姿、最も韻律的な動き(響きと云つてもいゝ)の中に在るとは云へないか。「語られる言葉」と「行はれる動作」の最も直接的な、最も暗示的な表現、そこからのみ生れる心理的詩味のうちにあるとは云へないだらうか。
山本有三氏の近業は、この点で興味が深い。
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かなり私なりにショックを受けました
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会場には多くの人たちがやってきました
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昨年の五月のこと所用のため上京して私は帝国ホテルにしばらく滞在した。上京する日まで私は不眠不休で仕事に没頭していたので、ホテルに落着いてからでも絵のことが頭の中に残っていて、自分では気づかなかったが、その時はかなりの疲労を来たしていたらしいのであった。らしい……と他人の体みたいに言うほど、元来私は自分のからだについては無関心で今まで来たのである。病気を病気と思わざれば即ち病気にあらず……とでも言いますか、とにかく私は仕事のためには病気にかまってはいられなかったのである。病気のお相手をするにはあまりに忙しすぎたのであった。
そのような訳で自分の体でありながら極度の疲労を来たしている自分の体を劬ってやる暇もなく私は上京するとホテルに一夜をあかした。
朝、眠りから醒めて床を出て洗面器のねじを開こうとしたがその日はどういう加減かねじがひどく硬かった。
はてすこし硬いなと思いながら手先に力をいれてそれをひねろうとした拍子に、頭の中をつめたい風がすう……と吹きすぎた。はっと思った瞬間に背中の筋がギクッと鳴った。
「失敗った」
と私は思わず口の中で呟いたが、体はそのままふんわりと浮き上り体中から冷たい汗が滲み出るのを感じ……それっきり私の体はその場へ倒れてしまったらしいのである。
用事もそこそこにホテルを引き揚げて私は京都の家へ帰って来たが、それ以来腰が痛くてどうにもたまらなかった。朝夕薬のシップやら種々手をつくし六十日ほどしてやっと直ったが、もともと仕事に無理をして来て自分の体を劬ってやらなかった報いだと諦めたが、それからというものは体の調子がちょっとでもいけなかったり疲れたりすると、腰や背のいたみが出て来て画室の掃除や書籍の持ち運びにも大へん苦しみを感じるようになってしまった。
三月頃から展覧会の出品画制作などで無理をつづけて来て体が疲労していたことはたしかであったが、ちょっとしたはずみから体の張りがゆるみ出すということは、よほど気をつけなくてはいけないと自戒すると同時に、これしきの頑張りでこのようになるのは、やはり年のせいとでもいうのであろうかと、そのときは少々淋しい気がしないでもなかった。
親しい医者に戻るなり看て貰うと、医者はそれごらんなさいといった顔をして、
「あなたほどの年配になると、そう若い人と同じように無理は通りませんよ。三十歳には三十歳に応じた無理でなければ通りません。六十歳の人が二十代の人の無理をしようとしてもそれは無理というものですよ」
と戒められた。私はそれ以来夜分はいっさい筆を執らないことにしている。
ふりかえってみれば、私という人間はずいぶんと若い頃から体に無理をしつづけて来たものである。よくこの年まで体が保ったものだと自分で自分の体に感心することがある。
若いころ春季の出品に明皇花を賞す図で、玄宗と楊貴妃が宮苑で牡丹を見る図を描いたときは、四日三晩のあいだ全くの一睡もしなかった。若い盛りのことでもあり、絵の方にも油がのりかかっていたころであったが、今考えれば驚くほどの無茶をしたものである。
展覧会の搬入締切日がだんだん近づいて来るし、決定的な構図が頭に浮かんで来ない。あせればあせるほど、いい考案も出て来ないという有様で、あれこれと迷っているうちにあと一週間という時になって始めて不動の構図に想い到った。
それからは不眠不休すべてをこの絵に注ぎこんでそれと格闘したのであった。別に眠るまいと決心して頑張った次第ではないが、締切日が迫って来たのと、描き出すとこちらが筆をやめようとしても手はいつの間にか絵筆をにぎって画布のところへ行っているという、いわば絵霊にとり憑かれた形で、とうとう四日三晩ぶっ通しに描きつづけてしまったのである。
「唐美人」で憶い出すのは梅花粧の故事漢の武帝の女寿陽公主の髪の形である。あれにはずいぶん思案をしたものである。
支那の当時の風俗画を調べるやら博物館や図書館などへ行って参考をもとめたが寿陽公主にぴったりした髪が見つからなかった。
髪の形で公主という品位を生かしもし殺しもするのでずいぶんと思い悩んだが、構図がすっかり纒まってから三日目にやっとそれを掴むことができたのである。博物館や図書館へ運んだ疲れた体で、画室をかき廻して参考書を調べ、それらの中にも見つからずうとうとと眠り、さて目ざめてから用を達しに後架へ行って手水鉢の水を一すくいし、それを庭のたたきへ何気なくぱっと撒いた瞬間、たたきの上に飛び散った水の形が髪になっていた。
「ほんにあれは面白い形やな」
私はそう呟いたがその時はからずあの公主の髪の形を見出したのであった。それにヒントを得て一気呵成にあの梅花粧の故事が出来上った訳であるが、これも美の神のご示現であろうと今でもそう思っている。
夜、家の者が寝静まってしまうと私も疲れを覚えて来て体をちょっと横たえようとし、そのあたりに散乱している絵具皿を片つけにかかる。ふと絵具皿の色に眼がつく。それが疲れ切った眼に不思議なくらい鮮明に映る。めずらしい色などその中にあると、
「おや、いつの間にこのような色を……ちょっと面白い色合いやなア」
と思わず眺め入ってしまう。それをここへ塗ったらとり合わせがいいなあ――とつい思ったりすると、いつの間にか右手は筆をもっている。識らず識らずのうちに仕事のつづきが続いている。
同じように、寝ようとしてふと眺め直した絵の線に一本でも気になるのがあると、
「すこしぐあいが悪いな……この線は」
とそれを見入っているうちに修正の手がのびているのである。そして識らず識らず夢中になって仕事をつづけている。興がのり出す。とうとう夜を徹してしまう。知らぬ間に朝が障子の外へ来ているということは、しばしばというよりは毎日のようなこともあった。
「はて、いつ一番鶏二番鶏が啼いたのであろう」
私は画室の障子がだんだん白みを加えてゆくのを眺めながら昨夜の夢中な仕事を振り返るのであった。
気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くためにだけ生きつづけて来たようにも思える。
それがまた自分にとってこの上もない満足感をあたえてくれるのである。
昭和十六年の秋に展覧会出品の仕事を前に控え、胃をこわして一週間ばかり寝込んでしまった。これも無理がたたったのであろう。
胃のぐあいが少しよくなった頃には、締切日があと十余日くらいになってしまった。
「夕暮」の絵の下図も出来ていたことだし自分としても気分のいい構図だったので何とかして招待日までに間に合わせたかったので、無理だと思ったが一年一度の制作を年のせいで間に合わせなかったなどと思われるのが残念さから、負けん気を起こして、これもまる一週間徹夜をつづけた。恐らくこれが私の強引制作の最後のものであろうと思う。
一週間徹夜――と言っても、少々は寝るのであるからこの時はさほどに疲労は来なかった。
夜中二時頃お薄を一服のむと精神が鎮まって目がさえる。それから明日の夕飯時ごろまで徹夜の延長をし、夕方お風呂を浴びてぐっすり寝る。すると十二時前に決まって目がさめる。それから絵筆をとって翌日の午後五、六時ごろまで書きつづけるのである。
一週間頑張って招待日にはどうにか運送のほうが間にあったので嬉しかった。
「夕暮」という作品が夜通しの一週間のほとんど夜分に出来上ったということも何かの暗示のように思えるのである。
医者が来てこんどは怒ったような顔をして言った。
「あなたは倒れるぎりぎりまで、やるさかいに失敗するのです。今にひどい目にあいますよ」
無理のむくいを恐れながらも私はいまだに興がのり出すと夜中にまで仕事が延長しそうになるのである。
警戒々々……そんな時には医者の言葉を守ってすぐに筆を擱く。そのかわりあくる朝は誰よりも早く起きて仕事にかかるのである。
一般には画は夜描きにくいものであると言われているが、しかし画を夜分描くことは少しも不思議ではない。
世間の寝静まったころ、芸術三昧の境にひたっている幸福は何ものにも代えられない尊いものである。
ときどき思うことがある。
これだけの無理、これだけの意気地が私をここまで引っ張って来てくれたのであろう……と。
私は無理をゆるされて来たことについて、誰にともなくそのことを感謝することがある。
私の母も人一倍丈夫な体をもっていた。病気というものを知らなかったようである。
若くから働く必要のあった母は、私同様に病気にかまってはいられなかったのであろう。
働く必要が母に健康をあたえてくれたとでも言うのであろう。
母は八十歳の高齢ではじめて床に就き医者をよんだのであるが、その時、脈らしい脈をとって貰ったのはこれが始めてだ、と私にもらしていた。
母は八十六歳でこの世に訣れを告げたのだが、私もまだまだ仕事が沢山あるので寿命がなんぼあっても足らない思いがする。私は今考えている数十点の絵は全部纒めねばならぬからである。
私はあまり年齢のことは考えぬ、これからまだまだ多方面にわたって研究せねばならぬことがかずかずある。
生命は惜しくはないが描かねばならぬ数十点の大作を完成させる必要上、私はどうしても長寿をかさねてこの棲霞軒に籠城する覚悟でいる。生きかわり死にかわり何代も何代も芸術家に生まれ来て今生で研究の出来なかったものをうんと研究する、こんな夢さえもっているのである。
ねがわくば美の神の私に余齢を長くまもらせ給わらんことを――
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奉公をしているおみつのところへ、田舎の母親から小包がまいりました。あけてみると、着物がはいっていました。そして、母親からの手紙には、
「さぞ、おまえも大きくなったであろう。そのつもりでぬったが、からだによくあうかどうかわかりません。とどいたら、着てみてください。もしあわないようでしたら、夜分でもひまのときに、なおして着てください。」と、書いてありました。
おみつは自分のへやにはいって、お母さんからおくってきた着物をきてみました。田舎にいるときには、お正月になってもこんな着物をきたことがなかったと思いました。自分だけでなく、村でもこんな美しい着物をきる娘は、なかったのであります。
彼女は、しばらく自分のすがたに見とれていました。ちょうどそこへ、坊ちゃんが外からたこをとりにはいってきて、おみつのようすを見たので、
「みつ、それを着ると、なんだか田舎の子みたいになるよ。」といって、笑いました。
おみつも、田舎では美しいのであろうけれど、都ではみんながもっと美しい着物を着ているから、あるいはそう見えるかもしれないと思うと、急にはずかしくなって、
「なぜ、お母さんはもっとはでなのをおくってくだきらなかったのだろう? わざわざおくってくださらずとも、自分がすきなのをこちらでこしらえればよかったのに……。」と、心でいいながら、着物をぬいで、行李の中へしまってしまいました。
晩になって、おしごとがおわりました。彼女は自分のへやへはいってひとりになると、しみじみとして田舎のことが考えられました。行李から着物をとりだしました。村からあの峠をこして母親が町へ出て、機屋でこの反物を買い、家にかえってからせっせとぬって、おくってくださったのです。そう考えると、また、いくたびかこのぬいかけた着物を手にとりあげて、
「娘にあうかしら?」と、首をかしげて見入られたであろう母親のすがたさえ、目にうかんでくるのでした。
おみつは、お母さんの手紙を着物の上でひらいて、もういちどよみかえしているうちに、あついなみだが、おのずと目の中からわいてくるのをおぼえました。
「せっかく、おくってくださったのを、気に入らないなどいって、ばちがあたるわ。」
そう思うと、彼女は心からありがたく感じて、すぐにお礼の手紙を書いて、お母さんに出したのでした。
ある日、おみつはお嬢さんのおともをして、デパートへいったのであります。
「そんなじみな着物しかないの?」と、出がけにお嬢さんがおっしゃいました。
おみつは、顔を赤くしましたが、心の中で、お母さんのおくってくださったのを、たとえじみでもなんのはずかしいことがあろうかと、自分をはげましていました。
ひろびろとしたデパートは、いろいろの品物でかざりたてられていました。そして、そこはいつも春でありました。香水のにおいがただよい、南洋できのらんの花がさき、美しいふうをした男や女がぞろぞろ歩いて、まるでこの世の中の苦労を知らぬ人たちの集まりのようでありました。
「みつや、人がみんな、おまえのふうを見ていくじゃないの。そんな田舎ふうをしているからなのよ、みっともないわ。」と、お嬢さんがいいました。
これをきくと、おみつはまだ若い娘だけに、
「いくらお母さんがおくってくださったのでも、ほかの着物を着てくればよかった。」と、思いました。
お嬢さんは買い物をして、その包みをおみつに持たせて、それから食堂にはいっておみつもいっしょにご飯をたべ、コーヒーをのんで、休みました。そして、そこを出ました。
「みつや、東北地方の物産の展覧会があるのよ。きっとおまえの国からも、なにか名物が出ているでしょう。ちょっと見ましょうね。」と、いって、お嬢さんは先になってその会場へおはいりになりました。
おみつも、その後からついてはいりました。
そこには、田舎でつくられたおり物とか、道具とか、おもちゃのようなものがならべられてありました。デパートの他の売り場では見ることができないような、けばけばしくはないが、じみで美しい、おもしろみのある品物がありました。一つ一つ見て歩いていらしったお嬢さんは、ふいに足をとめて、
「ちょっと、ここにならんでいる反物は、おまえの国の町からなのよ。まあ、みつや、この反物は、おまえの着ているのと同じでないこと!」と、お嬢さんはおっしゃいました。
おみつもそれを見ると、しまがらがすこしちがっているだけで、まったく自分のと同じ手おり物でありました。つけてあるねだんを見て、お嬢さんは二度びっくりして、
「まあ、高いのね!」と、大きな声でおっしゃったので、そばにいる人たちまでが陳列された反物とおみつの着物とを見くらべて、この女中さんはなかなかいい着物を着ているのだなといわんばかりの顔つきをしたのであります。
おみつはそれを知ると、はじめて自分がいい着物をきているのを知ってうれしかったというよりか、自分の故郷ではこんないい反物ができるということに、誇りを感じたのでした。やがて、会場からでるとお嬢さんは、
「ごめんなさい。みつの着ているのが、そんないい品だとは知らなかったので、悪口をいってすまなかったわ。」と、いって、おわびをなさいました。
おみつはまた、顔を赤くしました。しかし心のうちでは、喜んでいたのであります。そして、お母さんをほんとうにありがたくなつかしく感じました。
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その昔し、豊臣家が亡びかけてからの事、和寇と云ふものがあつて支那の東南の海岸を荒す、其の勢すさまじく、支那人大に恐れをなして、南清のある孤島に高い〳〵見張所をこしらへて、いつもその見張所の上に番人が居て、和奴来るや否やと眼を皿大にして見て居る。若しそれ、日の丸だとか、丸に二ツ引きだとか、丸に十の字だとか、さう云ふ旗じるしを差上げた船が見えようものなら、和寇来る、と八方に打電(でもあるまいが)したものだと云ふ。その和寇とは一寸ちがふが、北朗襲庵の通知が実は一ヶ月以前から已にその予告があり、殊に最近、北朗自身その例の名筆をふるつて姫路より来信して曰く、姫路の展覧会大成功裡に終りそれから跡片付やらなんとかかんとかして二十六日には正に庵に行くべしと、愈和寇襲来と思つて、毎日〳〵待つたの待たんの。庵のうしろの山に登つては朝来る船、昼来る船……高松から……を眺めて居るが、日の丸の旗処かそんな旗じるしは無い、北朗家の定紋も私は聞いて置かなかつたのだが、一向にそれらしい物騒な船は一つも見えない、只、ブー〳〵と笛をならしてはいつて来ては又ブー〳〵と出て行つてしまふ。こんな風で或は一日や二日位早くやつて来るかも知れぬと心待ちにして居たのだが、絶望に終り、遂に二十六日となつてしまつた。二十六日は北朗自身で知らして来た日故、之はまちがひあるまいと思つて待つた待つた。処が、朝の船でも来ない、昼の船でもやつて来ない、たうとう夜になつてしまつた、……とてもイマ〳〵しくなつて来て、こんな時の不平はいつでも井師の処にもつて行くのが私の憲法となつてるもんだから、遂に井師の処に一本ハガキをとばして曰く、北朗といふ男は「ソノチナンジツク」と云ふ打電の便利があると云ふ事を知らぬ男と見える、待つ身を想像されたし、こんなに待たせるやうなら、イツソ来ぬ方がよし云々……之は後日話しだが、其後井師から「京都ニハ電報アリ」云々と云つて、わざ〳〵頼信紙へ書いたものを三銭で封入した手紙が来たので一人で腹をかゝへた事であつた。此の話しを北朗にして聞かせたら、北朗その時の云ひ草に曰く、人間が予定と云ふもので行動すると身体をいためるネ……放哉その時正にあいた口がふさがらず只なるほど、北朗と云ふ男は芸術家だなあ……と大に感心した事であつた。人間予定で動くとからだを毀すからネとは正に人を喰つた話しなれども、彼れ北朗の芸術味は正に茲にこゝにありとつく〴〵感心してしまつた。放哉と云ふ男……、一寸見るとダラシの無い男のやうだが、此の予定の行動と云ふ事は今迄ずい分馴らされて来て居る、所謂腰弁生活の時代に、支店や出張所や代理店やの間を旅行するとき、旅館にとまると、マヅ真つ先きに電報用紙を出して来て、昨日の店に今此の地に着いたと云ふ礼状の電報、それから明日行く店に、明日何時にその地に行くと云ふ電報之丈を打電してしまつてから扨……酒となり飯になるといふわけ……此の癖が未だに残つて居るものと見えて北朗が電報打つて来ないので少々中ツ腹になつて居たものなり、そこで、扨、夜となり、井師にハガキを送り……処が此の四五日前から私の肩が非常にこる普通のこり方ではないので、実にイヤなこり方だ、これは私の病気のセイから来るのでもあるが、益ひどくなつて来たので、こんな時には按摩さんにもんでもらつて寝た方がよいと思ひ付いて、村の按摩さんを呼んで来て、これから愈もんでもらふとなつた途端に、ガラ〳〵と障子をあけて、ヒヨコ〳〵と這入つて来た者あり……北朗正に夜中に出現せり……全くこれでは和寇以上であり、正に夜中の押し込みである呵々……扨愈北朗出現……処がこれからが又頗るダラシの無いもので、(按摩さんは勿論直ちにいんでもらふ)「オイ、何故もつと早く来なかつたのだい、待つたぜ、待つたぜ」、「ウン船の出る時間がよくわからなかつたもんだから」……これでお終ひ、今迄長たらしくダラ〳〵書いて来た事は、たつた此の一ト口宛の会話でそれでお終ひとはなんと云ふダラシの無い事だらう。扨それからの一幕(之は井師には秘密)「オイ、これを持つて来たぜ」……北朗のふところからコロ〳〵と上等な正宗の二合瓶が出て来る、「イヤさうだらうと思つて居た処サ、実はあんまり待ちくたびれて、サツキ、ちよいと買つて来てちよいとやつた処だよ」両人顔を見合せてアハヽヽヽそして大に声をひそめて放哉曰く「コレは井師には内密だよ、井師を心配させるとこの身を切られるやうだよ」、北朗同じく声を低くして「ソヲトモナ、〳〵」……之で第一幕終り。
扨北朗昼間来てくれると大に都合がよかつたのだが、今は夜、と云ふのは庵には布団無し喰べものは焼キ米とお粥ばかりだから、於茲放哉嬉しまぎれに病躯を引つさげて、前の石屋さんの亭主にたのみ込み布団を借りて来てもらふ様に交渉してまづ之で一方は一安心、扨扨喰べ物……此の時北朗「ワシはパンを持つて来たよ」、よし〳〵之でまづ片つ方も安心、北朗又曰く「処でね放哉、わしは五日間庵にとまるよ」愈出でゝ愈彼は芸術家なるかな、「とまるのは何日でもかまはぬが、イヤに落付いたネ、第一妻君が待つとるぢやないか」、実は放哉、北朗のこと故、多分一晩位庵にとまつて、大急ぎであの可愛いゝ妻君の顔を見にかへる位なとこだらうと思つて居たのだ、「イヤそれがね、実は姫路の展覧会の収入を全部妻君に持たせて返してしまつたので、北朗カラツけつ也、故に妻君は大に安心してると云ふわけだ」、「ウフ……さうか、さうか、わかつた、わかつた」、「ソレニネ今一度丸亀市で展覧会を開いて大に四国人の壺に対する識見の蒙を啓かうといふ考なのだ」、「さう云ふ事なら何日でも居てくれ、そして二人で大に句作しようぢやないか」、「その事その事、わしも大に君と句作しようと思つてやつて来たのだ」、「さうか〳〵」、之より両人あれこれと積る話を交した後、まだ夜中と云ふわけでも無いのだから、これから西光寺さんと井上家とを訪問して、放哉がお世話になつて居る御礼を北朗に申してもらふ事と話しがきまつて二人で夜中に出かける。「西光寺サンてどんな人だい」、「それは、とても、エライ坊さんだよ、マアあつて見給へ」……之は後日話しなれ共北朗出発する時曰く、西光寺の和尚さんはエライ人だなあメツタに見た事が無い云々……これから西光寺さんと、井上家とを訪問して(一二君上阪中にて留守)帰つて庵で寝る、此の間に西光寺さんから北朗のために上等の布団が持つて来てあつたので、北朗全くホクホク物でその布団のなかにはいつて寝た。……今夜の庵の賑かなことかな、但之も亦五日後にはモトの静寂の庵に帰らなければならない、イヤそんな事思ふまい思ふまい。
日日是好日の筈では無いか、……放哉もいつしか寝込んでしまふ。扨これから北朗五日庵に居たのだけれ共、今書かうと思つても書くことが無い、不思議なことだが、なんにも無いやうな気がする、マトマツタ事がなんにも無い、只馬鹿な顔をして、二人でゴタ〳〵してニコ〳〵して居たものと見える、第一、放哉も北朗も、ソレ程意気込んで居た句が一句も出来なんだことを以つて見ても、たゞ、ボンヤリして喜んで居たことが解ると思ふ。中津の同人、丁哉氏が送つて来てくれた、小供が三人で蟹に小便かけて居る絵を壁にはり付けて放哉が毎日見て喜んで居るのだが、之を二人で眺めては、只五日間と云ふものニコ〳〵、ゴタ〳〵、して居たものと見える、強ひて個条書きにでもして見れば、次のやうな事があつたやうに思ふ。――
△北朗、毎朝お経をあげてくれて、放哉大に感銘せしこと、そして北朗の読経中々うまくなつたこと。
△北朗の朝寝坊と寒がりとには、放哉あきれながら成る程〳〵と思へり、それは、女房を持つてる奴は贅沢だなあ……と云ふこと。
△北朗一日寒霞渓に至りおみやげに紅葉の枝をもつて帰る、それが甚だ汚ない紅葉、放哉未だ寒霞渓を知らず、其の紅葉を活けてながめて居ること。
△北朗、放哉の手の黒いのを見て(垢で)如何に女に近づかぬからとてアンマリひどいと云ふ、処が放哉茲三ヶ月間一度も風呂にはいつた事がないので当り前也、洗へば白くなるのは茲だよとて大笑せしこと。
△北朗来の翌日より井上家から毎日、御馳走をもつて来て下さる、(一二君のオツ母さんと云ふ人が実に料理の妙手で専門家正にはだし也)北朗は勿論、放哉大に悦に入りて毎日いただいたこと。
以上位なものであらうか、北朗全く和寇の如く、風の如く来り而して又風の如く去る、北朗、あの芸術家の北朗よ健在なれ、放哉いつ又君に逢へることやらな。
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「あなた、冷えやしませんか。」
お柳は暗夜の中に悄然と立って、池に臨んで、その肩を並べたのである。工学士は、井桁に組んだ材木の下なる端へ、窮屈に腰を懸けたが、口元に近々と吸った巻煙草が燃えて、その若々しい横顔と帽子の鍔広な裏とを照らした。
お柳は男の背に手をのせて、弱いものいいながら遠慮気なく、
「あら、しっとりしてるわ、夜露が酷いんだよ。直にそんなものに腰を掛けて、あなた冷いでしょう。真とに養生深い方が、それに御病気挙句だというし、悪いわねえ。」
と言って、そっと圧えるようにして、
「何ともありはしませんか、又ぶり返すと不可ませんわ、金さん。」
それでも、ものをいわなかった。
「真とに毒ですよ、冷えると悪いから立っていらっしゃい、立っていらっしゃいよ。その方が増ですよ。」
といいかけて、あどけない声で幽に笑った。
「ほほほほ、遠い処を引張って来て、草臥れたでしょう。済みませんねえ。あなたも厭だというし、それに私も、そりゃ様子を知って居て、一所に苦労をして呉れたからッたっても、姉さんには極が悪くッて、内へお連れ申すわけには行かないしさ。我儘ばかり、お寝って在らっしゃったのを、こんな処まで連れて来て置いて、坐ってお休みなさることさえ出来ないんだよ。」
お柳はいいかけて涙ぐんだようだったが、しばらくすると、
「さあ、これでもお敷きなさい、些少はたしになりますよ。さあ、」
擦寄った気勢である。
「袖か、」
「お厭?」
「そんな事を、しなくッても可い。」
「可かあありませんよ、冷えるもの。」
「可いよ。」
「あれ、情が強いねえ、さあ、ええ、ま、痩せてる癖に。」と向うへ突いた、男の身が浮いた下へ、片袖を敷かせると、まくれた白い腕を、膝に縋って、お柳は吻と呼吸。
男はじっとして動かず、二人ともしばらく黙然。
やがてお柳の手がしなやかに曲って、男の手に触れると、胸のあたりに持って居た巻煙草は、心するともなく、放れて、婦人に渡った。
「もう私は死ぬ処だったの。又笑うでしょうけれども、七日ばかり何にも塩ッ気のものは頂かないんですもの、斯うやってお目に懸りたいと思って、煙草も断って居たんですよ。何だって一旦汚した身体ですから、そりゃおっしゃらないでも、私の方で気が怯けます。それにあなたも旧と違って、今のような御身分でしょう、所詮叶わないと断めても、断められないもんですから、あなた笑っちゃ厭ですよ。」
といい淀んで一寸男の顔。
「断めのつくように、断めさして下さいッて、お願い申した、あの、お返事を、夜の目も寝ないで待ッてますと、前刻下すったのが、あれ……ね。
深川のこの木場の材木に葉が繁ったら、夫婦になって遣るッておっしゃったのね。何うしたって出来そうもないことが出来たのは、私の念が届いたんですよ。あなた、こんなに思うもの、その位なことはありますよ。」
と猶しめやかに、
「ですから、最う大威張。それでなくッてはお声だって聞くことの出来ないのが、押懸けて行って、無理にその材木に葉の繁った処をお目に懸けようと思って連出して来たんです。
あなた分ったでしょう、今あの木挽小屋の前を通って見たでしょう。疑うもんじゃありませんよ。人の思ですわ、真暗だから分らないってお疑ンなさるのは、そりゃ、あなたが邪慳だから、邪慳な方にゃ分りません。」
又黙って俯向いた、しばらくすると顔を上げて斜めに巻煙草を差寄せて、
「あい。」
「…………」
「さあ、」
「…………」
「邪慳だねえ。」
「…………」
「ええ!、要らなきゃ止せ。」
というが疾いか、ケンドンに投り出した、巻煙草の火は、ツツツと楕円形に長く中空に流星の如き尾を引いたが、𤏋と火花が散って、蒼くして黒き水の上へ乱れて落ちた。
屹と見て、
「お柳、」
「え、」
「およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。」
と重々しく且つ沈んだ調子で、男は粛然としていった。
「女房ですから、」
と立派に言い放ち、お柳は忽ち震いつくように、岸破と男の膝に頬をつけたが、消入りそうな風采で、
「そして同年紀だもの。」
男はその頸を抱こうとしたが、フト目を反らす水の面、一点の火は未だ消えないで残って居たので。驚いて、じっと見れば、お柳が投げた巻煙草のそれではなく、靄か、霧か、朦朧とした、灰色の溜池に、色も稍濃く、筏が見えて、天窓の円い小な形が一個乗って蹲んで居たが、煙管を啣えたろうと思われる、火の光が、ぽッちり。
又水の上を歩行いて来たものがある。が船に居るでもなく、裾が水について居るでもない。脊高く、霧と同鼠の薄い法衣のようなものを絡って、向の岸からひらひらと。
見る間に水を離れて、すれ違って、背後なる木納屋に立てかけた数百本の材木の中に消えた、トタンに認めたのは、緑青で塗ったような面、目の光る、口の尖った、手足は枯木のような異人であった。
「お柳。」と呼ぼうとしたけれども、工学士は余りのことに声が出なくッて瞳を据えた。
爾時何事とも知れず仄かにあかりがさし、池を隔てた、堤防の上の、松と松との間に、すっと立ったのが婦人の形、ト思うと細長い手を出し、此方の岸を気だるげに指招く。
学士が堪まりかねて立とうとする足許に、船が横ざまに、ひたとついて居た、爪先の乗るほどの処にあったのを、霧が深い所為で知らなかったのであろう、単そればかりでない。
船の胴の室に嬰児が一人、黄色い裏をつけた、紅の四ツ身を着たのが辷って、彼の婦人の招くにつれて、船ごと引きつけらるるように、水の上をするすると斜めに行く。
その道筋に、夥しく沈めたる材木は、恰も手を以て掻き退ける如くに、算を乱して颯と左右に分れたのである。
それが向う岸へ着いたと思うと、四辺また濛々、空の色が少し赤味を帯びて、殊に黒ずんだ水面に、五六人の気勢がする、囁くのが聞えた。
「お柳、」と思わず抱占めた時は、浅黄の手絡と、雪なす頸が、鮮やかに、狭霧の中に描かれたが、見る見る、色があせて、薄くなって、ぼんやりして、一体に墨のようになって、やがて、幻は手にも留らず。
放して退ると、別に塀際に、犇々と材木の筋が立って並ぶ中に、朧々とものこそあれ、学士は自分の影だろうと思ったが、月は無し、且つ我が足は地に釘づけになってるのにも係らず、影法師は、薄くなり、濃くなり、濃くなり、薄くなり、ふらふら動くから我にもあらず、
「お柳、」
思わず又、
「お柳、」
といってすたすたと十間ばかりあとを追った。
「待て。」
あでやかな顔は目前に歴々と見えて、ニッと笑う涼い目の、うるんだ露も手に取るばかり、手を取ろうする、と何にもない。掌に障ったのは寒い旭の光線で、夜はほのぼのと明けたのであった。
学士は昨夜、礫川なるその邸で、確に寝床に入ったことを知って、あとは恰も夢のよう。今を現とも覚えず。唯見れば池のふちなる濡れ土を、五六寸離れて立つ霧の中に、唱名の声、鈴の音、深川木場のお柳が姉の門に紛れはない。然も面を打つ一脈の線香の香に、学士はハッと我に返った。何も彼も忘れ果てて、狂気の如く、その家を音信れて聞くと、お柳は丁ど爾時……。あわれ、草木も、婦人も、霊魂に姿があるのか。
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9組が、昔ながらのおやつづくりを体験しました
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詩や、空想や、幻想を、冷笑する人々は、自分等の精神が、物質的文明に中毒したことに気付かない人達です。人間は、一度は光輝な世界を有していたことがあったのを憫れむべくも自ら知らない不明な輩です。
芸術は、ほんとうに現実に立脚するものです。童話は、芸術中の芸術であります。虚無の自然と生死する人生とを関連する不思議な鍵です。芸術の中でも、童話は小説などと異って、直ちに、現実の生命に飛び込む魔術を有しています。
童話は、全く、純真創造の世界であります。本能も、理性も、この世界にあっては、最も自由に、完美に発達をなし遂げることが出来るのであります。何者の権力を以てしても、この自由を束縛することができない。
私は、童話の世界を考えた時に、汚濁の世界を忘れます。童話の創作熱に魂の燃えた時に、はじめて、私の眼は、無窮に、澄んで青い空の色を瞳に映して、恍惚たることを得るのであります。
私を、現実の苦しみから救うものは、逃避でもなく、妥協でもなく、また終わりなき戦いでもなく、全く、創造の熱愛があるからです。私は、創造のために、いかなる戦いも辞せない。
私達が、この現実に於て、あらゆる方面や、形に於て戦うということは、畢竟、その後に来るべき、新世界を目的とするがためであります。
美の世界、正義の世界、親愛の世界、人類共楽の世界、それを眼に描かず、憧れず、また建設の誠実なき人々には、純真な童話の世界も、また決して、分かるものでない。
小供の勇気を見よ。冒険を信ぜよ。子供のすべてはロマンチシストであった。なんで、人間は、大きくなって、この心を有しないのか。そして、旧習慣、常套、俗悪なる形式作法に囚われなければならぬのか。
塵埃に塗れた、草や、木が、風雨を恋うるように、生活に疲れた人々は、清新な生命の泉に渇するのであります。詩の使命を知るものは、童話が、いかに、この人生に重大な位置にあるかを考えるでありましょう。
新人生建設のために、私達は、新芸術の使命と権威を考えなくてはならない。
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彼女のからだは、もう腰から下、水に漬かっていました。
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武田さんは大阪の出身という点で、私の先輩であるが、更に京都の第三高等学校出身という点でもまた私の先輩である。しかも、武田さんは庶民作家として市井事物一点張りに書いて来た。その点でも私は血縁を感じている。してみれば、文壇でもっとも私に近しい人といえば、武田さんを措いて外にない。いわば私の兄貴分の作家である。そしてまた、武田さんは私の「夫婦善哉」という小説を、文芸推薦の選衡委員会で極力推薦してくれたことは、速記に明らかである。当時東京朝日新聞でも「唯一の大正生れの作家が現れた」という風に私のことを書いてくれた。「夫婦善哉」を小山書店から出さないかというような手紙もくれた。思えば、私の恩人である。
私にもっとも近しい、そして恩人である作家を、突如として失ってしまった、私はもう言うべきことを知らない。私としても非常に残念で痛惜やる方ないが、文壇としても残念であろう。しかし最も残念なのは、武田さんの無二の親友である藤沢さんであろう。新聞で武田さんの死を知った時、私は一番先きに想い出したのは藤沢さんのことであった。私は藤沢さんを訪ねるとか、手紙を出すかして、共に悲哀を分とうと思ったが、仕事にさまたげられたのと、極度の疲労状態のため、果せなかった。莫迦みたいに一人蒲団にもぐり込んで、ぼんやり武田さんのことを考えていた。特徴のある武田さんの笑い声を耳の奥で聴いていた、少し斜視がかったぎょろりとした武田さんの眼を、胸に泛べていた。
最も残念だったのは藤沢さんであろうと、書いたが、しかし、それよりも残念だったのは当の武田さん自身であったろう。死に切れなかったろうと思う。不死身の麟太郎といわれていた。武田さんもそれを自信していた。まさか死ぬとは思わなかったであろう。死の直前、あッしまった、こんな筈ではなかったと、われながら不思議であったろう。わけがわからなかったであろう。観念の眼を閉じて、安らかに大往生を遂げたとは思えない。思いたくない。あの面魂だ。剥いでも剥いでも、たやすく芯を見せない玉葱のような強靱さを持っていた人だ。ころっと死んだのだ。嘘のように死んだのだ。武田さんはよくデマを飛ばして喜んでいた。南方に行った頃、武田麟太郎が鰐に食われて死んだという噂がひろがった。私は本当にしなかった。武田麟太郎が鰐を食ったのなら判るが、鰐に食われるようなそんな武麟さんかねと笑った。たぶん武田さんが自分でそんなデマを飛ばし、それが大阪まで伝わって来たのではないかと思った。だからこんどの急死も武田さんが飛ばしたデマじゃないかと、ふと思ってみたりする。
死因は黄疸だったときく。黄疸は戦争病の一つだということだ。新大阪新聞に連載されていた「ひとで」は武田さんの絶筆になってしまったが、この小説をよむと、麹町の家を焼いてからの武田さんの苦労が痛々しく判るのだ。不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。「田舎者東京を歩く」というような文章を書いていた。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったのだ。戦争が武田さんを殺したのだ。
絶筆の「ひとで」を私はその新聞の文化欄でほめて置いた。武田さんでなければ書けない新聞小説だと思ったのだ。新聞小説としては面白い作品とは言えなかったであろう。しかし、激しい世相の中に身を置いた武田さんの正直さがそのままにじみ出ているような作品であった。その正直さはふと律儀めいていた。一見武田さんに似合わぬ律儀さであった。が、これが今日の武田さんの姿としてそのまま受け取って、何の不思議もないと私は見ていた。不死身の麟太郎だが、しかしあくまで都会人で、寂しがりやで、感傷的なまでに正義家で、リアリストのくせに理想家で――やっぱりそんな武田麟太郎が「ひとで」の中に現れていた。悲しい姿であった。日本が悲しくなってしまったように、武田さんも悲しくなってしまっていた。その悲しさを、いつもの武田さんは自分で殺していた。人には見せなかった。ところが、ふとそれが現れてしまったのだ。通り魔のように現れたのだ。そして通り魔のうしろには死神がついていた。うしろには鬼がいるにきまっているとは、横光さんの言葉で、武田さんもよくこの言葉を引用していた。
しかし、そんな悲しい武田さんを想像することは今は辛い。やはり、武田麟太郎失明せりというデマを自分で飛ばしていた武田さんのことを、その死をふと忘れた微笑を以て想いだしたい。失明したというのは、実はメチルアルコールを飲み過ぎたのだ。やにが出て、眼がかすんだ。が、そのやにを拭きながら、やはり好きなアルコールをやめなかった。自分でも悪いと思っていたのだろう。だから自虐的に、武田麟太郎失明せりなどというデマを飛ばして、腹の中でケッケッと笑っていた。そんな武田さんが私は何ともいえず好きだった。ピンからキリまでの都会人であった。
去年の三月、宇野さんが大阪へ来られた時、ある雑誌で「大阪と文学を語る座談会」をやった。その時、武田さんの「銀座八丁」の話が出た。宇野さんは武田さんのものでは「銀座八丁」よりも「日本三文オペラ」や「市井事」などがいいと言っておられたように記憶している。これらの作品は武田さんの二十代か三十二三の頃のものであった。近頃の三十歳前後の作家は何をボヤボヤしているかと言いたいくらい、これらの作品は優れている。が、武田さんは「日本三文オペラ」から「銀座八丁」のリアリズムを通って、遂に「雪の話」一巻の象徴の門に辿りついた。「雪の話」は小説の中の小説であった。宇野浩二――川端康成――武田麟太郎、この大阪の系統を辿って行くと、名人芸という言葉が泛ぶ。たしかに、宇野、川端以後の小説上手は武田麟太郎であった。この大阪の系統が文壇に君臨している光景は、私たち大阪の末輩にとってはありがたいことであった。宇野、川端以後の武田麟太郎――といえるのは、しかし「雪の話」一巻が出てからではなかったか。巧い、巧い、巧すぎるほどの「雪の話」であった。
「雪の話」以後、武田さんは南方へ行き、沈黙した。報導班員として武田さんほど何も書かなかった作家は稀有である。奥床しい態度であった。帰還後一、二作発表したが、武田さんの野心はまだうかがえなかった。象徴の門の入口まで行って、まだ途まどいしていた。終戦になった。私は武田さんは何を書くだろうかと、眼を皿にしていた。そして眼に触れたのが「新大阪新聞」の「ひとで」であった。立派なものであったが、武田さんの新しいスタイルはまだ出ていなかった。しかし、私は新しいスタイルの出現を信じていた。今日の世相が書ける唯一の作家としての、武田さんの新しいスタイル――混乱期の作品らしいスタイル――「雪の話」の名人芸を打ち破って溢れ出るスタイルを待望していた。そんな作品がどこかの雑誌に載りはしないだろうかと待っていた。「人間」や「改造」や「新生」や「展望」がどうして武田さんの新しい小説を取らないのかと、口惜しがっていた。私は誇張して言えば、毎日の新聞の雑誌広告の中に武田さんの名を見つけようとして、眼を皿にしていた。(これは私一人ではあるまい)そして、見つけたのは「武田麟太郎三月卅一日朝急逝す」
死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか。東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの効果しかない下手糞な金融非常処置をするような政府が未だに存在していたり、近年はかえすがえすも取り返しのつかぬような痛憤やる方ないことのみが多いが武田さんの死もまた取りかえしのつかぬ想いに私をうろたえさせる許りで、私は暫らく蒲団をかぶって「方丈記」でも読んでいたい。「方丈記」を読みながら、武田さんと一緒に明かした吉原の夜のことでも想いだしていたい。あんな時もあったのだ。(四月五日)
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私は〜と感じました
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燕雀生といふ人、「文芸春秋」三月号に泥古残念帖と言ふものを寄せたり。この帖を見るに我等の首肯し難き事二三あれば、左にその二三を記し、燕雀生の下問を仰がん。
(一)春台の語、老子に出でたりとは聞えたり。老子に「衆人熙々。如享太牢。如登春台」とあるは疑ひなし。然れども春台を「天子が侍姫に戯るる処」とするは何の出典に依るか。愚考によれば春台は礼部の異名なり。礼部は春台の外にも容台とも言ひ、南省とも言ひ、礼闈とも言ふ。春の字がついたとて、いつも女に関係ありとは限らず。宋の画苑に春宮秘戯図ある故、枕草紙を春宮とも言へど、春宮は元来東宮のことなり。
(二)才人を女官の名とするも聞えたり。才人の官、晉の武帝に創り、宋時に至つて尚之を沿用す。然れども才子を才人と称しても差支へなきは勿論なり。辞源にも「有才之人曰才人。猶言才子」とあるを見て知るべし。燕雀生は必しも才人と言つてはならぬと言はず、しかしならぬと言はぬうちにもならぬらしき口吻あれば、下問を仰ぐこと上の如し。
(三)佐藤春夫、「キイツの艶書の競売に附せらるる日」と題する詩を賦したりとは聞えず。賦すとは其事を陳ずるなり。転じて只詩を作るに用ふ。然れども、キイツ云々の詩はオスカア・ワイルドの作なれば、佐藤春夫の賦す筈なし。それを賦したと言はれては、佐藤春夫も迷惑ならん。賦すに訳すの意ありや否や、あらば叩頭百拝すべし。
(四)門下を食客の意とは聞えたり。平原君に食客門下多かりし事、史記にあるは言ふを待たず。然れども後漢書承宮伝に「過徐盛慮聴経遂請留門下」とあり。門弟子の意なるは勿論なり。然らば誰それの門下を以て居るも差支へなき筈にあらずや。「青雲の志ある者の軽々しく口にすべき語にあらず」とは燕雀生の独り合点なり。
文芸春秋の読者には少年の人も多かるべし。斯る読者は泥古残念帖にも誤られ易きものなれば、斯て念には念を入れて「念仁波念遠入礼帖」を艸すること然り。
大鵬生
(大正十四年四月)
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一
お嬢さんの持っていましたお人形は、いい顔で、めったに、こんなによくできたお人形はないのでしたが、手もとれ、足もこわれて、それは、みるから痛ましい姿になっていました。
けれど、お嬢さんは、そのお人形に美しい着物をきせて、本箱の上にのせておきました。かわいらしい顔つきをしたお人形は、いつでもにこやかに笑っていました。そして、あちらに、かかっている柱時計を小さな黒い目でじっと見つめていたのです。
お人形には、このお嬢さんのへやのうちが、広い世界でありました。まだ、これよりほかの世の中を見たことがありません。それでお人形は、満足しなければならなかったのです。なぜなら、このへやは、住みよくて、そして、ここにさえいれば、まことに安心であったからでありました。
「どうか、いつまでもここに置いてくださればいい……。」と、お人形は、思っているようにさえ見えました。
ほんとうに、平常は、そんな不安も感じないほど、このへやの中は平和で、お嬢さんの笑い声などもして、にぎやかであったのです。
ある日のこと、お嬢さんは、本箱の中をさがして、なにかおもしろそうな書物はないかと、頭をかしげていましたが、そのうちに、気が変わって、お人形に目を向けました。
「お人形の着物も、だいぶ色が褪めてしまったこと。こんどお母さんに、いいお人形を買っていただきましょう……。」そういいながら、手に取りあげて、お人形を見ますと、お人形の手はとれ、足もないので、お嬢さんはいい気持ちはしませんでした。
「いくらいいお人形だって、また、どんなにいい顔だって、こんな不具なものはしかたがないわ。」
そういって、お嬢さんは、お人形を机のそばにおいたくずかごの中へいれてしまいました。
お人形は、くずかごの中にいれられて、半日ほどそのかごの中にいました。もう、ここでは、いままで毎日のように見た時計を見ることもできません。くずかごの中は、うす暗く、それに息づまるように狭苦しくありました。ただ、そこにいる間は、なつかしいお嬢さんの唄の声を聞いたのでありましたが、その顔を見ることはできませんでした。
そのうちに、下女が、このへやにはいってきて、あたりをそうじしました。そして、最後に机のそばにあったくずかごを持って、はしご段を降りてゆきました。
はしご段を降りたことは、お人形にとって、知らない世界へいよいよ出ていったことになります。いままで、長い間住みなれた、平和な、にぎやかな、明るい、変わったことの何事もなかった、このへやに別れを告げて、思いがけもない、まだ見もしない、知りもしない、世界に出てゆくことになったのでした。そして、そのことは、人形ばかりでなく、お嬢さんもこれから、いままでかわいがった、自分のお人形がどうなるかということは、考えつかなかったことでありました。
二
下女は、無神経に、くずかごを外の大きなごみ箱のところへ持っていって、すっかりその箱の中へ捨ててしまいました。くずかごの中に、いったいどんなものがはいっているかということも、そのときは頭に考えずに、まったくほかのことを思っていました。そして、下女は、ふたをしてしまいました。
ごみ箱の中で、お人形は、黄色なみかんの皮や、赤いりんごの皮や、また、魚の骨や、白い紙くずや、茶がらなどといっしょにいましたが、もとより箱の中には、光線がささないから、真っ暗でありました。
こうして、そこにお人形は、幾日ばかりいましたでしょう。もはや、そこでは、時計も見えなければ、また、あのなつかしいお嬢さんの唄の声も聞くことができませんでした。
そのうちに、そうじ人がやってきました。彼は、箱のふたを開けると、大きなざるの中へ、箱の中のごみをすっかりあけてしまいました。そして、それを車の上についている大きな箱に移してしまいました。お人形は、ごみの中にうずまってしまったのです。
これから、自分は、どんなところへ持ってゆかれるのか、お人形の小さな頭の中では、想像もつかなかったのであります。ただ、そのうちに車がゴロゴロと動きはじめたのを知るばかりでありました。
この車が、街の中を通り、街を出はずれてから、道のわるい、さびしい村の方へはいっていったことも、もとよりお人形にはわかりませんでした。
やがて、この大きなごみ箱をのせた車は、あるさびしい郊外のくぼ地に着くと、そこのところでとまりました。そして、たくさんのごみといっしょくたに、くぼ地の中へあけられました。くぼ地には、こうして運ばれてきたごみが、すでにうずたかく積まれていましたけれど、まだそのくぼ地をうずめてしまうまでにはなりませんでした。
そうじ人は、ごみための箱の中のごみをあけてしまうと、空き車を引いて、あちらへ帰ってゆきました。お人形は、くぼ地の中へ仰向けにされて、ほかのごみくずの蔭になって捨てられていたのであります。
「ああ、ここはどこだろう?」と思って、お人形は、あたりを見ますと、さびしい野原の中で、上には、青空が見えたり、隠れたりしていました。そして、寒い風が吹いていました。そばに、雑木林があって、その葉の落ちた小枝を風が揺すっているのでした。
お人形は、寒くて、寂しくて、悲しくなりました。いままでいたお嬢さんのへやが、恋しくなりました。本箱の上に、平和で、雨や、風から遁れて、まったく安心していられた時分のことを思い出して、なつかしくてなりませんでした。そして、どうしたら、ふたたび、お嬢さんのそばへゆき、あの住みなれたへやに帰られるだろうかと思っていました。
ある晩のことです。お嬢さんは、ふと、いままで本箱の上に置いた、お人形のことを思い出していました。そして、下女を呼んで、
「あれから、ごみ屋さんがきて?」といって、たずねました。
「今朝きて、すっかり持っていってしまいました。」と、下女は答えました。
お嬢さんは、人形の行方を思ったのでした。しかし、それは、どこへ、どうなってしまったものか、ほとんど想像のつかないことでした。
「つい、二、三日前まで、私といっしょにこのへやの中にいたのに……。」と思うと、お嬢さんは、ほんとうにかわいそうなことをしたものと後悔したのであります。
捨てられたお人形は、一晩、ものさびしい野原の中で、露宿しました。嵐の音をきいておそれていました。気味悪く光る星影を見ておののいていました。しかし、幸いに、雨が降らずにいましたから、着物は霜で白くなりましたけれど、そんなにぬれずにすみました。
夜が明けると、雑木林のこちらへ差し出た枝に、からすがきて止まって、鳴いていました。これを見ながら、お人形は、お嬢さんはいま時分、起きて、学校へゆく支度をなさっているだろう? などと思っていました。
三
その日の昼ごろのことであります。どこからかみすぼらしいふうをした、乞食の子が、このごみためへはいってきました。そして、ごみを分けて、なにかないかとあさっていました。乞食の子はかん詰めの空いたのや、空きびんなどを撰っていますうちに、お人形を見つけて、手に取りあげました。そして、これを袋の中へいれて、街の方へと歩いてゆきました。
ごみための中から、去ったお人形は、この後どうなるだろうと、袋の中で思っていました。
乞食の子は、街の方へ歩いてゆきました。そして、町はずれにあった、一軒の小さな家の前へくると、その家をのぞいて声をかけたのです。その家は、店さきに、いろいろの泥人形を並べていました。家の中から、おじいさんが顔を出しました。すると、子供は、袋の中から、拾ってきた人形を取りだして、おじいさんに見せました。おじいさんは、手にとって、それをながめますと、
「ああ、これはいい人形だ。私が、手足をつけて、ひとつりっぱな人形にこしらえてみせよう。」といって、子供に、いくらかの金をやりました。子供は、喜んであちらへ去りました。
お人形が、人の好いおじいさんの仕事場へつれてゆかれました。その仕事場には、いろいろ、さるや、犬や、人や、また、ねこなどの形が造られていました。これらの粘土細工は、驚いた顔つきをして、急に、その仕事場へはいってきた派手な着物を着たお人形を見つめているようすでした。
おじいさんは、眼鏡をかけて、このお人形の手を造り、足を造ってくれました。そうして、その手や、足を、ちょうど顔の色と同じように、白く塗ってくれました。お人形は、これで、どうやら、不具でない、満足の姿になったのであります。
「ああ、こうなればりっぱなものだ。顔がきれいなのだから、きっと、だれか目につけるにちがいない……。」といって、おじいさんは、この人形を自分の家の小さな店さきに、ほかのおもちゃといっしょに並べておきました。
お人形は、お嬢さんから着せてもらったままの着物でありましたが、手足ができて、満足な姿になると、いくらか色の褪せた着物も、なかなかりっぱに見えたのであります。
お人形は、この家の店ききに並べられてからは、あの野原のくぼ地に捨てられたような心細さは感じなかったけれど、いつまでも、お嬢さんのへやにいた時分のことを忘れることはできなかったのです。そして、行く末のことなどを考えると、希望もひらめきましたが、また心細くもありました。自分がこんな満足な姿になったのを、もしや、お嬢さんが、この家の前を通りかかってごらんになったら、ふたたび連れて帰ってくださらないものでもないと、さまざまに思って、お人形は、その日、その日、家の前を通る人々をながめていました。
――一九二四・一二――
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大政翼賛会文化部を中心に「隣組文化運動」に関する懇談会が開かれた。問題は主として町内会の運営に文化方面の考慮がもつと払はれなければならぬこと――隣組の性格によつて、いはゆる文化的な要素を多分にもつてゐるところは、おのづからさういふ運動の機運が起つてゐるけれども、逆に文化的要素の少いところほど、実は、その必要があるにも拘はらず、機運の醸成が困難であつて、これをなんとかしなければならぬといふ点にあつたやうである。
出席者はそれ〴〵町内会長またはその役員、隣組長の肩書をもつた人々であつて、いづれも文化的職能の専門家である。その発言には具体的に経験を織り込んだ傾聴すべき意見も間々あつたが、しかし、私が特にこの懇談会を通じて感じたことは、かういふ人々の専門的な智能が町内会や隣組の運営に直接役立つといふよりも、むしろ、概ね理想主義的傾向をもつこれらの人々の、名利をはなれた情熱と良心、現実的な問題を処理する微妙なコツ――いひかへれば、人間心理の洞察力と生活感情の豊かさが、知らず識らず、事務を事務に終らせないで、一般の自発的協力を導きだす強味になつてゐるのではないかといふことである。
文化運動の出発点は実にこゝにあるのであつて、仮に国策として要求された、ある種の実践運動がいはゞ「物質的」或は「経済的」な問題に属してゐても、これを次ぎ次ぎに徹底させ、効果をあげて行くためには、どうしても「文化運動」としての一面がこれに加はらなければならぬと私はかねがね信じてゐる。それはつまり簡単にいへば「表現の魅力」といふことである。言葉の綾といふやうなものでは絶対になく、人間の心と心とが触れ合ひ、そこに美しい共感の生じるやうな表現をもつて愬へかけることが絶対に必要である。
戦時下文化運動の目的は、地域的にはもちろん、生活力の強化になければならぬ。それを離れて単なる教養も娯楽もないのである。そして、生活力の強化は単に一時凄ぎといふやうな消極的な方策によつてかち得られるものではない。是非とも、目標を遠きにおいて隣組なら隣組の家族化、町内会なら町内の郷土化といふ方向に向けられなければならぬと思ふ。そこにはじめて、個人、家族、隣人相互の忍耐と工夫を集めた具体的問題の解決が生れて来るのだと思ふ、建設とはかくの如きものであらう。
そこで、実際に当つては、まづ同一町内に在住する文化職能人の蹶起をお互に促し、その町内のために何かをしようといふ心構へを作ることから始め、必ずしも町内会の役員にならなくとも、進んで、町内会に適切な示唆を与へ、必要があればその企画に参じ、事業の一部を手伝ひ得るやうな協力体制を整へることが肝腎である。
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室生犀星はちゃんと出来上った人である。僕は実は近頃まであの位室生犀星なりに出来上っていようとは思わなかった。出来上った人と云う意味はまあ簡単に埒を明ければ、一家を成した人と思えば好い。或は何も他に待たずに生きられる人と思えば好い。室生は大袈裟に形容すれば、日星河岳前にあり、室生犀星茲にありと傍若無人に尻を据えている。あの尻の据えかたは必しも容易に出来るものではない。ざっと周囲を見渡した所、僕の知っている連中でも大抵は何かを恐れている。勿論外見は恐れてはいない。内見も――内見と言う言葉はないかも知れない。では夫子自身にさえ己は無畏だぞと言い聞かせている。しかしやはり肚の底には多少は何かを恐れている。この恐怖の有無になると、室生犀星は頗る強い。世間に気も使わなければ、気を使われようとも思っていない。庭をいじって、話を書いて、芋がしらの水差しを玩んで――つまり前にも言ったように、日月星辰前にあり、室生犀星茲にありと魚眠洞の洞天に尻を据えている。僕は室生と親んだ後この点に最も感心したのみならずこの点に感心したことを少からず幸福に思っている。先頃「高麗の花」を評した時に詩人室生犀星には言い及んだから、今度は聊か友人――と言うよりも室生の人となりを記すことにした。或はこれも室生の為に「こりゃ」と叱られるものかも知れない。
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本誌第一巻六号に「切支丹と旧穢多」と題して、榊原君の長崎からの通信を掲げたところが、東京中野局消印で「浦部きよし」という方から、「浦上村民は穢多ではない」との投書があった。投書家は昨年かの地に行き、親しく長崎在住の人から聞かれたところでは、「決して穢多ではない、彼らの生活や住居はすこぶる穢いが、穢多は穢多で別にある」との証言を得られた。これは同氏が特に調査の必要あって、念押しに尋ねられた結果だとの事である。なお同氏は「かくの如き重大問題は、容易に信ぜざるが、我らの態度とすべきところだ」と注意された。御注意まことに感謝するところである。自分はエタを以て特に穢れたものだとも、また賤しいものだとも思わぬから、ことに基督の教えを奉ずるこれらの人々が、世人の或る者らの間に存する訛伝を意に介せられもすまいとは思うが、目暗千人の世の中にあって、為に迷惑を感ぜられる事も少くはなかろうと、切に同情を表し、謹んで不注意の点を謝する。ただ彼らの或る者を以て、旧エタだとする説をなすもののあるのは事実らしく、京大教授坂口博士が先般かの地へ行かれた際に、或る人からはこれをエタだと教えられ、或る人からはしからずと聞かれたそうである。なおこの問題については、面白い観察もあろうと思われるから、他日の研究を期待したい。
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ものの本によると、京都にも昔から自殺者はかなり多かった。
都はいつの時代でも田舎よりも生存競争が烈しい。生活に堪えきれぬ不幸が襲ってくると、思いきって死ぬ者が多かった。洛中洛外に激しい飢饉などがあって、親兄弟に離れ、可愛い妻子を失うた者は世をはかなんで自殺した。除目にもれた腹立ちまぎれや、義理に迫っての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、数えてみれば際限がない。まして徳川時代には相対死などいうて、一時に二人ずつ死ぬことさえあった。
自殺をするに最も簡便な方法は、まず身を投げることであるらしい。これは統計学者の自殺者表などを見ないでも、少し自殺ということを真面目に考えた者には気のつくことである。ところが京都にはよい身投げ場所がなかった。むろん鴨川では死ねない。深いところでも三尺ぐらいしかない。だからおしゅん伝兵衛は鳥辺山で死んでいる。たいていは縊れて死ぬ。汽車に轢かれるなどということもむろんなかった。
しかしどうしても身を投げたい者は、清水の舞台から身を投げた。「清水の舞台から飛んだ気で」という文句があるのだから、この事実に誤りはない。しかし、下の谷間の岩に当って砕けている死体を見たり、またその噂をきくと、模倣好きな人間も二の足を踏む。どうしても水死をしたいものは、お半長右衛門のように桂川まで辿って行くか、逢坂山を越え琵琶湖へ出るか、嵯峨の広沢の池へ行くよりほかに仕方がなかった。しかし死ぬ前のしばらくを、十分に享楽しようという心中者などには、この長い道程もあまり苦にはならなかっただろうが、一時も早く世の中を逃れたい人たちには、二里も三里も歩く余裕はなかった。それでたいていは首を括った。聖護院の森だとか、糺の森などには、椎の実を拾う子供が、宙にぶらさがっている死体を見て、驚くことが多かった。
それでも、京の人間はたくさん自殺をしてきた。すべての自由を奪われたものにも、自殺の自由だけは残されている。牢屋にいる人間でも自殺だけはできる。両手両足を縛られていても、極度の克己をもって息をしないことによって、自殺だけはできる。
ともかく、京都によき身投げ場所のなかったことは事実である。しかし人々はこの不便を忍んで自殺をしてきたのである。適当な身投げ場所のないために、自殺者の比例が江戸や大阪などに比べて小であったとは思われない。
明治になって、槇村京都府知事が疏水工事を起して、琵琶湖の水を京に引いてきた。この工事は京都の市民によき水運を備え、よき水道を備えると共に、またよき身投げ場所を与えることであった。
疏水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としてはかなりよいところである。どんな人でも、深い海の底などでふわふわして、魚などにつつかれている自分の死体のことを考えてみると、あまりいい心持はしない。たとえ死んでも、適当な時間に見つけ出されて、葬をしてもらいたい心がある。それには疏水は絶好な場所である。蹴上から二条を通って鴨川の縁を伝い、伏見へ流れ落ちるのであるが、どこでも一丈ぐらい深さがあり、水が奇麗である。それに両岸に柳が植えられて、夜は蒼いガスの光が煙っている。先斗町あたりの絃歌の声が、鴨川を渡ってきこえてくる。後には東山が静かに横たわっている。雨の降った晩などは両岸の青や紅の灯が水に映る。自殺者の心に、この美しい夜の堀割の景色が一種の romance をひき起して、死ぬのがあまり恐ろしいと思われぬようになり、ふらふらと飛び込んでしまうことが多かった。
しかし、身体の重さを自分で引き受けて水面に飛び降りる刹那には、どんなに覚悟をした自殺者でも悲鳴を挙げる。これは本能的に生を慕い死を恐れるうめきである。しかしもうどうすることもできない。水煙を立てて沈んでから皆一度は浮き上る。その時には助かろうとする本能の心よりほか何もない。手当り次第に水を掴む、水を打つ、あえぐ、うめく、もがく。そのうちに弱って意識を失って死んでいくが、もし、この時救助者が縄でも投げ込むと、たいていはそれを掴む。これを掴む時には、投身する前の覚悟も、助けられた後の後悔も心には浮ばない。ただ生きようとする強き本能があるだけである。自殺者が救助を求めたり、縄を掴んだりする矛盾を笑うてはいけない。
ともかく、京都にいい身投げ場所ができてから、自殺するものはたいてい疏水に身を投げた。
疏水の一年の変死の数は、多い時には百名を超したことさえある。疏水の流域の中で、最もよき死場所は、武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋である。インクラインのそばを走り下った水勢は、なお余勢を保って岡崎公園を回って流れる。そして公園と分かれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森に淋しくガスが輝いている。左手には淋しい戸を閉めた家が並んでいる。従って人通りがあまりない。それでこの橋の欄干から飛び込む投身者が多い。岸から飛び込むよりも橋からの方が投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものと見える。
ところが、この橋から四、五間ぐらいの下流に、疏水に沿うて一軒の小屋がある。そして橋から誰かが身を投げると、必ずこの家からきまって背の低い老婆が飛び出してくる。橋からの投身が、十二時より前の場合はたいてい変りがない。老婆は必ず長い竿を持っている。そして、その竿をうめき声を目当てに突き出すのである。多くは手答えがある。もし、ない場合には、水音とうめき声を追いかけながら、幾度も幾度も突き出すのである。それでも、ついに手答えなしに流れ下ってしまうこともあるが、たいていは竿に手答えがある。それを手繰り寄せる頃には、三町ばかりの交番へ使いに行くぐらいの厚意のある男が、きっと弥次馬の中に交っている。冬であれば火をたくが、夏は割合に手軽で、水を吐かせて身体を拭いてやると、たいていは元気を回復し警察へ行く場合が多い。巡査が二言三言、不心得を諭すと、口ごもりながら、詫言をいうのを常とした。
こうして人命を助けた場合には、一月ぐらい経って政府から褒状に添えて一円五十銭ぐらいの賞金が下った。老婆はこれを受け取ると、まず神棚に供えて手を二、三度たたいた後郵便局へ預けに行く。
老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園に開かれた時、今の場所に小さい茶店を開いた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実入りもあったので、博覧会の建物がだんだん取り払われた後もそのままで商売を続けた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫の残した娘と、二人で暮してきた。小金がたまるに従って、小屋が今のような小奇麗な住居に進んでいる。
最初に橋から投身者があった時、老婆はどうすることもできなかった。大声を挙げて叫んでも、めったに来る人がなかった。運よく人の来る時には、投身者は疏水のかなり激しい水に巻き込まれて、行方不明になっていた。こんな場合には、老婆は暗い水面を見つめながら、微かに念仏を唱えた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、一人や二人ではなかった。二月に一度、多い時には一月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめきのようで、気の弱い老婆にはどうしても堪えられなかった。とうとう老婆は、自分で助けてみる気になった。よほどの勇気と工夫とで、老婆が物干の竿を使って助けたのは、二十三になる男であった。主家の金を五十円ばかり使い込んだ申し訳なさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得を諭されると、この男は改心をして働くといった。それから一月ばかり経って、彼女は府庁から呼び出されて、褒美の金を貰ったのである。その時の一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えた末、その頃やや盛んになりかけた郵便貯金に預け入れた。
それから後というものは、老婆は懸命に人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴とをきくと、老婆は急に身を起して裏へかけ出した。そこに立てかけてある竿を取り上げて、漁夫が鉾で鯉でも突くような構えで水面を睨んで立って、あがいている自殺者の前に竿を巧みに差し出した。竿が目の前に来た時に取りつかない投身者は一人もないといってよかった。それを老婆は懸命に引き上げた。通りがかりの男が手伝ったりする時には、老婆は不興であった。自分の特権を侵害されたような心持がしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八の今までに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞の場合の手続などもすこぶる簡単になって、一週で金が下るようになった。政庁の役人は「お婆さんまたやったなあ」と笑いながら、金を渡した。老婆も初めのように感激もしないで、茶店の客から大福の代を貰うように、「おおきに」といいながら受け取った。世間の景気がよくて、二月も三月も投身者のない時には、老婆はなんだか物足らなかった。娘に浴衣地をせびられた時などにも、老婆は今度一円五十銭貰うたらといっていた。その時は六月の末で、例年ならば投身者の多い季であるのに、どうしたのか飛び込む人がなかった。老婆は毎晩娘と枕を並べながら、聞き耳を立てていた。それで十二時頃にもなって、いよいよだめだと思うと「今夜もあかん」というて目を閉じることなどもあった。
老婆は投身者を助けることを非常にいいことだと思っている。だから、よく店の客などと話している時にも「私でも、これで人さんの命をよっぼど助けているさかえ、極楽へ行かれますわ」というていた。むろんそのことを誰も打ち消しはしなかった。
しかし老婆が不満に思うことが、ただ一つあった。それは助けてやった人たちが、あまり老婆に礼をいわないことである。巡査の前では頭を下げているが、老婆に改めて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日改めて礼をいいに来る者などは一人もない。「折角命を助けてやったのに、薄情な人だなあ」と老婆は腹のうちで思っていた。ある夜、老婆は十八になる娘を救うたことがある。娘は正気がついて自分が救われたことを知ると、身も世もないように泣きしきった。やっと巡査にすかされて警察へ同行しようとして橋を渡ろうとした時、娘は巡査の隙を見て再び水中に身を躍らせた。しかし娘は不思議にもまた、老婆の差し出す竿に取りすがって救われた。
老婆は、再度巡査に連れられて行く娘の後姿を見ながら、「何遍飛び込んでも、やっぱり助かりたいものやなあ」というた。
老婆は六十に近くなっても、水音と悲鳴とをきくと必ず竿を差し出した。そしてまたその竿に取りすがることを拒んだ自殺者は一人もなかった。助かりたいから取りつくのだと老婆は思っていた。助かりたいものを助けるのだから、これほどいいことはないと老婆は思っていた。
今年の春になって、老婆の十数年来の平静な生活を、一つの危機が襲った。それは二十一になる娘の身の上からである。娘はやや下品な顔立ちではあったが、色白で愛嬌があった。
老婆は遠縁の親類の二男が、徴兵から帰ったら、養子に貰って貯金の三百幾円を資本として店を大きくするはずであった。これが老婆の望みであり楽しみであった。
ところが、娘は母の望みを見事に裏切ってしまった。彼女は熊野通り二条下るにある熊野座という小さい劇場に、今年の二月から打ち続けている嵐扇太郎という旅役者とありふれた関係に陥ちていた。扇太郎は巧みに娘を唆かし、母の貯金の通帳を持ち出させて、郵便局から金を引き出し、娘を連れたままいずこともなく逃げてしまったのである。
老婆には驚愕と絶望とのほか、何も残っていなかった。ただ店にある五円にも足りない商品と、少しの衣類としかなかった。それでも今までの茶店を続けていけば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女にはなんの望みもなかった。
二月もの間、娘の消息を待ったが徒労であった。彼女にはもう生きていく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。幾晩も幾晩も考えた末に、身を投げようと決心した。そして堪えがたい絶望の思いを逃れ、一には娘へのみせしめにしようと思った。身投げの場所は住み馴れた家の近くの橋を選んだ。あそこから投身すれば、もう誰も邪魔する人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分が救った自殺者の顔がそれからそれと頭に浮んで、しかも、すべてが一種妙な皮肉な笑いをたたえているように思われた。しかし多くの自殺者を見ていたお陰には、自殺をすることが家常茶飯のように思われて、大した恐怖をも感じなかった。老婆はふらふらとしたまま、欄干からずり落ちるように身を投げた。
彼女がふと正気づいた時には、彼女の周囲には、巡査と弥次馬とが立っている。これはいつも彼女が作る集団と同じであるが、ただ彼女の取る位置が変っているだけである。弥次馬の中には巡査のそばに、いつもの老婆がいないのを不思議に思うものさえあった。
老婆は恥かしいような憤ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついた時、彼女は掴みつきたいほど、その男を恨んだ。いい心持に寝入ろうとするのを叩き起されたような、むしゃくしゃした激しい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように、「もう一足遅かったら、死なしてしまうところでした」と巡査に話している。それは、老婆が幾度も巡査にいった覚えのある言葉であった。そのうちには人の命を救った自慢が、ありありと溢れていた。
老婆は老いた肌が、見物にあらわに見えていたのに気がつくと、あわてて前を掻き合せたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。見知り越しの巡査は「助ける側のお前が自分でやったら困るなあ」というた。老婆はそれを聞き流して逃げるように自分の家へ駆け込んだ。巡査は後から入ってきて、老婆の不心得を諭したが、それはもう幾十遍もききあきた言葉であった。その時ふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、多くの弥次馬がものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のように駆けよって、激しい勢いで戸を閉めた。
老婆はそれ以来、淋しく、力無く暮している。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰りそうにもない。泥のように重苦しい日が続いていく。
老婆の家の背戸には、まだあの長い物干竿が立てかけてある。しかし、あの橋から飛び込む自殺者が助かった噂はもうきかなくなった。
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「シュピオ」に、終刊号が出ることになった。
われわれは、ほぼ所期の目的を達成したのであるから、此処で終止符を打つことにする。
人は惜しまれ……花は爛漫のとき……そして「シュピオ」は、もっとも売れつつある高潮期に幕をおろす。もちろん、営業部からは続刊の希望もあったが、すでに一年間とさだめた終刊の時期も過ぎているので、名残り惜しいが燈台の灯を消すことにした。
では……何故、売れつつある雑誌を止めるのか。
それは、当初の目的とする優秀新人の出現に、通巻十二号の今となってもまったく見極めが付かないからだ。斯界の、萎靡沈衰は作家各自より、新人諸君に於いてもっとも甚だしいとする。従って、いかに営業部が続刊を迫るとも、もうわれわれにはこの上の情熱がない。
売れる――が、「シュピオ」に於いてはそれが目的ではない。ただ、唯一の機関、それあるのみだった。
それから、終刊に就いては、もう一つ事情がある。
それは、「シュピオ」という捨石によって……、せめて一年間も刊行を続けたならば、あるいは他に、専門誌が生れはせぬかと云うことであった。しかし、いまではその機運もなく……沮喪にかさね、最後の十二巻目が来てしまったのである。
われわれは、此処で静かに残紙を焼くことにする。
こうして、日本探偵小説は闇のなかへ隠れる。しばらくは、光りのくるまで眠り続けるだろう。
無風の、批評のないなかで、惰眠を貪ぼるだろう。
しかし、「シュピオ」の獅子は、決して死んではいない。
(「シュピオ」一九三八年四月号)
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鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな
これ、晶子女史の作也。晶子女史が、当代の歌壇、唯一の天才なることは此の一首にもあらはれたり。第二句、明星には、『金にはあれど』とあり。恋ごろもには、『御仏なれど』と改まれり。『金にはあれど』は、子供くさくして、露骨に失す。『御仏なれど』は、それよりは、よけれど、なほ野暮くさし。且つ、釈迦牟尼と、呼びすてにすることも如何にや。上の句は、なほ如何やうにも動くべし。『鎌倉や深沢の奥の御仏は』とすれば、自然にして大なる処はあり。されど、旧式也、晶子式に非ず。散文的也、下の句との釣合ひも悪し。元来、晶子の特色は、文句の末に無頓着なるに在り。本質が玉也、之を錦につゝむもよく、木綿につゝむもよけれど、余輩が望蜀の慾を言はば、成るべく、玉を錦につゝみたし。これ晶子の再考を促さむと欲する所以也。
暫らく歌をはなれて、往いて、鎌倉を訪へ。鎌倉も、明治二十年頃までは、青山蒼田の間に古寺、古祠、茅舎が点綴するのみにして、古色蒼然として、行人をして、懐古の情、一層切ならしめたりしが、汽車通じ、旅館増し、紳士往き、肺病患者移住し、絃歌の声、濤声に和するに及びて、全く俗地と成り了んぬ。八幡宮より、極楽の切通しまで家つゞきとなるに及びては、芭蕉の『夏草やつはものどもの夢の跡』の石碑も、今は、物笑ひの種となりぬ。心ある者、長谷の観音に詣でなば、必ずや、末法の世に泣くべし。一人毎に、一銭を出だせば、暗き堂内に導き、一雙の蝋燭を上下して、三丈三尺とやらの観音を見せしむ。これでは、まるで、観音様が、浅草の見世物に於ける大男、小男となり給ひたる也。かくても、なほ、長谷寺の僧が、三衣をつけ、珠数つまぐり居るかと思へば、世にも、傍らいたきことども也。
されど、長谷の観音より、数町はなれたる処に、鎌倉大仏あり。一寸家つゞきを離れて、左右と後ろとに、鬱蒼たる小山を負ひて、三丈三尺の尊像、端然として趺座し給ふ。美なる哉、偉なる哉。夏の月の夜、世人の寝沈まりたる頃、来りて、仏前二三間の処に跪きて、静かに仰ぎ見よ。必ずや、人間をはなれて、極楽にゆきて、仏様にお目にかゝる心地すべし。かねて、晶子の天才なる所以を知るべし。
事物の大小美醜は、もと比較より生ず。一喇嘛僧、日本に来りて、はじめて、到る処に、真の仏らしき仏像を見たりと云へりと聞く。蒙古地方は、その土地が、殺伐也、其の民が殺伐也、仏像を作る人も殺伐也。従つて、仏像も、殺伐ならざるを得ず。日本は、土地が優美也、民が優美也、仏像を作る人も優美也。是に於いて、はじめて、尊き仏像成る。鎌倉の大仏は、七百年前に成りたるもの也。奈良の大仏は、奈良朝に出来たるものなれども、その顔は徳川時代につくりかへたるものなれば、その美麗荘厳、遥かに鎌倉の大仏より下れり。兵庫の大仏は、明治年間に出来たるものなれば、奈良の大仏よりも、更に下れりとの事也。
東京に住む人は、鎌倉の大仏を見る前に、先づ上野公園の大仏を見よ。仏像の大小、銅質の良否は別問題也。頭顱の扁平なるが、既に児戯的也。その目は、そねむやうにも見え、うたぐるやうにも見ゆ。その口つきは、うふゝ、何を云ふかと、人を嘲るの相あり。額のひらべツた過ぐるは、毫も智なきをあらはし、肩、胸のあたりの、瘠せそげたるは、毫も落付きが無くして、吹けば、飛びさうに思はる。上野の大仏、何処を見ても、仏様らしき処はなくして、軽薄才子の相也、小人の相也。之を作りたる者は、必ずや、市井の匹夫也。之をたてさせたるものは、よく〳〵の愚物也。同じ上野の公園、一寸、歩を転じて、西郷隆盛の銅像を見よ。鋳造の点は、非難があるかも知らねども、大西郷其の人が、日本の歴史上、第一流の偉人也。人物偉大なれば、相貌も、おのづから偉大也。仏様とまでは行かずとも、その銅像は、人間界の男子の美と壮とを発揮しつくせり。かくまでも、偉大なる相貌が有るかと思へば、余輩の頭は、おのづと、その前に、さがらざるを得ず。殊に、単衣に兵児帯姿が、大西郷の人となりに適し、かねて、造形美術の本旨にも合す。去つて、九段坂上の川上大将の銅像を見よ。これ一属吏の相也、美なる処もなければ、尊き処もなし。ははァ、これが川上の顔かと、行人は、たゞ一瞥して去らざるを得ず。あはれや、川上大将の如きは、なまじひに、銅像をたてられて、却つて、醜を千載に残せるもの也。それよりも、浅草公園にある瓜生岩子の銅像が、遥かに尊く、遥かに美也。眼には、大なる慈悲を湛ふれども、お前さん方は、いくら、男子で、力があつて、この老婆をおどさうとなされても、そんな事では、驚きませぬといふ勝気も見えて、げに、女の中の仏様也。東京にある銅像にて、尊きは、隆盛のと、岩子のとのみ也。今後西郷の如き偉人出でざる限りは、東京の地に、銅像を立てることは、先づ見合はすべき也。
鎌倉の大仏に至りては、真に仏様也、西郷以上也、無論、人間以上也。堂内に安置するやうにつくりたるものなれば、その目は、遠方を見ずして、近く見下し給ふ。之を見るには、膝より二三間手前より見上ぐるを可とす。その目には、広大無限の慈悲、輝かずや、一切衆生を済度せむとの御情、こもらずや。その口は、泰山くづるゝとも動かざるの胆力を語らずや。胸のゆたかさは、万物を包蔵して余りあらずや。頭額のあたりの厚く大なるは、あらゆる人間の智恵を小にするの概あらずや。之に対しては、西行法師ならねど、何人も、たゞ尊さに、涙こぼれざるを得ざるべし。
晶子、何人ぞや。今、この大仏に対して、美男と叫ぶ。世俗、直ちに咎めて、或は、云はむ、仏様は、たゞ有難く、尊きもの也。仏様に恋れるとは、何たる不埒千万なる女ぞやと。請ふ、暫し静まれ、我れをして、晶子が、大仏を美男と云ふの理由を説明せしめよ。大仏様も、芸娼妓の前には、美男ならず。尋常一様の海老茶式部の前にも、美男ならず。晶子の如き天才の前に、はじめて、美男也。女が美男に恋れ、男が美女に恋れるは、人間自然、いつはりなきの情也。されど、人品の高下、理想の高下によりて、美男とするものに、大なる差別あり。丹次郎式は、芸娼妓の美男とする所也。業平朝臣式は、海老茶式部の美男とする所也。武士の娘なら、昆沙門式を美男とすべく、茶屋の女将連は、布袋式を美男とすべし。尼将軍や、春日局の如き女傑は、西郷式を美男とすべし。更に進んで、晶子に至りて、はじめて、大仏を美男とす。これ、人間自然の進境也。不埒にあらず、淫乱に非ず。
平安朝には、僧侶に恋れたる才女、少なからず。業平風情に恋れずして、僧に恋れたるこそ、殊勝なれ。僧侶の恰好は、古の哲人が工夫して、普通の人間以上につくりたるもの也。すべて、獣類は、身体全体が、毛にておほはれたるもの也。進んで猿に至れば、顔と尻とに、毛無し。更に進んで人間となれば、身体の大部分に、毛なし。人間の中にても、日本人よりは、西洋人の方が毛多し。これ西洋人は、人間より少し下つて、野蛮的也、動物的也。日本の武士が、月代を剃り、髭髯を剃りたるは、今の日本人よりも、神に近づきたるの相也。然るに今の日本人は、官吏も、会社員も、学者も、教員も、西洋人の真似して、月代を廃し、鼻下に、鯰髭なり、鰌髭なりをはやすこそ、愚かなれ。僧侶に至りては、髭なく、頭に毛なし。殊に平安時代には、続経に重きを置きたれば、僧侶の堪能なる者の続経は、今の世の美男の、都々逸歌ふやうな下品なものならずして、神経の敏なる女には、嚬迦の声もかくやと、聞えしなるべし。世間一様の美男を閑却して、僧侶にあこがれたるも、宜べなる哉。下つて、徳川時代となりても、八百屋のお七は、吉祥寺の吉三に恋れたりぞとよ。僧侶の相貌は、人間よりも、神に近し。されど、大仏をつくるに、僧侶の通りにしては、僧侶と伍を同じうするわけなれば、頭を螺髪にせしこと、古の哲人が苦心の結果なるべし。
元来、神像や仏像は、人間をして、恋れさせるやうにつくりたるもの也。閻魔の顔には、誰れも恋れる者なく、従つて有難がるものなし。神仏は、必ず美男ならざるべからず。耶蘇の像は、西洋人より見て、人間最上極上の美男として描かれたり。マドンナの像も、人間最上極上の美女として描かれたり。この理より推して、女神あるは、男を釣るの方便也、男神あるは、女を引き出すの手段也。世界に、男神ばかりの国もなければ、女神ばかりの国もなし。日本の仏像に就いて云ふも、輸入の当座は、その顔長すぎて、所謂馬面なりき。日本も徳川時代に、一時、細面を美人としたることありしかど、今は、天保美人と称して、天保銭と共に、世に通用せず。今も、昔も、日本人の愛するは、丸ぼちや也。従つて、仏像も、輸入後、間もなく、丸ぼちやに成り給へり。かく、馬面の仏像が、日本に来りて、丸ぼちやとなりたる所以を知るものは、晶子が大仏に向ひて、美男と呼ぶの理由を知るべき也。
日本に歌ありてより幾千年、晶子出でて、はじめて、斯かる、観察鋭く、理想高く、而も大胆なる歌あり。この歌の生命は、美男の一語に在り。夏木立の一語も、用ゐ得て妙也。一切衆生を済度せむとする大仏には、春の花は、相応はしからず、秋の紅葉は、相応はしからず、冬枯の木では、猶更ら不可也。こゝは、どうしても、夏木立ならざるべからず。
されど、如何に美男と仰ぎても、大仏は、銅也。上野の大仏は、市井の匹夫が作りたるを以て、軽薄才子の相に出来たり。美術は、人格也。人は、己れ以上のものを作る能はず。鎌倉の大仏を作りたる人は、必ずや人格高くして、普通の人間よりも、むしろ仏に近き人也。こゝに、晶子に告ぐ。真の美男に逢ふは、死んだ後の事とあきらめて、浮世では、先づ、鎌倉大仏をつくりたるやうな人を、美男と仰ぐべき也。
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□種々なうはさに幾分不安をお感じになつた方が読者の間にも多少あつたことゝ思ひます。けれども、どんなことがあつても永久に廃刊するなどいふことはしたくないと私自身は思つてゐます。少々位の困難はもとより覚悟の前ですから何でもないことです。
□今月号から日月社の安藤枯山氏の御厚意で私の留守中丈け雑務をとつて下さることになりました。多事ながら面倒なことをお引きうけ下すつた御厚意を深く感謝いたします。
□今月号から大分いろ〳〵なことを始める計画をたてゝ居りましたけれども私が七月の末までは東京にいろいろな用をもつて忙がしいおもひをして歩きまはつてゐまして月末になつてこちらへまゐりまして、十日頃までと云ふものきまつた座り場所ももてないやうな有様でしたし、その間にもなを、東京に残して来た種々な面倒な用についても始終考へたり、原稿も目を通さねばならずと云つた風にどれと云つて一つことに向つてゐることが出来ずに始終片附かない、半ぱな考へで頭の中は混乱してゐますし、体はおちつき先きを見出さずひきつゞく疲労の為めに変ですし、実に困りました。それ故何にも考へてゐることは実行が出来ずに日が迫つて来まして諸氏に対しても実に申訳けのない次第とはおもひますが今度こそは屹度、せめて考へてゐる半分丈けでも実現させるつもりです。本当に何時もながら自分の意久地なしが情けなくなつてまゐります。
□此度帰京しましたら少しは人なみに働くことが出来るやうにしたいといまから考へて居ります。久しぶりに故郷にかへつて見ますといろ〳〵おもしろいことを見たり感じたりします。今月六号でこれを書くつもりにして居りましたけれどもつい書けさうもありませんから来月号には沢山一緒にかくことに致して御許を願ひます。
□堕胎と避妊についていゝ原稿が可なり集まりましたから出さうと思ひましたけれどこの間の今月号ですからどうかとあやぶまれもしますし少し注意をうけたこともありますので暫く見合はせて玉稿はお預かりいたして置きます、そのうちに折を見て掲げることにいたしますから何卒あしからずおゆるし下さいまし。
□日記は何時でもどんなに少くてもかまひませんからお送り下さいましお願ひいたします。それから原稿は――私は多分十一月までは此処にゐなければなりません――十二三日頃までなら私の処にその以後は東京本郷区元町二ノ廿五、日月社あてにお願ひいたします。
□滞在中九州地方に近い処の方は何卒おあそびにお出下さいまし、なるべくこんな機会にお目に懸れる方には懸つておきたいと思ひます。博多駅から三里西の方です。福岡市内は電車の便があります。それからは軽便鉄道で六つ目の停留場で降りればいゝのです。
□かうして東京から遠くはなれてゐますといろ〳〵東京の便利ないゝことばかりが考へ出されます。そうして東京にゐますと此度は田舎のいゝ処ばかりが思ひ出されるのです。人間は何処まで虫のいゝことばかり考へるやうに出来てゐるものかと云ふことにおどろかされます。
[『青鞜』第五巻第八号、一九一五年九月号]
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映画における音楽の位置をうんぬんするとき、だれしも口をそろえて重大だという。
なぜ重大なのか。どういうふうに重大なのか。だれもそれについて私に説明してくれた人はない。重大であるか否かはさておき、さらに一歩さかのぼつて音楽は映画にとつて必要であるか否かということさえまだ研究されてはいないのである。
音楽ははたして原則的に映画に必要なものであるだろうか。
だれかそれについて考えた人があつたか。私の見聞の範囲ではそういうばからしいことを考える人はだれもなかつたようである。
ただもう、みなが寄つてたかつて「映画と音楽とは不可分なものだ。」と決めてしまつたのである。原則的に映画が写り出すと同時に天の一角から音楽が聞えはじめなければならぬことにしてしまつたのである。
何ごとによらず、すべてこういうふうに信心深い人たちであるから、いまさら私が「音楽は必要か」などという愚問を提出したら、それはもうわらわれるに決つたようなものだ。
ことに音楽家連中は待つてましたとばかり、「これだから日本の監督はだめだ。てんで音楽に対する理解力も素養もないのだから、これでいい映画のできるわけがない」と、こうくるに決つたものだ。
ここでちよつと余談にわたることを許してもらいたいが、映画において重大なのは何も音楽一つに限つたわけのものではないのだ。音楽家ないしはそのジレッタント諸君が映画をごらんになる場合、ほかのことは何も見ないでもつぱら音楽のあらさがしだけに興味を持たれることは自由であるが、そのあとで、なぜこの監督はその半生を音楽の研究に費さなかつたか、などとむりな駄目を出されることははなはだ迷惑である。
我々がその半生を音楽の教養に費していたら、いまごろはへたな楽士くらいにはなつていたかもしれぬが、決して一人まえの監督はできあがつていないはずである。
我々がもしも映画の綜合するあらゆる部門にわたつて準専門家なみの研鑚を積まなければならぬとしたら、少なく見積つても修業期間に二百年位はかかるのである。
要するに監督という職業は専門的に完成された各部署を動かしながら映画をこしらえて行くだけの仕事である。
自分で一々オーケストラの前へ飛び出して行つたり、楽士に注文をつけたりする必要はない。気にいらぬ楽隊ならさつそく帰つてもらつて他の楽隊と取りかえればいいのであるが、日本ではなかなかそういうわけには行かないから、せめて音楽のアフレコのときには耳に脱脂綿でも詰めていねむりをしているのが、最も良心的とでもいうのであろう。
へたな楽隊を一日のうちにじようずにすることは神さまだつてできることではない。まして一介の監督風情が、頭から湯気を立ててアフレコ・ルームを走りまわつてみたところで何の足しにもなりはしない。
いくらクライスラーでも一日数時間ずつ、何十年の練習が積みかさならなければあの音は出ない仕組みになつているのだから話は簡単である。一般の観察によると映画は音楽がはいつていよいよ効果的になるものとされているらしいが、我々の経験によると、現在の日本では音楽がくわわつて効果をます場合が四割、効果を減殺される場合が六割くらいに見ておいて大過がない。だから音楽を吹きこむ前に試写してみて十分観賞に堪え得る写真を作つておかないと大変なことになる。
ここは音楽がはいるから、もつと見られるようになるだろうという考え方は制作態度としてもイージイ・ゴーイングだし、実際問題としても必ず誤算が生じる。
さて、こういうおもしろくない結果が何によつて生じてくるかということを考えてみると、それには種々な原因がある。が、何といつてもまず第一は音楽家の理解力の不足、といつてわるければ、理解力に富む音楽家が不足なのか、あるいは不幸にして理解力に富む音楽家がまだ映画に手を出さないかのいずれかであろう。
第二に音楽家の誠意の不足である。
これもそういつてわるければ誠意ある音楽家がまだ映画に手をふれないか、あるいは誠意ある人があまり音楽家にならなかつたかのいずれかであろう。
第三に準備時間の不足である。
第四に演奏技術の貧困である。これもそういつてわるければ技術の貧困ならざる楽団は高価で雇いにくいからといいかえておく。
第五に録音時間の極端な制限。もちろんこれは経済的な理由にのみよるものであるが、多くの場合音楽の吹込みは徹夜のぶつとおしで二昼夜くらいであげてしまう。
さてここで最も問題になるのは何といつても第一の理解力の不足という点であるが、まず一般的なことからふれて行くと、音楽家は多くの場合、我々の期待よりも過度に叙情的なメロディーを持つてくる傾向がある。
自分の場合を例にとつていうと、作者はつとめて叙情的に流れることを抑制しながら仕事をしている場合が多いのであるが、これに音楽を持ち込むと多くの場合叙情的になつて作者の色彩を薄らげてしまう。
しかしこれは深く考えてみると必ずしも音楽家の罪ばかりではなく、また実に音楽そのものの罪でもあるのだ。なぜならば、私の考えでは音楽は他の芸術とくらべると本質的に叙情的な分子が多いからである。
私の経験によると、映画のある部分が内容的にシリアスになればなるほど音楽を排斥するということがいえそうに思える。しかしてそれは音楽の質のいかんには毫も関係を持たないことなのである。そしてこのことは映画の芸術がある意味でリアリスティックであり、音楽があくまでも象徴的であるところからもきていると思うがこれらの問題はあまりに大きすぎるから今は預つておいて、ふたたび実際的な問題にたちかえることにする。
我々が或る場面の音楽の吹込みに立会つていて、まず最初にその場面の音楽の練習を耳にしたとき(多くの場合、我々は吹込みの現場で始めてその曲を聞かされるのである。)「おや、これはいつたいどこへ入れる曲なんだろう」という疑を持つことは実にしばしばである。そしてよくきいてみるとその曲を今のこの場面に入れるつもりだというので「じようだんじやないよ。てんで画面と合つても何もいやしないじやないか」と呆然としてしまうことは十の曲目のうち六つくらいまではある。
私はあえて多くを望まないが、せめてかかる場合を十のうち二つくらいにまで減らしてもらえないものだろうかと思う。
画面に対する解釈の相違ということもあるだろう。あるいはまた音楽というものの性質上、選曲がぴつたりと合致することは望み得ないのが当然かもしれない。しかし、どう考えたらこういう曲が持つてこられるのかと不思議に堪えないような現象に遭遇するのはいつたいどういうわけだろうか。解釈がどうのという小むずかしい問題ではない。画面には必ず運動がある。運動には速度がある。早い運動の画面に遅い速度の曲を持つてきて平然としているのでは、もうこれは音楽家としての素質にまで疑問を持たれてもしかたがないではないか。
暗い場面に明るい音楽を持つてきたり、のどかな場面に血わき肉おどるような音楽を持つてこられたんではどうにもしようがないではないか。私は諷刺的に話をしているのではない。私の話はまつたくのリアリズムである。画面に桜が出ているからただ機械的に「桜の幻想曲」か何かを持つて行けというのではとうてい画面との交歓は望み得ない。音楽の標題がどういうものか、それは音楽家自身にはよくわかつているはずである。我々は何も音楽家の力を借りて判じものをやろうとしているのではない。感覚的に画面とぴつたり合致さえすれば桜の場面に紅葉の曲を持つてこようと、あるいはなめくじの曲を持つてこようといささかもかまうところはないのである。
私が何よりも音楽家に望むのはまず画面を感覚的に理解してもらうことである。そしてその第一歩としては、何よりも画面の速度を正確にキャッチすることにつとめてもらいたい。メロディーやハーモニーは二のつぎでよろしい。速度のまちがいのないものさえぴたりとおけば、もうそれだけで選曲は五十点である。画面は全速力で自動車が走つているのに音楽は我不関焉とアンダンテか何かを歌われたんではきのどくに見物の頭は分裂してしまうほかはない。しかもこれはおとぎばなしでなく、実例をあげようと思えばいつでもあげられる「実話」なのである。
次に映画音楽の特殊な要求として、非常な短時間(といつても十秒以下ではむりであろうが)のうちに一つの色なり気分なりを象徴し得る音楽を欲することがある。むろんそれは、ある曲のある楽章のある小節をちぎつてきたものでもいいし、あるいは五線紙に一、二行、だれかが即興的におたまじやくしを並べたのでも何でもいい。ただし、多くの場合、それは短いが短いなりに一区切りついたものでありたく、必然的に次の音符を予想せしめるようなのはこまるが、要するにたいしてむずかしいものではない。
しかし、私の経験によるとこれが自由自在にできる人は現在やつている人たちの中にはいないようである。
「こんな短い間へ入れる音楽はありませんよ」というのがその人たちの答である。
「なければこしらえてください」といいたいのはやまやまであるが、いつてむだなことはいわざるにしかず、
「ではなしで行きましよう」
結局日本の映画監督はますます音痴ということになるのである。
映画音楽家の場合、最も必要な才能は必ずしも作曲の手腕ではない。まず、何より鋭敏な感覚と巧妙なるアレンジメントの才能こそ最も重宝なものであろう。そしてきわめて制限された長さの中へ最も効果的なメロディーをもりこむ機智と融通性がなくてはとうていこの仕事はやつて行けないだろう。
私は不幸にしてまだそういうことのできる人にめぐりあわないのである。
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――一ヶ所で打石斧二百七十六――肩骨がメリ〳〵――這んな物を如何する――非常線――荏原郡縱斷――
余の陳列所の雨垂れ落に積重ねてある打製石斧は、數へては見ぬが、先づ謙遜して六七千箇は有ると云はう。精密に計算したら、或は一萬に近いかも知れぬ。
これは地の理を得て居るから、斯う打石斧を多く集められたのである。玉川沿岸には打石斧が多い。其處の何處へ行くのにも余の宅は近く且つ都合が好い。
それに余は蠻勇を以て任じて居るので、一度採集した物は、いくら途中で持重りがしても、それを捨てるといふ事を爲ぬ。肩の骨が折れても、持つて歸らねば承知せぬ。
人は打石斧かと云つて、奇形で無いのは踏付けた儘行くが。余は其打石斧だらうが、石槌だらうが、何んでも彼でも採集袋に入れねば承知出來ぬ。
故に、どんな不漁の時でも、打石斧を五六本持つて歸らぬ事は無い位である。
打石斧の一番多かつたのは、深大寺である。此所では先輩が、矢張打石斧を澤山採集した。
何もそれを目的といふ譯ではなかつたが、三十六年の六月二十三日であつた。望蜀生と共に陣屋横町を立出でた。
此日は荏原郡縱斷を試みるつもりであつた。
先づ權現臺、大塚、洗足小池、大池と過ぎ、祥雲寺山から奧澤へ出た。
此邊までは能く來るのだ。迂路つき廻るので既に三里以上歩いたに關らず、一向疲勞せぬ。此時既に打石斧十四五本を二人で拾つて居た。
それから下野毛、上野毛の兩遺跡を過ぎ、喜多見へ出た。
大分疲勞して來た。
路傍の草の上に腰を掛けて、握米飯を喫し、それから又テクリ出したが、却々暑い。
砧村の途中で磨石斧を拾ひ、それから小山の上り口で、破片を拾つたが、既う此所までに五里近く歩いたので、余は少しく參つて來た。
八王子街道を横切つて、いよ〳〵深大寺近く成つたのが、午後の五時過ぎ。夕立でも來るか、空は一杯に曇つて來た。
深大寺の青渭神社前の坂まで來ると、半磨製の小石斧を得た。
それから横手の坂の方へ掛つて見ると、有るわ〳〵、打石斧が、宛然、砂利を敷いた樣に散布して居る。
望蜀生と余とは、夢中に成つて、それを採集した。其數實に二百七十六本。それを四箇の大布呂敷に包み、二箇宛を分けて持つ事にした。
振分けにして、比較的輕さうなのを余が擔いで見ると、重いの重くないのと、お話にならぬ。肩骨はメリ〳〵響くのである。
蠻勇に於ては余よりも豪い望生も、少からずヘキエキして見えた。
それで一先づそれを、雜木林の中へ擔ぎ込んで。
『如何だ、此邊へ隱して行かうか』
『然うですな、埋めて置いて、今度來て掘り出しますかな』
話して居る處へ、突然、林の中から、半外套を着た、草鞋脚半の、變な奴が出て來た。
夏、黒羅紗の半外套、いくら雨模樣でも可怪しい扮裝だ。
此方からも怪しい奴と睨付けると、向ふからも睨付けて。
『おい』と來た。
『何んです』と余は答へた。
『何處から來た』と又問ふ。は、はア密行巡査だなと覺つた。
『東京から』
『東京は何處だ』
『品川‥‥』
『品川町か』
『然うです』
『荏原郡の品川町か』
『然うです』
『東京と云つたり、品川と云つたり、何方なんだ』
『東京府下の品川町の意味なんで‥‥』
『何をしに來たのか』
『いろ〳〵調べに‥‥』
『持つて居る物は何んだ』
『これは掘る道具で‥‥』
『何を掘るんだ』
『石を‥‥』
『石を?』
人相の惡い余と望生。それが浴衣がけに草鞋脚半、鎌や萬鍬を手に持つて居る。東京だと云つたり、又品川だとも答へる。怪しむのは道理だ。それが又石を掘るといふのだから、一層巡査は怪しんで。
『その埋めて隱くすとか云つたな、其布呂敷包を開けて見せろ』と來た。
此所で余に餘裕が有ると、之を開くのを拒んで、一狂言するのであるが、そんな氣は却々出ぬ。ぶる〳〵顫へさうで、厭アな氣持がして來た。
望生も不快の顏をしながら、之見ろとばかり、布呂敷包を解くと、打石斧が二百七十六本※(感嘆符三つ)
巡査、唖然として。
『這んな物を如何する?』
『これは學術上の參考材料である』
『這んな物は何處にでも有るぢやアないか』
『然う有るやうなら、わざ〳〵此所までは來ない』
『全體、君達は品川の何處だ』
『陣屋横町四十番地四十一番地』
『四十番地かい、四十一番地かい』
『屋敷は兩方に跨がつて居る』
屋敷が兩方に跨がつて居るといふ柄ではない。汗だらけの浴衣掛けである。が、實際余は此時、四十一番地に住し、角力の土俵を築いたので、四十番地をも借りて居たのだ。大分茶番氣がさして來た。
巡査はいよ〳〵怪しみながら。
『それで姓名は‥‥』
『エミタヾカツ』
今度は望生に向ひ。
『お前は何んだ』
『僕は此人の從者です』
從者も主人も同じ樣なのだ。いよ〳〵怪しい、今度は又余に向つて。
『職業は何んだ』
『ブンシだ』
『ブンシといふ職業が有るか』
『有る』
『あゝ文士か。エミタヾカツといふ文士かい。エミ‥‥ あゝ、江見‥‥ 水蔭さんですか』
『然うです』
『それなら分りました』
馬鹿々々しい。聞いて見ると、強盜が徘徊するといふので、非常線を張つて居たのであつた。
斯うなると、打石斧を隱して行くわけにも行かず。強盜と間違へられた憤慨紛れに、二人はウン〳〵汗を絞りながら、一里餘の道を境の停車場に出で、其夜の汽車に乘つて、品川まで歸つたが、新宿の乘替で、陸橋を上下した時の苦しさ。――これならどんな責任でも背負つて立てると、つく〳〵蠻勇の難有さを覺えた。
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仏蘭西の現代劇を通じて、「昨日の演劇」の余影と、「明日の演劇」の曙光とを、はつきり見分けることができるとすれば、前者は、観察と解剖の上に立つ写実的心理劇、並に、論議と思索とを基調とする問題劇であり、後者は、直感と感情昂揚、綜合と暗示に根ざす象徴的心理劇乃至諷刺劇である。
此の二つの流れは、それぞれ出発点を異にしてゐることは云ふまでもないが、前者が、後者の上に、何等の影響を与へてゐないといふ見方は誤りである。
いろいろの意味に於て、「今日の演劇」は、写実よりの離脱に向ひつつあると同時に、象徴的手法の舞台的完成時代であると云へる。そして、「舞台的」と云ふ以上、写実時代が立派に完成した「劇的文体」から、少くとも有力な啓示を享けてゐることは明かである。「心理的飛躍に伴ふ言葉の暗示的効果」――これは、戯曲の存する限り、総べての劇作家が心血を注ぐべき一点である。様式の如何に拘らず、ラシイヌ、モリエールよりマリヴォオ、ボオマルシェを経てミュッセに至り、最近、ベック、ロスタン、ポルト・リシュを生むに至つた仏蘭西戯曲の本質的価値が、今また更に、第五期の頂点を占むべき作家によつて示されることは、恐らく遠い未来ではあるまい。
現代の仏蘭西劇は――何時の時代に於てもさうであつた如く――外国の傑れた作家から多くの好ましい影響を受けてゐる。殊に、注意すべきは、それが、所謂近代の生んだ巨匠に限られてゐないと云ふ事である。
希臘劇の復活、シェイクスピイヤの新研究は、今日の若い仏蘭西劇壇に於て見のがすことの出来ない現象である。
浪漫派の名作家アルフレッド・ド・ミュッセの名が、新しい光彩と力をもつて甦りつゝあることを忘れてはならない。ミュッセは、最も真摯なるシェイクスピイヤ党であつた。
イプセンとマアテルランク、此の近代劇の二明星は、固より此の運動から除外することはできない。
かういふ憧憬と探究の渦巻から、「明日の演劇」が生まれるものとすれば、それは決して、「過去の演劇」と全く没交渉なものではなく、まして、「過去の演劇」に対する反抗がその主潮となつてゐる戦闘芸術であり得ないことは勿論である。
然し、兎も角も、「新しいもの」が生れようとしてゐる。
「永遠の花」が、「新しい花瓶」に遷し盛られようとしてゐる――といふ少しアンファチックないひ方が許されないだらうか。
三十年前、自由劇場の運動から生まれた多くの劇作家中、優れた天分を有つてゐたものも少くはなかつたが、真に生命の長かるべき作品を残した作家が幾人あつたか。それとても、まだ確乎たる文学史上の地位を築き得たとはいひ難い。ポルト・リシュ、ド・キュレルの二人を除いては、そして、ロスタンといふ彗星的作家を別にしては、古来天才と称せられる偉大な作家に比して、あまりにその距りの大なるを感じないわけに行かない。
今日、所謂仏国の『先駆劇壇』を形造る幾多の有為な新進劇作家、その名を数へれば十指を屈してなほ余りがあるに違ひないが、その「力強さ」に於て、その「閃き」に於て一頭地を抜くものは、たしかにポオル・クロオデルとアンリ・ルネ・ルノルマンとであらう。
ポオル・クロオデルが戯曲作家として、舞台の征服に特殊な戦略をめぐらしてゐる間に、ルノルマンは、舞台の伝統から本質的な何者かを捉へようとしてゐる。そして、クロオデルが、加特力教的信仰を基礎とする深刻な体験を犀利な人生批評に向け、簡素にして荘重、巧まずして香り高き詩劇の文体を完成しつつある間に、ルノルマンは、科学者的興味をもつて、魂の奥に潜む未知の世界を探ることに努力した。彼が好んで選ぶところの主題は、潜在意識の問題であり、「第二の魂」の反逆である。人間性の一種神秘的な盲動である。そこから、暗夜に聞く怪獣のせゝら笑ひに似た物凄さを感じさせ、やゝもすれば、メロドラマチックな感動をさへ強ひられることがある。
ルノルマンは、その「重量」に於て、或はクロオデルに及ばないかもしれない。「裡に有つてゐるもの」の「力ある叫び」に於て、或は、クロオデルのそれと比較は出来ないかもわからない。これは、ルノルマンの開拓しようとする芸術の世界が、クロオデルのそれよりも「動き易い世界」であり、「暗い世界」であり、ある意味に於て「狭い世界」だからであると思ふ。
クロオデルは、芸術家として、何と云つても既に「或る動かすべからざるもの」を有つてゐるやうに思はれる。
ルノルマンは、将にさういふものを有たうとしてゐる作家である。
「憑かれたもの」「砂塵」「灼土」等の初期の作品は、一部の先見ある批評家をして、彼の未来を嘱目せしめたに過ぎなかつたが、戦後相ついで「落伍者の群」「時は夢なり」「熱風」「夢を啖ふもの」を発表して彼の声価は頓に著れた。殊に「落伍者の群」「時は夢なり」の二作は、たまたま名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によりて完全に舞台化され、彼の戯曲家的手腕は、初めて遺憾なく巴里の劇壇に紹介された。
その後「赤歯山」「男とその幻」「悪の影」「卑怯者」等で、相当の成功を収めたと伝へられる。
私はここで、ルノルマンを如何なる意味に於ても、誤つて伝へたくない。彼は、優れた天分と信頼すべき芸術的良心とを有つた新劇開拓者の一人であること――その数ある作品は、何れも、相当深い思索と、充分に鋭い感受性と、殊に、稀に見る表現の的確さによつて、彼が「大器」たるの素質を示してゐること――その主題の新鮮さ、結構の自由さ、弾力に富む文体の朗らかな、そして底力のあるメロディー、それは常に、興奮と凝視と瞑想の、極めて特殊な「心理的詩味」を醸し出し、最近の仏蘭西劇壇を通じて、最も異色ある作家の一人となつてゐること――先づこれだけのことを言つて置きたい。
そして、わたくしは、かういふことをつけ加へる。
彼の今日までの作品は、少くともその手法に於て、決して斬新奇抜と云ふほどのものではない。それどころか、わたくしの観る処では――恐らく誰でも気のつくことであらうが――彼には「幾人かの先生」がある。
これは、前に述べた、現代仏国劇壇の傾向を物語る一つの好適例であるやうに思ふ。
彼は、これらの「先生」から、「貰ふべきもの」と「一時借りたもの」とを、まだ同時にもつてゐるやうな気がする。
「借りたもの」を返してしまふ時機が早晩来なければならない。
それから「貰つたもの」が、「自分で造つたもの」の中に、すつかり形を没してしまふ時機が来なければならない。
此の意味で、今日、彼に「偉大なる天才」の名を冠することは、まだ早いやうに思ふ。
彼の感受性は、しかく鋭敏であるに拘らず、その好奇心に、ややナイーヴなものがあることは否めない。その一つは、科学に対するそれであり、もう一つは、異国趣味に対するそれである。彼はアインシュタインの相対性原理(時は夢なり)とフロイドの精神分析(落伍者の群)とを通俗化し、和蘭と亜弗利加と南洋とを、運河と砂漠と竹藪によつて象徴させようとする。彼の描く人物は、概ね「考へる」以上に感じてゐる。しかしながら、時として、象徴的手法の失敗が、人物の性格を類型に陥れる場合がないでもない。之に反して、霊感一度到れば、その表現の鮮かさは、まさに、常人の企て及ばないものがある。
「大なる未来」を想はせる所以である。
かう云ふと、彼の価値は、また法外に低く見られる恐れがある。わたくしが、日本ならば、老大家の列に加へらるべき年輩と閲歴ある彼を、仏国に於ける一新進作家として紹介し、あまつさへ日本ならば、一流の文人と比肩し得べき彼――ルノルマン君よ、何とでも云ひ給へ――の芸術を評するに、最大級の讃辞を用ひないその罪を、抑〻何ものに帰すべきであらうか。
くれぐれも私の罪ではない。ルノルマン君よ、君が、仏蘭西といふ国に生まれた罪だ。
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「あなたのお宅の御主人は、面白い画をお描きになりますね。嘸おうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。」
この様なことを私に向って云う人が時々あります。
そんな時私は、
「ええ、いいえ、そうでもありませんけど。」などと表面、あいまいな返事をして置きますが、心のなかでは、何だかその人が、大変見当違いなことを云って居る様な気がします。もちろん、私の家にも面白い時も賑やかな折も随分あるにはあります。
けれど、主人一平氏は家庭に於て、平常、大方無口で、沈鬱な顔をして居ます。この沈鬱は氏が生来持つ現世に対する虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
以前、この氏の虚無思想は、氏の無頼な遊蕩的生活となって表われ、それに伴って氏はかなり利己的でもありました。
それゆえに氏は、親同胞にも見放され、妻にも愛の叛逆を企てられ、随分、苦い辛い目のかぎりを見ました。
その頃の氏の愛読書は、三馬や緑雨のものが主で、其他独歩とか漱石氏とかのものも読んで居た様です。
酒をのむにしても、一升以上、煙草を喫えば、一日に刺戟の強い巻煙草の箱を三つ四つも明けるという風で、凡て、徹底的に嗜好物などにも耽れて行くという方でした。
食味なども、下町式の粋を好むと同時に、また無茶な悪食、間食家でもありました。
仕事は、昼よりも夜に捗るらしく、徹夜などは殆ど毎夜続いた位です。昼は大方眠るか外出して居るかでした。
しかしそうした放埒な、利己的な生活のなかにも、氏には愛すべき善良さがあり、尊敬すべき或る品位が認められました。
四五年以来、氏はすっかり、宗教の信仰者になってしまいました。
始めは、熱心なキリスト教信者でした。しかし、氏はトルストイなどの感化から、教会や牧師というものに、接近はしませんでした。氏は、一度信ずるや、自分の本業などは忘れて、只管深く、その方へ這入って行きました。氏の愛読書は、聖書と、東西の聖者の著書や、宗教的文学書と変りました。同時にあれほどの大酒も、喫煙もすっかりやめて、氏の遊蕩無頼な生活は、日夜祈祷の生活と激変してしまいました。
その頃の氏の態度は、丁度生れて始めて、自分の人生の上に、一大宝玉でも見付け出した様な無上の歓喜に熱狂して居ました。キリストの名を親しい友か兄の様に呼び、なつかしんで居ました。或時長い間往来の杜絶えて居た両親の家に行き、突然跪いて、大真面目に両親の前で祈祷したりして、両親を却って驚かしたこともありました。また誰かに貰って来たローマ旧教の僧の首に掛け古された様な連珠に十字架上のクリストの像の小さなブロンズの懸ったのを肌へ着けたりして居ました。
氏の無邪気な利己主義が、痛ましい程愛他的傾向になり初めました。
やがて、氏は大乗仏教をも、味覚しました、茲にもまた、氏の歓喜的飛躍の著るしさを見ました。その後とて、決してキリスト教から遠かろうとはしませんけれど、氏の元来が、キリスト教より、仏教の道を辿るに適して居ないかと思われる程、近頃の氏の仏教修業が、いかにも氏に相応しく見受けられます。
氏は毎朝、六時に起きて、家族と共に朝飯前に、静座して聖書と仏典の研究を交る交るいたして居ります。
氏は、キリスト教も仏教も、極度の真理は同じだとの主張を持って居ります。随って二重に仕えるという観念もないのであります。ただ、目下は、キリスト教に対しては、その教理をやや研究的に、仏教には殆ど陶酔的状態に見うけられます。
現在に対する虚無の思想は、今尚氏を去りません。然し、氏は信仰を得て「永遠の生命」に対する希望を持つ様になりました。氏の表面は一層沈潜しましたが、底に光明を宿して居る為か、氏の顔には年と共に温和な、平静な相が拡がる様に見うけられます。暴食の癖なども殆ど失せたせいか、健康もずっと増し、二十貫目近い体に米琉の昼丹前を無造作に着て、日向の椽などに小さい眼をおとなしくしばたたいて居る所などの氏は丁度象かなどの様に見えます。この容態で氏は、家庭に於て家人の些末な感情などから超然として、自分の室にたてこもり勝ちであります。その室は、毎朝氏の掃除にはなりますが、書籍や、作りかけの仕事などが、雑然混然として居て一寸足の踏み所も無い様です。一隅には、座蒲団を何枚も折りかさねた側に香立てを据えた座禅場があります。壁間には、鳥羽僧正の漫画を仕立てた長い和装の額が五枚程かけ連ねてあります。氏は近頃漫画として鳥羽僧正の画をひどく愛好して居る様です。
画などに対しても、氏は画面そのものを愛すると同時に、その画家の伝記を知るということを非常に急ぎます。近頃の氏の傾向としては、西洋の宗教画家や東洋の高僧の遺墨などを当然愛好します。それも明るい貴族的なラファエルよりも、素朴な単純なミレーを好み、理智的に円満なダビンチよりも、悲哀と破綻に終ったアンゼロを愛するという具合です。
近代の人ではアンリー・ルッソーの画を座右にして居ます。元来氏は、他に対して非常な寛容を持って居る方です。それは、時に他をいい気にならしめる傾向にさえなるのではないかとあやぶまれます。
たとえば、
「あなたが先日あの方にあげた品ですね、あれをあの方は、こんな粗末なものを貰ったって何にもなりゃしないって蔭口云ってましたよ。」などと告げる第三者があるとします。
この場合氏は、
「折角やったのに失礼な。」
などとは云わずに、
「そうかい。いや、今度はひとつ、あいつの気に入る様なのをやることにしようよ。」と云った調子です。
また、他人が氏を侮蔑した折など、傍から、
「あなたはあんなに侮蔑されても分らないのですか。」など歯がゆがっても、
「分って居るさ、だけど向うがいくらこっちを侮蔑したって、こっちの風袋は減りも殖えもしやしないからな。」と、平気に見えます。
また、男女間の妬情に氏は殆ど白痴かと思われる位です。が氏とて決して其を全然感じないのではない相ですが、それに就いて懸命になる先に氏は対者に許容を持ち得るとのことです。一面から云えば氏はあまり女性に哀惜を感ぜず、男女間の痴情をひどく面倒がることに於て、まったく珍らしい程の性格だと云えましょう。それ故か、少青年期間に於ける氏は、かなりな美貌の持主であったにかかわらず、単に肉欲の対象以上あまり女性との深い恋愛関係などは持たなかった相です。熱烈な恋愛から成った様に噂される氏の結婚の内容なども、実は、氏の妻が女性としてよりは、寧ろ「人」として氏のその時代の観賞にかない、また彼女との或不思議な因縁あって偶然成ったに過ぎないと思われます。
「女の宜い処を味わうには、それ以上の厭な処を多く嘗めなければならない。」とは、女の価値をあまりみとめない氏の持説です。
氏は近来女の中でも殊に日本の芸者及びそうした趣味の女を嫌う様です。
音楽なども長唄をのぞいては、むしろ日本のものより傑れた西洋音楽を好みます。
席亭へも以前は小さんなど好きでよく行きましたが、近頃は少しも参りません。芝居は仕事の関係上、月に二つ三つはかかしませんが、男優では、仁左衛門と鴈次郎が好きな様です。
氏は家庭にあって、私憤を露骨に洩らしたり、私情の為に怒って家族に当ったりしません。その点から見て、氏は自分を支配することの出来る理性家であるのでしょうか。たまたま家族の者に諫言でも加えるには、曾て夏目漱石氏の評された、氏の漫画の特色とする「苦々しくない皮肉」の味いを以って徐ろに迫ります。それがまたなまじな小言などよりどれほどか深く対者の弱点を突くのです。また氏の家庭が氏の親しい知己か友人の来訪に遇う時です、氏が氏の漫画一流の諷刺滑稽を続出風発させるのは。そんな折の氏の家庭こそ平常とは打って変って実に陽気で愉快です。その間などにあって、氏に一味の「如才なさ」が添います。これは、決して、虚飾や、阿諛からではなくて、如何なる場合にも他人に一縷の逃げ路を与えて寛ろがせるだけの余裕を、氏の善良性が氏から分泌させる自然の滋味に外ならないのです。
氏は、金銭にもどちらかと云えば淡白な方でしょう。少しまとまったお金の這入った折など一時に大金持になった様に喜びますけど、直きにまた、そんなものの存在も忘れ、時とすると、自分の新聞社から受ける月給の高さえ忘れて居るという風です。近頃、口腹が寡欲になった為、以前の様に濫費しません。
氏は、取り済した花蝶などより、妙に鈍重な奇形な、昆虫などに興味を持ちます。たとえば、庭の隅から、ちょろちょろと走り出て人も居ないのに妙に、ひがんで、はにかんで、あわてて引き返す、トカゲとか、重い不恰好な胴体を据えて、まじまじとして居る、ひきがえるとか。
人にしても、辞令に巧な智識階級の狡猾さはとりませんが、小供や、無智な者などに露骨なワイルドな強欲や姦計を見出す時、それこそ氏の、漫画的興味は活躍する様に見えます。氏の息のまれに見るいたずらっ子が、悪たれたり、あばれたりすればする程、氏は愛情の三昧に這入ります。
氏はなかなか画の依頼主に世話をやかせます。仕事の仕上げは、催促の頻繁な方ほど早く間に合わせる様です。催促の頻繁な方程、自分の画を強要される方であり、自分に因縁深い方であると思い極めて、依頼の順序などはあまり頭に這入らぬらしいのです。
終りに氏の近来の逸話を伝えます。
氏の家へ半月程前の夕刻玄関稼ぎの盗人が入りました。ふと気が付いた家人は一勢に騒ぎ立てましたが、氏は逃げ行く盗人の後姿を見る位にし乍ら突立ったまま一歩も追おうとはしませんでした。家人が詰問しますと、
氏は「だって、あれだけの冒険をしてやっと這入ったんだぜ、(盗人は三重の扉を手際よく明けて入りました)あれ位いの仕事じゃ(盗人は作りたての外套に帽子をとりました。)まだ手間に合うまいよ。逃がせ逃がせだ。」という調子です。氏のこの言葉は氏のその時の心理の一部を語るものでしょうが、一体は氏は怖くて賊が追えなかったのです。氏は都会っ子的な上皮の強がりは大分ありますがなかなか憶病でも気弱でもあります。氏が坐禅の公案が通らなくて師に強く言われて家へ帰って来た時の顔など、いまにも泣き出し相な小児の様に悄気返ったものです。以上不備乍ら課せられた紙数を漸く埋めました。
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彼が今の動きを見る
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一
紀州の山奥に、狸山といふ高い山がありました。其所には、大きな樫だの、樟だのが生え繁つてゐる、昼でも薄暗い、気味の悪い森がありました。森の中には百穴といふのがありました。其の穴の中から、お腹の膨れた古狸が、夕方になると、百疋も二百疋も、ノソノソと這ひ出して来て、ポンポコ〳〵〳〵と腹鼓を打つて踊つたり跳ねたりするといふので、村の人達は皆な気味悪く思つて、昼でもその森の中へ入つて行くものはありませんでした。
この村に、七郎兵衛といふ五十あまりの男がありました。七郎兵衛は少し馬鹿な男でしたから、村の人達は、馬鹿七、馬鹿七と呼んでゐました。七郎兵衛自身も、馬鹿七といはれて平気でゐました。
この馬鹿七は平生から、狸山へ行つて一度その狸の腹鼓を聞いて見たいものだ、狸の踊る様子を見てやりたいものだと言つてゐましたが、或る日の夕暮に、たうとう思ひ切つてたゞ一人その森の中へ入つて行きました。
馬鹿七は腰に山刀をさして、手には竹の杖を一本提げてゐました。そして段々、山を奥へ奥へと登つて行つて、大きな暗い〳〵森の中へ入つてしまひました。
「何と大きな樟の樹だなア、何と大きな樫の樹だなア。」と呆れながら、馬鹿七は真暗い森の中で木の根に腰をかけて、腹鼓の鳴るのを、今か〳〵と待つてゐました。けれども一時間待つても、二時間待つても、ちつとも狸は出て来ませんでした。で、馬鹿七はたうとう待草臥れて、ウト〳〵と其所へ寝てしまひました。
暫くして、ふと、眼を覚して見ると、これはまア何といふ不思議なことでせう。馬鹿七の前には、可愛い〳〵小い狸の仔が、百疋も二百疋も、きちんと座つてゐました。しかもそれが皆なお行儀よく並んで、馬鹿七の方を一生懸命に見詰めてゐるじやアありませんか。馬鹿七は吃驚しましたから、腰の山刀をスラリと引抜いて、振廻しました。すると、その可愛い狸の仔の姿は掻消すやうに消えてしまひました。そして、森はまた元の真闇になりました。
すると、馬鹿七は又、ぐう〳〵と鼾をかいて、寝てしまひました。暫くして眼を覚して見ますと、今度は大きな親狸が、まん円い膨れたお腹を、ずらりと並べて、百も二百も並んでゐるのです。そして皆な、小い棒切れを両手に持つて、今にもその太鼓を打ち出さうとしてゐるじやありませんか。それを見た馬鹿七は、躍り上つて、
「しめたぞ! 狸さん、早くその太鼓を打いて、聞かせてお呉れ!」と云つて、ニコニコ笑ひながら、竹の杖に縋つて伸び上つて見ますと、森の中一面に、大きな古狸が、何百何千となく座つてゐるのです。
「大変な狸だなア、今度は山刀を抜いて脅かしはしない。さア一つその腹鼓を打いて呉れ!」といつて、また木の根に腰を掛けると、古狸が一斉にポンポコ〳〵と腹鼓を打き始めました。すると最前何所かへ逃げた小い可愛い仔狸が、何所からかヒヨコヒヨコと出て来て、面白可笑しい手付腰付をして、踊り出して来たのです。
馬鹿七は余り面白かつたものですから、いつの間にか、自分もその仔狸の群へ交つて、平生から好んでゐた歌を唄ひながら夢中になつて踊りました。そして踊り疲れて、バツタリ森の中に倒れて眠つてしまひました。
翌る朝眼を覚して見ますと、狸らしいものは、其所らあたりに一疋も居りません。自分が仔狸と一緒に、踊つたらしい跡形もありませんでした。
馬鹿七は首を傾げながら、森を出て山を降りて、村へ帰りました。そして村の人たちにこの話を致しましたが、皆な、
「嘘だ〳〵、そんな馬鹿な事があるものか。」といつて、信じませんでした。
「嘘だと思ふなら、皆さんも森の中へ行つてごらんなさい。」と馬鹿七はいひました。
「だつて、昔から誰も行かない森だもの、入つて行くのは気味が悪いから……」といつて、矢張り誰一人、森へ入つて行かなかつたのです。けれども馬鹿七は、大抵月に三度づゝは、この森の中へ入つて行きました。そして、いつもその面白い腹鼓をきいたり、踊りを見て喜んだりして、一夜を山の中で過して帰つて来ました。
二
村の庄屋の息子に、智慧蔵といふ、長い間江戸へ出て、勉強して来た村一番の学者がありました。或時その馬鹿七の話を聞いて、
「そんな馬鹿な話があるものか。それは迷信といふものだ。」と申しました。しかし馬鹿七は頭を横に振つて、
「いゝえ、迷信でも何でもありません。私は確かに太鼓の音を聞いたのです。踊りを見たのです。これより確かなことがあるものですか。」と言ひました。
そこで、智慧蔵は村の若者十人をつれて、狸山へ探検に出かける事になりました。智慧蔵は長い槍を提げ、若者は各々刀を一本づゝ腰に差してゐました。馬鹿七は元気よく先に立つて、十一人を案内して、山へ登つて行きました。
「森が見えました。狸の腹鼓はあの森の中で聞くのです。」と言つて、馬鹿七が森の方を指しました時、もう若者の顔は大分蒼くなつて、中にはぶる〳〵と慄へてゐる者もありました。
「狸が出て見ろ、片ツ端から刺し殺してしまふから……」
智慧蔵は元気らしく言ひました。そして其所で松明へ火をつけさせて、若者を励しながら、森の中へ入つて行きました。けれども森の中には、狸らしいものは愚か、鼠の仔一疋も見えませんでした。
「それ見ろ、馬鹿七の嘘吐き! 何も出やしないぢやないか。」といつて智慧蔵が大声で呶鳴りました時、向ふの大きな樟の木の蔭から、ポン〳〵ポンポコ〳〵〳〵と面白い太鼓の響が聞えて来ました。
「やア、来た〳〵、そうれ、あの大きな狸を御覧! 三百、四百、五百、あれ〳〵彼の小い可愛い仔狸を御覧、あれ〳〵……」
馬鹿七は、もう面白くて堪らないやうに叫びました。智慧蔵は槍を身構へました。若者は皆な、刀へ手を掛けました。しかし太鼓の音がするだけで、狸の影も形も見えませんでした。
「そうれ、来た〳〵、そうれ、その足許へ来たぢやないか。やア〳〵今晩のは滅法大きい狸ぢや……」といつて馬鹿七が踊り出したので、若者は急に気味悪くなつて、松明をそこへ投げ棄てたまゝ、一目散に森を駈け出しました。
「待て! 逃げるのぢやない。狸も何もゐやアしないぢやないか。」かういつて智慧蔵は声を限りに叫びましたが、若者はそんな声は耳にも留めないで、我一にと押合ひへし合ひ山を下の方へ走りました。かうなると最う智慧蔵も堪らなくなつて、一生懸命に森を逃げ出して、無茶苦茶に下の方へ転びながら走つて来て、十五六町も来たと思ふ時分に、振返つて見ますと、これは先ア、何といふ事でせう。不思議にも、森は一面の猛火に包まれて、焔々と燃えてゐました。それは、若者達の投げ棄てた松明の火が、落積つた木の葉に燃え移つて、それが枝から枝に、段々と燃え広がつたのでありました。
三
火事だ、火事だ、山火事だ! といつて、村の人達は、皆な麓まで駈けつけて来ましたが、何様何千年も斧を入れた事のない大きな森の大木が燃え出したのですから、見る〳〵うちに、山一面が火の海になりました。
山火事は七日の間続きました。そして高い高い狸山は、一本の生木もないやうに焼かれてしまひました。火事のあとで、村の人達が上つて行つて見ますと、百穴の中から、這ひ出して来た古狸も仔狸も、皆な焼け死んでゐました。それを見た智慧蔵は、
「これでいゝ、もう狸も出ないし下らない迷信もなくなつた。」といつて喜びました。しかし村の人達は、馬鹿七がどうなつたのだらうかと思つて、心配しながら焼跡をすつかり調べて見ましたが、人間らしい者の屍骸は何所にも見つかりませんでした。
「あんな馬鹿な男は、どうなつたつていゝぢやないか。」と智慧蔵は言ひました。しかし村人は、馬鹿七のために心配してゐました。
ところが其翌年から、此村に雨が一滴も降らなくなりました。もう川も谷も、水が涸れてしまつて、飲む水にも困るやうになりました。田や畑の作物はすつかり萎びて、枯れてしまひました。で、多勢はお宮の境内で、太鼓を打いて歌ひながら、雨乞踊をいたしました。智慧蔵は馬鹿な踊をする奴らだと言ひながら、その雨乞踊を見に行きました。
三百人も四百人も集つて、声を嗄らして歌ひながら、雨乞踊を踊つてゐますと、そこへ向ふの方から、青い物を荷つた男が、一人やつて来ました。よく〳〵見ると、それは馬鹿七でありました。
「馬鹿七さん、あなたは焼け死んだのぢやア無かつたのですか。」
と智慧蔵は問ひました。
「いゝえ、この通り生きてゐます。私は山火事が起つたので、直ぐ隣りの国へ杉苗を買ひに参りました。御覧なさい。この通り杉苗を三千本買つて参りました。」
「まア、小い杉苗ですね。これを何うするつもりですか。」
「これをあの狸山へ植ゑて、元の通りの森にするのです。」
「こんな小い苗を植ゑて、元の森にする? 何年後に大きな森になると思ふ?」
「さうさなア、三百年も経てば……。」
「はゝゝゝは、」と智慧蔵は笑ひました。皆なも一度に笑ひました。そして又太鼓を打いて踊り始めたのです。けれども馬鹿七は、さつさと山へ上つて行きました。そして土を掘つて叮嚀に、其杉苗を植ゑました。それから二十日もたつて馬鹿七が、山を下りて来た時、村の人達は、矢張り雨乞踊りを踊つてゐました。
馬鹿七は小高い所から、ぢつとその踊りを眺めてゐましたが、不思議にも村の人達が、皆な狸に見えるのです。
「あすこで狸が踊つてゐる? 狸が腹鼓を打つてゐる? いゝや、あれは人間ぢや、村の馬鹿な人達ぢやらう? いゝや狸だらう? はてな……」と頻りに頭を傾げて考へてゐました。そこで段々と近寄つて見ましたがどうしても、智慧蔵を始め皆なが、毛むくぢやらな、腹の大きい狸に見えるのです。
「おうい〳〵、お前達は皆な狸なのか、此村で本当の人間は俺一人なのか……」と云つて馬鹿七は、おい〳〵と大声をあげて泣いたさうです。
それから何百年もたつて、狸山は又元の通りの、大きな森になりました。馬鹿七の植ゑた杉苗が、もう幾抱えもある大きなものになつて、高く聳えてゐます。そして此村は、五日目に風が吹き、十日目に雨が降り、田畑の作物が大変よく実ります。毎年秋の末に村の人達が木の刀を腰にさして、狸山へ上つて、其所で太鼓を打いて、狸の仮面を被つて踊ります。森の中にはお宮があつて、そのお宮を「馬鹿七権現」と申します。そして村人の被る狸の仮面を「智慧蔵仮面」と申します。しかし村人の誰れもその由来を知つたものはありません。
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文学座三月公演のゴーリキーの「どん底」を演出することになり、信濃町のアトリエ近くに宿をとって、みっちりけいこをするつもりである。だれでも知っている「どん底」が、日本の俳優でどれほどロシア的な明るい劇になるかをためしてみるのが楽しみである。
テキストは神西清君の新訳によるが、これが今、出来ただけ私の手許に届けられ、二十一日の本読みまでに間に合う手はずがついている、と、私は信じながら、それぞれの人物にふさわしい名ぜりふを、すべての俳優が奇想天外な調子でしゃべりまくってくれるように祈っている。
雨上りの小田原の海辺を、仕事の手伝いに来てくれたN嬢とぶらぶら散歩していると、波打際でいくたりかの男が威勢よく何かをつっている。もうすでに、砂浜に投げ出してある可なり大きな魚をのぞき込んでみると、それは、ボラに違いないと思った。そこへ、子供をおぶったおかみさん風の婦人が近づいて来た。私は、その婦人にたずねた。――これはなんですか? その婦人は、言下に――スズキです、と答えた。スズキなら、大したものだ、と考え、私たちは、また歩き出した。すると、長いさおを縦横に振って波頭めがけて糸を投げ込んだ一人の男が、見事に大物をつりあげるのを見た。これはまた、さっきの倍もありそうな大物である。私は、その男の誇らしげな眼に笑いかけながら、おめでとう、という代りに言った。――やあ、スズキですね。その男は、軽く眼をそらして「ボラだよ」と言い放った。
私は、あやふやな知識とは、こういうものであると、訓すように、かたわらのN嬢に言った。
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町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。
尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。
そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよれのゲートルを卷き付ける。擔具を背負うと、再び出て來て、例の名札を十分程もじっと見つめ、それから踵をかえしてすたこらとさも急がしげに町へ出掛けた。――だが未だかつて人は彼の働いているのを見たことがない。
「今日はどうしたね」と夕方つい出會いがしら問いかけでもしたら、彼はにたにたしながら胡麻鹽の蓬頭をくさくさ掻き立てる。「なあ、全く不景氣でしてな」いつかも尹主事は私の家にあたふたとやって來て書室の前に立ち現れた。そして何かを切り出しにくそうにもぞもぞして手を揉んでいた。どうしたのかと訊いてみると彼は莞爾として微笑んでから、日本に渡ったら羽二重(彼はそう發音した)の見切品を買取って貰えぬだろうかと何度も腰を曲げて叩頭した。誰某が日本内地からそれを直接取り寄せて大儲けをしているからと得意然に。
「わっしも一つ儲けて城内に家を建てて移らんことにはなあ、ひっひひひ、ひっひひひ」と思うと、そのことはもう忘れ去ったように、今度は淫らなものを見た坊主のごとくひとりえへらえへらと笑い出した。そこで突然面長と駐在所の巡査とどちらが上だろうかと質ねよるのである。つい苦笑すると主事はいよいよ愉快になって、それみろ答えられんだろうと言うみたいに私を指差しひっくり返りそうにけらけら悦びながら歸って行った。
――それから野ずらに陽炎が緑にけぶる頃のことである。彼は小屋の壁に寄りかかり肌をさらけ出しで虱をとっていた。暖い陽光は彼の六十年來の垢肌をくすぐったくうずうずさせる。それに大きな奴が何匹も威勢のいい所を見せて炭のような指先に白く乘り出してきたので彼は全くいい氣嫌になっていた。
その時嗄れ聲が近くに聞えてきたのである。
「そうでやす、旦那。ここらが一等の候補地でやすよ」するとそれをうけて阿彌陀聲がぼやく。
「うむ。今の所買占めて來月からでも起工するとしようかね」
主事は地に片手を棹さし首を長くして二人を怪訝そうに見送った。
「まあ、このことはいずれ……」
洋服と周衣氏は煙をはきステッキを振りながら向うの方へと立ち去っていった。
その日から彼はちっとも町へは姿を現わさなくなった。いつにもまして版圖の檢分を嚴重にし、身仕度を終えると彼の小屋が眺められる丘の上へのぼる。そして寢轉んで青空を眺めながらその日その日を暮した。(わっしの領分はあんなにじめじめして狹いのに、空はどうしでこんなに青く廣いのだろう)彼はそれ以來天國に遊ぶようになった。(空は淋しいだろうな)
或る夕暮私はこの丘の上に立ったことがある。入日の反照を受けた荒蕪の野の遙か遠くには、小川の流れが仰向けに黄色くなって倒れている。丘の下尹主事の版圖はいつの間にか紡績工場の基地として占領され、方々に赤い旗や白い旗が立ち並んで野風にひらめいていた。そこここに歸り支度をすましたらしい五六人宛の職人が焚火を圍んで騷いでいる。
偶々カチ鴉が二羽慌ただしく飛んで來て近くのアカシアの梢で啼いた。そしてその後を追いかけるようにして、一人の男が大きな板をふり廻しつつ熊みたいに薄暗がりの中を驅け上ってきたのである。
「學生さん!」彼は遠くから私を見てとったとみえ喘ぎ喘ぎ叫んだ。私はそれが尹主事の聲であるのを知った。彼は私の鼻先まで近付いて息をはあはあ吐いた。
「やっぱり學生さんだべ」
私は彼の顴骨が異樣に突き出し兩眼が深く落ち窪んで、この一月の間にみるめもなく衰えているのを見た。
主事は息を嚥んで板をさし向けながら彼の版圖を示した。名札の板を擔いで歩いていたのだ。もうあたりは薄闇の中に陷落し始め、野原で燃えていた梵火もすっかり消えかかっている。
「工場が立ちますだよ」彼は私の袖を引いた。「そらこっちきなさるだ。そらこっち、あすこに旗が踊ってますだね。でっかい羽二重の工場ですぞ――ひっひひひそうでがしょう! ひっひひひ」
私は彼を默ったまましげしげと横から見つめていた。主事は矢張り地下足袋をはきゲートルを卷き付けている。併しつっ立った彼の姿はもう燒き盡された火事場の黒い柱のようにしか思えなかった。彼は私の眼に氣が付くと獨りでてれたように淋しく笑った。
その時工事場で働いていた職人達ががやがや騷ぎ立てながらやって來た。主事は驚いて何かを氣遣うらしく私を傍の暗いアカシアの繁みの中へ急いで連れ込んだ。そして姿を隱し息を殺したまま、彼等が通り過ぎて遠くへ消え去るのおしまいまで見屆け終ると、主事はけつけつ嗤いながら喚くのである。
「あの衆奴、いつかわっしのところへ來て家をこわしながら、尹主事旦那やと頭を下げて云わっしゃるだ。わし等主事さんを大工頭に頂きてえだが承知出來ねえべえかねとな。わっしあそれで呶鳴ってやっただよ。氣ふれ婆の小便たらしみてえにずうずうぬかせば何もかも話しと思うかえ。こんげな齡になると少しは樂してえちうもんだ。するとあの衆奴皆逃げ出しやがっただよ」
彼は又けつけつ嗤った。だが暗闇の中に彼の目は最後の火のほとぼりを吐いてるように見えて、思わず私はぞっと身慄いした。彼は尚お聲高くけっけっと嗤い續けた。
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Medium
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天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へにじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。
切り燈台の火は、花のような丁字をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らしている。耳にはいるのは几帳の向うに横になっている和泉式部の寝息であろう。春の夜の曹司はただしんかんと更け渡って、そのほかには鼠の啼く声さえも聞えない。
阿闍梨は、白地の錦の縁をとった円座の上に座をしめながら、式部の眼のさめるのを憚るように、中音で静かに法華経を誦しはじめた。
これが、この男の日頃からの習慣である。身は、傅の大納言藤原道綱の子と生れて、天台座主慈恵大僧正の弟子となったが、三業も修せず、五戒も持した事はない。いや寧ろ「天が下のいろごのみ」と云う、Dandy の階級に属するような、生活さえもつづけている。が、不思議にも、そう云う生活のあい間には、必ずひとり法華経を読誦する。しかも阿闍梨自身は、少しもそれを矛盾だと思っていないらしい。
現に今日、和泉式部を訪れたのも、験者として来たのでは、勿論ない。ただこの好女の数の多い情人の一人として春宵のつれづれを慰めるために忍んで来た。――それが、まだ一番鶏も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い唇に、一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようとするのである。……
阿闍梨は褊袗の襟を正して、専念に経を読んだ。
それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、切り燈台の火が、いつの間にか、少しずつ暗くなり出したのに気がついた。焔の先が青くなって、光がだんだん薄れて来る。と思うと、丁字のまわりが煤のたまったように黒み出して、追々に火の形が糸ほどに細ってしまう。阿闍梨は、気にして二三度燈心をかき立てた。けれども、暗くなる事は、依然として変りがない。
そればかりか、ふと気がつくと、灯の暗くなるのに従って、切り燈台の向うの空気が一所だけ濃くなって、それが次第に、影のような人の形になって来る。阿闍梨は、思わず読経の声を断った。――
「誰じゃ。」
すると、声に応じて、その影からぼやけた返事が伝って来た。
「おゆるされ。これは、五条西の洞院のほとりに住む翁でござる。」
阿闍梨は、身を稍後へすべらせながら眸を凝らして、じっとその翁を見た。翁は経机の向うに白の水干の袖を掻き合せて、仔細らしく坐っている。朦朧とはしながらも、烏帽子の紐を長くむすび下げた物ごしは満更狐狸の変化とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯の暗いにも関らず気高くはっきりと眺められた。
「翁とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは御合点まいるまい。ありようは、五条の道祖神でござる。」
「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」
「御経を承わり申した嬉しさに、せめて一語なりとも御礼申そうとて、罷り出たのでござる。」
阿闍梨は不審らしく眉をよせた。
「道命が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。今宵に限った事ではない。」
「されば。」
道祖神は、ちょいと語を切って、種々たる黄髪の頭を、懶げに傾けながら不相変呟くような、かすかな声で、
「清くて読み奉らるる時には、上は梵天帝釈より下は恒河沙の諸仏菩薩まで、悉く聴聞せらるるものでござる。よって翁は下賤の悲しさに、御身近うまいる事もかない申さぬ。今宵は――」と云いかけながら、急に皮肉な調子になって、「今宵は、御行水も遊ばされず、且つ女人の肌に触れられての御誦経でござれば、諸々の仏神も不浄を忌んで、このあたりへは現ぜられぬげに見え申した。されば、翁も心安う見参に入り、聴聞の御礼申そう便宜を、得たのでござる。」
「何とな。」
道命阿闍梨は、不機嫌らしく声をとがらせた。道祖神は、それにも気のつかない容子で、
「されば、恵心の御房も、念仏読経四威儀を破る事なかれと仰せられた。翁の果報は、やがて御房の堕獄の悪趣と思召され、向後は……」
「黙れ。」
阿闍梨は、手頸にかけた水晶の念珠をまさぐりながら、鋭く翁の顔を一眄した。
「不肖ながら道命は、あらゆる経文論釈に眼を曝した。凡百の戒行徳目も修せなんだものはない。その方づれの申す事に気がつかぬうつけと思うか。」――が、道祖神は答えない。切り燈台のかげに蹲ったまま、じっと頭を垂れて、阿闍梨の語を、聞きすましているようである。
「よう聞けよ。生死即涅槃と云い、煩悩即菩提と云うは、悉く己が身の仏性を観ずると云う意じゃ。己が肉身は、三身即一の本覚如来、煩悩業苦の三道は、法身般若外脱の三徳、娑婆世界は常寂光土にひとしい。道命は無戒の比丘じゃが、既に三観三諦即一心の醍醐味を味得した。よって、和泉式部も、道命が眼には麻耶夫人じゃ。男女の交会も万善の功徳じゃ。われらが寝所には、久遠本地の諸法、無作法身の諸仏等、悉く影顕し給うぞよ。されば、道命が住所は霊鷲宝土じゃ。その方づれ如き、小乗臭糞の持戒者が、妄に足を容るべきの仏国でない。」
こう云って阿闍梨は容をあらためると、水晶の念珠を振って、苦々しげに叱りつけた。
「業畜、急々に退き居ろう。」
すると、翁は、黄いろい紙の扇を開いて、顔をさしかくすように思われたが、見る見る、影が薄くなって、蛍ほどになった切り燈台の火と共に、消えるともなく、ふっと消える――と、遠くでかすかながら、勇ましい一番鶏の声がした。
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく」時が来たのである。
(大正五年十二月十三日)
| 0.471
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Medium
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演劇に関する評論、感想の類をあつめて書物にするのはこれで三度目である。最初は、「我等の劇場」といふ題で、次ぎは、「現代演劇論」といふ題で出した。今度は、「演劇美の本質」とすることにした。
「我等の劇場」に含まれる文章は大部分「現代演劇論」の中へも入れたが、そのなかから、さらに今日でもなほ、若い演劇研究者、演劇愛好者に是非読んでもらいたいと思ふ文章をあらかた撰び、そのほか、直接演劇を論じたものではないが、私の演劇論の支えとなる一、二の「言葉」に関するノートを加へて、この一巻を編んでみた。
「私の演劇論」などといふとなにか系統だつた、特色のある理論のやうに聞えるけれども、私自身のつもりでは、日本の新しい演劇の樹立の為に当時もつとも必要と感じられた提言が、そこには力を籠めて述べられてあるといふだけで、みづから、ひとかどの演劇学者をもつて任ずるつもりはさらさらないのである。
演劇革新の目標と手段とは、決して一様ではない筈である。しかし、いかなる演劇の新しい精神と形式とが創り出されるとしても、演劇が演劇でなくなることほど演劇にとつて危いことはない。
とは云ふものゝ、演劇は演劇にちがひないが、演劇としては魅力がないといふ代物にも警戒を要する。
一つは観念の過剰によつて、他は、才能の貧困によつて、いづれも、演劇の本質が見失はれる結果である。
われわれの前には、いまや、口先だけではすまされぬ「演劇の近代化」といふ問題が、真の意味をひつさげて登場して来た観がある。
私は、相変らず繰り返す――「演劇美の本質を探り、これを捉へることによつてのみ、日本の演劇は急速に近代化されるであらう」と。
昭和二十二年十一月浅間山麓にて
著者
| 0.78
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日曜は人々が教会に行く日である。
| 0.322909
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Easy
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| 0.290618
| 0.226036
| 0.193745
| 16
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近ごろ近ごろ、おもしろき書を読みたり。柳田国男氏の著、遠野物語なり。再読三読、なお飽くことを知らず。この書は、陸中国上閉伊郡に遠野郷とて、山深き幽僻地の、伝説異聞怪談を、土地の人の談話したるを、氏が筆にて活かし描けるなり。あえて活かし描けるものと言う。しからざれば、妖怪変化豈得てかくのごとく活躍せんや。
この書、はじめをその地勢に起し、神の始、里の神、家の神等より、天狗、山男、山女、塚と森、魂の行方、まぼろし、雪女。河童、猿、狼、熊、狐の類より、昔々の歌謡に至るまで、話題すべて一百十九。附馬牛の山男、閉伊川の淵の河童、恐しき息を吐き、怪しき水掻の音を立てて、紙上を抜け出で、眼前に顕るる。近来の快心事、類少なき奇観なり。
昔より言い伝えて、随筆雑記に俤を留め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるものとなりて、峰づたいに日光辺まで、のさのさと出で来らむとする概あり。
古来有名なる、岩代国会津の朱の盤、かの老媼茶話に、
奥州会津諏訪の宮に朱の盤という恐しき化物ありける。或暮年の頃廿五六なる若侍一人、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけるおり、又廿五六なる若侍来る。好き連と思い伴いて道すがら語りけるは、ここには朱の盤とて隠れなき化物あるよし、其方も聞及び給うかと尋ぬれば、後より来る若侍、その化物はかようの者かと、俄に面替り眼は皿のごとくにて額に角つき、顔は朱のごとく、頭の髪は針のごとく、口、耳の脇まで切れ歯たたきしける……
というもの、知己を当代に得たりと言うべし。
さて本文の九に記せる、
菊地弥之助と云う老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて、夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜にあまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取出して吹きすさみつつ、大谷地(ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり内地に多くある地名なりまたヤツともヤトともヤとも云うと註あり)と云う所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、其下は葦など生じ湿りたる沢なり。此時谷の底より何者か高き声にて面白いぞ――と呼わる者あり。一同悉く色を失い遁げ走りたりと云えり。
この声のみの変化は、大入道よりなお凄く、即ち形なくしてかえって形あるがごとき心地せらる。文章も三誦すべく、高き声にて、面白いぞ――は、遠野の声を東都に聞いて、転寝の夢を驚かさる。
白望の山続きに離森と云う所あり。その小字に長者屋敷と云うは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を覗う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。
佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞けりとぞ。
修羅の巷を行くものの、魔界の姿見るがごとし。この種の事は自分実地に出あいて、見も聞きもしたる人他国にも間々あらんと思う。われ等もしばしば伝え聞けり。これと事柄は違えども、神田の火事も十里を隔てて幻にその光景を想う時は、おどろおどろしき気勢の中に、ふと女の叫ぶ声す。両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽を打って大川の橋杭を落ち行く状を思うより前に――何となく今も遥かに本所の方へ末を曳いて消え行く心地す。何等か隠約の中に脈を通じて、別の世界に相通ずるものあるがごとくならずや。夜半の寝覚に、あるいは現に、遠吠の犬の声もフト途絶ゆる時、都大路の空行くごとき、遥かなる女の、ものとも知らず叫ぶ声を聞く事あるように思うはいかに。
またこの物語を読みて感ずる処は、事の奇と、ものの妖なるのみにあらず。その土地の光景、風俗、草木の色などを不言の間に聞き得る事なり。白望に茸を採りに行きて宿りし夜とあるにつけて、中空の気勢も思われ、茸狩る人の姿も偲ばる。
大体につきてこれを思うに、人界に触れたる山魅人妖異類のあまた、形を変じ趣をこそ変たれ、あえて三国伝来して人を誑かしたる類とは言わず。我国に雲のごとく湧き出でたる、言いつたえ書きつたえられたる物語にほぼ同じきもの少からず。山男に石を食す。河童の手を奪える。それらなり。この二種の物語のごときは、川ありて、門小さく、山ありて、軒の寂しき辺には、到る処として聞かざるなき事、あたかも幽霊が飴を買いて墓の中に嬰児を哺みたる物語の、音羽にも四ツ谷にも芝にも深川にもあるがごとし。かく言うは、あえて氏が取材を難ずるにあらず。その出処に迷うなり。ひそかに思うに、著者のいわゆる近代の御伽百物語の徒輩にあらずや。果してしからば、我が可懐しき明神の山の木菟のごとく、その耳を光らし、その眼を丸くして、本朝の鬼のために、形を蔽う影の霧を払って鳴かざるべからず。
この類なおあまたあり。しかれども三三に、
……(前略)……曾て茸を採りに入りし者、白望の山奥にて金の桶と金の杓とを見たり、持ち帰らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず、また来んと思いて樹の皮を白くし栞としたりしが、次の日人々と共に行きてこれを求めたれど終にその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。
というもの。三州奇談に、人あり、加賀の医王山に分入りて、黄金の山葵を拾いたりというに類す。類すといえども、かくのごときは何となく金玉の響あるものなり。あえて穿鑿をなすにはあらず、一部の妄誕のために異霊を傷けんことを恐るればなり。
また、事の疑うべきなしといえども、その怪の、ひとり風の冷き、人の暗き、遠野郷にのみ権威ありて、その威の都会に及び難きものあるもまた妙なり。山男に生捕られて、ついにその児を孕むものあり、昏迷して里に出でずと云う。かくのごときは根子立の姉のみ。その面赤しといえども、その力大なりといえども、山男にて手を加えんとせんか、女が江戸児なら撲倒す、……御一笑あれ、国男の君。
物語の著者も知らるるごとく、山男の話は諸国到る処にあり。雑書にも多く記したれど、この書に選まれたるもののごとく、まさしく動き出づらん趣あるはほとんどなし。大抵は萱を分けて、ざわざわざわと出で来り、樵夫が驚いて逃げ帰るくらいのものなり。中には握飯を貰いて、ニタニタと打喜び、材木を負うて麓近くまで運び出すなどいうがあり。だらしのなき脊高にあらずや。そのかわり、遠野の里の彼のごとく、婦にこだわるものは余り多からず。折角の巨人、いたずらに、だだあ、がんまの娘を狙うて、鼻の下の長きことその脚のごとくならんとす。早地峰の高仙人、願くは木の葉の褌を緊一番せよ。
さりながらかかる太平楽を並ぶるも、山の手ながら東京に棲むおかげなり。
奥州……花巻より十余里の路上には、立場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚し。
と言われたる、遠野郷に、もし旅せんに、そこにありてなおこの言をなし得んか。この臆病もの覚束なきなり。北国にても加賀越中は怪談多く、山国ゆえ、中にも天狗の話は枚挙するに遑あらねど、何ゆえか山男につきて余り語らず、あるいは皆無にはあらずやと思う。ただ越前には間々あり。
近ごろある人に聞く、福井より三里山越にて、杉谷という村は、山もて囲まれたる湿地にて、菅の産地なり。この村の何某、秋の末つ方、夕暮の事なるが、落葉を拾いに裏山に上り、岨道を俯向いて掻込みいると、フト目の前に太く大なる脚、向脛のあたりスクスクと毛の生えたるが、ぬいとあり。我にもあらず崖を一なだれにころげ落ちて、我家の背戸に倒れ込む。そこにて吻と呼吸して、さるにても何にかあらんとわずかに頭を擡ぐれば、今見し処に偉大なる男の面赤きが、仁王立ちに立はだかりて、此方を瞰下ろし、はたと睨む。何某はそのまま気を失えりというものこれなり。
毛だらけの脚にて思出す。以前読みし何とかいう書なりし。一人の旅商人、中国辺の山道にさしかかりて、草刈りの女に逢う。その女、容目ことに美しかりければ、不作法に戯れよりて、手をとりてともに上る。途中にて、その女、草鞋解けたり。手をはなしたまえ、結ばんという。男おはむきに深切だてして、結びやるとて、居屈みしに、憚りさまやの、とて衝と裳を掲げたるを見れば、太脛はなお雪のごときに、向う脛、ずいと伸びて、針を植えたるごとき毛むくじゃらとなって、太き筋、蛇のごとくに蜿る。これに一堪りもなく気絶せり。猿の変化ならんとありしと覚ゆ。山男の類なりや。
またこれも何の書なりしや忘れたり。疾き流れの谿河を隔てて、大いなる巌洞あり。水の瀬激しければ、此方の岸より渡りゆくもの絶えてなし。一日里のもの通りがかりに、その巌穴の中に、色白く姿乱れたる女一人立てり。怪しと思いて立ち帰り人に語る。驚破とて、さそいつれ行きて見るに、女同じ処にあり。容易く渉るべきにあらざれば、ただ指して打騒ぐ。かかる事二日三日になりぬ。余り訝しければ、遥かに下流より遠廻りにその巌洞に到りて見れば、女、美しき褄も地につかず、宙に下る。黒髪を逆に取りて、巌の天井にひたとつけたり。扶け下ろすに、髪を解けば、ねばねばとして膠らしきが着きたりという。もっともその女昏迷して前後を知らずとあり。
何の怪のなす処なるやを知らず。可厭らしく凄く、不思議なる心持いまもするが、あるいは山男があま干にして貯えたるものならんも知れず、怪しからぬ事かな。いやいや、余り山男の風説をすると、天井から毛だらけなのをぶら下げずとも計り難し。この例本所の脚洗い屋敷にあり。東京なりとて油断はならず。また、恐しきは、
猿の経立、お犬の経立は恐しきものなり。お犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり、ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上にお犬うずくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるようにしてかわるがわる吠えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ、後から見れば存外小さしと云えり。お犬のうなる声ほど物凄く恐しきものなし。
実にこそ恐しきはお犬の経立ちなるかな。われら、経立なる言葉の何の意なるやを解せずといえども、その音の響、言知らず、もの凄まじ。多分はここに言える、首を下より押上るようにして吠ゆる時の事ならん。雨の日とあり、岩山の岩の上とあり。学校がえりの子どもが見たりとあるにて、目のあたりお犬の経立ちに逢う心地す。荒涼たる僻村の風情も文字の外にあらわれたり。岩のとげとげしきも見ゆ。雨も降るごとし。小児もびしょびしょと寂しく通る。天地この時、ただ黒雲の下に経立つ幾多馬の子ほどのお犬あり。一つずつかわるがわる吠ゆる声、可怪しき鐘の音のごとく響きて、威霊いわん方なし。
近頃とも言わず、狼は、木曾街道にもその権威を失いぬ。われら幼き時さえ、隣のおばさん物語りて――片山里にひとり寂しく棲む媼あり。屋根傾き、柱朽ちたるに、細々と苧をうみいる。狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩のようにて欲くもあらねど、吠えても嗅いでみても恐れぬが癪に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯かす。時雨しとしとと降りける夜、また出掛けて、ううと唸って牙を剥き、眼を光らす。媼しずかに顧みて、
やれ、虎狼より漏るが恐しや。
と呟きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。
世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。
明治四十三(一九一〇)年九月・十一月
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誕生日おめでとうございます。
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旅の眼に映じた外国の正月をといふお需めで、一昔前の記憶から探してみたが、其処にはほとんど、「お正月」といふものがない。我々の頭に幼少の頃から浸み込んでゐるお正月、新年、といふものとは、およそかけ離れたものであつた。古い一年が逝き、新しい年が来るといふ事を、我々の祖先が何故こんなに重大事とし華やかな儀式を以つて迎へる様になつたか、その穿鑿は別として、欧米人は、実にあつさりとこれを扱つてゐる。私は丁度四回の新年を巴里で迎へたわけであるが、仏蘭西人の下宿に住み、故国からの留学生とか、大使館関係の人達との交際なども少なかつたので、猶更、その正月はひつそりしたものであつた。最初の年はそれでも、「あ、今時分は弟妹達、雑煮でも祝つてゐるかな」とか、母の得意の煎田作で飯を食べてみたいとか思つたりしたものであるが、次の年からは、そんな感傷も薄らぎ、結句、煩雑な儀礼に縛られないで済む身軽さの気持に、のびのびと己れを浸してゐた。
それでも大晦日の晩は、レヴエイヨンといつて、みんな大概レストランか何かに出かけ、知人等と食事を供にし、踊つたり、唄つたりで、夜を更かす、つまりそれが外国では、新年を迎へる気持の唯一の現はれと云へよう。その騒ぎも、夜が明ける頃には、何処もすつかり静まつて、街上にも屋内にも、平常と何の変りもない一日が来る。起きて、食堂にでも出て来ると、流石、下宿の女主人が、「お早う」の代りに「お目出度う」と云つてくれる。しかし、それもほんの軽い挨拶で、別に、その言葉から正月を感じさせてくれるやうなものではない。
カトリック教の国に、「王様の日」といふのがある。これは偶然、日本の「松の内」にあるお祭り日であつて、向ふの人達には、新年とは関りのないものであるが、日本人である私などには、時が時なので、ちよつとその日はお正月らしい気分を味はへるものだつた。それは、聖書にある通り、基督が生れた時、東方の国の博士達が星の占ひで、ベツレヘムに偉い人が生れたと云つたのにより、東方の国の王が、その誕生を祝ひに来た、といふその日を祝ふのである。この日、各家庭では、独身だつたり、遠くから学校の寄宿舎に来てゐる人など、家を持たない人達を招き、煖炉を前にして、カルタや、唄や、隠し芸の披露や、極く呑気に家庭的な娯楽にうち興じる。そして、この日には、食後に必ず特別の菓子が出る。丁度誕生日やクリスマスの時の様な大きいカステラ風の菓子だが、大抵はその家の主婦の手製といふ事になつてゐる。これを、主婦が人数だけに分けて各自に配るのであるが、この中にはたつた一つ王様の人形が入れてあり、それにぶつかつた人は、男なら王様になり、相手の女王を選ぶし、女なら王様を選ぶ権利がある。女王なり、王様なりが決まると、みんなは二人をならべて、口々に「王様お目出度う、女王様お目出たう」と祝詞を述べて囃すのである。この人形をなるたけその日の人気者、例へば、その中に恋人同志がゐるとすれば、その一方にといふ工合にうまく当る様にするのも主婦の腕前なのださうである。しかし当つた当人はてれくさいので、わざとみんなの期待通りには選ばなかつたりする。かうして、老若男女、無邪気に一日を楽しむこの日だけが、ちよつと日本の正月のカルタ会の空気などを思はせられる唯一のものだつた。
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吾輩は猫である。名前はまだ無い。
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以前は単に「舞台監督」と呼ばれてゐた者が、今日では「演出者」といふ名称を与へられ、その下に、更に「舞台監督」なるものや、「演出助手」なるものが従属するやうなシステムを、少くとも新劇団体の間で採用してゐるのは、多分、築地小劇場あたりの「独逸流演出法」から範を取つたものだと思はれるが、近代に於ける演劇革命の一特色が、舞台労役の組織化に在つたとすれば、この大がかりな命令系統の樹立は、あながち無益なことではあるまい。
そこで、私は、この旧称「舞台監督」即ち、今日でいふ「演出者」の仕事について、一つ、実際的な問題を提供してみたいと思ふ。
「演出者」といふ言葉は、仏蘭西語の「metteur en scène」の訳であるらしいから、これは別段、新しい意味に解する必要はあるまい。この言葉は、「mise en scène」即ち「板にかけること」から出たものである以上、寧ろ、一般に用ひられてゐるこの言葉を土台にして考へることにしよう。
元来、演出といふものを、一つの纏つた仕事と解するやうになつたことが、近代殊に、自由劇場以後の習慣であり、また、それら運動の功績であつて、それまでは、寧ろ俳優の演技に附随する衣裳、舞台装置万端の工夫整頓を指すにすぎず、伝統を墨守する仏蘭西の一部劇壇人は、今日もなほ、「mise en scène」と云へば、舞台装置のことと解してゐるくらゐである。旧称「舞台監督」は、無論 Regisseur の訳であつて、これは、独逸と仏蘭西とでは意味が違ひ、仏蘭西では、日本在来の「幕内主任」といふやうな役である。この意味から、最近の「舞台監督」が生れて来たのだとすれば、それはそれでいいわけになる。
何れにしても、今日でいふ「演出」なるものには、既に幾多の議論や主張が出てゐて、「演出法」とか、「演出学」とかいふ固くるしい研究も行はれてゐるやうだが、結局、一人の人間の頭で、好い芝居を作り上げなければならぬといふ己惚れを棄てない限り、どんな理論も学説も、机上に於てしか通用しないのだ。
私は、自分の乏しい経験と仏蘭西に於ける若干の実例に照して、次のやうな結論を導き出した。
一、演出法といふものは、上演すべき脚本の種類性質に応じて、常に、一定ではあり得ない。即ち、演出者の意図を舞台の表面に現はし、そのアイディアに効果の重点をおく方法と、演出者は、ただ舞台の蔭にあつて、作者の意図と俳優の演技に舞台の全生命を托し、この完全な調和融合を計ることをもつて満足する方法と、この両極端の何れにも同一の重要性をおく必要がある。
仮に、前者の方法を取る場合でも、演出者の気紛れから、脚本の本質的生命を無視し、俳優本然の欲求を斥けることは、演劇芸術への冒涜であり、これは、強盗や悪資本家の所業と選ぶところはないのだ。芸術の名に於て、他人の苦痛や迷惑を顧慮しないでよいといふ論法は、断じて許し難いのだ。若し仮に、さういふことをしたければ、他人の脚本など使はずに、自分で台本を作るなり、自分の配下に書かせるなりすればよい。個性ある俳優を使はずに、人形なり、またその名に甘んずる「奴隷」を駆り立てるがよい。かうして生れた一種の専制的演出は、必ずしも、芸術的に無意義なものでなく、その価値は、それ相当に批判されていいのだ。
脚本によつては、演出家の「協力」なくして独自の舞台性を保ち得ないものがある。この時こそ、演出者は、自己の独創的才能によつて、脚本の生命を舞台上に躍動せしむべき機会であるが、そのために、作者の領域にまで踏み込むことは、作者の同意を得ること、必ずしも予期し得られないことはない。
二、次に、演出法といふものは、相手の俳優次第で、これまた、伸縮自在なるべきものである。当然すぎるほど当然なことだが、俳優と演出者との脚本解釈上の一致を見た上で、その俳優の才能、経験、その他特殊な素質に応ずる演出法を採用すべきで、この場合、協議的演出ともなり、指導的演出ともなり、また批評的演出ともなるのである。
協議的演出とは、俳優が相当の地位にあり、演出者はその技能貫禄に対して、ある程度の信頼と尊敬を払つてゐるやうな場合、たとへ演出家としての主張は枉げないまでも、演技一般の問題に関しては、その創意を認め、更に、演出全体に至つても、時として、その意見に耳を藉すといふ態度に出ることである。これは、今日、どこででも実際に行つてゐるのだが、多くは、演出者の「意に反して」をり、甚だその矜恃を傷けられつつ行はれてゐるのだ。若き演出家よ、意を安んじて可なりである。如何なる時代にならうとも、この種演出法は、恐らく、最も重宝なものであり、正当なものであるといふ信念を忘れ給ふな。
指導的演出とは、演出家が、俳優以上に演技的素養をもち、俳優も亦、その演出家を自己の教師なりと信ずる場合に生れる方法で、これは、演出家が、一方俳優である場合か、俳優がづぶの素人である場合かでなければ成り立たない。演技指導には、模範又は一例を示すを原則とし、俳優に非ざる演出家は、絶対に、かくの如きことは不可能だからだ。これも、わかりきつたことだが、従来、日本の新劇は、俳優にあらざる演出家の指導的演出によつて禍され、誤られ、片輪にされ、生彩を失つてしまつた事実に気がつけば、今後どうすればいいかといふことが問題となる筈である。
そこで、最後に、批評的演出といふものについて述べなければならぬ。これは、演出家が一個の演劇理論家であり、また、舞台の実際知識と劇芸術の創造的精神に富むものであれば、彼が俳優としての経験はなくとも、俳優の演技について、暗示的な、啓発的な意見と批判を加へることができる。これは、正しく、敏感な俳優にとつては、へたな指導以上に有りがたいもので、自己の演技を規整する上のみならず、その才能の練磨の上に、貴重な参考となるものである。昔から、稽古の方法はいろいろあるとして、これに作者が立ち会ふといふことは、ある意味に於て必要とされたが、これはつまり、批評的演出の一部を、作者によつて行はしめた実例である。
俳優としての素質さへあれば、この批評的演出の賢明な運用によつて、素人でもある程度の「成績」を挙げ得ることは、もはや疑ふ余地はない。但し、これは、一般には已むを得ない場合であり、また、従つて、新劇なるものの、踏まなければならない道である。
敢て直言すれば、坪内逍遥氏、小山内、土方の両氏は、何れも、その統率下にある俳優を指導する立場にあつたのだが、その指導は、ある一点で、その任を越えてゐたと云へるのである。即ち、演劇に関する他の部門は兎も角、演技の実際的指導を如何にしたかといふ点で、少くとも、今日われわれに大きな疑ひを抱かしめる。恐らく無能な職業的俳優が自ら指導者の地位に立つたよりも、原則として無難であるべき筈だが、事実は、俳優の演技的センスを消滅させ、脚本から直接舞台の生命を嗅ぎ出す能力を衰退させたことは、何と云つても、「無理な指導的演出」の罪であつた。
今でもなほ、若い演出家の仕事を見てゐると、俳優に対して、「その台詞で起ち上れ」とか、「甲がこの台詞を云ひ終つたら、そつちを向いて拳を挙げろ」とか云つてゐるのに対し、俳優は易々諾々、これに従つてゐる。勿論、「なるほど」と思つてやるならそれでいいが、さうでなければ可笑しなものである。そのくせ、俳優が一つの白の言ひ方を明瞭に間違へてゐても、彼は、なんとも注意しないのである。俳優に委せることは、いくらでも外にある。
それなら、批評的演出の具体的例を挙げてみよう。断つておくが、批評も批評のしやうでは、「指導」的になることがあり、それも批評の限界に止つてゐる間は弊害がないのである。
今ここに、甲が乙に対し、
「出て行け」
といふ白を云ふ場面がある。甲の俳優は、戸口を指して、叱るやうに「出て行け」と怒鳴つた。
戸口を指すといふト書は台本にないが、俳優がさういふヂェスチュアを工夫したのだ。演出者の眼に、ふと、それが不自然に映つた。そこで、「君はどうして、戸口を指すか」と問ふてみる。答は「その方が、この人物の心理を的確に表現すると思ふ。第一、出て行く場所を明らかに指定する方が、見物にも、ある期待をもたせ、命令が一種の脅威的な力をもつことになりはせぬかと思ふ。」
が、演出者は、まだ不服だ。それなら寧ろ、頤だけで戸口を指し、低く、決意の籠つた声で云ひ放つた方が、一層効果的だと思ふ。それを俳優に説明する。手を挙げて指すといふことは、古典的な舞台なら兎も角、現実生活に於ては、なんとなく、大袈裟な、それだけ隙のある動作だ。効果が寧ろ反対に、滑稽味を帯びて来る。「さういふつもりでやつてみ給へ」と云ふ。俳優は、すぐにそれをやつてみる。「それぢや、また、まるで駄々つ子だ」。内部的にまだ欠陥があることを指摘し、そこの工夫を希望しておく。相手が素人なら、これくらゐ突つ込んで、「批評」しないと形がつくまい。これで、だんだんに、その呼吸が掴めて行けば、俳優は、「自分の力で役を活かす」ことができるやうになるのだ。他の役を演ずる場合に、前の舞台が知らず識らず役に立つてゐる。いつまでも素人ではゐない。演出は楽になる。いや、それよりも、俳優の個人的演技から次第に眼を放して、舞台全体に注意が向け得るのだ。その時、はじめて、演劇は、一つのオオケストラとなり、演出家の意図は完全に表出されるのだ。
まだ云ひたいこともあるが、これは、私のノオト代りで、所謂、各種「演出法」の名称なども、臨時の名称と考へて欲しい。なほ、最後に、この四つが、常に判然と区別されてゐなければならぬといふ法はなく、いろいろな条件によつて、彼此混用することもあつていいだらう。ただ、ある演出の根本方針は、その何れかにおかれねばならず、「意志に反して」それが行はれることがあつてはならぬといふまでである。(一九三三・一)
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サム、何をしているの?
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はつ湯
男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。
それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度い素振りを見せるに気が付いても一向珍らしいことには思わなかった。仕事でも片付いたらゆっくり口が利ける緒口でもつけてやろう。単純にそのくらいの察しを持合せていた。
女中の言うところに依ると、その娘は富裕な両親に連れられて年中温泉めぐりをして居る所謂温泉場人種の一人だった。両親が年老いてから生れた一人娘なので大事にし過ぎるせいもあり大柄の身体の割合いに生気が無く、夢見るような大きな瞳に濃い睫毛が重そうにかぶさっている。私は暮の二十五日に此の宿へ仕事をしに来て湯に入る暇も無く強引にペンを走らせている。障子の開け閉てにその娘が欄干に凭れて中庭越しにこっちの部屋を伏目で眺めて居る姿が無意識の眼に映るけれども、私はそれどころでなく書きに書いて心積りした通り首尾よく大晦日の除夜の鐘の鳴り止まぬうちに書き上げた。さて楽しみにした初湯にと手拭を下げて浴室へ下りて行った。
浴槽は汲み換えられて新しい湯の中は爪の先まで蒼み透った。暁の微光が窓硝子を通してシャンデリヤの光とたがい違いの紋様を湯の波に燦めかせる。ラジオが湯気に籠りながら、山の初日の出見物の光景をアナウンスする。
湯の中の五六人の人影の後からその娘の瞳がこっちを見詰めている。今はよしと私はほほ笑んでやる。するとその娘はなよなよと湯を掻き分けて来て、悪びれもせず言う。
「お姉さま、お無心よ」
「なあに」
「お姉さまの、お胸の肉附のいいところを、あたくしに平手でぺちゃぺちゃと叩かして下さらない? どんなにいい気持ちでしょう」
私はこれを奇矯な所望とも突然とも思わなかった。消えそうな少女は私の旺盛な生命の気に触れたがっているのだ。私は憐み深く胸を出してやる。
春の浜別荘
暮から年頭へかけて、熱海の温泉に滞在中、やや馴染になった同じ滞在客の中年の夫婦から……もしここを引揚げるようだったら、五日でも十日でも自分のところの別荘へ寄ってそこにいる娘と一緒に暮しては呉れまいかと、たっての頼みを私は受けた。
私は自分では何とも思わないのに、異ったところのある女と見え、よくこんな不思議な頼みを人から受ける。念のため理由を夫婦に訊いてみると、「あたたのような気性を、是非娘に写して置き度いから」というのである。私はむっとして、「模範女学生じゃあるまいし」と、つい口に出していってしまったが、夫婦の強請み方はなかなかそのくらいでは退けようもなく、また私自身書きものの都合からいっても何処かところを換え、気を換える必要があったので、遂々温泉滞在を切り上げ、夫婦に連れられて汽車に乗り、娘のいる浜の別荘へ送り込まれた。
来て見て案外その別荘は気に入った。家は何の奇もない甘藷畑と松林との間に建てられたものだが、縁側に立って爪立ち覗きをしてみると、浜の砂山の濤のような脊とすれすれに沖の烏帽子岩が見えた。部屋の反対側の窓を開けると相模川の河口の南湖の松林を越して、大山連山の障壁の空に、あっと息を詰めるほど白く見事に富士の整った姿がかかっていた。そして上げ汐に河口の幅の広い湾入が湖のようになると、目を疑うほどはっきり空の富士が逆に映る。私は「まるで盆景の中に住んでいるようねえ」と美景を讃嘆した。
娘というのは数え歳は十六だそうだが、見たところやっと十二か十三で、脾弱な胴に結んだ帯がともすればずり落ちるほど腰の肉などなかった。蝋細工のような細面を臆病そうにうつ向けて下唇を噛みながら相手を見た。ただ瞳だけが吸い付くように何物をか喘ぎ求めていた。そうかといって病気もなかった。
私と娘の両親との約束は――一緒に娘と膳を並べて食事をするほか、もし暇があったら戸外の散歩へでも連れて出て呉れないか――、ただそれだけであった。だから私は所換えに依って新らしくそそられた感興の湧くに任せてぐんぐん仕事に熱中し出して娘を顧みる余裕を失ったが、娘は起きるから寝るまで私の部屋に来て、黙ってくの字に坐ったなり、私の姿をまじまじ見ているのだった。私は見られていると意識するときに、ちょっとてれた気持もしないではないが、然しまるで草木のような感じしかない少女が一人、傍にいたとて別に気分の障りにはならなかった。
私はその頃、ダルクローズの舞踊体操に凝っていた。で、仕事に疲れて来ると忽ち室内着を脱ぎ捨てスポーツシャツ一枚の姿で縁側でトレーニングをやった。私の肉体は相当鍛えられていたから四肢の活躍につれ、私の股や腕にギリシャの彫刻に見るような筋肉の房が現われた。私自身自分の女の肉体に青年のような筋肉の隆起が現われることに神秘的な興味を持ったのだが、気がつくと、これに瞠っている少女の瞳は燃ゆるようだった。彼女は見つめて三昧に入り、ぶるぶると身ぶるいさえすることがあった。私はこれを思春期の変態の現われじゃないかと嫌な気がしたが、そうではないらしかった。健康なものを見て、眼から生気を吸い込もうとする衰亡の人間の必死の本能だった。私が運動を終ると、あえぐものが水を飲んだときのように彼女は咽喉を一つ鳴らし「もうもう本当にいい気持でしたわ」と襟元を叩いた。
二週間ほどの滞在中一度だけ私は娘を散歩に連れて出てやった。日の当る砂丘の蔭に浜防風が鬱金色の芽を出していた。娘は細い指先でそれを摘まみ集めながら私にいった。「ねえ、お姉さま。わたくしいつお姉さまのように活々した女になって、恋が出来るのでしょうか」私は答えた。「ばか、恋はうかうかしてしまってから気が付くもんだよ。前にかれこれ考えるものじゃないよ」娘は、はーと吐息をついた。私は焦立っていった。「自分の事ばかり気苦労してないで、向うをご覧。海があるだろう。富士があるだろう。春じゃないか」旧正月を祝うとて浜に引揚げられた漁船には何れもへんぽんとして旗が飜っていた。砂丘の漁夫の車座から大島節も聞えた。私たちは別荘へ帰ってその夜の晩飯には、娘の摘んだ浜防風と生のしらすと酢のものにしたのを食べた。思いなしか、娘は日ごろより少し多く飯茶碗の数を重ねた。
それから三年ほど経って、その娘は結婚した。今は憎らしいほど丸々肥って子供の二、三人も出来た。毎年正月のためとて浜防風と生のしらすは欠かさず送って来る。
ゆき子へ
ゆき子。山からの手紙ありがとう。蜜月の旅のやさしい夫にいたわられながら霧の高原地で暮すなんて大甘の通俗小説そのままじゃないか。たいがい満足していい筈だよ。今更、私をなつかしがるなんて手はないよ。第一誤解されてもつまらないし、人によっては同性愛なんてけちをつけまいものでもなし――結婚したら年始状以外に私へ文通するでは無いと、結婚前にあれほどくどく言ったじゃないか。それにもうよこすなんてこの手紙の初めについお礼を一筆書いては仕舞ったようなものの私はおこるよ。
改めて言うまでもなく、あなたを嘗て私の傍に、すこしの間置いといてやったのは、あなたの親達から頼まれたからであるけれど、私があなたを一目見て、あんまりあなたが貧弱なのに義憤を感じたからさ。なぜと言って、あなたの身体は紙縒のようによじれていたし、ものを言うにも一口毎に息を切らしながら「おねえさま、あたくしこれで恋が出来ましょうか」と心配そうにいってたじゃないか。私は歯痒くて堪らなくなって私の健康さを見せびらかし、私の強いいのちの力をいろいろの言葉にしてあなたの耳から吹き込んでやった。そのせいか、あなたはだんだん元気になり、恋愛から結婚へ――とうとう一人前の女になった。
あなたは一人前の女になった。私は同じ女性として助力の義務を尽した。もうそれで好い、それ以上私はあなたに望まれ度くない。
あなたは私が都に一人ぽっち残ってさぞ寂しかろうと同情する。よしてお呉れ、私は人から同情を寄せられるのは嫌いだ。寂しいことの好きなのは私の性分だ。けれども断って置きますが、私の好きなのは豪華な寂しさだ。
私は好んで私を愛する環境から離れて居たがる。一人、私は自分の体を抱く、張り切る力で仕事のことを考える。自分の価値につくづくうたれる。だがこれは病理学でいう「自己陶酔症」などいう病的なものではないよ。自分の生命力を現実的にはっきり意識しながら好んで自分を孤独に置く――この孤独は豪華なぜいたくなものなのだよ。もう判ったか、ゆき子。判ったらもう私をなつかしがる手紙など書くな、お前の良人に没頭するのだ。
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Hard
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彼は煙草をやめた。
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目の落ちくぼんだ、鼻の高い、小西一等兵と、四角の顔をした、ひげの伸びている岡田上等兵は、草に身を埋ずめ腹ばいになって話をしていました。
見わたすかぎり、草と灌木の生え茂った平原であります。真っ青な空は、奥底の知れぬ深さを有していたし、遙かの地平線には、砲煙とも見まがうような白い雲がのぞいていました。もう秋も更けているのに、この日の雲は、さながら、夏のある日の午後を思わせたのであります。
「故郷へ帰ったようだな。」
ときどき、思い出したように、あちらから、打ち出す銃声がきこえなかったなら、戦地にいるということを忘れるくらいでした。
「いやに静かじゃないか。」
「敵と相対しているという気がしない。散歩にきて臥転んで、話しているような気がする。」
「見たまえ、自然はきれいじゃないか。あの花は、なんという花かな。」と、小西が、いいました。
「おれは、草の名というものをよく知らないが、りんどうに似ていないのかな。」
岡田は、そう答えて、自分もそこの地上に咲いている花に目をとめました。すると、どこかで、細々と虫の鳴く声がしたのです。
小西は、頭を上げると、戦友の顔を見つめながら、
「僕が死んだら、帰還したとき、老母に言伝をしてくれないか。」と、真剣な調子で、いいました。
「なに、おまえが戦死して、このおれが生きていたらというのか。」
「そうなんだ。」
「おまえが死ねば、おれだって死ぬだろうに……、またどうして、そんなことを考えたんだい。」
小西一等兵は、微笑しながら、
「僕は、画家なんだ。」
「そうか、画描きさんなのか。」
「ここへくれば、そんな職業のことなどはどうだっていいのだ。じつは、あれからもう二年たつが、いつも見慣れている、自分の住んでいた町の景色が、ばかに昨日今日、美しく見えるじゃないか。それで、一枚描こうかと思って、絵の具を買いに出かけて、帰ってみると召集令がきていたんだ。ああ、それで気がついたよ。神さまが、一生かかって観察するだけのものを一瞬間に見せてくださったのだと、ところが、今日僕にはこの野原の景色がたとえようなく美しく見えるのだ。空の色も、雲の姿も、また、この紫色の花も、虫の声までが、かつてこれほど僕を感激させたことはない。いまここにカンバスがあるなら、どんな色でも出し得るような気さえする。
しかし、これを描く、描かぬは問題でなかろう。そして、この際むしろ、描くなんかということを考えないほうがいいのだ。ただ、こうして、自然の裡にひたっていると、僕には、平時の十年にも、二十年にも優るような気がするのだ。いや、それよりも長い間、生活してきたように思える。それで、ふと戦死ということが頭に浮かんだのだ。僕が、今日にも戦死したら、あとに残った老母に、ただ一言、僕が、勇敢に戦って死んだといって、告げてもらいたかったのだ。僕の母親は、子供の時分から、僕を教育するのに、いつも、いかなる場合でも、卑怯なまねをしてはならぬといいきかせたものだ。出征する朝も、神だなの前にすわって、このことを繰り返していったのだ。今日は野原の景色が、あまり美しく見えるので、ついこれからの激戦に花と散るのでないか、と思ったよ。」
だまって聞いていた、岡田上等兵は、あっはははと快活に笑った。
「なにも心配するな。万一、おれが、武運つたなく生きて帰るとしたら、きっとお母さんに見たままを言伝する。しかしなあ小西、おれは、いつもこの隊にいるものは、生死を一つにすると思っているのだ。そうとしか考えられない。どちらが先に、どちらが後に死ぬかわからぬが、おれも生きて帰るとは考えていないぞ。」
「生死だけは、運命だからなあ。」
感じやすい、清らかな目つきをしている小西は、空を見上げて答えました。
この話が、わずか、三分間か、五分間にしか過ぎなかったけれど、二人には、たいへんに長い時間を費やしたごとく思われました。
「君は、芸術家だが、おれは工場で働いていた職工なんだ。だからおれの口から人生観などと、しゃれたことをいうのはおかしいが、人間の社会は、組み立てられた機械のようなものだと信じているのさ。」
「わかるような気がするよ。」
小西は、うなずきました。岡田は、言葉をつづけて、
「おれも、出征する十日ばかり前のことだった。平常からかわいがっていたくりの木がある。秋になっておはぐろ色に実るのを楽しみにしていたのに、このごろたくさんありが上がったり、下がったりして、とうとう枯れ枝をつくってしまった。それで、ありの上がれないようにと、綿で幹を巻いたのだ。最初はありのやつめ、綿に足をとられて、困っていたが、そのうちに平気でそれを乗り越えて下から上がっていくもの、上から、小粒な透きとおる蜜液を抱いて下りてくるもの、綿の障害物などほとんど問題でないのだ。おれは、しゃくにさわったから、熱湯をわかして、かけてやったが、支那兵と同じくその数は無限なのだ。そこはありのほうが勇敢で、友の屍の上を乗り越えて、目的に向かって前進をつづけるというふうで、この無抵抗の抵抗には、こちらが、かえって根負けをしてしまったよ。そのとき、感じたんだ。この小さな虫ですらが、種族全体の幸福のためには、自分の死をなんとも思わないこと、その有り様を見て、驚かざるを得なかったのだ。」
「学ぶべきことかもしれないな。」
「いや、大いに学ぶべきことだよ。見たまえ、こんなところにもありがいるじゃないか。ほかの生物は生存競争に滅びても、協力生活をするありの種族だけは栄えるのだ、世界じゅうどこでも、ありのいないところはないだろう。」
「僕も、そんなことをなにかの本で見た覚えがある。」
「君が、花を見て考えていたときに、僕は、またありのごとく屍を乗り越えて、突進する自分の姿を空想していたのだな。それで、君が先に死んだら、おれは骨壺を負っていってやるぞ。」
「どうか、そうしてくれ。」
突如として、このとき、耳をつんざくような砲声が、間近でしました。短く、また長かった、二人の夢が破れたのです。
「前進。」
つづいて号令が、かかった。
終日、風の音と、雨の音と、まれに鳥の声しかしなかった平原が、たちまちの間に、草の木も根こそぎにされて、寸々にちぎられ、空へ吹き飛ばされるような大事件が持ち上がりました。大地をゆるがす砲車のきしりと、ビュン、ビュンと絶え間なく空中に尾を引くような銃弾の音と、あらしのごとくそばを過ぎて、いつしか遠ざかる馬蹄のひびきとで、平原の静寂は破られ、そこに生えている紫の花と白い花とは、思わず、恐怖にふるえながら、顔を見合ってささやいたのでした。
「なにが起こったのでしょう。」
「暴風雨がやってきたともちがいますね。」
ここに生えている木や、草たちは、ほんとうに雷鳴と、暴風雨よりほかに怖ろしいものが、この宇宙に存在することを知らなかったのでした。
「やはり、暴風雨でしょうね。いまにちょうが飛んできたら聞いてみましょう。」
いつも、暮れ方の陽が、斜めにここへ射すころ、淡紅色の小さなちょうがどこからともなく飛んできて、花の上へ止まるのでした。花たちは、そのちょうのくるのを待っているのであるが、今日にかぎってちょうは、どうしたのか、姿を見せなかったのです。まったく日が暮れかかると、平原は、静けさをとりもどしました。けれど、四辺には、なまぐさい風が吹いて、月の光は、血を浴びたように赤かったのでした。先刻二人の兵士が、腹ばいになって、話をしていた場所から、さらに前方、三百メートルぐらい距たったところで、
「小西、小西……。」
こう闇の中で友の名を呼びながら、戦友を探しているのは、岡田上等兵でした。
そのうち、彼は、足もとに横たわっている屍骸につまずいて危うく倒れかかったが、踏みとどまって、月の光でその顔をのぞくと、打たれたごとく、びっくりして、
「おい、小西じゃないか、やはりやられたのか。」
彼は、ひざまずくと、戦友の屍を膝の上に抱き上げて、
「おまえのいったことは、やはり虫の知らせだったな。とうとうやられたのか。しかしおれも、思うぞんぶん敵を討って、すぐ後からいくぞ。今夜だけさびしいだろうが、一人でここにいてくれ。明日の朝は、かならず迎えにくるから。」
岡田上等兵は、月光の下に立って、戦死した友に向かって、合掌しました。彼は、足もとに茂っている草花を手当たりしだいに手折っては、武装した戦友の体の上にかけていました。そして、味方の陣営に向かって、いきかけたのであるが、またなにを思ったか、引き返してきて、戦友の腕についている時計のゆるんだねじを巻きました。彼は、指先を動かしながら、
「さびしくないように、小西、時計のねじを巻いておくぞ。今夜一晩、この音をきいていてくれ……。」
岡田上等兵は、なんといっても答えがなく、安らかに眠る友の顔を見つめて、熱い涙をふきながら、しばらく別れを惜しんでいました。
その後、彼は、かつての約束を守って、戦友の骨壺を負い、前線から、また前線へと野を越え、河を渡って、進撃をつづけているのでありました。
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Medium
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先生と私は年齡の上では一歳しか違はないが、大學の年次は先生の方が五年も先輩で在學中から御盛名は承つて居た。殊に文部省から北京留學を命ぜられ、いろ〳〵な苦勞を倶にしてからは特に親密な交際をして戴くやうになつた。元來、文部省からの海外留學は例外なしに歐米行であり、又文科大學の方では外國文學の留學生は派遣しなかつたのであるが、どうした機運からか、明治三十二年に東西大學總長の推薦で最初の支那留學生として、先生と私の二人が選ばれたのである。先生は早速同年の冬に赴かれ、私は文部省の都合もあり、渤海灣の結氷のため翌年四月になつて出發した。天津について北京行の汽車に乘つたが、その終點といつて降ろされたとき、私はすつかり面喰つた。坦々として北京が何處か分らぬのである。そこは馬家堡といふ小村で、正陽門に辿りついたのは車で半時間以上も搖られた後のことであつた。當時の北京は道路も惡く衞生状態も行き屆かず、日常生活も極めて不自由であつたが、しかし近代化せず歐米の影響も現はれてゐぬ支那本來の姿が殘つてゐたのは、私達にとつては幸ひだつたと思ふ。正陽門までは先生がわざ〳〵お出迎へ下さつて、車をつらねて東西北六條胡同の宿舍に案内された。そこは以前に公使館のあつたところで、當時は武官室となり、柴中佐(後の大將)等がおられた。先生もそこを宿舍にしておられ、私にも一室を準備して下さつてゐたのである。尤も直接の紹介で東京で中佐に御願はして置いたが先生のお口添や御配慮のお蔭も大いにあつたのである。
同じ屋根の下で起居を倶にするやうになつてからは、何分先生は四ヶ月も先に來ておられることであり、言葉もお達者なら事情にも通達しておられ、何かと御指導にあづかつた。當時の北京は近代化してゐぬ代りに不自由なことも夥しく、今では北京名物になつてゐる洋車もその頃は東單牌樓のあたりに交民巷を中心にしてボツ〳〵とあるだけ、郵便は一々交民巷内の海關まで通帳をもつて出向かねばならず、我々の日用品を賣る店は隆福寺街にたゞ一軒だけ、殊に面倒なのは通貨で、錢舖の基礎が薄弱なために折角換へた鈔票はいつ不通になるやら分らぬ上に、その流通範圍が極めて狹く、隆福寺で換えた票は琉璃廠では通らなかつた。且又當時は戊戌政變の後で、保守排外の風潮が濃く、夜の外出などは思もよらず、白晝でも一人歩きはせず、いつも二人で外出することが多かつた。すべてがそんな譯で學者を訪問したり又交際することなどはもとより望めず、漸くに語學の練習と、琉璃廠隆福寺の書肆行と、二人が特に留意してゐた歐米人の支那に關する著述を上海からとり寄せて閲讀することゝ、そして不自由な北京見物とが、二人の出來るすべてゞあつた。かうしたいろ〳〵と厄介なところにゐて、殆んど何の失敗もせずにすんだのは全く先生の御蔭であつて、學問上ではもとよりのこと、その常識に富み日常の瑣事に通じ、學識と常識二つながら圓滿な發達を遂げておられたことに心から敬服した次第である。
苦勞や不自由を一緒にしたことはなか〳〵忘れられないものであるが、團匪事件の勃發は二人を更に一層緊密に結びつけ、實は其爲めに生涯の關係を生ずるにいたつたのである。私が北京に着いたのは四月であつたが、月が改まる頃から團匪の蔓延が次第に甚だしく、五月末頃には北京も餘程險惡になつて來た。遂に六月十日の薄暮、二人は騾車(蒲鉾馬車)に幌を深く垂れて身を潛め交民巷に難を避けた。途中東四牌樓の邊で一隊の騎兵に遇ひ、幌の中を窺き込まれて膽を冷やしたりしたが、幸ひに無事交民巷内台基廠の杉氏方に他の同胞達と集ることが出來た。それから八月十四日救援の聯合軍の入城するまで滿二ヶ月の間、飢餓か戰死かの最後の一線まで追いつめられた籠城が行はれたのである。その當時守備に就いた日本人は、さきの柴中佐等二三の將校と、廿四名の陸戰隊員と三十名足らずの義勇兵とそれだけで、しかも守備したのは交民巷にあつて防禦上尤も重要と認められて居た肅親王府であつた。尤も伊太利の兵隊も其公使館が哈達門の近い所にあつて早く陷落した爲め我等の處に來て居た。結局現在の帝國大使館と伊太利大使館を合せたものが肅親王府であつて、伊太利大使館内にも我等の陸戰隊が血を流した處がある筈だ。
其上兵器や糧食は初から不足しており、總べての外國陸戰隊及び義勇隊を合せても數から言つて到底長期に度つて守りとぐることは不可能であり、待ちに待つて居た援軍も何時來るか分らぬといふやうな時には、到底生還は六かしいと思つた。當時私は水兵の間に厠はり普通の守備に當つてゐたが、先生は柴中佐のもとに傳令となり、或は我々の間を、或は外國軍隊との連絡に、彈丸と瓦礫の中を縱横に馳驅しておられた面影は目にすがつてゐる。先生は元來健脚であつた。又かうした危急の場合には人の性格がよく現はれるものである、先生の喜怒を表はさぬ落着きぶりは日常と一寸も變らず、沈勇の人といふ感を深くした。
八月十四日聯合軍と共に日本軍も入城し、柴中佐等は順天府に警務衙門を設け、東四牌樓から北の治安と宣撫に當ることゝなり、籠城組から先生はじめ私達二三人も求められ參加することになつた。こゝでも先生の發達した常識とすぐれた見識とは屡々貴重な建議となつて柴中佐を助けてをられた。國子監の石鼓が無事に保護されたのも先生の逸早き御配慮に負ふところが多いのである。殊に愉快な想ひ出は、外國の軍隊を恐れて大門を鎖してゐる商人を一軒一軒二人で説いて𢌞り、四日目位からボツ〳〵店を開くやうにさせ、遂にロシヤ軍の管轄してゐた東四牌樓から南はまだ暴行掠奪止まず破壞が續いてゐる時に、牌樓の北では安民樂業の繁昌が現出し、露兵の眼を忍んで家も財産も棄てゝ逃げてくるものさへ出來たことである。九月初に文部省から歸朝命令に接し、鐵道は破壞されてゐたので船で下るべく通州へ向つた際、別れをおしんで支那人がわざ〳〵通州まで送つて來てくれた位である。
二人は一旦歸朝して後、先生は獨逸に留學なされ、私は翌年に南支へ行つた。ついで先生は間もなく北京の高等師範學堂に教を垂れられ、二人は暫く相別れてゐたが、後には東西の大學に職を奉じて同一の學科を講じ、それのみならず均しく大學を退いた後にも二人が生死を共にした思ひ出深き團匪事件の賠償金による對支文化事業調査委員會及び支那に於ける東方文化事業委員會が成るにいたり、二人は倶に擧げられて委員となり、東西に研究所の設立されるや相並んでその所長となり、昨年まで十年の間一心同體の一方ならぬお世話を蒙つて來たのである。先年相携へて北京に行つた時、二人の古戰場を徘徊し、紀念碑の前で寫眞を撮した。その寫眞は今こゝにある。詩邶風撃鼓の篇に「死生契闊、與子成説、執子之手、與子偕老」といふ一章がある。毛傳には「契闊勤苦也、説數也」とある。それによつて解すれば、戰に行きし兵士の言葉をうつせるもので、同じ隊伍にあつて苦勞をともにした。もし幸に生還を得ば、子の手をとつて老せんといふ意味であらうと思はれる。今より想へば丁度私と先生との事を歌ひしものゝやうである。籠城より三十餘年の後に、團匪賠償金によつて出來た事業を倶にしようと當時誰が想はうか。あのとき二人が幸に生命を完うし四十年も生き永へたから「執子之手、與子偕老」と歌うた詩人の願は充たされたといつても、先生の如きはまだ將來になすある方であり、東亞の新秩序建設の論議され、先生に待つもの彌多き時に先生を喪つたのは、國家にとつて惜しんで餘りあると同時に、四十餘年交遊の蹤を囘顧して身世の感に任えぬ次第である。
先生の告別式は七月十七日築地本願寺別院に於て行はれた。其四日前即ち七月十四日は毎年北京天津籠城戰死者及北京籠城後死亡者の追弔法要をなす定日であつて、其場所も同じくこの別院である事亦奇縁と言はねばならぬ。私が先生の喪儀にまゐつた所が高壽八十の柴大將即ち往年の柴中佐が已に感慨深げに着坐して居られた。此れも或は四十年前の思出に耽つて居られることと想像して胸を擣つものがあつた。
(昭和十四年十一月五日發行 漢學會雜誌第七卷第三號所載)
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Hard
| 0.665
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田園の破産
学生の時分、暑中休暇に田舎へ帰って、百姓に接したときは、全くそこに都会から独立した生活があったように感じられたものです。
彼らの信じている迷信というものも、その人たちにとっては、不調和ということがなく、却って、そこに営まれつつある生活が、都会における物質的な文明から独立して、何ものか深い暗示と一種の慰藉を人生に与えるもののごとく感じられたのでした。
それは原始的にも神を怖れ、信じ、また忍従するものであって、やがてその精神は、相互扶助の道徳を生み、生長のいかんによっては、自治体をすら造らるべきものであったに相違なかったのです。
殊に今日田舎へ帰って見た時に、いっそう、当時が追懐されてなつかしさを覚えられたほど、いまは全く様子が変わってしまったのでした。それは、都会からずっと離れている処ならばいざ知らず、日に幾回となく汽車が通過して、そのたびに都会から流行品や、新聞、雑誌のようなものは勿論、また人間が降りたり乗ったりするのでは、常識的に考えても、田舎がいつまでも田舎の面目を保たれるということがない。
一国の景気、不景気は、中心の大都会も、田舎の小都市もほとんど同時に波動することからして、思想的にも経済的に、諸般の現象がいつまでも異なっている筈がなければ、またその対策の如きも同じからざるわけがなかったからです。
村から学校へ通う女学生の風俗すら、その時分と比較してみれば変わりようも甚だしければ、また弁当箱を下げて、近接した町の小会社や、工場へ通勤する青年の数も多くなったのに驚かされます。
これを見る時に、やがては田園は破産して工業化してしまうであろうと思うことは仮に早計であったとしても、資本主義化されつつあるのを感じないわけにはいかないのです。
真理の進行というものが、一定の段階を踏んで行くものであり、飛躍することもないかわりに、また何人の力をもってしても、その行進を停めることができないとしたら、またそのことが、すでに真理であるなら、今日の農村が、ふたたび原始的の状態に帰るものではないといわれたことがうなずかれる。
古い夢の減じつつある農村には、いまや新しい希望が生まれなければならぬ時に際会しています。その新しい希望は決して、無智と無自覚が幸福であった、その時代の生活ではない。いかに人類が共通せる悩みと苦痛から脱れうるかという問題にほかならないでありましょう。
文壇の転換期
ジャーナリズムが文壇を賑わしていたのであって、その糸を引いたものは、資本主義であった。そして個々の所謂、流行作家ではなかったということが、この頃になって、ようやく分かったもののようです。
資本力を有する雑誌は、新聞広告の上だけでも、新進作家を製造することが不可能でないばかりでなく、その作家の才能をもまた自由に、その雑誌向きの型にはめ得るだけの暴力を有している。私は敢えてこれを暴力という。作家がそれを自識せずに、自分の天分が社会を征服するなどと考えるものがあったらむしろ滑稽をきわめる。
なぜなら、彼らが、その資本主義的な雑誌から離れて、赤裸々に社会に呼びかける時に果たして幾何の作家が、同じほどの俗衆を自らの力で繋ぎえようか。
しかし作家たちは、それを知らざるのでない。すでに時勢の適応性に硬化した最も資本主義的なる雑誌は、いまはただ、随勢に動きつつあるばかりで、権威を有しないところから、被らは芸術のために、もう一つは自己存在のために、小雑誌の分裂を見たのである。このことは、明らかに既成文壇が崩落に向かって急ぎつつある、転換期におけることを示すものです。
実に現在の多くの芸術は、次の若い新しい時代に向かって呼びかけることは愚か、現在の人々をも満足するほどの感興と刺激を有しないものです。
これは、いかに悶えても知識階級の生活がすでに、何らの感激に値しないがためであるかぎり、いままでの作家からは、より以上に新味のある作品の容易に生産されないことを断言し得らるるものです。この点において、新興文学は、真のプロレタリアの生活の中に胚胎すると見らるべきである。言い換えれば、プロレタリアの生活と気魄とが、新しい文化を創造するに値するからでした。
童話作家たらん
「未明選集」の六巻目がこの四月にて完了した。材の取り扱い方、見方ともに、小説と童話とは異なっている。そして、いま私の頭は、同じ月のうちに、どちらをも書くということがだんだん苦しくなった。ゆえに、この選集を機会として自らもまた本領と信ずる童話に、余生の全体を尽くそうかと考えています。五月八日
「早稲田文学」大正十五年六月号
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新劇とは?
「新劇」といふ言葉は最初誰がどういふ意味で使ひ出したか知らぬが、「新しい芝居」といふことを漢語で云つたまでで、専門的な術語と見做すわけに行かぬと思ふ。従つて、ある限られた範囲のものを指すためには、甚だ不都合な言葉である。
今日の通念としては、大小の商業劇場が、営利を目的として一般大衆に見せる芝居は、歌舞伎も新派も、その他何々合同劇といふやうなものも、一切、それが如何に「新しき試み」であらうと、世間もわれわれもこれを「新劇」と呼ばないのである。
ところが、歌舞伎や新派の俳優が、一度臨時にもせよ興行主の損益計算を離れ、さほど新しくもない「試み」を、短時日の公演で見せるとなれば、彼等自らは勿論、世間もこれを「新劇」と呼んで疑はないのである。
さうかと思ふと、学生風の素人が、たまたま道楽と茶目ツ気から、親からせびつた小遣を出し合つて手当り次第の脚本を何々小劇場で朗読してみせると、これもやはり「新劇」で通用するらしい。
が、大体からいつて、自他共に許すところの「新劇」なるものは、「旧劇」即ち歌舞伎といふわが国伝来の演劇に対抗し、「新たに」西洋劇の伝統から、形式内容ともに今日の文化に即した劇的表現を学ばうとした、一つの発生期にある芝居なのである。
歌舞伎芸術がそれ自身明治開化の風潮に融合できなかつた結果、その伝統が分れて新派劇を形づくつたやうに、西洋演劇の伝統も亦、民族的な障碍と、研究不徹底のために、その本質は、久しく秘められて、遂に形体の模倣に止まつた観があり、そして、その空白は、知らず識らず、歌舞伎乃至新派の伝統によつてこれを充たすより外なかつたのである。それゆゑ、今日の「新劇」は、厳密にいへば、歌舞伎乃至新派より全く独立したものではなく、まして、西洋劇の精髄を取り容れたものでもなく、いはば、両方の「つまらぬところ」ばかり拾つたやうなものなのである。誰もさうは思つてゐないが、冷静に考へてみるとさうだ。「新劇俳優」が上手になると「新派臭く」なるのはそのためだといつていい。
それでも、「新劇」が今日目指してゐるものは、築地小劇場の宣言を藉りるまでもなく、歌舞伎に非ず、新派に非ざる、「新しき日本劇」なのであつて、その意図を正しいとすれば、結果の如何に拘はらず、「新劇」とは畢竟、「過渡期に於ける演劇」に過ぎないと断定し得るのである。
発生期ともいへ、過渡期ともいへる我が「新劇」の最も大なる悩みは、優れた「演劇的抱負」を実現すべき、「演劇的手段」を欠いてゐることである。「語り」得るのみで、「見せる」ことができないのである。
西洋劇の魅力は、新文化の魅力であり、これが移入された当時にあつては、全く、その「手段」の如きは問ふところでなかつたのである。西洋近代劇乃至それ以後の様々な舞台様式の紹介も亦、同様である。「何かしら」が目新らしく、「何か知ら」が心を酔はせた。今は、さういふ「何か知ら」がなくなつて、「抱負」は、ただ「抱負」としてでは通用しなくなつた。見物の目は、肥えて来た。「ほんたうの芝居」を見せろと要求しだしたのである。
「新劇」の方でも、今に見せる今に見せると云つてゐるだけで、「何を」見せたらいいのか見当もついてゐない。そしてやつと、近頃になつて、めいめい、「自分の仕事」がわかつて来た。今まで何をして来たかといふことになつた。
そして、急に「新劇の職業化」が叫ばれ出したのだから、私は、茫然自失するより外はないのである。
子供や野蛮人は「新芸術の開拓者」であり得ないと同時に、決してまた、信用ある文化的職業人たることは望まれないのである。今日までの「新劇」は演劇としての「芸術的素養」に欠け、その「運動」なるものも、近代欧羅巴に於けるそれの如く、決して、真の意味での、アヴァン・ギャルトであつた例しはないのだと私は信じてゐる。「先駆者」が模倣や引写しをして得意然たる理由はないからである。今日までの「新劇」に、一度でも、その当事者の創造による芸術的主張があつたらうか? 無い筈である。まだ、そんな力もなく、余裕もなかつたのである。やつと、自分で勉強し、感得した事柄を、半ば親切と、半ば矜りとを以て、人に伝へたといふだけである。それも甚だ中途半端な、無責任な伝へ方をしたものである。ただ、威勢がよかつた。掛声が大きかつた。看板が麗々しかつた。「新劇運動」といふ言葉が、西洋の「近代劇運動」といふ言葉に似てゐた。勿論、「演劇革新」の抱負に於ては、何れも同様であつたと云ひ得るが、彼には、確乎たる土台があり、われには、土台がないのである。彼には削つた柱があり、こつちは、柱を削る道具さへも用意してゐない。家を建てる話に譬へたつもりである。
わが「新劇」は、かくて、その自然の成長をさへ拒まれてゐる。没落階級が「芸術」を見捨てたからだといふ説もあるが、「成長」といふ言葉を、そんなことに関係のない意味で私は使つてゐる。
新劇は、そのスタアトを誤つたばかりでなく、その「軽薄さ」が、心ある、従つて頭のある協力者をその「陣営」の中に引入れ得なかつたからである。
芸術が成長するといふことは、必ずしも、それで食へるやうになるといふことではない。しかしながら、健全に成長したもののうちからは、信用ある「商品」が生れることも亦事実なのだ。
「新劇」は、遅蒔きながら、栄養不良の結果を省みて、体質の鍛へ直しをしなければならぬ。
「新劇」が本質的に「新しい日本現代劇」たり得るためには、
一、日本現代の情勢に鑑み、演劇芸術の文化的意義について再考すること。
一、作者は固より、演出家、俳優をも含めて、一般新劇関係者は、先づ、今日の商業演劇に対して絶縁状を叩きつけること。
一、特に俳優は、その修業方法について、従来の迷妄を打破し、あらゆる困難を征服して、最も合理的な自己訓練を行ふこと。
一、劇団当事者は、俳優志望者の採用標準を、全然改めること。即ち、素質の点で、「知性」と「教養」と、その内的生活より生ずる「人間的魅力」をより重要視し、近代社会の堂々たる装飾的役割を演ずるに応はしい人物を選ぶこと。
一、「先駆的」なる美名をかかげ、徒らに晦渋な表現、幼稚な気取り、唯我独尊的理論を押しつけないこと。(尤も、ほんたうに若いものたちだけでやるその場限りの仕事なら、また何をか云はんや)
一、「新劇」の観客層について十分認識を深めること。今日、「新しい芝居」即ち「現代の演劇」を求めてゐる見物とは、所謂知識階級の一部にすぎない。しかし、ほんとに「良いもの」がわかり、「良いもの」なら見ようと思つてゐる人々が、それほど少くはないのである。彼等は、自分たちが金を出してまで、「新しい芝居」を育てようとは思つてゐないが、金を出す値打のあるものなら、悦んで「自分のために」見に来るのである。彼等は時間が惜しい故に、何よりも芝居で「退屈する」ことを好まぬ。自分で考へたいことを沢山もつてゐるので、劇場で考へさせられることもあまり有難がらぬ。「人の説」を聴き飽きてゐるから、お説教は最も嫌ひな手合である。「進歩的な」ものを見せるなどと宣伝しては損である。自分の方がそれより進んでゐると自負し兼ねないから。それに、「新しい思想」は舞台から学ぶ必要もなからうと空嘯くに違ひない。彼等は、オリヂナルな思想なんてさうざらにないと高をくくり、未だ嘗て、思想そのものに感激したことのない連中である。そのくせ、月並と卑俗を軽蔑し、自称英雄と附和雷同の徒を笑殺する。ブルジョアの悪趣味と、革命家の涙に嘔吐を催し、重大事を笑ひながら語ることを一向罪悪と思はず、偽善的深刻さよりも、寧ろ意識的駄洒落に対して寛大である。「新劇」は将来、かかる見物を「獲得」すべきである。
彼等は必ずしも、演劇の新様式に興味をもたず、その芸術的進化の跡に対して無関心であるかもしれぬ。が、絶対に作者と俳優と登場人物とを混同するやうなことはない。彼等は、就中、人物と俳優との隔りに敏感である。彼等の世相の観察は、今日の新劇俳優の誰彼より遥かに豊富で且つ鋭いことを知らねばならぬ。
この種の見物は、決して、「演劇」を真の意味で「先駆的」たらしめる筈はない。が、かういふ見物に迎へられる「演劇」は、わが国現在の情勢からみて、一つの「標準的な」現代劇と見なし得るのであつて、これが、「新しい戯曲的才能」の苗床たり得るところに、私の終局の目的が存するのである。
一見、若い天才は、常に「新運動」の中からのみ生れ出るやうに見えても、その実栄養分の八十パアセントは、「新運動」そのものの中からは取つてゐない。寧ろ、その以前の「行きづまつた」土壌を破つて、立ち上る途端に、その「根」は既に水々しく伸び肥つてゐるのである。
心身ともに溌刺たる「芸術的演劇」の誕生はそれから先のことであらう。
演劇をもつて、文化の急角度的刷新に役立たしめ得る時代は、多分また、それから後に来るであらうと思ふが、どうか?
新劇の始末
現在の新劇団体が、そのままの形態と方向で成長し、且つ、職業化し得るといふ考へ方に私は疑ひをもつ。だからといつて、現在の新劇団が今日努力しつつある仕事を軽視するものではない。それは、「ある期間」若干有意義ではある。社会的にも、個人的にも。しかし、それらの劇団のうちから才能あり、よき修業を積んだもののみが成長し、そのうちから更に、よい仲間と共によい見物を味方となし得たもののみが、昂然と「芸術で食へる」と云ひ得るのである。
その事実が不合理だといふ説も成立つだらう。「社会のために働いてゐて」食へん法はないといふ理論である。一応賛成であるが、適材適所の法則は、如何なる時代に於ても奨励されなければならぬ。道を迷つた人々に、道を誤るなといふ警告も私の意見の中に含まれてゐることを注意して欲しい。そして、如何なる職業と雖も、修業中は一文にもならぬこと、早く金が欲しければ、長い修業を必要としない方面を選んではどうかといふまでである。
くどいやうだが、永久の素人芝居のために、ある人々は今日まで、あまりに大きな犠牲を払ひすぎた。正しい修業を積む勇気もないものが、同志の名に於て「新劇」にぶら下ることは、もういい加減にやめてもらひたい。遠大なる劇団の理想も、それらの寄寓者へのお義理のために、中途にして挫折するのである。
とはいへ、それは誰が悪いのでもない、国情が悪いのである。
演劇的新種に適せぬ土壌は、何人かの手によつて、もつと有効に耕されねばならなかつたのである。「新劇」は今日まで、何をなしたかといへば、恐らく、総てをなしたといへるであらう。ただ、誰が何をなしたかといふ問題になると、誰も何もしなかつたのである。できなかつたのである。
余談はさておき、私のいふ「新劇の始末」について、もう少し具体的な話をしてみよう。
第一に、今すぐ、日本にあるもので、「現代劇」が作れるか? といふと、それは作れないと答へるより外はない。無理に作れば作れないこともあるまいが、名ばかりのもので、いいものは無論できない。理由は、材料がそろはぬ。戯曲は、必ずしもないことはない。非常に優れた、成功疑ひなしといふ創作戯曲はちよつと思ひ当らぬし、そんなものは前に述べた理由で当節出る筈もないが、まあこれならと思はれるものは、過去二十年の間に、十ぐらゐは出てゐるだらう。無論、「新劇」の畑から出たものである。作家のものでは、田中君の「おふくろ」や、真船君の「いたち」など、世が世なら、もつと完全にもつと面白く、従つて、もつと広い範囲で興行価値を示したであらう。阪中君の「馬」小山君の「瀬戸内海」川口君の「二十六番館」森本君の「わが家」などは、何れも芸術的に相当高いレヴェルに達した作品だが、まだまだ「新劇的」すぎる。といふ意味は、舞台にかけて、どこか、見物をまごつかせ、又は、退屈させるところがある。即ち、「神聖な退屈」を強ひる間は、それを商品と名づけることは作者に失礼かもしれぬ。商品たることを欲せぬ、又は潔しとせぬことが明瞭だからである。
新協劇団の「夜明け前」も、同じ意味で「商品」とは云ひ難い。思ふやうな入りがなかつたのは当然である。俳優の責任ばかりとはいへない。
「商品」でないものは、悉く「新劇」だと私は考へない。素人芝居で玄人の真似だけをやつてゐるのがある。「夜明け前」は、「新劇」たるの意図を包み、「商品」のレッテルを貼つてあつた。別に、まやかしといふ意味ではないが、矛盾があり、見物は、求めるものを与えられなかつた。家へ持つて帰つて観たいと思つたのは私ばかりではあるまい。あれを、退屈でなくするのには、即ち、中身まで商品にするのには、あの解説めいた形式が邪魔をしたと思ふ。見物は、舞台に歴史の教訓も講義も求めてはゐず、ただ、歴史を材とした「演劇的魅力」を求めてゐるのである。その歴史を、見物は自分で批判することを楽しむのである。少くとも、見物をして、自ら正しい批判をなし得た如く思はせることが肝要である。作者の思想は、演劇に於て、特にかくの如き姿をもつて示されるのが、近代の礼節だと私は考へる。これは勿論、煽動的大衆劇のことを云ふのではない。「夜明け前」は、芸術的には寧ろ渋く、神経のよく行き亘つた演出であつたに拘らず、思想的に、見物を幼稚なもの鈍感なものとして扱つたところに、多少の誤算が生じたのであらう。それが、どちらかに統一されてゐたら、もつと「商品」らしく、購買慾をそそるものになつたであらう。
戯曲はないないといふが、それこそ、外国の優れた「現代劇」を、日本の舞台に、見物に適するやうアレンヂすれば、いくらも間に合ふと思ふ。但し、俳優がゐさへすればである。外国の作品は、日本の作家のやうに、人物の倹約などしないから、一つの脚本を上演するとなると、種々雑多な型の俳優が必要である。英雄らしい人物も出て来る。堂々たる風采の紳士も登場する。教養のある淑やかな娘、生活で磨かれた老人、飄々乎たる善良な労働者、目立たないがよく見ると帳簿の数字が顔に刻まれてゐる中年の事務員、こんな人物になりきれる俳優が一人でも日本にゐるかどうか? これがゐなければ「現代劇」はおぢやんのぢやんである。旧劇や新派の俳優が、現代の軍人に扮してゐる写真を見た私は、苦笑を禁じ得なかつたが、新劇の俳優は、ただ、そんな滑稽なことをしないだけが取柄である。
「それらしい人物」に扮し、その人らしく語り動くことのできる資格が、人物の範囲を拡げれば拡げるほど、現在の俳優中には求め難いとしたら、いつたい、どうしたらいいか? 戯曲家は、自分の創作に於て、人物の範囲を限るより外、「現在に於て」上演の成績を高める方法はないことになる。どういふ風に限るか? 劇団に関係ある作者は、このことを十分考慮に入れることが得策である。われわれの求める「現代劇」は、しかし、かかる制限の中から易々と生れるであらうか?
作家と俳優とを、ここで区別する必要はなくなる。何れも「自分」だけしか現はし得ず、しかも、その一人が、どんな人物でも引受けなければならないといふことは、職業として通用するかどうか? 舞台が単調で、ぎごちなく、人物の一人一人が魅力をもつて生きて来ぬといふことは、その意図の如何に拘らず、金を取つて見せる芝居ではないのである。取れたら取れたで誠に結構であるが、それは僥倖と考へねばなるまい。例の左翼劇華やかな時代のことを云ふものもあるが、大衆の附和雷同性を利用するならどんなことでもできる。そして、それが続く間、「芸術」は伸びないといふ証明もできるのである。
以上のことは、別に誰に答へるといふ目的ではないが、先日朝日新聞で村山知義君が、新劇職業化の問題を論じ、「現代劇」への方向は、「新劇」を堕落せしめるものだといふやうな意見を述べてをられたから、さういふ考へ違ひをする人がゐると困ると思ひ、ここで、一般の誤解を解いておくのである。
勿論、再三云ふ如く、若い人々が、たとへ将来演劇を職業とする目的を抱いてゐるにせよ、いきなり、今日の商業劇場に迎へられるやうな卑俗劇を志すことは悲しむべきことである。しかし、私の云ふ現代劇は、今日、「新劇的気魄」を以て進むべき道の延長にすぎないのであつて、徒らに、見物に媚びよとは断じて申さぬ。新精神、新傾向大に可なり。ただ、少数の「新劇マニア」、ある種の新劇批評家の好みに投じ、乃至は今日までの「雑誌戯曲」を標準として、白と白との間に黴が生えるやうな芝居をやつてゐては、「新劇」としても通るのが間違ひだし、将来それが成長しても、優れた「現代劇」にはならぬのである――といふことをお互に銘記したいと思ふ。要するに、ほんたうの「新劇」をパスした免状所有者のみが、将来、「現代劇」の信用ある生産者となり得るのだと云つておかう。(一九三五・四)
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近来、食べ物のことがいろいろの方面から注意され、食べ物に関する論議がさかんになってきた。殊に栄養学というような方面から、食べ物の配合や量のことをやかましくいうことが流行った。けれども、子供や病人ならともかく、自分の意志で、自分の好きなものを食うことのできる一般人にとっては、そういう論議はいくらやっても、なんの役にもたたない。
だから栄養料理という言葉が、まずい料理の代名詞のように使われたのも、むしろ当然である。わたしどもの目からみると、栄養料理というものは、料理にもなにもなっていない。
人間の食べ物は、馬や牛の食物とはちがう。人間は食べ物を料理して食うからである。料理とはいうまでもなく、物をうまく食うための仕事である。だが、わたしはなにもここまで改まって料理の講釈をしようとは思わない。ただ一ついっておきたいことは、ともかく、そういうようなことから医者とか料理の専門家といういろいろな物識りが、料理についてさかんに論議してはいるが、その一人として料理と食器についてはっきりした見解を述べているものがいないということだ。
いうまでもなく、食器なくして料理は成立しない。太古は食べ物を柏の葉に載せて食ったということであるが、すでに柏の葉に載せたことが食器の必要を如実に物語っている。早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。それはなぜであるか、いうまでもなく、新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからである。カレーライスそのものだけなら、これをきれいな皿に盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。それにも拘らず、美しい皿に盛ったカレーライスは、これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。
しかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理にやかましくなり、料理にやかましくなればなるほど、料理を盛るについてもやかましくなる。これはまた当然である。
しかるに、現代多くの専門家が料理を云々していながら、その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。
以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。料理をするものの立場からいえば、自分の料理はこういう食器に盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。
また、もっと別な方面から考えてみると、よい食器のある時代は、よい料理のあった時代、料理の進んでいた時代であるということができる。その意味では、現代は料理の進んだ時代ではない。よい食器が生まれていないからである。
中国料理は世界一だというようなことをよく半可通のひとがいっている。また、なにも知らぬひとはだいたいそれを信用して、なるほど、そうだろうぐらいに考えている。けれど、わたしの見解をもってすれば、中国料理が真に世界一を誇り得たのは明代であって、今日でないというのは、これも中国の食器をみると分る。中国において食器が芸術的に最も発達したのは古染付にしても、赤絵にしても明代であって、清になると、すでに素質が低落している。現代に至っては論外である。むべなるかな、今日私たちが中国の料理を味わって感心するものはほとんどない。
さらに食器をみると、その料理の内容までほぼ推察がつく。中国食器の絢爛たる色彩と外観の偉容と、西洋食器の白色一点ばりの清浄主義と、日本食器の内容的な雅味とは、それぞれの料理の特徴を示すばかりでなく、お国ぶりまでも窺わせてくれる。
このように、いかなる方面からみても、料理と食器とは相離れることのできない、いわば夫婦のごとき密接な関係がある。料理を舌の先に感ずる味だけとみるのは、まだ本当の料理が分らないからである。うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ。もちろん、ひいては料理は食う座敷も、床の間の飾りもすべてがこれに伴ってくるが、そのもっとも密接なる食器について意を用いることが、まず、今日の料理家に望まねばならぬ第一項であろう。
よい料理とはなにか、よい食器とはなにか、これがただちに続く問題であるが、今日の一般はまだそれを問題にするまでにさえ至っていないのを遺憾とする。
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天に日月あるは、人に男女あるが如し。日の光は明かにして強く、月の光は清くして麗しく、おのづから陰陽のけぢめあるは、男の徳の剛を貴び、女の徳の柔を貴ぶに譬ふべし。されば、夏の日は畏るべく、冬の日は愛すべしと云ひけむ。げに、夏の日影はげしく照りては、眼もくらみて仰ぎ見ること能はざれども、紅葉かつ散る小春の日和のうらゝかなるまゝに、南の軒の下に横はりて脊をあぶらむは、如何に心ゆくことの限りなるらむ。夏の日はやがて威なり、冬の日はやがて恩なり。寒暑并び行はれて天の時とゝのひ、恩威竝び施して男子の徳全きを得べきなり。父よ父よと、いはけなきまな子に呼ばれつゝ、その紅葉の如き手に虎鬚をよまるれば、三軍を叱咜する鬼將軍の瘢痕ふかき頬にも、覺えずゑくぼはあふれなむ。あくまでも強きは男子の常なれど、武士もしかすがに、物の哀れは知れり。男の徳一に日に比すべきなり。
春の夜ふけて、花の林の間におぼろげにさしたる月は、窓深くたれこめてよろづ嬌羞を帶びたるをとめ子に喩ふべし。銀河一滴の水をこぼさず、桐の葉いまだ秋を告げざる三伏の夕べ、蚊遣火の煙にむせびながら軒の端ちかくさす月は、憂にやつれながら、しかすがに堅く操をまもれる女に似たり。秋風になびく尾花の末にほのめきては、親しむべけれど、川風さむく千鳥なく冬の空にさえては、凛としてまた狎るべからず。女の徳、一に月になぞらふべきなり。
雞の聲のこる茅店の月、離人の膓をたち、雁が音わたる關山の月、征夫の心を傷ましむる媒となりて、物のあはれを添ふるは、なべて女の性の感情ふかきにたとへむ。立ち騷ぐ黒雲に日はかくれて、むら雨はげしく降りしきるとも、晝のひかり猶ほおのづから明かなるは、男の心のなべて智に富むにかたどるべし。月はみづから光をはなつものにあらず。日の光をうけてはじめて光あり。女はみづから立つものにあらず。男に依りてはじめて立つ。すべて女は力よわきものなれば、あくまでもかなしみていたはるべきなり。
また、日の晝にかゞやき、月の夜を照すは、男の外を司り、女の内を治むるに似たり。男には、男の分あり。女には、女の分あり。めゝしきは男の分にあらず、をゝしきも女の分にあらぬなり。伊邪那岐命、伊邪那美命と天の御柱をめぐりてみあひませしときに、伊邪那美命まづ、あなにやし愛男をとのりたまひて、くみどに興してうみたまへる御子のふさはしからざりしも、たゞごとにはあらざりけり。呉牛月に喘ぐも、日と同じき熱さなるにあらず。月は、ぬば玉の夜、清風そよぐ時にあらはれてこそ人のあはれみも深かるべきに、夕日沈まなくにまだき主じ顏にも出でたらむには、うせなんものは、其光のみにはあらざらむ。女もまた、つゆさしいづることなく、よろづ夫に從ひてぞ、妻たるものの道はたつべかりける。(明治三十二年)
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花の咲く前には、とかく、寒かったり、暖かかったりして天候の定まらぬものです。
その日も暮れ方まで穏やかだったのが夜に入ると、急に風が出はじめました。
ちょうど、悪寒に襲われた患者のように、常磐木は、その黒い姿を暗の中で、しきりに身震いしていました。
A院長は、居間で、これから一杯やろうと思っていたのです。そこへはばかるような小さい跫音がして、取り次ぎの女中兼看護婦が入ってきて、
「患者がみえましたが。」と、告げました。
「だれだ? 初診のものか。」と、院長は、目を光らしました。
「はい、はじめての方で、よほどお悪いようなのでございます。」
まだ年の若い彼女は、こんなものを院長に取り次いだのは悪いとは思ったけれど、それよりも、目にうつる哀れな男の姿のほうが、いっそう強く心を動かしたのです。けれど、院長は容易に座を立ち上がろうとしなかった。
「そんなに悪いのに、ここへやってきたのか。」
「はい。」
院長は、きたときいては、捨ててもおけなかったのでした。どんな身分の患者であって、またどこが悪いのか、それを知りたいという職業意識も起こって、
「いま、ゆくから。」と、静かに、答えて、苦い顔つきをしながら、居間を出ました。
控え室をのぞくと、乞食かと思われたようなよぼよぼの老人が、ふろしき包みをわきに置いてうずくまっていました。
院長は、その老人と、取り次いだ看護婦とを鋭く一瞥してからいかにも、こんなものを……ばかなやつだといわぬばかりに、
「みてもらいたいというのは、この方かね。」と、ききました。
「さよう、私でございます。遠いところ、やっと歩いてまいりました。」と、老人はとぎれとぎれに答えました。
「遠いところ? なんで、もっと近所の医者にかからなかったんだね。」
「だめです、いいお医者さんがありません。」と、老人は頭を左右に揺すりました。
(そうだろうとも、だれが、こんなものを見てやるものだ。このばかな女でもなければ、一目見て追い帰すにちがいない。いったい、医者というものをなんと心得ているのだろう。)
「おじいさん、せっかくだが、私は、これから急病人の迎えを受けているので、出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、よそへいってもらいたい。」
院長は、そばに、まごまごしている、看護婦の顔をにらんで、奥へさっさとはいってしまいました。
「じゃ、どうしてもみてくださらんのか。」と、老人は、つぶやきました。
「お気の毒ですけれど、先生はたいへんお忙しいので、みられんとおっしゃいますから、よそのお医者さまへいってくださいまし。」と、看護婦は、そういいました。
「ははあ、よそのものはみても、私をばみられないとおっしゃるのだな。どうせ、この老耄はくたばるのだからいいけれど、そうした道理というものはないはずじゃ。もう私は歩けないが、どこか近所に、お医者さまはありますかい。」と、老人は、やっと小さな荷物をせおってから、ききました。
「じき、すこしゆくとにぎやかな町になります。そこには、幾軒もお医者さまがあります。」
少女は、暗い外の方を指して、町へ出る方向をおじいさんに教えました。ところどころに点いている街燈の光が見えるだけで、あとは風の音が聞こえるばかりでした。
ちょうど、その時分、B医師は、暗い路を考えながら下を向いて歩いてきました。彼は、いま往診した、哀れな子供のことについて、さまざまのことを思っていたのです。
その家は貧しくて、かぜから肺炎を併発したのに手当ても十分することができなかった。小さな火鉢にわずかばかりの炭をたいたのでは、湯気を立てることすら不十分で、もとより室を暖めるだけの力はなかった。しかし、炭をたくさん買うだけの資力のないものはどうしたらいいか、それよりしかたはないのだ。近所に、宏荘な住宅はそびえている。それらの内部には、独立した子供部屋があり、またどの室にも暖房装置は行き届いているであろう。そこに生まれ育った子供と、あの貧しい家に病んでねている子供とどこに、かわいらしい子供ということに変わりがあろうか。しかし、その境遇はこうも異なっているのだ。私は、あの哀れな子供を助けなければならない。
B医師は、夕方、自分を呼びにきた、子供の母親の、おどおどした目つきと、心配そうな青ざめた顔とを思いあわせたのです。
「あんなになるまで、医者にかけないという法はないのだが、もう手後れであるかもしれない。」
悲壮な気持ちで、門を入ろうとすると、内部からがやがや人声がきこえました。
一足前、近所の人たちが、倒れている老人を連れてきたのです。
B医師は、すぐに老人に注射を打ちました。
「気がついた。おじいさん泣かんでいい。ここは医者の家だから、安心するがいい。」と、顔をつけるようにして、B医師は、燈火の消えかかろうとするような老人をなぐさめました。
「あんたは、お医者さまか。」と、老人は、かすかに目を開いてB医師を見て、たずねました。
「そうです、だから、安心なさるがいい。」と、答えてB医師は、自ら老人を抱えて、診察室のベッドの上に横たえて、やわらかなふとんをかけてやりました。
「先生、この人は、助かりましょうか。」と、老人をつれてきた近所の人たちが、ききました。
「わかりません。なにしろ極度に疲れていますから。私は、できるだけの手当てをいたしますが……。」と、B医師は答えました。
その夜、老人は、最後にしんせつな介抱を受けながら死んでゆきました。すこしばかり前、かたわらにあった小さな荷物を指しながら、訴えるように、うなずいて見せたのでした。
夜明け方になって、ついに雨となったのであります。B医師は、老人が身から離さなかった荷物を開けてみました。紙箱の中には、すでに芽を出しかけた、いくつかのすいせんの球根がはいっていました。また、古びた貯金帳といっしょに、なにか書いたものがほかから出てきました。それを見ると、
「私は、親もなければ、兄弟もない一人ぽっちで暮らしてきた。私の一生は、けっして楽なものではなかった。人のやさしみというものをしみじみと味わわなかった私は、せめて死の際だけなりと、医者にかかってしんせつにしてもらいたいと思って、苦しい中から、これだけの貯金をしたのである。どこで私は死ぬかしれないが、おそらく、しんせつな医者を探しあてて、その人の手にかかって死にたいと思っている。この金で死後の始末をしてもらい、残りは、どうか自分と同じような、不幸な孤独な人のために費ってもらいたい。」
こういうようなことが書いてありました。終生独身で過ごした、B医師はバラック式であったが、有志の助力によって、慈善病院を建てたのは、それから以後のことであります。もちろん、老人の志も無とならなかったばかりか、B医師は、老人の好きだったらしいすいせんを病院の庭に植えたのでありました。
しかし、A病院は、いまも繁栄しているけれど、慈善病院は、B医師の死後、これを継ぐ人がなかったために滅びてしまいました。その建物も、いつしか取り払われて、跡は空き地となってしまったけれど、毎年三月になると、すいせんの根だけは残っていて、青空の下に、黄色い炎の燃えるような花を開きました。そして、この人の心臓に染まるような花の香気は、またなんともいえぬ悲しみを含んでいるのです。
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昔、あるところに、さびしいところの大好きなお姫さまがありました。どんなにさびしいところでもいいから人の住んでいない、さびしいところがあったら、そこへいって住みたいといわれました。
お供のものは、お姫さまのお言葉だからしかたがありません。人のだれも住んでいない、山の中にでも、お姫さまのゆかれるところへは、ついていかなければなりません。
人里を遠く離れた山の中へ、いよいよお姫さまは移ることになりました。そして、お供のものもついてゆきました。
お姫さまの、歌をうたわれる声はたいへんに、よいお声でありました。また、たいへんに鳴り物をならすことがお上手でありました。琴や、笛や、笙を鳴らすことの名人でありました。だから平常、歌をおうたいになり、鳴り物を鳴らしておいでなさるときは、けっして、さびしいということはなかったのであります。
けれど、お供のものは、寂しい山の中に入って、毎日、つくねんとしていて、退屈でなりませんでした。そこにきました当座は、外に出て、山や、渓の景色をながめて珍しく思いましたが、じきに、同じ景色に飽きてしまいました。また、毎日、お姫さまのうたいなさる歌や、お鳴らしになる鳴り物の音にも飽きてしまった。それらを聴いても、けっして昔のように感心しないばかりか、またかというふうに、かえって、退屈を感じさせたのであります。
お姫さまは、この世の中に、自分ほど、よい声のものはないと思っていられました。また、自分ほど音楽の名人はないと考えていられました。そして、そう思って窓ぎわにすわって、山に出る月をながめながら、よい声で歌をうたい、琴を鳴らしていられますと、四辺は、しんとしてすべての草木までが、耳を澄まして、このよい音色に聞きとれているごとく思われました。
このとき、ふと、お姫さまはおうたいなさる声を止め、お鳴らしなさる琴の手を控えて、ずっと遠くの方に、耳をお澄ましなされました。すると、それは、自分よりも、もっとよい声で、歌をうたい、もっと上手に琴を鳴らしているものがあるのでした。
「はて、この山の中にだれが、歌をうたい、琴を鳴らしているのだろう。」と怪しまれました。そして、このことをお供のものにおたずねなされますと、
「いえ、だれもいるはずがございません。また、私どもの耳には、なにも聞こえません。ただ、聞こえますものは、松風の音ばかりでございます。」とお答え申しあげました。
「いえ、そうじゃない。だれか、きっとわたしと腕をくらべるつもりで、あんなよい声で歌をうたい、琴を鳴らしているにちがいない。」と、お姫さまは申されました。
お供のものは、不思議に思って、耳を澄ませますと、やはり、松風の音が遠くに聞こえるばかりでありました。
夜が明けて、太陽が上りますと、小鳥が窓のそば近くきて、よい声でさえずりました。お姫さまは、まゆをおひそめになって、
「ああ、やかましくてしようがない。もっとどこかさびしいところへいって、住まわなければならない。」と申されました。
お姫さまは、山はやかましくていけないから、今度は、だれも住んでいない海のほとりへいったら、きっといいだろうと思われて、荒海のほとりへお移りになりました。
お供のものは、まだいったばかりの二、三日は、気が変わってよろしゅうごさいましたけれど、じきにさびしくなってたまらなくなりました。お姫さまは、やはり、歌をうたい、楽器をお鳴らしになりました。すると、ある夜、海の上に、ふりまいたような星影をごらんなされて、
「ああ、やかましくてしようがない。ああ、毎晩、星が歌をうたったり、鳴り物を鳴らしているのでは、すこしもわたしは、自分の歌や、音楽に身が入らない。どうして、ああよい声が星には出るのだろう。」と申されました。
お供のものは、私どもには、ただ、さびしい、さびしい波の音しか聞こえません、と申しあげました。
姫さまは、もっとさびしいところがないものかと、お考えなされました。お供のものは、もうこのうえさびしいところへいったら、自分らはどうなることだろうと思いました。そのとき、お供のものの、二人の中の一人は、
「お姫さま、どうぞなんにもいわずに、私どもについておいでくださいまし。」と申しあげました。
お供のものは、お姫さまをにぎやかな街のまん中にお連れもうしました。お姫さまは、はじめはびっくりなさいましたけれど、もはや、そこでは、自分の歌のまねをするものもなければ、また、もっとよい声を出して、お姫さまと競争をして、お姫さまを苦しめるものはありませんでした。
お姫さまは、結局、気楽に思われて自分がいちばん歌がうまく、音楽が上手だと心に誇られながら、その町にお住みなされたということであります。
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寄席なんかに出入りするのは、あまりよい趣味ではない。這入るにも、後先を見すまして、つつと入りこんでしまふ。さう言ふ卑屈な心持ちを恥ぢながら、つい吸はれるやうに、席亭の客になつて行く。こんな風だから、いつだつて大手ふつて、這入つた覚えがない。親たちがこんな風のしつけをしたからなのである。
生薬屋であつた私の家の店先へ、いつからか来て、来れば一時間では腰をあげる気づかひのない若い山陽道辺の女、亭主と言ふのは、東京から来た巡査で、此二人が世話になつて居たのが、一山と言つたか、一山の弟子であつたか、うろ覚えになつてしまつたが、此も東上りの講釈師であつた。さう言へば、家の近くの市場の中に、氏子の広い難波の八坂神社があつて、其鳥居を這入ると、小半町ほどの境内に、家が立てづんで居た。東京なれば、地内と言つた処、其中ほどに講釈場があつて、夜になると、宵の内からちよん〳〵ばた〳〵と、講釈台を叩く音がしてゐたものだ。此よりもつと大きなのは、千日前の法善寺の中にもあつたが、すべて席名は忘れるほど古い昔になつた。這入ると、土間の正面が高座で、其処までの間、両側のしたみ板に沿うて、停車場の待合所のやうに、長い腰掛けがつくりつけてあつた。之に腰を掛けたり、片脚も両脚もあげて、立膝・あぐらと言つた恰好で居られるやうになつてゐる。
土間の真中は両側の腰掛けの前に通つてゐる通路を残して、全体が床になつてゐた。何のことはない、大きな床店か、低い舞台が据ゑてあるやうな形だつた。其に敷いた柔道場のやうに堅い畳の上で、行儀よく坐る人は、座蒲団を借りて、こゝに足の裏を揃へて、きちんと坐つてゐた。尤、こゝで東京見たいに寝る人はなかつたやうだが、親たちがよこしたがらない理由は、子ども心にも訣る気がした。ある時ふつと此へ這入ると、正面高座に、おまはりさんの兄と言つた一山だか、一口だかゞ控へて居て張り扇を叩いて居た。何でも其時は、妲妃のお百だつたのだらうと思ふが、何でも、早乗り三次見たいな男が出て、頻りにおなじ所ばかりを駈け廻つて、「怨みやうらや(?)の姉はんとこ行きや」と連呼しながら逃げ廻る。走れば走るほど、おなじ処へ戻つて来る。こんな所から考へると村井長庵だつたやうな気もするのである。
落し話の席は、家に近い所では、千日前に二軒あり、法善寺の裏路地とでも言ふべき処に、五六軒隔てゝ、並んでゐた。大阪中にはもつと多かつたのだが、何しろ世間知らぬ子どものことだし、さう出歩くことの許されない時代のきびしさで、其以外に散らかつてゐた寄席の様子などは、遥か後になつて知つたのである。東の金沢席が桂派の定席、西が三友派――三遊ではない――の人々の出る小屋であつた。桂派では私の知り初めた頃、後年東京にも上つた三木助が、ほんたうに豆の様な可愛い姿で師匠の南光について出て居た。桂文枝がいつもとりに出たかと思ふ。此方は幾分東京流で、西の方が今思へば却て大阪らしい、見えも外聞もなく喚き散すと言つた芸風であつたやうだ。曾呂利新左衛門や先の松鶴やなどは、そこに出てゐた。その頃は、何でも彼でも二つに岐れて、ひいき〳〵対立せなければ、気に張りが持てなかつた大阪であつた。新聞が毎日と朝日、役者が福助――後二代目梅玉――・橘三郎から、鴈治郎・仁左衛門と言ふ張り合ひに変つてゐた頃だつた。芸人でも喰ひ物屋でも、ちよつと人気の出た者は、一つきりと言ふことはなかつた。思へばをかしい世間であつた。
あのなあ なあもし 甚兵衛はん――東京で言へば、のうてん熊、がらつ八とでも言ふ類の人に当るのが、きいさんで、之に応対する大家に当るのが、甚兵衛はんだつたのである。これだけの語でも、話しかによる個性があつた。あくせんとも違へば、第一声柄が違つた。先の松鶴になつたのなどは、だみ声ともいきみ声しほから声とも、形容の出来ぬ声でおしとほして、あれで結構、大阪落語の天下とり――と言ふほどでもないが――になつた。あゝ言ふ人々の世間では、何でも、人と変つて居て、おしとえげつなさのない芸は、客もよりかゝりのない気がしたのだらう。中学生らしい気分の出て来た頃には「にはか」や芝居に、気移りがしたし、伝手もあつたので、其方へばかり行つた。寄席の記憶は、十年も飛んだ後まで、下積みになつてしまつて居る。
東京へ出たのは、まだ女義太夫のすたらなかつた時分だが、其でも三遊・柳の勢がのしあがつて来て、本郷の若竹だつて、完全に色物席になつて居たと思ふ。もう其頃のことは、誰しも知つてゐることだし、私など場違ひののり出して物を言ふ所でないと思ふから控へることにする。唯一両人の上について、書いておきたい記憶がないでもない……。
五明楼玉輔きりで終つたのであらうが、死んだ時もつい知らずにしまつたから、まだうつかりすると、生きてゐるやうな気もするが、さうなれば九十にも百にもなつて居なければならぬから、幾らのんびりした人間でも、もう夙くの昔に亡くなつたことだらう。名籍もそのまゝになつて居るやうだから玉輔でわかると思ふが――、いつも小言念仏ばかり喋つて居て、常の暮しと芸との境目のつかない小作りの小太りでいつもむつつりして居た爺さん、これが高座に上るといやな気はしないが、又かと言ふ気がしたものだ。いつも間の繋ぎばかりして居るやうで、気のない高座ぶりであつた。
ある夏の晩休暇もはじまつて、書生連の寄席に来てゐるのも見かけなかつた。中入り前に上つた――と思ふが――玉輔が、幾ら喋つてゐても、羽織を引かない。幾ら何でも小言念仏では持ちきれない。いつともなく、其が枕となつて、本話に這入つてゐたやうだつた。後にも先にも、聞いたことのない人情話らしいものだから、今となつては、何の断篇とも訣らない。「ひとさわぎ静まつて、息をつく。大粒の雨がばら〳〵〳〵。とたんにがらりと天窓があく。見上げる拍子に、大きな猫の顔がのぞきこんでゐた……」私は、恥しいが、ふるひ上つた。――こゝのくだりは、私の記憶を勝手にまとめたもの――そつと客席を見わたすと、青ざめた緊張で、玉輔の顔を見失つては何が起るかも知れぬと思ふやうに、高座を見つめてゐる。天窓にあたる雨の音まで、耳に残つてゐるやうだ。こんな事にならうとは誰も予期しなかつたに違ひない。後になつて、ある年よりに之を話すと、「さうでせう。奴あ怪談噺でたゝき込んだ奴ですもの。」事もなげに言つて聞したが、どうも私には腑におちなかつた。今思ふと昔は、そんな芸人も居たのだ。先輩吉井さんに話せば、につこり笑つて、其が江戸芸人たる所以さと言はれるだらう。ともかく、かう言ふ芸の出し惜しみする人間が、相当に居た世間も、私たちはのぞいて来たのだ。其にしては私自身の含蓄のない恥しさを、しみ〴〵と思ふ……。
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彼は彼のおじいちゃんにそっくりだ。
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電気学の始まり
十九世紀の終りから今世紀にかけては、電気の世のなかと言われているほどに、電気の利用がさかんになって来ました。実際に皆さんが自分たちのまわりを見まわして見るならば、電気がどれほど多くつかわれているかがすぐにわかるでしょう。電灯やラジオを始めとして、電信、電話、電車から、たくさんの工場で使われている電力や、そのほかいろいろな種類の電気の利用をかぞえてゆくと、とても一々挙げきれないほどに多いのです。ですから今の人々の生活から電気の利用を取り除いてしまったなら、どんなに不便になるかわかりません。ところで、電気がこれほどさかんに使われるようになったというのも、つまり電気の学問がそれまでに非常に発達したおかげに外ならないのです。さてこの電気の学問がこのように発達するのには、それはもちろんたくさんの学者の苦心を経た研究がかさねられて来たのに依るのでありますが、なかでも最も多くそれに貢献したのは、ここにお話ししようとするファラデイと、それに続いてその仕事を完成したマクスウェルとの二人であることは、誰しも認めないわけにはゆかないのです。そういう事をよく考えてゆくと、今日電気の利用で多くの便利を得ている人々は、この二人の学者の名を忘れてはならないのですし、そしてその研究に対して限りなく感謝しなくてはならない筈であると思われます。
電気の現象は、二千年以上も古いギリシャ文明の頃に既に知られていたと言われていますが、それを学問的に研究し始めたのは、やはり十六世紀の末頃で、ちょうどガリレイなどがイタリヤで活躍していた時代なのですから、つまりそこには科学が興るような時勢の動きのあったことが、これからもわかるのです。このころイギリスにギルバートという医者があって、後にはエリザベス女王の侍医にまでなったのでしたが、この人が電気や磁気の現象を初めて研究し出したので、その実験を女王の前で行って、非常な評判になったということが伝えられています。もちろんその頃の実験などはごく簡単なものなのですが、ともかくそれが機縁となって、だんだんにいろいろな学者が電気の研究を行うようになったのでした。十七世紀になると、空気ポンプの発明で名だかいドイツのゲーリッケという人が電気を起す起電機という機械をつくり、その後だんだんにこれが改良されて、いろいろな電気の実験が行われるようになりました。しかしその後の最も眼ぼしい進歩は、十八世紀の末にイタリヤのヴォルタによって電池が発明されてからであります。これは同じくイタリヤのガルヴァーニという解剖学者が蛙の脚に電気のおこるのを見つけ出したことから、ヴォルタが考えついたのでしたが、電池がつくられると、針金に絶えず電気を通すことができるのでいろいろ新しい事実が見つけ出されるようにもなったのでした。ヴォルタ自身の行った水の電気分解の実験などもその一つですが、中でも重要なのは、デンマークの学者でエールステットという人が針金に電気が流れていると、その傍に置かれた磁石の針に力を及ぼしてその向きを変えることを見つけ出したことで、これが実にその後の電気の学問のすばらしい発達の最初の出発点になったのでした。このエールステットの発見は一八一九年のことでした。
エールステットの発見に引きつづいて、フランスのアンペールや、ドイツのオームの大切な研究が現れたのですが、それらの話はここでは省いておきます。しかしともかくもこのようにして電気の現象について学問の上で非常に注目されるようになったときに、ちょうどファラデイが出て、その研究をますます進めたのでありました。前にも言ったように、今日電気の利用のおかげで便利を得ていた私たちは、せめてファラデイがどんな学者であったかということぐらいは、ぜひとも知っていなければならないと思われるのであります。
学者となるまでのファラデイ
マイケル・ファラデイが学者として尊敬すべき偉大な人物であったのは言うまでもありませんが、それ以上に彼が貧乏な家に生まれながら学問への強いあこがれと、それへの自分の熱心な志とで、絶えずその道を踏み進んで行った真摯な態度を見てゆきますと、誰しもこれに感激しないわけにゆかないのであります。もちろんそこには科学というもののすばらしい興味が彼をそれへ強く惹きつけたのにはちがいありませんが、同時に彼が世間なみの立身出世などということには見向きもしないで、ひたすらに学問の尊さを味わおうとした敬虔な心によるのであったことを考えてゆきますと、今さらにその高い人格を仰視しなくてはならないのでありましょう。
ファラデイは一七九一年の九月二十二日にイギリスのロンドン郊外にあるニューイングトン・ブッツという処で生まれました。その家は鍛冶屋でありましたが、父が病気に罹ったので、ファラデイの六歳になった頃にこの店をもやめて他に移住したと云うことですから、それ以後は随分ひどい貧乏ぐらしをしていたのでした。それでファラデイが十三歳になったときに、或る文具店に丁稚奉公に出されました。そして最初に新聞配達の走り使いをさせられていましたが、そんな仕事にも真面目でよく勤めたので、一年ほど経ってから同じ店の製本の仕事の方に廻されたのでした。
さて、人間には何が幸になるかわからないのです。もちろんファラデイが製本仕事に廻されたというのも、よく真面目に勤めたからにちがいないのですが、この製本をやっているうちに、そのなかからおもしろい書物を見つけ出しては、それを熱心に読むようになったのでした。それも彼の特別に好んだのは科学の書物で、なかでもその頃一般に読まれたマーセット夫人の『物化学の話』や、百科全書のなかの電気に関する部分が非常におもしろかったと、後に彼自身が述べています。そしてそういう書物を読むばかりでなく、僅かの小遣銭をつかってそれらの書物に説明してある実験を行い、また電気については簡単な起電機なども自分でつくってみたということです。
科学の実験というものは、少しやり出すと、それからそれへとおもしろくなるもので、またいろいろな知識を得て、新しいことをして見たくもなるのです。それでその頃誰でも聴きにゆかれるような講義のあるのを探し出しては、それを聴きにゆきました。そして気の合った友だちが見つかると、互いに励まし合いながら実験を一緒に行ったりしていました。
そうしているうちに七、八年を過ぎて彼も二十一歳の青年になりましたが、製本屋の主人のリボーという人が、さすがにファラデイの学問修業に対して熱心なのに感じ入り、自分の店にいつも来るダンスという学者にその事を話したので、この人も大いに感心して、王立研究所で行われる講義の聴講券を持って来てファラデイに与えました。王立研究所というのは科学の研究をする機関でもあり、またそれと同時にわかり易い科学の講義を行って、一般の人々に科学を普及する役目をも果していたのでした。それでファラデイがこの聴講券で聞きに行ったときの講義は、その頃の若い有能な学者であったハンフリー・デヴィーという人の物化学に関するものでありました。ファラデイはそれを熱心に聞いて、ますます科学に興味を感じ、何とかして自分も科学の研究をしてみたいということを一層強く希望するようになりました。そこでついに決心して、デヴィーに宛てて手紙を書き、それに自分の聞いた講義の筆記を添えて送りました。デヴィーもこれを見て大いに感心したので、この製本屋の奉公人であったファラデイを呼びよせて親切な話をしてくれたばかりでなく、その後幾週間か経つと自分の助手が辞任したので、その代りにファラデイを助手に雇ってくれました。この助手の給料は製本屋のよりも少かったのですが、それでもファラデイは自分の希望に沿うことができるので大いによろこびました。
これは一八一三年の春頃のことであったのですが、その年の秋にはデヴィーがフランス、イタリヤ、スウイスの国々へ学術研究の旅行に出かけることになったので、その秘書として同行することになりました。この時代にはもちろん汽車などは無かったのですから、これだけの旅行にも一年半の歳月を費したのですし、おまけにフランスはナポレオン以後イギリスとは敵対していたのですから、学術上の旅行であったにしても容易なことではなかったのでした。それでもどこをも無事に通過することができましたし、諸処で有名な学者たちに面接したり、またいろいろの珍しい事がらを見聞したりして、大いに彼の知識をひろめるに役立ったのにちがいないのでした。そして一八一五年の春に帰国してまた王立研究所に勤め、それから彼の本当の学者生活が始まったのでした。
ファラデイがイタリヤのローマに滞在していたとき、十二歳になる小さな妹に送った手紙には、彼の愛情がいかにもよく現れています。
「マーガレットちゃん。私の手紙が届いたとのこと、マーガレットちゃんのお手紙もありがとう。いろいろ知らせて下さって、また私のからだや安否を気づかって下さって、あなたにお礼を言わなくてはなりません。手紙を読んだら第一に接吻を以て私の愛を母さんに伝えて下さい、そうして私はどんなに母さんとあなたとのことを考えているかをお話しして下さい。」
こんな書出しで学校での勉強のしかたなどをこまごまと教えているのですが、そんな中にもファラデイの高い人格がよく窺われるのです。
学者生活
それからファラデイの五十二年にも亙る長い研究生活が続いたのですが、その間に於ける学問上の仕事は実にたくさんあって、ここではそれを一々お話ししているわけにゆきません。しかし、そのうちのごく主だったものだけを挙げれば、次のようなものでありましょう。
ファラデイは最初の頃には物化学の研究を主として行っていたのでしたが、そのなかで当時の学界を驚かしたのは、塩素を始めて液化したこと、並びにベンゼンの発見であります。これは一八二三年から二箇年ほどの間のことでした。
ところが、ちょうどこの頃からエールステットの発見に続いて電気の研究がさかんになり出したので、ファラデイもこの問題に非常に興味を感じ、いろいろな実験を工夫しましたが、その結果、一八三一年には針金を磁石の極の間で動かすと、針金のなかに電流のおこることを見つけ出しました。これは電磁感応と名づけられている現象で、今日では大仕掛けに電流をおこすための発電機はすべてこれによっているのですから、それだけでもファラデイの仕事がどれほど大きな意味をもっているかがわかるわけです。この発電機を逆にして、電流から動力を得るためにつかっている電動機というものも、やはり同じ原理によってつくられているので、こういうものがなかったなら、現代の多くの工業は出来上って来なかったにちがいありません。
これに続いて、一八三三年には電気分解の法則を発見し、それからは光と電気及び磁気との関係を研究したり、普通の磁石とは反対の性質をもつような反磁性というものを見つけ出したり、そのほかさまざまの実験的研究を行いました。そのうちで特別に大切なのは、磁石のまわりに鉄粉をふりまくと、それがいつも定まった曲線の形につながることを明らかにしたことで、このことからファラデイは、磁石の他に及ぼす力はその中間にある媒質を伝わってゆくという考えを確かめ、電気の力もやはり同様であるとしたのでした。なぜ、それが大切であるかと云えば、それ以前には力は物体と物体との間に直接に働くという考えが普通であったのでしたが、実際にはそうでなく、中間にある媒質がこれに関係しているということが、ここではっきりと示されたからであります。
ファラデイの後に、マクスウェルが電気や磁気の理論を正しくつくり上げることができたというのも、つまりはファラデイのこの考えに基づいたからであって、それだけにファラデイの研究は非常に重要な意味をもっていたのでした。
上にも言いましたように、ファラデイの研究を一々述べていては限りがないほどに多いのですが、それらは『電気学に於ける実験的研究』という三巻の大きな書物にまとめて出されています。そこには、いろいろな試みや、途中の失敗などもその儘書いてあって、非常に有益な、またおもしろい書物であります。
ファラデイはすぐれた科学者であると共に、宗教上の信仰にも篤かったのでした。それで若い頃からいつも教会に出入りしていたので、その教会の長老の娘であったサラ・バーナード嬢と知り合いになり、一八二一年に結婚しました。それから一八二四年には王立協会の会員になり、翌年王立研究所の実験場の場長となり、一八二七年に王立研究所の教授となって、これが一八六一年まで継続しました。その間にロンドン大学からの招聘を受けたり、ずっと後には王立協会の会長にも推薦されましたが、すべてそれらを断って、専ら王立研究所のために尽したのでした。
王立研究所では一般の人々のための講義が行われていたのでしたが、ファラデイは特別に少年少女のために毎年クリスマスの日にごくわかり易い講義を行って科学を普及することを始めました。ファラデイのそういう講義のなかで最も有名なのは、『蝋燭の科学』というので、これは実におもしろいものです。我が国でもそれが矢島祐利氏によって訳されて、岩波文庫の一冊として出版されていますから、まだそれを見ない方々は、ぜひ一度読んでごらんになることをお薦めします。なぜ科学がおもしろいかと云うことが、こういう書物でよくわかるでしょう。
ファラデイは研究生活のほかに楽しい家庭生活をも味わって来たのでしたが、一八四一年頃には健康を少し損じたので、その夏にはスウイスへ保養に出かけ、それで元気を取戻してまた研究を続けました。
併し一八六二年頃からは老年による衰えが増して来て、ついに一八六七年の八月二十六日にこの一代の偉大な学者の生命が終ったのでした。それにしても彼の名声は今日になってますます輝かしく私たちの前にのこって居り、その科学上の仕事は永遠の生命をもっているのですから、またすばらしいではありますまいか。
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能楽の獅子舞には、本式に、赤頭に獅子口の面をつけて出る石橋と、望月や内外詣のやうに、仮面の代りに扇をかづき、赤頭をつけるのとがある。現実の獅子として出て来るのが石橋で、獅子芸で世を渡る芸能者の役を勤める場合、扇をつけて出る訣なのである。小沢刑部・伊勢の神主などは、望まれて世間の獅子芸能を舞ふのである。
江戸時代の歌舞妓所作事の獅子舞で、石橋うつしでありながら、扇に牡丹をつけ、赤頭で舞つたものゝ多かつたのは、見当違ひである。本行らしく為立て直した連獅子・鏡獅子の類は、石橋物らしい姿に還つた訣である。だが石橋は法被半切など言ふ姿で、首から下は全くの人である。だが、能楽以前は、石橋系統の獅子舞があつたとすれば、恐らく胴体も四つ脚も、やはり獣類の姿を模したものだつたらう。能の獅子へ来る一つ前の形は、延年舞の中にあつたのではなからうか。趣向の石橋に並行してゐるのは、延年小風流の「声明師詣清凉山事」と言ふ曲である。奥州出の僧一人、声明研究の為に都へ上る。又一人の僧、これと道で遇ふ。其志を聞いて、それなら一層本元の唐土の五台山、清凉山へ渡つたがよいと言ふ。奥州の僧、なる程昔寂昭法師――大江定基――も其山へ参詣して、種々不思議を見たと聞いてゐる。案内してくれ、お伴しよう、と言ひ出す。やがて清凉山に達する。こゝは文殊の浄土だ。法号を唱へ、祈念せよと言ふ。
笙歌遥に聞え候 孤雲の上。是は聖衆の来迎か。まのあたりなる奇特かな。
とある。寂昭の作と言はれた詩の一部だが、石橋の中入前にも、これに似た文がある。
能なら、後じてと言ふ風で、そこへ文殊菩薩獅子に乗つて、脇士二人を従へて出る。汝等の志にめでゝ現れ、声明の秘曲を授け給ふ、と言ふ。旅の僧、このついでに、極楽の歌舞の曲を見せ給へ、と願ふ。心安いこと。それでは見せてやらうと言つて、囃しになる。
霊山を訪ふといふ曲ばかり多い延年舞の事だから、此外にも、寂昭法師が清凉山で不思議を見たことを作つたものがあつた事は、想像して不都合でない。天台山の石橋を見て記録を作つたのは、成尋律師だつたのだが、其を延年を作つた何寺かの僧が、色々な点で錯覚をまじへたものだらう。延年舞には風流の被物をした動物類が活躍するので、右の文殊菩薩を乗せて来た獅子が、大いに狂うた段があつたものと思はれる。
石橋の方でも、間狂言の仙人の這入つて後、して・つれで文殊と獅子とが現れてよいはずだが、何時の間にか、獅子だけがはたらくことになつたのである。
しばらく待たせ給へや。影向の時節も今、いく程よも過ぎじ。
と言ふ語は、前じての語が地にふり替つたのである。謡ひ地よりも、寧、間狂言に牽かれて、獅子の出る形になつてゐる。
石橋の順道な解釈からすれば、獅子が文殊の化身と言ふことになりさうだ。文殊菩薩であつてこそ、獅子の座にこそ直りけれが、適切なので、獅子が獅子の座に直つたのでは、へんてつもない洒落にもならぬ文章になる。併、恐らく今日では、もうさうした変化の痕を辿ることの出来る資料は残つて居ないで、却つて、後じての輝く様な獅子の姿が、目に妥当性を持つて、動すことが出来なくなつた。
能自身にも、石橋系統以外の民俗舞踊式の獅子のあつた事を示してゐる。歌舞妓の獅子舞も、本流は石橋から出たやうに見えるのも、さう見せたゞけの事である。牡獅子牝獅子の番――交――獅子、其に絡む嫉妬獅子とでもいふべき二人立の獅子、三人立の獅子と言つた形の石橋様式を流しこんだものが多かつた。
上方歌舞妓の立役の獅子舞から岐れて、江戸へ流れこんだ女形の踊りの獅子は、一時期も二時期も画することになつた。瀬川菊之丞の相生獅子――風流相生獅子――は、名でも訣る様に交ひ獅子であつて、両腕で使うた牝牡の手獅子であり、現に江戸下り以前は、番獅子と言つた様だ。菊之丞の第二曲は英獅子――通称枕獅子――で、其名をとつたのが、中村富十郎の英執著獅子だつたのである。
元々石橋から出たものではない此系統の獅子が、踊りには多かつた。其外に、太神楽・角兵衛獅子をとりこんだ、鞍馬獅子・角兵衛の一人獅子、勢獅子のやうな二人だちがあり、「三人石橋」の類は、三人だちである。此等は皆石橋が出来る前から、既にその種は用意せられてゐたのである。
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Medium
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(一)
同時代に生れ出た詩集の、一は盛へ他は忘れ去られた。「若菜集」と「抒情詩」。「若菜集」は忽ちにして版を重ねたが、「抒情詩」は花の如く開いて音もなく落ちて了つた。
島崎氏の「若菜集」がいかに若々しい姿のうちに烈しい情※(執/れんが)をこめてゐたかは、今更ここに言ふを須ゐないことではあるが、その撓み易き句法、素直に自由な格調、從つてこれは今迄に類のなかつた新聲である。予がはじめて「若菜集」を手にしたをりの感情は言ふに言はれぬ歡喜であつた。予が胸は胡蝶の翅の如く顫へた。島崎氏の用ゐられた言葉は决して撰り好みをした珍奇の言葉ではなかつたので、一々に拾ひ上げて見れば寧ろその尋常なるに驚かるゝばかりであるが、それが却て未だ曾て耳にした例のない美しい樂音を響かせて、その音調の文は春の野に立つ遊絲の微かな影を心の空に搖がすのである。眞の歌である。島崎氏の歌は森の中にこもる鳥の歌、その玲瓏の囀は瑞樹の木末まで流れわたつて、若葉の一つ一つを緑の聲に活かさずば止まなかつた。かくして「若菜集」の世にもてはやされたのは當然の理である。
人々はこのめづらしき新聲に魅せらるゝ如くであつた。予も亦魅せられて遂に悔ゆるの期なきをよろこぶのである。新しきは古びるといふ。懵ない世の言い慣はしだ。懵ない世の信念だ。古びるが故に新しきは未だ眞正に新しきものではない。世に珍奇なるものは歳月の經過と共にその刺撃性を失ふこともあらうが、眞正に新しきものはとこしへに新しきもののいつも變らぬ象徴であらねばならぬ。島崎氏の出したる新聲は時代の酸化作用に變質を來さぬものであることは疑ひを容れないのである。
然るに今日島崎氏の詩を斥けて既に業に陳腐の域に墜ちたものだといふ説がある、果してその言の如くであらうか。「若菜集」を讀む前にませて歪んだ或種の思想を擁いて居ればこそ他に無垢なる光明世界のあるのを見ないのであらう。輝ける稚き世――それが「若菜集」の世界である、嬥歌の塲である。こゝには神も人に交つて人間の姿人間の情を裝つた。されば流れ出づる感情は往く處に往き、止る處に止りて毫も狐疑踟蹰の態を學ばなかつた。自から恣にする歡樂悲愁のおもひは一字に溢れ一句に漲る、かくて單純な言葉の秘密、簡淨な格調の生命は殘る隈なくこゝに發現したのである。島崎氏はこの外に何者をも要めなかつた。宇宙人生のかくれたる意義を掻き起すと稱へながら、油乾ける火盞に暗黒の燈火を點ずるが如き痴態を執るものではなかつた。
まだ彈きも見ぬ少女子の
胸にひそめる琴のねを、
知るや君。
「若菜集」に於ける島崎氏の態度は正にこれである。まだ彈きも見ぬ緒琴は深淵の底に沈んでゐる。折々は波の手にうごかされて幽かな響の傳り來ることがある。詩人の耳は敏くもその響を聽きとめて新たなる歌に新たなる聲を添へる――それのみである。「若菜集」にはまた眞白く柔らかなる手に黄んだ柑子の皮を半割かせて、それを銀の盞に盛つてすゝめらるやうな思ひのする匂はしく清しい歌もある。……
「若菜集」一度出でて島崎氏の歌を模倣するもの幾多相踵いであらはれたが、徒らに島崎氏の後塵を拜するに過ぎなかつたことは、「若菜集」の價値を事實に高めたものとも言へやう。到り易げに見えて達するに難きは「若菜集」の境地である。「若菜集」はいつまでも古びぬ姿、新しき聲そのまゝである。島崎氏自身すら再びこの境地に達することが出來なかつたのである。更に深く幽かに濃やかなる感情と、更に鮮やかなる印象と、痛切なる苦悶と悦樂とを、簡淨なる詩句に調攝する大才(是れ一個のヹルレエヌ)のあらはるゝ日あらば、その先蹤をなした「若菜集」はまた一層の價値を高めることであらう。「若菜集」を善く讀むものはかゝる豫定と想望とを禁じ得ないのである。
同情ある評家は當時「若菜集」の中なるある歌にPRBの風趣ありと讚嘆した。PRBはさることながら予はこゝに佛蘭西新派の面影をほのかに偲ぶものである。
島崎氏はその後淺間山の麓なる佗しき町に居を移された。性情と境遇の變化は「寂寥」の一篇によく現はれてはゐるが、この篇を賦するに當て島崎氏は「若菜集」の諸篇と全然趣を異にする詩の三眛境を認められたやうである。知的の絃が主なる樂旨を奏するやうになつたのである。こゝに胸中無限の寂寞を藏して、識ますます明らかなる時、信の高原をわたる風の音は梵音聲の響をたてる、詩人は青蓮の如き眼をあげて、跡もなき風の行方を見送つたのであらう。これを彼の「若菜集」の『眼にながむれば彩雲のまきてはひらく繪卷物』に比べ來れば、その著るしき趣の相違に驚かれる。彼にあつて自由に華やかに澄徹した調を送つた歌の鳥もすでに聲を收めて、いつしかその姿をかくした。此には孤獨の思ひを擁く島崎氏あるのみである。詩人は努力精進して別に深邃なる詩の法門をくゞり、三眛の境地に脚を停めむとして遽かに踵をかへされた。吾人は「寂寥」篇一曲を擁いて詩人の遺教に泣くものである。南木曾の山の猿の聲が詩人の魂を動かしそめたとすれば、淺間大麓の灰砂の谿は詩人の聲を埋めたとも言へやう。――島崎氏はこれより散文(小説)に向はれたのである。
(二)
島崎氏を言へば、島崎氏の前に北村透谷のあつたことを忘れてはならぬ。
透谷は不覊の生をもとめて却て拘束を免るるに由なかつた悲運の詩人である。その魂はすべての新しきものを喘ぎ慕ひて、獨創の天地を見出さむとしたが力足らずして敗れた。劇詩評論小説詩歌――一つとして彼の試みざるものはなかつたのであるが、短日月に精力を費した結果、求めて遂に得られざる一つのものがあつた。それは新樣式である。透谷の文章詩歌に接して最も遺憾に思ふのはこの新樣式の缺如である。すべての舊き型を破り棄てむとして、この一重の膜にささへられた彼の苦悶は如何ばかりであつたらう。彼は胸中に蓄へた最も善きものを歌はずして世を去つた。透谷は遂に不如意なる自個の肉體を破つたのであるが、詩人の玲瓏たる魂にとつては、因襲の肉塊を放却すること即ちすべての舊きものを破ることであつたのであらう。彼は眞面目なる努力の跡を世に殘して、新思潮の趨くべき道に悲しむべき先驅者となつたのである。彼は天成の詩人であつた。彼は一日として歌はずには居られぬ詩人である。瞑想と神秘の色を染めた調子の深さは彼の性質の特異の點である。透谷はまた信念の人であつた。從つて迷うては魔を呼び、鬼氣人を襲ふ文を草し、神氣のしづまれる折々には閑窓に至理を談じた。彼はこれ等の多くを散文にものしたが、天成の詩人たる彼が詩歌に第一の新聲を出すに難んじたとは運命の戯謔か、――悲痛の感に堪へないのである。
透谷は要するにその素質に於て明治過去文壇最大の詩人である。透谷逝いて彼の詩魂のにほふところ、島崎氏の若々しい胸の血潮は湧き立つたことであらう。「若菜集」の新聲はかくして生れ出たのである。若き世の歌はここに始めて蘭湯の浴より出でゝ舊き垢膩の汚を洗ひ棄てたのである。
(明治四十年十月「文章世界」〈文話詩話〉號)
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チイスならキヤマンベエル、味よりも連想がなつかしい。
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一 「死者生者」
「文章倶楽部」が大正時代の作品中、諸家の記憶に残つたものを尋ねた時、僕も返事をしようと思つてゐるうちについその機会を失つてしまつた。僕の記憶に残つてゐるものはまづ正宗白鳥氏の「死者生者」である。これは僕の「芋粥」と同じ月に発表された為、特に深い印象を残した。「芋粥」は「死者生者」ほど完成してゐない。唯幾分か新しかつただけである。が、「死者生者」は不評判だつた。「芋粥」は――「芋粥」の不評判だつたのは吹聴せずとも善い。「読後感とでも云ふのかな。さう云ふものの深い短篇だね。」――僕は当時久米正雄君の「死者生者」を読んだ後、かう言つたことを覚えてゐる。が、「文章倶楽部」の問に応じた諸家は誰も「死者生者」を挙げてゐなかつたらしい。しかも「芋粥」は幸か不幸か諸家の答への中にはいつてゐる。
この事実の証明する通り、世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕を残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。
二 時代
僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に生えた何本かの艸の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。
三 日本の文芸の特色
日本の文芸の特色、――何よりも読者に親密(intime)であること。この特色の善悪は特に今は問題にしない。
四 アナトオル・フランス
Nicolas Ségur の「アナトオル・フランスとの対話」によれば、この微笑した懐疑主義者は実に徹底した厭世主義者である。かう云ふ一面は Paul Gsell の「アナトオル・フランスとの対話」(?)にも現はれてゐない。彼は「あなたの作中人物は皆微笑してゐるではないか?」といふ問に対し、野蛮にもかう返事をしてゐる。――「彼等は憐憫の為に微笑してゐる。それは文芸上の技巧に過ぎない。」
このアナトオル・フランスの説によれば人生は唯意志する力と行為する力との上に安定してゐる。しかし我々は意志する為には一点に目を注がなければならぬ。それは何びとにも出来ることではない。殊に理智と感受性との呪ひを受けた我々には。
「エピキユウルの園」の思想家、ドレフイイユ事件のチヤンピオン、「ペングインの島」の作家だつた彼もここでは面目を新たにしてゐる。尤も唯物主義的に解釈すれば、彼の頽齢や病なども或は彼の人生観を暗いものにしてゐたかも知れない。しかしこれは彼の作品中、比較的等閑に附せられたものを、――或は事実上出来の悪いものを(たとへば「赤い卵」の如き)彼の一生の文芸的体系に結びつける綱を与へてゐる。病的な「赤い卵」なども彼には必然な作品だつたのであらう。僕はこの対話や書簡集から更に新らしい「アナトオル・フランス論」の書かれることを信じてゐる。
このアナトオル・フランスは十字架を背負つた牧羊神である。尤も新時代は彼の中に唯前世紀から今世紀に渡る橋を見出すばかりかも知れない。が、世紀末に人となつた僕はやはりかう云ふ彼の中に有史以来の僕等を見出してゐる。
五 自然主義
自然は僕等が一定の年齢に達した時、僕等に「春の目ざめ」を与へてゐる。それから僕等が餓ゑた時、烈しい食慾を与へてゐる。それから僕等が戦場に立つた時、弾丸を避ける本能を与へてゐる。それから何年か(或は何箇月か)同棲生活の後、その女人と交ることに対する嫌悪の情を与へてゐる。それから、……
しかし社会の命令は自然の命令と一致してゐない。のみならず屡反対してゐる。そればかりならば差支へない(?)。しかし僕等は僕等自身の中に自然の命令を否定する何か不思議なるものを持ち合せてゐる。従つてあらゆる自然主義者は理論上最左翼に立たなければならぬ。或は最左翼の向うにある暗黒の中に立たなければならぬ。
「地球の外へ!」と云ふボオドレエルの散文詩は決して机の上の産物ではない。
六 ハムズン
性慾の中に詩のあることは前人もとうに発見してゐた。が、食慾の中にも詩のあることはハムズンを待たなければならなかつたのである。何と云ふ僕等の間抜けさ加減!
七 語彙
「夜明け」と云ふ意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云ふ意味に変り、「死んだ父」と云ふ意味の「先人」はいつか「古人」と云ふ意味に変つてゐる。僕自身も「姿」とか「形」とか云ふ意味に「ものごし」と云ふ言葉を使ひ、凄まじい火災の形容に「大紅蓮」と云ふ言葉を使つた。僕等の語彙はこの通り可也混乱を生じてゐる。「随一人」と云ふ言葉などは誰も「第一人」と云ふ意味に使はないものはない。が、誰も皆間違つてしまへば、勿論間違ひは消滅するのである。従つてこの混乱を救ふ為には、――一人残らず間違つてしまへ。
八 コクトオの言葉
「芸術は科学の肉化したものである」と云ふコクトオの言葉は中つてゐる。尤も僕の解釈によれば「科学の肉化したもの」と云ふ意味は「科学に肉をつけた」と云ふ意味ではない。科学に肉をつけることなどは職人でも容易に出来るであらう。芸術はおのづから血肉の中に科学を具へてゐる筈である。いろいろの科学者は芸術の中から彼等の科学を見つけるのに過ぎない。芸術の――或は直観の尊さはそこに存してゐるのである。
僕はこのコクトオの言葉の新時代の芸術家たちに方向を錯らせることを惧れてゐる。あらゆる芸術上の傑作は「二二が四」に終つてゐるかも知れない。しかし決して「二二が四」から始まつてゐるとは限らないのである。僕は必ずしも科学的精神を抛つてしまへと云ふのではない。が、科学的精神は詩的精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事実だけを指摘したいのである。
九 「若し王者たりせば」
「我若し王者たりせば」と云ふ映画によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛国者に変じてゐる。それから又シヤロツト姫に対する純一無雑の恋人に変じてゐる。最後に市民の人気を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映画の中のヴイヨンのやうに何度も転身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は実にアメリカの生んだ映画だつた。
僕はこの映画を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を数へ、「蓋棺の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獣化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯「幸福なる少数」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛国者兼「民衆の味かた」兼模範的恋人として香を焚かれてゐるではないか?
しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」
十 二人の紅毛画家
ピカソはいつも城を攻めてゐる。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼は或はこの城の破れないことを知つてゐるかも知れない。が、ひとり石火矢の下に剛情にもひとり城を攻めてゐる。かう云ふピカソを去つてマテイスを見る時、何か気易さを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マテイスは海にヨツトを走らせてゐる。武器の音や煙硝の匂はそこからは少しも起つて来ない。唯桃色の白の縞のある三角の帆だけ風を孕んである。僕は偶然この二人の画を見、ピカソに同情を感ずると同時にマテイスには親しみや羨ましさを感じた。マテイスは僕等素人の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持つてゐる。その又リアリズムに叩きこんだ腕はマテイスの画に精彩を与へてゐるものの、時々画面の装飾的効果に多少の破綻を生じてゐるかも知れない。若しどちらをとるかと言へば、僕のとりたいのはピカソである。兜の毛は炎に焼け、槍の柄は折れたピカソである。……
(昭和二年五月六日)
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島木さんに最後に会ったのは確か今年(大正十五年)の正月である。僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。御馳走になった場所は外でもない。東京駅前の花月である。それから又斎藤さんと割り合にすいた省線電車に乗り、アララギ発行所へ出かけることにした。僕はその電車の中にどこか支那の少女に近い、如何にも華奢な女学生が一人坐っていたことを覚えている。
僕等は発行所へはいる前にあの空罎を山のように積んだ露路の左側へ立ち小便をした。念の為に断って置くが、この発頭人は僕ではない。僕は唯先輩たる斎藤さんの高教に従ったのである。
発行所の下の座敷には島木さん、平福さん、藤沢さん、高田さん(?)、古今書院主人などが車座になって話していた。あの座敷は善く言えば蕭散としている。お茶うけの蜜柑も太だ小さい。僕は殊にこの蜜柑にアララギらしい親しみを感じた。(尤も胃酸過多症の為に一つも食えなかったのは事実である。)
島木さんは大分憔悴していた。従って双目だけ大きい気がした。話題は多分刊行中の長塚節全集のことだったであろう。島木さんは談の某君に及ぶや、苦笑と一しょに「下司ですなあ」と言った。それは「下」の字に力を入れた、頗る特色のある言いかただった。僕は某君には会ったことは勿論、某君の作品も読んだことはない。しかし島木さんにこう言われると、忽ち下司らしい気がし出した。
それから又島木さんは後ろ向きに坐ったまま、ワイシャツの裾をまくり上げ、医学博士の斎藤さんに神経痛の注射をして貰った。(島木さんは背広を着ていたからである。)二度目の注射は痛かったらしい。島木さんは腰へ手をやりながら、「斎藤君、大分こたえるぞ」などと常談のように声をかけたりした。この神経痛と思ったものが実は後に島木さんを殺した癌腫の痛みに外ならなかったのである。
二三箇月たった後、僕は土屋文明君から島木さんの訃を報じて貰った。それから又「改造」に載った斎藤さんの「赤彦終焉記」を読んだ。斎藤さんは島木さんの末期を大往生だったと言っている。しかし当時も病気だった僕には少からず愴然の感を与えた。この感銘の残っていたからであろう。僕は明けがたの夢の中に島木さんの葬式に参列し、大勢の人人と歌を作ったりした。「まなこつぶらに腰太き柿の村びと今はあらずも」――これだけは夢の覚めた後もはっきりと記憶に残っていた。上の五文字は忘れたのではない。恐らくは作らずにしまったのであろう。僕はこの夢を思い出す度に未だに寂しい気がしてならないのである。
魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り
これは島木さんの述懐ばかりではない。同時に又この文章を書いている病中の僕の心もちである。(十五・九・二)
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私は老婦人たちが彼女らの少女だつた時分のことを話すのを聞くのが好きだ。
「私が十二の時でした、私は南佛蘭西の或る修道院に寄宿してをりました。(と記憶のいい老婦人の一人が私に物語るのであつた。)私たちは、その修道院に、世間から全く離れて、暮らしてをりました。私たちに會ひに來られたのは兩親きりで、それも一月に一遍宛といふことになつてゐました。
「私たちは休暇中も、その廣い庭園と牧場と葡萄畑にとりかこまれた修道院の中で過したのでした……
「私はその幽居には八つの時から入つてゐましたが、やつと十九になつた時、結婚をするため、はじめて其處を出たやうなわけでした。私はいまだにその時のことを覺えてゐます。宇宙の上に開いてゐるその大きな門の閾を私が跨いだ刹那、人生の光景や、自分の呼吸してゐる何だかとても新しいやうな氣のする空氣や、いままでになかつたほど輝かしく見える太陽や、それから自由が、遂に、私の咽喉をしめつけたのでした。私は息がつまりさうになつて、もしその時腕を組んでゐた父が私を支へて其處にあつたベンチへ連れて行つてくれなかつたら、私はそのままぼうと氣を失つて倒れてしまつたでせう。私はしばらくそのベンチに坐つてゐるうち、やつと正氣を取戻したのでした。
⁂
「さて、その十二の時のことですが、私はいたつて惡戲好きな、無邪氣な少女でした。そして私の仲間もみんな私のやうでした。
「授業と遊戲と禮拜とが私たちの時間を分け合つてゐました。
「ところが、コケットリイの魔が私のゐた級のうちに侵入してきたのは、丁度その時分でありました。そして私は、それがどんな策略を用ひて、私たち少女がやがて若い娘になるのだといふことを、私たちに知らせたかを忘れたことはありません。
「その修道院の構内には誰もはひることが出來ませんでした。彌撒をお唱へになつたり、説教をなさつたり、私たちの微罪をお聽きになつたりする司祭樣を除いては。その他には、三人の年老いた園丁が居りました。が、私たちに男性といふ高尚な觀念を與へるためには殆ど何の役にも立たないのでした。それから私たちの父も私たちに會ひに來ました。そして兄弟のあるものは、彼等をまるで超自然的なもののやうに語るのでした。
「或る夕方、日の暮れようとする時分に、私たちは禮拜堂から引き上げながら、寄宿舍の方へ向つて、ぞろぞろと歩いてゐました。
「突然、遠くの方に、修道院の庭園をとりまいてゐる塀のずつと向うに、角笛の音が聞えました。私はそれをあたかも昨日のやうに覺えてゐます。雄々しい、そしてメランコリツクなその角笛の亂吹が、黄昏どきの深い沈默のなかに鳴りひびいてゐる間中、どの少女の心臟も、これまでになかつたくらゐ激しく打ちました。そして木魂となつて反響しながら、遠くの方に消えていつたその角笛の亂吹は、なにやら知らず、神話めいた行列を私たちに喚び起させるのでした……
「私たちはその晩、それを夢にまで見ました……
⁂
翌日、教室からちよつと出てゐたクレマンス・ド・パムブレといふ名前の、小さなブロンドの娘が、眞青になつて歸つてきて、隣席のルイズ・ド・プレセツクに耳打ちしました。いま薄暗い廊下でばつたり青い眼に出會つたと。そしてそれから間もなく級中の者が、その青い眼の存在を知つてしまひました。
「歴史を私たちに教へてくれてゐる修道院長の言葉も、もう私たちの耳にははひりませんでした。生徒たちは今は突拍子もない返事をしました。そしてこの學科のあんまり得意ではなかつた私自身も、フランソア一世は誰の後繼者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答へました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ十四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。私たちは青い眼のことを夢見てゐたのでした。
⁂
「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その青い眼に出會ふ機會をもちました。
「私たちはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ、美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。
「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中の一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。
「私たちは皆、その獵人の一人がこの修道院の中にかくれてゐて、青い眼は彼の眼であることを認めました。私たちは、そのたつた一つの眼が片眼なのだとは思ひませんでしたし、それから古い修道院の廊下を眼が飛ぶのでもなければ、彼等の身體から拔け出してさまよふのでもないと考へました。
「そんなうちにも、私たちはその青い眼と、それが喚び起させる獵人のことばかり考へてをりました。
「とうとうしまひには、私たちはその青い眼を怖がらなくなりました。それが私たちを見つめるため、ぢつとしてゐればいいとさへ思ふやうになりました。そして私たちはときどき廊下の中へ唯一人で、いつのまにか私たちを魅するやうになつたその不思議な眼に出會ふために、出てゆくやうなことまでいたしました。
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「やがてコケットリイの魔がさしました。私たちは誰一人として、インキだらけの手をしてゐる時など、その青い眼に見られたがらなかつたでしたらう。みんなは廊下を横ぎるときは、自分がなるたけ好く見えるやうにと出來るだけのことをしました。
「修道院には姿見も鏡もありませんでした。が、私たちの生れつきの機轉がすぐそれを補ひました。私たちの一人は、踊場に面してゐる硝子戸のそばを通る度毎に、硝子の向うに張られてゐる黒いカアテンの垂れを即製の鏡にして、そこにすばしつこく自分の姿を映し髮を直したり、自分が綺麗かどうかをちよいと試したりするのでした。
⁂
「青い眼の物語は約二ヶ月ばかり續きました。それからだんだんそれに出會はなくなりました。そしてとうとうごく稀にしか考へなくなりましたが、それでもときたまそれに就いて話すやうなことがありますと、やはり身顫ひしずにはゐられませんでした。
「が、その身顫ひの中には、恐怖と、それからまたあの快樂――禁斷の事物について語るあの祕やかな快樂に似た或る物がまざつてゐたのでした。」
君たちは決してそんな青い眼の通るのを見たことなんぞはなからうね、現代の少女諸君!
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復讐
人間の心界に、頭は神にして脚は鬼なる怪物棲めり。之を名けて復讐と云ふ。渠は人間の温血を吸ひて人間の中に生活する無形動物にして、古へより渠が為に身を誤りたるもの、渠によりて志を得たるもの、渠の為に苦しみたるもの、渠の為に喜びたるもの、挙て数ふべからざるなり。
見よ、戯曲は渠を以て上乗の題目とするにあらずや、見よ、世間は渠を以て尊ふとむべきものとするにあらずや、而して復讐なるもの、そのいかなる意味の復讐に関らず、人間の心血を熱して、或は動物の如く、或は聖者の如く、人を意志の世界に覚めしむるはあやし、あやし。
復讐は快事なり。人間は到底、平穏無事なるものにあらず。罵らるれば怒り、撃たるれば憤る、而して、其の怒ること、其の憤ること、即坐に情を洩らすこと、野獣の如くにして而して止むを得ば、恐らく復讐といふものゝ要は無かるべし。然れども人間は記憶に囲まるゝものなり。心界に大なる袋あり、怒をも、恨をも、この中に蓄ふることを得るものなり。再言すれば情緒を離るゝこと能はざるは人間なり。人間の一生は、苦痛の後に快楽、快楽の後に苦痛ありて、而して満足といふものはいつも霎時のものにして、何事も唯だ一時の境遇に縛らるゝものなり。爰に於て、人間の本能の、或部分は、快事の為に狂するなり。
復讐の快事なるは、飲酒の快事なるが如く然るなり。日常の生活に於て此事あり。多岐多方なる生涯の中に幾度か此事あるなり。生活の戦争は一種の復讐の連鎖なり。人は此快事の為に狂奔す。人は此快事の為に活動す。斯の如くにして今日の開化も昔日の蛮野に異ならざるなり。然り、ヒユーマニチーは衣装こそ改まれ、千古不変なるものなり。
復讐の精神は、自らの受けたる害を返へすにあり。而して自らの受けたる害を償ふことを得るは、甚だ稀なる塲合なり。己れが受けたる害の為に、対手に向つて之に相当なる害を与ふるにあり。而して斯の如く害を加へたる時に、己れの受けたる害は償はれたる如き心地して、奇様なる満足を得るなり。斯の如きもの復讐の精神なりとせば、復讐なる一事は、人間の高尚なる性質を証しするものにあらずして、極めて卑き、動物らしき性質をあらはすものに外ならず。
歴史はあやしき事実をあかしす、各国共に復讐を重んじたる時代あること是なり、「忠臣蔵」のはなしは最早世界にかくれなきものとなれり。いづれの国にも復讐なるものが何とはなく唯だ重んずべきものとなり居たること、吾人の能く知るところなり。復讐の親族に決闘あり、決闘の兄弟に暗殺あり。暗殺は卑怯なりとして賤められ、決闘は快事として重んぜらる、而して復讐なるものは尤も多く人に称せらる。人間何ぞ斯の如く奇怪なる。
維新の革命は、公けの復讐に最後を告げたり。法律の進歩は各自勝手の復讐を変じて、社界の復讐となせり。吾人は法律家として斯く言ふにあらず、歴史の観察より斯く言ふなり。斯の如く法律の進歩と復讐の実行とは相背戻せり。吾人は復讐なるものを以て、受けたる害に対して返へすべき害なりと思へり。而して人間は斯の如き不条理の事を以て、快事とする性質あることを言ひたり。法律の精神が復讐にあらざることは之を認めながらも、法律の事実は、復讐を去る事遠からざるを信ずるは之を以てなり。
一の義しからざること生ずるによりて、社会は必らず之に応ずる何事かを為ざるべからず。一の不義は直ちに其反響を社会に及ぼすなり、而して此塲合には、社会は他の義を以て、其不義を消すの権利あり、責任あり、これ正しき意味の復讐なり。宗教の精神より云ふ時は、社会といふ法律的の組織はなし、単に神の下に簇がる兄弟の民を云ふ外はなし、上に一の神を戴き、下に万民相愛の綱あり、これを以て宗教的組織の社会に一人の為せる害は、その社会自らが責任を負ふて神の前に立たざるべからざるものとなるなり、而して、社会自らは其社会の一部分なるものゝ為したる害に対して、復讐すべきところあるなきなり。
人と人とをつなぐものも愛なり、神と人とを繋ぐものも愛なり、社会が受けたる害を酬ゆるは、社会自らも之を為す能はず、神も亦た社会に対して復讐の意味を以て、害を加ふると云ふ事は全然之あるまじき事なり。斯の如くにして、宗教的組織の社会には復讐といふ事は遂に其跡を絶たざるべからず。(但し懲罰といふ事は別題なり)。
然れども宗教は架空の囈言たらしむべからず、無暗に唯だ救とか天国とか浮かれ迷はしむべからず。宗教はクリード(信仰個条)にあらざるなり、宗教は聖餐にあらず、洗礼にもあらず、但しは、法則にも、誡命にもあらざるなり、赤心の悔改と赤心の信仰とは、いかなる塲合に於ても尤も大なる宗教なり。而して宗教は、ヒユーマニチーの深奥に向つて寛々たる明燈たるべきものなり。人生実に測るべからざるものあり、人生実に知るべからざるものあり。願くは吾等信仰をして皮相の迷信たらしめず、深く人間と神との間に、成立たしめんことを。
復讐と戦争
一個人の間には復讐なり。国民と国民の間には戦争なり。復讐の時代は漸く過ぎて、而して戦争も亦た漸く少なからんとす。宗教の希望は一個人の復讐を絶つと共に、国民間の戦争を断たんとするにあるべし。
自殺
苦惨の海に漂ふて、よるべなぎさの浮き身となる時は、人は自然に自殺を企つるものなり。人は己れを殺すことを以て、己れの財産を蕩尽すると同じ様に考ふるなり。
然れども名誉は自殺を促すことあり。名誉の唯一の保護者の位地に自殺を置くことあり。人の生命は名誉よりも軽くなることあるは奇怪ならずや。
外に又た自殺は自ら為したる害に対して、自ら加ふる害の如きことあり。この塲合には自殺は自伐の復讐なり。この復讐によりて万事を決せんとす。嗚呼、人間の事いかに悲しむべきにあらずや。
自殺と復讐
「ハムレツト」を読みたるものはおもしろき自殺と復讐の関係を知るべし。英国の思想にては、自殺は東洋の思想にて考へらるゝよりも苦しきものなり。「死」は其塲かぎりのものにあらず、死の後に何か心地よからぬことありと思ふは彼の思想なり。「死」は最後のものにして、残るは唯だ形骸のみとするは我が思想なり。此点に於て彼我大なる差違あり。
短剣を以て自ら加ふるは極めて易し、然れども人は之を為すよりも寧ろ自らの受けたる害に対して復讐し、而して復た其の復讐の復讐として自ら殺さるゝを喜ぶなり。自殺は自ら殺すものにして人に害を与ふるものならず、人は之を尚ぶべきに、却つて人を害したる後に自ら殺すを快とす、奇怪なるかな。
ハムレツトは其対手の悔悟の時に手を下すを以て、復讐の精神に外れたるものとして、之を為さず、復讐は敵を地獄に追ひ堕すを以て、尤も成功あるものと思へり、嗚呼復讐、汝の心果して奈何。
(明治二十六年五月)
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〜と誰もが断言した
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彼が子供たちのビデオを撮った
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彼がコバルトブルーの海を見下ろす
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いよいよ2006年の夏がスタートしました
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すずめは、もう長い間、この花の国にすんでいましたけれど、かつて、こんなに寒い冬の晩に出あったことがありませんでした。
日が西に沈む時分は、赤く空が燃えるようにみえましたが、日がまったく暮れてしまうと、空の色は、青黒くさえて、寒さで音をたてて凍て破れるかと思われるほどでありました。どの木のこずえも白く霜で光っています。ものすごい月の光が一面に、黙った、広い野原を照らしていたのでありました。
すずめは、一本の枝に止まって、この気味悪い寒い夜を過ごそうとしていたのです。そのとき、ちょうど下の枯れた草原を、おおかみが鼻を鳴らしながら通ってゆきました。
山にも、沢にも、もはや食べるものがなかったので、おおかみはこうして飢じい腹をして、あたりをあてなくうろついているのです。すずめはそれを毎夜のように見るのでした。おおかみも今夜は寒いとみえて、ふっ、ふっと白い息を吐いていました。そして、氷の張った水盤のような月に向かって、訴えるようにほえるのでありました。
すずめは、さすがのおおかみもやはり、今夜はたまらないのだと思って、黙って下を見ていますと、おおかみは、急に腹だたしそうに、もう一度高い声で叫びをあげると、荒野を一目散に、あちらへと駆けていってしまったのです。すずめはしばらく、その後ろ姿を見送っていましたが、いつかその姿は、白いもやの中に消えて見えなくなりました。
すずめは、もうこれから、長い夜をなんの影も、また声も聞くことがないと思いました。どうか、今夜を無事に過ごしたいものだと思って、じっとして目を閉じて眠る用意をしたのです。しかし、寒くて、いつものように、どうしてもすぐには眠つくことができませんでした。
そのうち、急にあたりがざわざわとしてきました。驚いて目を開けて見まわしますと、いままで、さえていた月の面には、雲がかかって北西の方から、寒い風が吹いてくるのでした。すずめは、いよいよ天気が変わると思いました。
北国には、こうして、掌の裏を返さないうちに、天気の変わることがあります。
このとき、ここに哀れな旅楽師の群れがありました。それは年寄りの男と、若い二人の男と、一人の若い女らでありました。この人々は、旅から、旅へ渡って歩いているのです。そして、この荒野を越して山をあちらにまわれば、隣の国へ出る近道があったのです。もうこちらの国も思わしくないとみえて、その人たちは、隣の国へゆこうとしたのでしょう。そして、道を迷って、こんな時分に、ようやくここを通るのでありました。
みんなは、うすい着物しかきていません。また、それほどいろいろのものを持っている道理とてありません。まったく、貧しい人たちでありました。
みんなはたがいに慰わり合いながら、月の光を頼りに歩いてきましたが、このとき、ちら、ちら、と雪が降ってくると、もはや、一歩も前へは進めなかったのです。
「ああ、とうとう雪になってしまった。」と、一人の男が、ため息をもらしていいました。
「私たちは、今夜は、野宿をしなければならないでしょうね。」と、若い女が、頼りなさそうにいいました。
「野宿をするにしても、この雪ではねるところもないだろう。」と、ほかの男がいいました。
四人のものは、転げるばかりに、疲れと、不安とで、もはや前へ踏み出す勇気もくじけていたのです。
雪は、ますます降ってきました。そして、たちまちのうちに、木を、丘を、林を、野原一面を、真っ白にしてしまいました。月の光は、おりおり雲間から顔を出して、下の世界を照らしましたけれど、その光を頼りに歩いてゆくには、あたりが真っ白で、方角すらわからなかったのであります。
「おじいさんは、あんなに疲れていなさる。」と、先になっていた一人がいって、振り向いて立ち止まりました。すると、ほかのものも等しく立ち止まって、みんなから遅れがちになって、とぼとぼと歩いていた年寄りを待つのでありました。
「ああ、みんなのもの、もう急いだってしかたがない。何事も運命だ。私たちが道を迷ったのも、またこうして雪が降ってきたのも、みんな運命だとあきらめなければならない。この雪では、夜道もできないだろう。そして、いつおおかみや、くまに出あわないともかぎらない。せめて、ここにある酒でもみんなして飲んで、唄い明かそうじゃないか。」と、おじいさんはいいました。
「ほんとうにおじいさんのいいなさるとおりだ。私たちは、長い間、仲よくして、諸国を歩きまわってきたのだ。最後まで、おもしろく、いっしょに死のうじゃないか。」と、若い男の一人がいいました。
「わたしは、悲しい。しかし、いまはどうすることもできません。すべての希望を捨ててしまいます。」と、女は涙ながらにいいました。
「ああ、泣くでない。若い女や、若い男が、このまま死んでどうするものか、きっとすぐに生まれ変わってくる。私のいうことを疑うじゃない!」と、おじいさんはいいました。
みんなは、背中に負っている荷物を下ろしました。そして、雪の上に拡げて、徳利に入れて下げてきた酒をついで、めいめいが飲みはじめました。みんなは、いくら寒くても、酒の力で体があたたまりました。すると、おじいさんは、
「さあ、みんなで歌うだ! 弾くだ! この世でのしおさめに、力のかぎり出してやるのだ。そして、くまも、おおかみも、山も、谷も、野原も、心あるものを、みんなびっくりさしてやれ!」と、みんなを励ましていいました。
やがて、ときならぬいい音色が、山奥のしかもさびしい野原の上で起こりました。笛の音、胡弓の音、それに混じって悲しい歌の節は、ひっそりとした天地を驚かせました。おじいさんは雪の上にすわって音頭をとりました。若い女と、若い一人の男は立って踊りました。一人の男は、やはり、雪の上にすわって胡弓を弾いていました。女はいい声で歌い、立って踊っている男は、片脚を上げて、唇に笛を当てて吹いていました。
雪は、いつしかやんで、月の光が、この下のときならぬ舞踏会をたまげた顔をしてながめていますと、いままで隠れていた星までが、三つ、四つ、しだいにたくさん顔を出して、空の遠方からこの有り様をのぞいていたのです。
木の枝に止まって、すべてのことを知りつくしていたすずめは、悲しくて悲しくて、たまらなくなって、熱い涙が目からあふれて出ました。しかし、そのときの寒さというものは一通りでなくて、目から出た涙は、すぐに凍って両方の目はふさがってしまいました。すずめは足をあげて目をぬぐおうとしましたが、このときは、はや両方の足が枝の上に縛りつけられたように、凍りついて離れませんでした。
すずめは、つくづく寒気というものを情けなしな、冷酷なものだと思いました。月も、星も、また雪までも、ああして感心して哀れな歌をきき、音楽に耳を澄ましているのに、寒気だけが用捨なく募ることを、すずめは腹だたしくも、またかぎりないうらめしいことにも思ったのです。
そのうちに、どうしたことか、歌の声も、音楽のしらべも、だんだん小さく、低く、遠のいてゆくのを感じました。けれど、すずめは、ついに明くる日の朝まで身動きもできず、目を開けることもかなわず、鋳物のように木の枝に止まっていました。
太陽が照らしたときに、すずめは、はじめてあたりのようすを知ることができたのです。
「昨夜のことは、みんな夢ではなかったか、あの人たちは、どうなったのだろう?」と、すずめは、小さな頭を傾けて思いました。なぜなら、あたりは、雪が二尺も、三尺も積もっていて、そのほかには、なにも目の中に入らなかったからです。
それからは、長い間、すずめは、このことが不思議でならなかったのです。すずめは毎日、雪の中を山のあちらへ、また、林のこちらへと飛びまわって、だれも通らない、さびしい雪の広野を見渡して鳴いていました。
そのうちに冬も老けて、だんだん春に近づいてまいりました。ある日のこと、西南の空のすそが、雲切れがして、そこから、なつかしいだいだい色の空が、顔を出していました。すずめは、木の枝に止まって、じっとその方を見てぼんやりとしていました。
暖かな南の風が吹いてきました。それからというもの、毎日のように、南の風が吹き募って、雪はぐんぐんと消えていきました。すずめは、もう冬も逝ってしまうのだと、体を円くして、心地いい、暖かな風に羽を吹かれながら、いままで埋もれていた山の林や、また野原の木立が、だんだんと雪のなかに姿を現してくるのを楽しみにしていたのです。
「ああ、じきに花が咲くころともなるだろう。そうすると、他国の方から、名の知らないような美しい鳥が飛んできて、林や森の中で唄をうたうであろう。それを聞くのがたのしいことだ。」と、この山のふもとに生まれて、この野原と、林としかほかのところは知らないすずめは、せめて他国の鳥の唄を聞くことを幸福に思っていたのです。
すると、ある暖かな晩に、すずめは野原の中から、笛の音と、胡弓の音と、悲しい唄の声を聞きました。すずめは、それを聞くとびっくりしました。いつかの哀れな旅楽師を思い出したからです。
いままで、その野原の中に凍っていた、それらの音色が、南の風に解けて、流れ出したものと思われます。しかし、その人たちの死骸は、飢えたおおかみやくまに食べられたか、見つかりませんでした。ただ、この物悲しい音色は、風に送られて、その後、幾夜も、この広野の空を漂っていたのです。
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文藝部から嶽水會雜誌の第百號記念號へ載せる原稿をと請はれたが、病中でまとまつたものへ筆を起す氣力もなく、とりとめもない「青空」のことなどで私に課せられた責を塞ぐことにする。
「青空」といふ雜誌は大正十四年の一月から昭和二年の央まで發行されてゐた。僕達三高卒業生の據つてゐた同人雜誌であつた。皆が三高を出てから東京へ行つて出したので、それの追憶と云へば舞臺は東京になる譯であるが、私はそれの培はれた三高時代の思ひ出にこの話を限り度い。三高時代私達は劇研究會といふものを持つてゐた。これが青空の前身であつた。それは劇の方では本讀み、演出などをやつてゐたが、そこには名目通りの劇研究があつたといふよりも、寧ろ廣汎な文藝に對する私達の飽くなきアスピレイシヨンが團結してゐたのであつた。劇作は思ひ出して見ても、外村茂の數篇位ゐで、演出は――この演出に就て語るのは實にたくさんの記述が要る。私達でやる筈になつてゐた試演會は校長の禁止で、公演の前日に迄もなつてゐて、それを思ひ切らなければならない破目になつたのである。今でこそそのことはこんなにもあつさりと書けるのであるが、その當時その打撃は私達の生活をまるで打ちのめしてしまつた。校長からはその代償といふ譯ではなかつたらうがとにかくいくらかの金が出たのであるが、それはたしか新聞へ出す中止廣告の廣告代にも足らなかつた。そのうへ、大道具小道具に要した金、練習場、會場に要した金、プログラムや切符に要した金、それらは會員達が何ヶ月もかかつて積立てた準備金の到底補充出來る額ではなかつた。中止に氣落ちした面々がまた心を取直して何の希望もない經濟的なまた勞力的なあと片付けを默々とやりはじめたときの氣持は今思ひ出しても涙が零れる。それのみか――これはだん〴〵あとになつて耳に入つて來たことではあるが――私達の公演を援けたフロインデインに就て下等な憶測が、學校當局ではどうであつたか知らないが、生徒達のなかに働らいてゐたらしいのである。これには胸が煮えたぎる程口惜しかつた。恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ。彼等にはさういふことがわからない。これは實に口惜しいことだつた。それから何年も經つてからであつたが、ある第三者からふとそのことに觸れられた。場所も憶えてゐるが、それは大學の池のふちである。――その瞬間、ながらく忘れてゐたその屈辱の記憶が不意に胸に迫つて來て、私の顏色が見る見る變つたので、何にも知らないその人を驚かしたことがあつた。こんな屈辱は永らく拭はれることのないものである。
ついでだからそのときの出し物を思ひ出して見よう。
チエホフの 「熊」 一幕
シングの 「鑄掛屋の結婚」 一幕
山本有三の 「海彦山彦」 一幕
「熊」の老僕にはあとで「青空」の同人になつた小林馨がなつた。小林は東北の生れで東北なまりが、その役を實にうまく生かした。借金取にはあとで「眞晝」を作つた楢本盟夫がなつたが、楢本は、ぷん〳〵怒る男なので、またその短氣なせりふが打つてつけで、今思ひ出しても思はず笑へて來るほど面白かつた。シングの「鑄掛屋の結婚」はこの三つのなかで芝居としては一番いいものだと今でも思つてゐるが、それは稽古を重ねてゐるうちに自然胸に感じられて來たことであつて、たつたそれだけのことでも、自分等の努力が手探りにわからせて呉れたのだと思ふとどんなに樂しかつたか知れない。これには「青空」の中谷孝雄が田舍の老牧師になつて出てゐる。「眞晝」の淺見篤も一役持つてゐた。中谷の老牧師は袋かなにかをかぶせられてぶん撲られたりするのであるがこれがまた可笑しかつた。臺本は松村みね子氏の譯本に據つたのだつたが、この定評ある飜譯もテキストと讀みあはせて見ると意味を通じなくしてしまつてあるせりふや誤つたト書などがあつて、その發見などはなか〳〵鼻の高いものだつた。英國の俗謠が出て來る。それはヱルダー先生に Fisher Women の譜を借して貰つて稽古した。「海彦山彦」は「青空」の外村茂と淺沼喜實とがやつた。これには撲り合ひの兄弟喧嘩があるので、それを熱心な外村がやるものだから、ほんたうの喧嘩みたいで、毎日それをやるときになると稽古する部屋の向ひの魚屋から人が立つて見てゐた。まだ〳〵かういふことを書けば切りがない。とにかく私達が何ヶ月もかかつて計畫し努力した、恐らくは三高はじめての試演會といふものは蓋のあく前日に、生徒としての最後のもので脅かすことによつて、差止めになつてしまつたのである。
劇研究會としてこの試演ほど大きい事業はなかつたのであるが、私達はこの會合の名目通りに劇ばかりをやつてゐた譯ではなかつた。私や中谷などは別に戲曲を物せず却つて小説を書いてゐた。そして「青空」を出すやうになつてからは誰も戲曲を書く物はなくなつた。當時私達の持つてゐた雜誌は回覽雜誌で「眞素木」といふ、原稿を單に製本しただけのものであつた。これは三册程しか出來なかつたと思ふ。ここへ書いたものが、嶽水會雜誌に原稿が集まらなくて、僕のものや中谷のものが轉載されたことがあつた。この「眞素木」といふ名前は後で「青空」の隨筆欄の名になつた。
私達は斯樣にして小さいものではあつたが非常に強固な文學的な團體を形作つてゐた。行先は東京の文科であり、東京へ出たら必ず私達で雜誌を作らうといふ氣持が云はずして釀されてゐた。ところが兔角さういふことは後れ勝ちになるもので、東京へ出て直ぐと思つてゐた發行が半年少しも後れて初號は次の年の一月にやつと出ることになつた。同人はその劇研究會の中谷、外村、小林、それに私、そこへ中谷が獨文科の忽那吉之助を連れて來て五人、も一人それも中谷の友人で今鏘々とした新進歌人の稻森宗太郎が早稻田から加はつた。當時同人雜誌はまだ實に少ないものであつた。大學では小方又星、伊吹武彦、淺野晃、飯島正、大宅壯一、それに一高の連中がやつてゐた「新思潮」が漸く出はじめた頃で、慶應からは「青銅時代」「葡萄園」――「辻馬車」や早稻田の「主潮」などは私の記憶に間違ひがなければ「青空」よりも遲れてゐた。今の「新思潮」は當時の「新思潮」が潰れてから出たので勿論「青空」よりはあとである。思へばその時分が同人雜誌氾濫のはじまりであつた。
その後間もなく私達のなかへは、私達のあと三高で劇研究會を維持してゐた、淀野隆三、淺沼喜實、北神正の三人が、東京へ出て來たので加はり、次いで飯島正や三好達治、北川冬彦の二詩人參加し、三年目にやはり劇研究會からの龍村謙が來、「青空」は年を追つて益々人を殖した。稀に例外があつたが、みな三高から、それも劇研究會からはひつて來たのである。そのほかにも同人を擧げなければ「青空」についての全體は語られないが、まとまつて「青空」のことを書く積りでもなし、管々しいことは省く。とにかく「青空」は昨年の七月同人の多くが卒業論文で忙しくなり編輯をやめるまで月々撓みなく發行されてゐた。別に花々しく世のなかの視聽を欹てたといふ譯でもなく、流行の新人を送り出した譯ではなかつたが、それの持つてゐた潛勢力は當時人も知り私達も自信してゐた。そして同人の多くが入營や卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。「青空」は遊戲氣分のない、融通の利かないほど生眞面目なものを持つた人達の集りであつた。廣く世の中へ出て見るに隨て、私達は私達の持つてゐた粗樸な熱意に振り返り敬禮せずにはゐられない。「青空」から新人會へ、文學から解放運動へ出て行つた私達の一人はその後もよく云つてゐた。「全く青空でがんがんやつたのがよかつた」然り「青空」はなによりも私達の腹を作つた。
室生犀星氏は嘗て私達の中谷孝雄の作品を評して、氏獨特の表現で、「第一流の打ち込み方」と云つた。そしてこの評はまさに肯綮である。外村茂は「青空」のなかでもその苦しいまで正義感に溢れた作風で人々の注目、畏敬を集めてゐた。こんな人達の今後の活動は、潛心を終つた淀野隆三の活動と共に非常に私達を期待させるものである。北川冬彦、三好達治は二人とも名を成した詩人である。「青空」も考へて見れば隨分いい人達を持つてゐた。
この稿は劇研究會の追憶としても「青空」の記録としてもその十分の一も完全ではない。記載すべき人の名も事柄もその煩に堪へないので書くことを止した。そのうへ會員同人の人達が共有した追憶を私一人で私したやうな氣持がしてならない。それだけのお斷りを云つて置く。
京都を思ひ出し、三高を思出す毎に、尚賢館の北室や、佛教青年會館や、丸山の明ぼのを思ひ出す。私達が集まつて晩くまで本讀みをし、話をしたのも、佛蘭西から歸られた折竹先生を迎へてコポオの話を聞いたのも、さうした部屋の私達の圓居のなかであつた。そしてその記憶は常に東京のそれよりも樂しい。東京の思ひ出はいつも空つ風に吹き曝されてゐるやうな感じがある。京都ではいつもなにか温かく樂しいものが私達を包んでゐて呉れた。温かく、樂しいばかりではない。私はそのなかに自分を勇氣づけて呉れるものを常に感じてゐるのである。
(昭和三年十二月)
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荒潮の渦巻く玄海灘を中心にして、南朝鮮、済州、対馬、北九州等の間には、昔から伝説にもあるように住民の漂流がしばしばあったと云われている。或は最初の文化的な交流というものは、概してこういう漂流民を通じてなされたのであろう。――だが面白いことには文明の今日においてさえ、漂流という形を借りたものが又想像以上にあるのである。それが密航である。
けれど密航と云っても、そうロマンチックなものではなく、それを思いたつまでには余程の勇気と度胸が要ることだろうと思う。玄海灘を挟んでの密航と云えば、旅行券のない朝鮮の百姓達が絶望的になって、お伽話のように景気のいいところと信じている内地へ渡ろうと、危かしい木船や蒸気船にも構わず乗り込むことを云うのだから、度胸云々どころではなく、全く命がけ以上の或は虚脱と云ったところであろう。何れにしても、この密航に関して私にははかない思い出が一つある。この間も朝鮮人の密航船が玄海灘で難破して、一行二三十名が藻屑となったという報道を読んで、転た感深いものがあった。
その実私も釜山から一度密航を試みようとしたことがある。それは十八の時の十二月のことであるが、或る事情で堂々と連絡船には乗り込めないので、毎日のように埠頭に出て寒い海風に吹かれながら、どうしたらばこの海を渡って行けるだろうかとばかり思い焦っていた。何しろ若い年先であり、それに丁度中学からも追い出されたばかりなので、ゆっくりと形勢を見るとか智慧をめぐらすとかいうようなことは出来なかった。玄海灘の彼方というのは、私にはその幾日間かは全く天国のようにさえ思われていたのであろうか。
或る日も私は埠頭で、帆船や小汽船が波頭ににょきにょきと揺れている様を見ながら、じっと立っていた。それはみぞれの降る日だった。その時黒い縁の眼鏡をかけた内地人の男が、通りがかりに独言のように、海を渡りたければ明朝三時に××山の麓に来たらいいと云うのである。私は驚いて振り返って見た。だが男は吹き荒ぶみぞれの中に、どこかへ消え失せてしまった。さすがに私はその晩いろいろと苦しみ悶えたものである。丁度二三日前から、宿屋のボーイにも三十円程出せば密航させるからとしきりに誘われていた訳なので、よっぽど思い切ってやってみようかと考えた。だが何故となくおっかなかった。隣りの部屋に一人の客がやって来たが、言葉がどうも郷里の北朝鮮系である。私はその夜中に客の寝ている部屋へはいって行った。そして密航に対して意見を求めた。すると客はしげしげと私の顔を眺めてから、
「よしなせえ」と一言のもとに反対した。今も思い出すことが出来るが、彼は小さな口の上に黒い鼻髭のある三十男で、目をしょっちゅうしばたたいていた。その目をしばたたきながら、彼は一晩中密航に関していろいろな話をしてくれた。彼も内地へ行っていたが、渡る時はやはり旅行券がなくて密航をしたというのである。船は小さくて怒濤に呑まれんばかりに揺れるし、犬や豚のように船底に積み重ねられた男女三十余名の密航団は、船員達に踏んづけられ虫の息である。喰わず飲まず吐瀉や呻きの中で三日を過ぎ、真暗な夜中に荷物のように投げ出されたのが、又北九州沿岸の方角も名も知らない山際だったそうである。船の奴等は結局どこへでも船を着けて卸してから、見付からぬ中に逃げればいい訳である。だから時には奴等は内地へ来たぞと云って、南朝鮮多島海の離れ小島にぞろぞろと卸して影をくらますことさえあるそうである。兎に角内地へ渡って来たのは来たが、皆はひどい船酔いと餓えに殆んど半死の有様で、夜が明けるまでぶっ倒れていた。彼だけはしきりに気を立て直して、行先をさぐった。そして灯のまだらについている小さな町の方をさして、這うように山を越え逃げ込んだのだった。ぼろぼろでも洋服を着ていたからよかった。だが他の連中は白い着物を着たまま群をなして徨い歩く中に見付かって、再び送還されたのに違いない。私はとうとう密航を思い切らねばならなかった。
「じゃが今は内地も不景気でがして、屑屋も駄目じゃけん、内地さ行くなああきらめるがええ」と、彼は結んだ。
翌日の朝彼は郷里へ帰るといって、やはりぼろぼろの洋服で小さな包みを一つ抱え、釜山鎮という駅から発って行った。私は余りの心寂しさに、彼を親でも送るような気持で、遠くから手を振って見送ったが、この小さな鼻髭を持ったおじさんは今どこで何をしているのだろう。
その後私は北九州の或る高校に籍をおくようになったが、この地方の新聞には毎日のように朝鮮人密航団が発見されて挙ったという記事がのる。それを読んでいく時は、何とも云えない複雑な感情に捉われた。沿岸の住民がとても訓練を得て監視するために、稀の場合でなければ成功しないのである。あっちは命がけの冒険上陸とも云えるが、こちらは又こちらで必死になって上陸させまいと目を光らせている。僅か八つの小学生が学校へ行く途中、密航団を見付けて駐在所に告発したので表彰されたというでかでかした記事も稀ではなかった。それを読んでいると私は、自分までが来れない所へやって来て監視されているような、いやな気持になることがままあった。そのためでもなかろうが、私は九州時代有明海にしても、鹿児島海岸にしても、別府の太平洋にしても随分親しんだものだが、目と鼻の先の玄海灘の海辺には余り遊びに出掛けなかった。
それにしても卒業の年の初秋だったと思う、一度だけ郷里の或る学友と唐津へは行ったことがある。波の静かな夕暮で、海辺には破船だけが一つ二つ汀に打ち上げられていたが、海の中へ遠く乗り出している松林には潮風がからんで爽やかに揺れていた。その時ふと私達の目には白い着物を着た婦達が四五人、遠く砂浜を歩いて来るのが見えた。丁度夕焼頃となり、それが迚も美しく映えて見えるのだった。私はぎくりとして、さてはちりぢりになった密航団のかたわれではなかろうかと思った。ところが彼女達が近くやって来た所を見ると、近所の海辺に住んでる移住民の奥さん達のようだった。若い婦達が下駄を手に持って、時々腰を屈めて沙場の貝殻を拾っている様は美しい。その頃の高校の歌に、
「夕日や燃ゆれ、吉井浜、天の乙女がゆあみする」という句節があった。
私は滅多に歌など歌ったことがないが、その時はちょっとそういう文句を思い浮べた。
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去年の寒い冬のころから、今年の春にかけて、たった一ぴきしか金魚が生き残っていませんでした。その金魚は友だちもなく、親や、兄弟というものもなく、まったくの独りぼっちで、さびしそうに水盤の中を泳ぎまわっていました。
「兄さん、この金魚は、ほんとうに強い金魚ですこと。たった一つになっても、元気よく遊んでいますのね。」と、妹がいいました。
「ああ、金魚屋がきたら、五、六ぴき買って、入れてやろうね。」と、兄は答えました。
ある日のこと、あちらの横道を、金魚売りの通る呼び声が聞こえました。
「兄さん、金魚売りですよ。」と、妹は耳を立てながらいいました。
「金魚やい――金魚やい――。」
「早くいって、呼んでおいでよ。」と、兄はいいました。
妹は、急いで馳けてゆきました。やがて金魚屋がおけをかついでやってきました。そのとき、お母さんも、いちばん末の弟も、戸口まで出て金魚を見ました。そして、小さな金魚を五ひき買いました。
水盤の中に、五ひきの金魚を入れてやりますと、去年からいた金魚は、にわかににぎやかになったのでたいへんに喜んだように見えました。しかし、自分がその中でいちばん大きなものですから、王さまのごとく先頭に立って水の中を泳いでいました。後から、その子供のように、小さな五ひきの金魚が泳いでいたのです。これがため水盤の中までが明るくなったのであります。
「兄さん、ほんとうに楽しそうなのね。」と、妹は、水盤の中をのぞいていいました。
「今度、金魚屋がきたら、もっと大きいのを買って入れよう。」と、兄はちょうど、金魚の背中が日の光に輝いているのを見ながらいいました。
「けんかをしないでしょうか?」と、妹は、そのことを気遣ったのであります。しかし、兄は、もっと美しい金魚を買って入れるということより、ほかのことは考えていませんでした。
「金魚やい――金魚やい――。」
二度めに、金魚屋がやってきたときに、兄は、お母さんから三びきの大きい金魚を買ってもらいました。それらは、いままでいた大きな金魚よりも、みんな大きかったのです。かえって、水盤の中はそうぞうしくなりました。けれど、去年からいた一ぴきの金魚は、この家は、やはり自分の家だというふうに、悠々として水の面を泳いでいました。五ひきの小さな金魚は、おそれたのであるか、すみの方に寄ってじっとしていました。三びきの新しく仲間入りをした金魚のうち二ひきは、ちょいとようすが変わったので驚いたというふうで、ぼんやりとしていましたが、その中一ぴきは生まれつきの乱暴者とみえて、遠慮もなく水の中を走りまわっていました。
三びきの金魚の入ってきたのをあまり気にも止めないようすで、前からいた一ぴきの金魚は、長い間すみ慣れた水盤の中を、さも自分の家でも歩くように泳いでいますと、ふいに不遠慮な一ぴきが横合いから、その金魚をつつきました。
「あんまり威張るものでない。だれの家と、きまったわけではないだろう。そんなにすまさなくてもいいはずだ。」と、ののしるごとく思われました。
前からいた金魚は、相手にならないで、やはりすましたふうで泳いでいますと、乱暴者は、ますます意地悪くその後を追いかけたのです。こんな有り様でありましたから、いつしか五ひきの小さな金魚は夜のうちに、みんな乱暴者のために殺されてしまいました。一月ばかり後まで、生き残っていたのは、前からいる金魚と乱暴者と、もう一ぴきの金魚と、わずかに三びきでありました。
「兄さん、金魚は弱いものね。今度死んでしまったら、もう飼うことはよしましょうね。」と、妹はいいました。
「ああ、金魚よりこいのほうが強いかもしれないよ。」と、兄は答えました。
「兄さん、こいを買っておくれ、毎晩、夜店に売っているから。」と、末の弟がいいました。
その日のことであります。暮れ方、妹は、末の弟をつれて夜店を見にいって、帰りに三寸ばかりの強そうな赤と黒と斑のこいを二ひき買ってきました。そして、それを水盤の中に放ったのです。
月の照らす下で、水面にさざなみをたてて、こいの跳る音を聞きました。それから四、五日もたつと、三びきの金魚は、みんなこいのために、つつかれて殺されてしまいました。後には、二ひきのこいだけが元気よく泳ぎまわっていました。
「とうとう、こいが天下を取ってしまった。」と、兄はいいました。
「ほんとうに憎いこいですこと。」と、妹はいいました。
一日、兄は留守でした。妹は憎らしいこいだからといって、毎日換えてやる水を怠りました。たった、一日でしたけれど、あつい日であったもので、水が煮えて、さすがに威張っていたこいも死んでしまいました。そのときからすでに幾日もたちました。いまだに水盤の中はだれの天下でもなく、まったく空になっています。
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いつだったか歯をわるくしてお医者さんに行ったところ、そのお医者さんは見たところそれほど丈夫そうにもないのに、毎日のおびただしい患者を扱って少しも疲労を感じないと言う。
「何か秘訣でも?」
と訊ねると、
「大いにありますよ」
そう言ってお医者さんは南京虫のようなものがうじゃうじゃうごめいている小さな箱をみせてくれた。
九龍虫という虫で、なかなか精力のつく薬虫だとその医者は説明してくれた。
私は二、三十匹もらって桐の箱に入れて、医者の説明通り椎の実、龍眼肉、栗、人参などを買って来てあたえてみた。
二週間ほどしてから覗いてみたら九龍虫の蛹がいくつも出来ていた。
さらに半月ほどしてからしらべてみると、もう何百匹となくうじゃうじゃしているのには驚いた。
「一遍に十匹ほどずつ飲んでみなさい、とてもよく効く」
と、お医者さんは言ったが、生きた虫をそのまま呑むのはちょっとかなわんと思って放りぱなして置いたが、疲労を覚えてどうにも弱り果てた時に思い切ってのんでみた。
ひりりっと山椒の実を口に入れたような味がした。
べつだん効くようにも感じないが、用いていれば疲れがあまり出ないところから推すと、やはり効いているものらしい。
九龍虫は呑めども呑めどもあとからあとからとネズミ算式に増えてくる。与えた食物の中へわいわい入り込んでそれを食い散らし、食い尽くしては子をふやしてゆく。
この虫が食べているものは、そのまま人間が摂っても効くものばかりである。
人参、椎の実、龍眼肉などというぜいたくなものばかり食っているのであるから効くのは当然である。
人間も良い本をたくさんよみ、修業をつんだ人は、それだけ良い内容を貯えているものである。
画家も心を培い良い絵をたくさんみて研究をはげめば、それだけ高いまなこが持てるのである。
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Xを主が許されます
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子を失ふ話 (木村庄三郎氏)
書かれてゐるのは優れた個人でもない、ただあり來りの人間である。それらが不自然な關係の下に抑壓された本能を解放しようとして苦しむ。作者は客觀的な態度で個々の人物に即し個々の場面を追ひつゝ書き進んでゐる。作者は人物の氣持や場面を近くに引付けてヴイヴイツドに書くことに長じてゐる人であるが、この作品ではそれを引き離して書いてゐる。そしてその手法が澄んでゐるためか「人間の持つ悲しさ」といふやうなものが背後に響いてゐる。どうにもならないといふ感じである。恐らくこの作品はこれでおしまひなのではなからうと思はれる。どう見てもあそこで完結させることは出來ない。また小さいことではあるが「けちな放蕩」と書いてある。けちなといふやうな價値感情を含んだ言葉はこの作品の緊りを傷けるものである。この作品に於て私は作者の新なる沈潛を感じる。そしてそれはいゝ結果になつてあらはれてゐる。が、それは在來のものゝ綜合であり完成であつて、新しい境地へは踏出してゐない。在來の氏に感じてゐた私の不滿は、だからまだ滿されてはゐない。この完成が終れば氏はその方へ出て行くのであらう。私はそれを期待する。
N監獄懲罰日誌 (林房雄氏)
林氏に對する私の豫備知識は貧弱である。いつかの新小説にのつたものしか讀んでゐない。また文藝戰線の人々やその文學論にも最近の關心である。そんなことがわかつてからとも思ふが、まあ思つたまゝを云ふ。
伯父の急激な對蹠的な轉向を輪廓づけた、その圖形が妥當であるかないか、それは問題にしようとは思はない。たゞこの圖形はそれ自身が立派な意義を持つものであることを認める。然しこの圖形が強い力で迫つて來るためにはもつと肉付けが必要であると思ふ。末尾の言葉で作者もそれを認めてゐるやうに思へるが、それ以上作者が美しい放浪者の心とか懷疑者の心とか金鑛とか漠然とした言葉を用ひてゐるためなのではなからうか。
懲罰日誌そのものゝなかには囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。そのユーモアの一つは「錆びついた心」を持つた獄吏の戲畫的な存在である。も一つは犯行者の犯行なるものである。然しそのユーモラスな效果が消えて行つたあと心に迫つて來る重苦しい眞實がある。ともかく私は懲罰日誌には心を打たれた。所々自然科學の言葉が使はれてゐたり、一度云ひ表したことを重ねて使つて效果を深めたり、作者の文體は知的な整つた感じを持つてゐる。偏した味ではなく正統な立派なところがある。そして、それは作者の文學的意圖に合したものであらうことが推察される。
アルバム (淺見淵氏)
平板な嫌ひはあるがその落ちついた筆致は作者がともかくあるところまでゆきついた人であることを思はせる。朝に出たときより幾分の削除が行はれてゐるやうに思ふが、とにかくこの作品は書き拔いたといふ感じがある。なまじ陰影的な效果を覘はず、その書き拔いたところから、却つてあと〳〵まで續く餘韻が出來たやうに思ふ。それはオリガのイメイジである。それもあの生活を背景にした主人公があゝいふ風な感興を持つたロシアの女のイメイジである。そしてその餘韻に就ては末尾のピチカツトが效果的な作用をしてゐる。親しみの多い作品である。
變人を確かめる (八木東作氏)
最初「はあ、あの氣持を書いてゐるな」と思つたぎり讀み捨てておいたものを此度また讀みかへして見た。讀みかへしてまた讀みかへした。その度に作者の前書に書いてゐることの意味が段々強くなるのを知つた。
その聲低く語られる物語は、その一見他奇のない文體にも似ず、非常に緻密に物されてゐる。書いてあることに無駄がないといふより、書いてあることの重要さが大きいのだ。例へば六七頁の「私はポケツトから回數券を取出した。すると女は、それを見てすぐ同じ樣に帶の間から回數券を取出した。そして一枚切りとつた。それで私は、自分のだけ一枚切り取つて殘りをポケツトに返した。そして、切り取つた一枚を指の間に挾んで持ちながら女の手もとを見ると、また同じやうに指の間に挾んでゐた。もはやどこでも一緒におりて來るものときまつた。」はその瞬間の主人公の緊張した氣持が、表面へ出して來るよりも餘計效果的に讀者に觸れて來る。さう云つた風である。そんな風に作者は主人公の女に對する氣持の起伏の消息や、陰影に富んだ然も純な性格を、語るより以上に感ぜしめてある。この話のどこにも馬鹿氣たところはない。私は作者のかういふ風な書き方に同感を持つ者だ。八木氏等の出してゐる麒麟といふ同人雜誌は最近寄贈をうけてゐたが、自分は讀まなかつたが、この小説のやうに外見はあまり引立たない。然し内容は――とこの小説の讀後の感じはそんなところへまで變に實感を持たせるのである。
晴れた富士 (崎山猷逸氏)
この作品はこの作者の平常のものよりも惡いやうに思はれる。私は感心出來なかつた。「二」の馬車のなかで姉の肩が曉の腕に觸れて、そんなことも淋しく思ふ。――あのあたりのやうな眞實さがこの作品の重要なところに缺けてゐると思ふ。
姉の死と彼 (中山信一郎氏)
依怙地なやうな變に感じのある作家である。然しそれもこの作品に於ては完成から非常に遠いと思はれる。
桃色の象牙の塔 (久野豐彦氏)
これの批評は差控へる。
結婚の花 (藤澤桓夫氏)
この作家の從來の作品に於て、これまで私にネガテイヴな價値しか持つてゐなかつたものは、この作品によつてポヂテイヴなものに改められた。それはこの「三」に於けるが如き立派な完成を見たからである。實感を伴はない文字の遊戲と思はれてゐたものが、強い實感を現すための新しい手段と見直せるやうになつた。それでもなほ得心のゆかぬ個所もある。それは作者と私との趣味の相違や、私の讀み方の不足や、作者の技巧の未完成が混り合つて原因してゐるのであらうが、そんな個所は末梢的であつて、何よりも私はこの作品を貫いてゐる作者のまともな精神に觸れて心強く思つた。そして「冬の切線」や「明日」を讀み直したのであるが、そんなものと比較して細いことを書き度いと思つてゐたが、時間が切迫したため何時かの機會に讓ることにする。
早春の蜜蜂 (尾崎一雄氏)
全篇清新な筆觸で書かれてゐる。殊に蜜蜂の描寫、八年前の或る朝の記憶は秀れてゐる。然し讀み終つてなにか物足らぬ感じがある。それは各部分が秀れた描寫であるに拘らず、それを緊めくゝるものが稀薄なせいである。二年前の短篇に於ても蜜蜂と妹の死との間にはつながりの必然性がない。二年前と今との氣持の相違を書いて後半の追憶に移るのは自然ではあるが積極的な意味を持つてゐる譯ではない。然し最後にK子の死を敍したあと不吉な二月、それに關聯して再び蜜蜂のことへかへつて來たのは首尾照應してさきの蜜蜂を生かしてはゐる。物足りなく思ふもう一つは主人公の氣持が純眞ではあるが、その力み方に少し誇張したところが感じられることである。それはこの作品を汚すものではない。却つてある美しさを與へてはゐるが、この作品を深めるものではないと思ふ。
然しこの二つのこと、積極的な不滿ではない。何となく物足りなく思ふ。その原因をそこに求めたばかりである。
「さゝやかな事件」以外にこの人を知らなかつた私はこの作品によつて世評を欺かない作者のいい素質を見たと思つてゐる。
中谷がやることになつてゐたこの批評を、中谷が小説をかいたため書けなかつたといふので、編輯の淺沼から此方へ廻された。やりなれないことでもあり、同人の清水が京都から上京して來たり、氣を散らして、たうとう締切に迫られ充分なものが書けなかつた。作家諸氏や編輯者にお詫びをしなければならない。
最後に、新潮が新人號を出して同人雜誌の作家に書かせたことは時宜を得たいゝ企てゞあると思ふ。
それは文壇にとつても同人雜誌作家にとつてもよき刺戟となつたに違ひない。若しまた新人號がヂヤナリズムとして成功してゐたならば、それは新潮社にとつても同人雜誌作家にとつても賀すべきことであつた。更によき次回の新人號のためにその成功であつたことを願ふ。
(大正十五年十一月)
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その犬は私のブーツを食いちぎった。
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やがて、彼女のぐつたりしたからだが砂の上に運ばれました。
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一
元治元年十一月二十六日、京都守護の任に当つてゐた、加州家の同勢は、折からの長州征伐に加はる為、国家老の長大隅守を大将にして、大阪の安治川口から、船を出した。
小頭は、佃久太夫、山岸三十郎の二人で、佃組の船には白幟、山岸組の船には赤幟が立つてゐる。五百石積の金毘羅船が、皆それぞれ、紅白の幟を風にひるがへして、川口を海へのり出した時の景色は、如何にも勇ましいものだつたさうである。
しかし、その船へ乗組んでゐる連中は、中々勇ましがつてゐる所の騒ぎではない。第一どの船にも、一艘に、主従三十四人、船頭四人、併せて三十八人づつ乗組んでゐる。だから、船の中は、皆、身動きも碌に出来ない程狭い。それから又、胴の間には、沢庵漬を鰌桶へつめたのが、足のふみ所もない位、ならべてある。慣れない内は、その臭気を嗅ぐと、誰でもすぐに、吐き気を催した。最後に旧暦の十一月下旬だから、海上を吹いて来る風が、まるで身を切るやうに冷い。殊に日が暮れてからは、摩耶颪なり水の上なり、流石に北国生れの若侍も、多くは歯の根が合はないと云ふ始末であつた。
その上、船の中には、虱が沢山ゐた。それも、着物の縫目にかくれてゐるなどと云ふ、生やさしい虱ではない。帆にもたかつてゐる。幟にもたかつてゐる。檣にもたかつてゐる。錨にもたかつてゐる。少し誇張して云へば、人間を乗せる為の船だか、虱を乗せる為の船だか、判然しない位である。勿論その位だから、着物には、何十匹となくたかつてゐる。さうして、それが人肌にさへさはれば、すぐに、いい気になつて、ちくちくやる。それも、五匹や十匹なら、どうにでも、せいとうのしやうがあるが、前にも云つた通り、白胡麻をふり撒いたやうに、沢山ゐるのだから、とても、とりつくすなどと云ふ事が出来る筈のものではない。だから、佃組と山岸組とを問はず、船中にゐる侍と云ふ侍の体は、悉く虱に食はれた痕で、まるで麻疹にでも罹つたやうに、胸と云はず腹と云はず、一面に赤く腫れ上がつてゐた。
しかし、いくら手のつけやうがないと云つても、そのまま打遣つて置くわけには、猶行かない。そこで、船中の連中は、暇さへあれば、虱狩をやつた。上は家老から下は草履取まで、悉く裸になつて、随所にゐる虱をてんでに茶呑茶碗の中へ、取つては入れ、取つては入れするのである。大きな帆に内海の冬の日をうけた金毘羅船の中で、三十何人かの侍が、湯もじ一つに茶呑茶碗を持つて、帆綱の下、錨の陰と、一生懸命に虱ばかり、さがして歩いた時の事を想像すると、今日では誰しも滑稽だと云ふ感じが先に立つが、「必要」の前に、一切の事が真面目になるのは、維新以前と雖も、今と別に変りはない。――そこで、一船の裸侍は、それ自身が大きな虱のやうに、寒いのを我慢して、毎日根気よく、そこここと歩きながら、丹念に板の間の虱ばかりつぶしてゐた。
二
所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森権之進と云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持の御徒士である。この男だけは不思議に、虱をとらない。とらないから、勿論、何処と云はず、たかつてゐる。髷ぶしへのぼつてゐる奴があるかと思ふと、袴腰のふちを渡つてゐる奴がある。それでも別段、気にかける容子がない。
ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはり外の連中のやうに、体中金銭斑々とでも形容したらよからうと思ふ程、所まだらに赤くなつてゐる。その上、当人がそれを掻いてゐる所を見ると、痒くない訳でもないらしい。が、痒くつても何でも、一向平気で、すましてゐる。
すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、必わきからこんな事を云ふ。――
「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」
「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、呆れた顔をして、かう尋ねた。
「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」
森は、恬然として答へるのである。
「では殺さずにとつて進ぜよう。」
同役は、冗談だと思つたから、二三人の仲間と一しよに半日がかりで、虱を生きたまま、茶呑茶碗へ二三杯とりためた。この男の腹では、かうして置いて「さあ飼へ」と云つたら、いくら依怙地な森でも、閉口するだらうと思つたからである。
すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。
「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」
同役の連中は、皆、驚いた。
「ではここへ入れてくれさつしやい。」
森は平然として、着物の襟をくつろげた。
「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」
同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗を倒にして、米屋が一合枡で米をはかるやうに、ぞろぞろ虱をその襟元へあけてやると、森は、大事さうに外へこぼれた奴を拾ひながら、
「有難い。これで今夜から暖に眠られるて。」といふ独語を云ひながら、にやにや笑つてゐる。
「虱がゐると、暖うこざるかな。」
呆気にとられてゐた同役は、皆互に顔を見合せながら、誰に尋ねるともなく、かう云つた。すると、森は、虱を入れた後の襟を、丁寧に直しながら、一応、皆の顔を莫迦にしたやうに見まはして、それからこんな事を云ひ出した。
「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。嚔もせぬ。洟もたらさぬ。まして、熱が出たの、手足が冷えるのと云うた覚は、嘗てあるまい。各々はこれを、誰のおかげぢやと思はつしやる。――みんな、この虱のおかげぢや。」
何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。……
「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。
三
それから、その船の中では、森の真似をして、虱を飼ふ連中が出来て来た。この連中も、暇さへあれば、茶呑茶碗を持つて虱を追ひかけてゐる事は、外の仲間と別に変りがない。唯、ちがふのは、その取つた虱を、一々刻銘に懐に入れて、大事に飼つて置く事だけである。
しかし、何処の国、何時の世でも、Précurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にの説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論に反対する、Pharisien が大勢ゐた。
中でも筆頭第一の Pharisien は井上典蔵と云ふ御徒士である。これも亦妙な男で、虱をとると必ず皆食つてしまふ。夕がた飯をすませると、茶呑茶碗を前に置いて、うまさうに何かぷつりぷつり噛んでんでゐるから、側へよつて茶碗の中を覗いて見ると、それが皆、とりためた虱である。「どんな味でござる?」と訊くと、「左様さ。油臭い、焼米のやうな味でござらう」と云ふ。虱を口でつぶす者は、何処にでもゐるが、この男はさうではない。全く点心を食ふ気で、毎日虱を食つてゐる。――これが先、第一に森に反対した。
井上のやうに、虱を食ふ人間は、外に一人もゐないが、井上の反対説に加担をする者は可成ゐる。この連中の云ひ分によると、虱がゐたからと云つて、人間の体は決して温まるものではない。それのみならず、孝経にも、身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なりとある。自、好んでその身体を、虱如きに食はせるのは、不孝も亦甚しい。だから、どうしても虱狩るべし。飼ふべからずと云ふのである。……
かう云ふ行きがかりで、森の仲間と井上の仲間との間には、時折口論が持上がる。それも、唯、口論位ですんでゐた内は、差支へない。が、とうとう、しまひには、それが素で、思ひもよらない刃傷沙汰さへ、始まるやうな事になつた。
それと云ふのは、或日、森が、又大事に飼はうと思つて、人から貰つた虱を茶碗へ入れてとつて置くと、油断を見すまして井上が、何時の間にかそれを食つてしまつた。森が来て見ると、もう一匹もない。そこで、この Précurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にが腹を立てた。
「何故、人の虱を食はしつた。」
張肘をしながら、眼の色を変へて、かうつめよると、井上は、
「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけぢやての。」と、空嘯いて、まるで取合ふけしきがない。
「食ふ方がたはけぢや。」
森は、躍起となつて、板の間をたたきながら、
「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござるか。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前ぢや。」
「身共は、虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」
「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄に生類の命を断つなどとは、言語道断でござらう。」
二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻の柄に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘の長物をひきよせて、立上る。――裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。
この騒ぎを実見した人の話によると、二人は、一同に抱きすくめられながら、それでもまだ口角に泡を飛ばせて、「虱。虱。」と叫んでゐたさうである。
四
かう云ふ具合に、船中の侍たちが、虱の為に刃傷沙汰を引起してゐる間でも、五百石積の金毘羅船だけは、まるでそんな事には頓着しないやうに、紅白の幟を寒風にひるがへしながら、遙々として長州征伐の途に上るべく、雪もよひの空の下を、西へ西へと走つて行つた。
(大正五年三月)
| 0.425
|
Medium
| 0.617
| 0.215
| 0.144
| 0.554
| 4,167
|
芙美子さん
大空を飛んで行く鳥に足跡などはありません。淋しい姿かも知れないが、私はその一羽の小鳥を訳もなく讃美する。
同じ大空を翔けつて行くやつでも、人間の造つた飛行機は臭い煙を尻尾の様に引いて行く。技巧はどうしても臭気を免れません。
大きくても、小さくても、賑やかでも、淋しくても、自然を行く姿には真実の美がある。魂のビブラシヨンが其儘現はれる。それが人を引きつけます。それが人の心をそそります。
それです。私は芙美子さんの詩にそれを見出して感激してゐるのです。文芸といふものに縁の遠い私は、詩といふものを余り読んだことがありません。その私が、何時でも、貴女の書かれたものに接する度に、貪る様に読みふけるのです。
私は文芸としての貴女の詩を批評する資格はありません。また其様な大それた考を持ち合せて居りません。けれども愛読者の一人として私の感激を書かして頂くのです。
芙美子さん、
貴女はまだ若いのに隨分深刻な様々な苦労をなされた。けれども貴女の魂は、荒海に転げ落ちても、砂漠に踏み迷つても、何時でも、お母さんから頂いた健やかな姿に蘇へつて来た。長い放浪生活をして来た私は血のにじんでゐる貴女の魂の歴史がしみじみと読める心地が致します。
貴女の詩には、血の涙が滴つてゐる。反抗の火が燃えてゐる。結氷を割つた様な鋭い冷笑が響いてゐる。然もそれが、虚無に啼く小鳥の声の様に、やるせない哀調をさへ帯びてゐる。
芙美子さん
私は貴女の詩に於て、ミユツセの描いた巴里の可愛ひ娘子を思ひ出す。そのフランシな心持、わだかまりの無い気分! 私は貴女の詩をあのカルチエ・ラタンの小さなカフエーの詩人達の集りに読み聞かせてやりたい。
だがね芙美子さん、貴女の唄ふべき世界はまだ無限に広い。その世界に触れる貴女の魂のビブラシヨンは是れから無限の深さと、無限の綾をなして発展しなければなりません。これからです。どうか世間の事なぞ顧みないで、貴女自身の魂を育ぐむことに精進して下さい。それは、どんな偉い人でも、貴女以外の誰にも代ることの出来ない貴女一人の神聖な使命です。
昭和四年三月十六日夜
石川三四郎
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一
私と、辻との間に「別居」という話が持ち出されたのは、この頃の事ではないのです。ちょうど、一年あまりになります。
私の今までの五年間の家庭生活というものは、私自身にとっては非常に無理なものでございました。それは私達二人きりで作った家庭でなかったということをいえば、本当に世間並な、因習と情実をもった「家」だということを、解って頂けることと存じます。たとえ家族の人達は、どれほど寛大でありましょうとも、どこまでも因習の上に建てられた家族制度というものを越えない範囲での寛大は、私には――他の多くの類した家の人たちに比べて見ますときには、その事に向っては常に感謝してましたが――やはり忍従を強いました。で私は、いつでも家庭における自分というものについては、充分な不自由も不満も感じながら、自分だけの気持を忍ぶということのために他の人々の感情の上に何のすさびも見なくてすむということを考えては、不快な時間になるべく出遇わないようにしたいという私の心弱さから、いつでも黙って忍びました。そして、私の家庭はかなり平和な日を送ることができました。そうして、また、そういう安易な日が続くことは自分にも慣れてきて、たいていはその平和に油断をしていました。けれども些細なことでも、ちょっと隙き間がありますと、種々な不平が一時に頭をもたげ出しました。けれども私は、いつでもそういう場合にはすぐに避難をする処をもっておりました。それは、辻に対する愛でした。私はいつでもそこに逃げ込みました。そうして、私のその避難所が世間並みの安易な「あきらめ」などのような弱いものでなく、充分に信をおく事のできるしっかりしたものであることを誇りにしていました。
しかしちょうど一年あまり前に、私のいちばん大事なその信は、無造作に奪われてしまいました。いくら躍起になっても一度失くなったものは再びけっして帰ってはきませんでした。そしてその事は、私にとってはたいへんな打撃でした。けれども私は、その打撃によって自分をどう処置するかということを考えなければなりませんでした。そうして、私は非常な苦痛を忍んだ後に、出来るだけ完全な自分の道を歩こうという決心を得ました。そしてその時初めて、五年間どのような事があっても唯の一度も口にしたことのない「別居」を申し出ました。しかし、この要求はいろいろな情実の下に遂げられませんでした。そうして、その情実を無理に退けて進むには、私はあまりに多くの未練と愛着を過去の生活に持ち過ぎました。二人が相愛の生活を遂げるために払った価が、まだ余程高価なものに思われました。そうしたことを考え始めますと、押し切って自分の決心を断行するという勇気はどうしても出てきませんでした。
けれども、その時から私の深い苦悶が始まりました。かつて、私達が軽蔑した状態に自分達がならねばならないということは何という情ないことでしょう。自分をも他人をも欺むくことの出来ない二人が、お互いに、自分達二人を結びつけるものに絶望しながら、それを自覚しながら、過去に対する未練や、現在の生活にからみついた情実や、単純な肉体に対する執着等によって、なお今まで通りの関係を続けようとする、その醜い感情を脱する事の出来ない自分を嘲りながら、それに引きずられて、どうすることも出来ないというのが情ない事でなくて何でしょう。
さらにもう一つの事は子供の事でした。両親の傍で成長し得ない子供の不幸は、私自身がすでによく知りぬいている事でした。自分の親しく通ってきた苦痛不幸の道を再び子供に歩かせるということは、どんなに大きな苦痛であるかわかりません。たとえ不断、自分自身について深く考えたときに、私のその不幸が決して本当の不幸でなく、そしてまた苦しんだことが無駄でないということ、そういう境遇によって、いくらか自分の歩く道にも相違が出来たこと、その他いろいろな事を考えて、かえってその方が私には幸福だったと思うことは出来ますが、そして子供の上にも同じ考えは持ちたいと思いますが、しかし母親としての本能的な愛の前には、その理屈は決して無条件では通りませんでした。私は子供のために、すべてを忍ぼうとしました。――当然母親の考えなければならない、そして誰でもがぶつかって決心するように、私も自然にそこにゆきつきました。私は子供に対する愛が今度は大事な私の拠り処となったのです。そしてその事をもう決して前のように軽蔑しなくなりました。私は一生懸命に子供の中に自分を見出だそうとしました。けれどもこれにも、私はすぐに絶望しなければなりませんでした。子供を完全に育てるというだけの自信を持つには、私はあまりに貧弱な自分に愛想をつかしましたから。それから、それに私のすべてを打ち込むには、子供と私の間にたくさんの異った分子がはいっていました。そしてそれを除くということはどうしても子供と二人っきりにならねばなりませんでした。そうするのは、多くの人を傷けるような事になってくるのがハッキリ私には見えました。その結果を恐れずにやるだけの決心はつきかねました。
子供のことを考えていますと、終わりにはどうしても自分の事になってきました。そうしてそこまで考えてゆきますと、今度は自身だけの事がいちばん大きな問題になってきました。見すぼらしい自分に対するいろいろな苦痛が湧き上ってきました。そしてそれに伴ってくるものは絶望ではなくていつでも焦慮でした。
二
「どうにかしなければならない」という欲求はしばらくの間も私を離れたことはありませんが、そういう場合にはことに強く来ました。けれどもこういう欲求をいつまでも同じ強い調子で持ちすぎていました。そして、そのために欲求はますます強くなってゆくのと同じに、私の焦れ方も強くなってきました。
けれどもなかなか明瞭にそのことが意識の表面には浮かび出ませんでした。私の心はすべての事に向っておちつきを失い、かき乱された生活をどう整えるかという事に当惑しきっていました。そうしてそういう状態が長く続きました。それがとうとう惰性を持つようになりました。何かのキッカケを待たなくては、この変調を整えることが出来ないようになりました。そうして私はとうとうそれを握りました。しかしそれは形としては小さなものでした。この大きな変調を整えるには、まだそれにいろいろなものが加わらなければなりませんでした。そうして私がその小さな点をだんだんに追求し始めましたときに、さらに大きなものが来ました。それが大杉さんとの接触でした。
けれども、それはすぐ、その変調を直すにはあまりに大きな事件になりました。そしてなおいっそう大きな複雑な変調に導きました。それで私はすっかりあわててしまいました。私はその困惑の中にかなり長いこと苦しみました。それは、私の本当に行こうと欲している処と、対世間的の虚栄心との長い争いがそんなに私を苦しめたのです。
最初に、二人の感情が不意にぶっつかったときには、私は、非常に自分の態度に不快を感じました。そうして、私はそれを冗談として取り消してしまおうと思いました。けれども、私は現在の自分を振り返って見ましたとき、それを単純に取り消してしまうつもりになってすましてはいられませんでした。辻に対する私の持っているというその愛にその時始めて疑いを持ちました。私は自分の気持が自分ながらたしかに解らないので二三日苦しみました。それは今まで私が大杉さんに持っていた親しみは、単純なフレンドシップ以外の何物でもないと思っていましたのに、急にそれが恋愛に進んだということが、非常に不自然に感じられましたから。もっともそれには、二人の態度にはお互いに曖昧な、ふざけた調子を多分に持っていましたので、私はすぐに大変自分の態度について自分を責めなければなりませんでした。そうして、私は、ちょうど私の気持が安定を失して、どこかに落ちつき場所を見出そうとして無意識に待ちかまえていた、その機会を見出したのだと思いました。そして、どこまでも大杉さんとの間を、フレンドシップで通そうと思いました。
辻とは、すぐに別れる決心がその場で出来たのです。で、私はすべてのそれに対する気持を辻に話そうと思いました。それには話をして、なおいろいろな詰問を受けるようなことを残しておきたくないという例の私の負け惜しみから、まず大杉さんと自分とのことに釘をさしておいてからにしようと思いました。それで、私はすぐに、大杉さんに会いにゆこうと思いました。そしてそうきめた翌日出かけました。私はそのとき、自分のその事については非常に軽い気持ちで会うつもりでした。ところが私は、神近さんにそこで出会いました。そうして、三人で話を始めましたときに、私が考えていたよりは、たいへんに重大な事件だということを感じ始めました。それをその時まで、私は大杉さんと私、ということよりも、辻と私ということにばかり考えを向けていて、大杉さんについてはそれほど深く考えようとしなかったのです。ところが、これは神近さんにとってたいへんな問題であるのは無理のない話です。そうして私は、今度は当然そのことについて考えなければなりませんでした。私はその日、この問題はしばらく持ち越すつもりだということをいい残して別れました。
その時の私のつもりでは、一刻も早く辻との別居を実行して、それから大杉さんに対しての自分の態度をきめたいと思ったのでした。しかし、この気持はすぐに破れました。それは第一に、多くの人達によって意識的に、あるいは無意識的に待ちかまえられている私の別居が実現されたときに、当然になされるはずのいろいろなせんさくから、大杉さんの事が必ず問題になるだろうということを考えないではいられませんでした。私の大杉さんに対する気持が、まだはっきりしないうちに、世間の人達によってつまらないことをいわれるということは、私にはとても耐えられないことでした。それで、私はその気持がきまらないうちは、別居ということは実行が出来ないだろうと思いました。けれどもまた私は、そういう気持を抱きながら毎日顔をつき合わしているということにも、苦痛を感ぜずにはいられませんでした。私はその二つの苦痛から同時に逃れようとしました。しかしそれにはあまりいろいろな情実が隙間なくからみついていました。それ等のすべてを同時に断ち切るというようなことをして後悔をするようなことは、なるべくしまいとして、出来るだけきれいに処置をつけてゆきたいということが、また私の自身に対する望みでした。自分にも、ボンヤリしたような、曖昧なことは決してないようにしたい、無理をしまいと思いました。けれども私のこの自身の本来のねがいが、私の中にいつの間にかはいっていた多分な世間というものに対する、功利的な見得のために妨げられがちでした。この二つのものの争いは、最後まで続きました。それを一々書くことはたいへんですからここで端折ります。この間ちょっとお話ししましたように、それをことごとくを発表する機会を待っていますから。
三
私がその苦痛に耐え得なくなってから、その中から抜けようと決心しましたときには、私の気持がだんだん大杉さんに傾いてくるほど、私の世間に対する虚栄心が大きくなってくる事に気がつきました。しかし私は、その虚栄心を見すかされるということが、またたまらなく厭なことでした。私はそこで大変ずるいことを考えました。といって、その時は自分でそれがずるい考えだと意識した訳ではけっしてないのですが、今考えてみますとやはりずるいのです。
辻や、それから家庭の人たちに、たとえ大杉さんと私の接触が直接の動機であるにしても、そのために私が無慈悲な家庭破壊をするものとは思われたくなかったのです。実際またそれは、私にとっては非常に迷惑なことに違いないのです。なぜなら、私と辻との結合にもし何のすきもなかったら、必ず私はそのような誘惑を感ぜずにすんだのでしょう。しかし、私が真直ぐにそのような行為をしようものなら、そこまで深く考えてくれるような人は多分幾人もないだろうということを、私は知りすぎていました。そして私が、大杉さんに対して持つものが本当に単純なフレンドシップでしたら、私はそれほどその事を気にしないでいられたのかもしれません。
けれども少し注意して自分の気持を追いつめてゆきますと、ぶっつかった事実を、ただ冗談にしてしまうことは出来ないのでした。そのために、もし正直に私のその気持を進めてゆけば、恋愛のために今までの生活をただ何の反省もなく打破したものだと見られなければなりませんでした。そしてそれは、私には大変いやなことでした。なぜなら私はそれに向って、新しい恋愛のために、今までの生活をこわすことが、どうしていけない事だと反省し得るほど、その恋愛に向って熱情も自信も持ちませんでしたから。そうして、それどころか、私はその恋愛を拒絶するということの努力をしていましたから。それにまだ、もう一つ、今まで一年間そのために苦しんだということが、まるで無視されて、ただ私一人のわがまま勝手から、そのような無情な真似をすると思われるのは、私にとってはどう考えても残念でたまりませんでした。それで私は、たとえどうなろうとも、辻との別居を実行するには、どうしても大杉さんの私に持つ愛も拒み、私が大杉さんに対して持つ愛をも捨てなければなりませんでした。これは、私にとって非常につらい事でした。けれども私は、ひとりになって長い間私の望んでいた知的欲求の満足にすがれば、きっと私はまた自分だけの道をひらき得ると思いました。そうしてそれが最も私の歩くに自然な道だと思いました。私は種々な方面からその自分の決心に念を押して後、いよいよそうすることに決めました。そうして私は、その私の決心を話すつもりで大杉さんに会いました。
第一に会いましたときには、私はその決心はどうしても通るものとして、通さねばならぬものとして、それ以上の用意をせずに行きました。しかし前にも申しましたように、この、私の大杉さんに対する態度は私の本来のものでない、非常に種々なものによって、いじめられて出来た態度でしたので、大杉さんに会うと同時にその決心はすっかりくずれてしまいました。それでも、私のまだいろいろな功利的な不純な心の働きが力を失うまでには間がありました。今度は、私は、自分の持っている愛を否定しようとはしませんでしたけれども、保子さんと神近さんがある間は進むことが出来ない、ということをいい出しました。
私がそういい出した本当の心持は、やはりそれについて世間から受けるべきはずの非難が恐ろしかったのです。ですから大杉さんに、「その理由がない」と断られたとき、私は「そんなら、私たちはもうこれっきりです」ときれいにいい切ってしまいましたが、お互いに思いきって口でいったほど強くはなれませんでした。で私は、ぶつかる処まで行って見る気になりましたのです。その時の私の気持は、私がもう少し力強く進んで行けば、その力で二人の人を退け得るという自惚が充分にありました。そうしてそう自分で決心がつきますと、非常に自由な気持になりました。今まで大変な苦しみの中におさえていた情熱が、ようやく頭をもたげてまいりました。私の苦悶はそれで終わりました。私はその夜かえるとすぐに私の決心を辻に話しました。そうして辻の同意を得て、その翌日家を出てしまいました。
四
それまでのいろいろな事に対する苦悶が多かっただけ、私は家を出たその日からすべての事に何の未練も残さずにすみました。永い間私を苦しめた功利的な醜い心遣いもなくなりました。私は今、何の後悔も持たないでいられることを非常に心持よく思います。
大杉さんとの愛の生活が始まりました日から、私の前に収まっていた心持がだんだん変わってくるのが、はっきり分りました。前にいいましたような傲慢な心持で、保子さんなり、神近さんなりのことを考えていました私は、二人の方のことを少しも頭におかずに、大杉さんと対っている事に平気でした。そうして、私がその自分の気持に不審の眼を向けましたときに、またさらに違った気持を見出しました。「独占」という事は私にはもう何の魅力も持たないようになりました。吸収するだけのものを吸収し、与えるものを与えて、それでお互いの生活を豊富にすることが、すべてだと思いましたときに、私は始めて私達の関係がはっきりしました。
たとえ大杉さんに幾人の愛人が同時にあろうとも、私は私だけの物を与えて、ほしいものだけのものをとり得て、それで自分の生活が拡がってゆければ、私には満足して自分の行くべき道にいそしんでいられるのだと思います。(一九一六年九月)
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或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも山脈の皮膚に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふと或小事件を思ひ出した。――
もう四五年以前になつた、やはり或冬曇りの午後、わたしは或友だちのアトリエに、――見すぼらしい鋳もののストオヴの前に彼やそのモデルと話してゐた。アトリエには彼自身の油画の外に何も装飾になるものはなかつた。巻煙草を啣へた断髪のモデルも、――彼女は成程混血児じみた一種の美しさを具へてゐた。しかしどう言ふ量見か、天然自然に生えた睫毛を一本残らず抜きとつてゐた。……
話はいつかその頃の寒気の厳しさに移つてゐた。彼は如何に庭の土の季節を感ずるかと言ふことを話した。就中如何に庭の土の冬を感ずるかと言ふことを話した。
「つまり土も生きてゐると言ふ感じだね。」
彼はパイプに煙草をつめつめ、我々の顔を眺めまはした。わたしは何とも返事をしずに匀のない珈琲を啜つてゐた。けれどもそれは断髪のモデルに何か感銘を与へたらしかつた。彼女は赤い眶を擡げ、彼女の吐いた煙の輪にぢつと目を注いでゐた。それからやはり空中を見たまま、誰にともなしにこんなことを言つた。――
「それは肌も同じだわね。あたしもこの商売を始めてから、すつかり肌を荒してしまつたもの。……」
或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも人間の鮫肌に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふとあのモデルを思ひ出した、あの一本も睫毛のない、混血児じみた日本の娘さんを。
(大正十四年四月)
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新年の東京を見わたして、著るしく寂しいように感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことはないが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらいの程度で、明治時代の十分の一、ないし二十分の一にも過ぎない。
江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で視た明治の東京――その新年の賑いを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ヶ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでいない限りは、郵便で回礼の義理を済ませるということはなかった。まして市内に住んでいる人々に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田美土代町から数寄屋橋までの二線に過ぎず、市内の全線が今日のように完備したのは大正の初年である。
それであるから、人力車に乗れば格別、さもなければ徒歩のほかはない。正月は車代が高いのみならず、全市の車台の数も限られているのであるから、大抵の者は車に乗ることは出来ない。男も女も、老いたるも若きも、殆どみな徒歩である。今日ほどに人口が多くなかったにもせよ、東京に住むほどの者は一戸に少くも一人、多くは四人も五人も一度に出動するのであるから、往来の混雑は想像されるであろう。平生は人通りの少い屋敷町のようなところでも、春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろぞろと通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪まなくなった。それがまた、明治三十七、八年の日露戦争以来いよいよ激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、他の郵便事務は殆ど抛擲されてしまうような始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
その以来、年賀郵便は年々に増加する。それに比例して回礼者は年々に減少した。それでも明治の末年までは昔の名残りをとどめて、新年の巷に回礼者のすがたを相当に見受けたのであるが、大正以後はめっきり廃れて、年末の郵便局には年賀郵便の山を築くことになった。
電車が初めて開通した当時は、新年の各電車ことごとく満員で、女や子供は容易に乗れない位であったが、近年は元日二日の電車でも満員は少い。回礼の著るしく減少したことは、各劇場が元日から開場しているのを見ても知られる。前にいったようなわけで、男は回礼に出る、女はその回礼客に応接するので、内外多忙、とても元日早々から芝居見物にゆくような余裕はないので、大劇場はみな七草以後から開場するのが明治時代の習いであった。それが近年は元日開場の各劇場満員、新年の市中寂寥たるも無理はないのである。
忙がしい世の人に多大の便利をあたえるのは、年賀郵便である。それと同時に、人生に一種の寂寥を感ぜしむるのも、年賀郵便であろう。
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細々した日々の感想を洩れなく書きつけて見たらばと思ふが、まだなか〳〵さうは行かないものである。
最近の私の感じた事と云へば、「エゴ」の中の「家出の前後」と題する千家元麿氏の脚本である。私は前からあのグループの人達の書くものには可なりな興味をもつて注意してゐた。そして彼の人たちに対する他の人たちの態度をぢつと見てゐた。併し何時迄たつても一人として彼の人たちに目を向けやうとする人はなかつた。今も矢張りない。そして私も黙つてゐた。私はけれどこの上黙つてゐやうとは思はない、私は世間に沢山ころがつてゐる具眼者とか批評家が何の為めに、存在するか分らなくなつてしまつた。私は寧ろ腹立たしい。併しそれ等の批評家が芸術的気分がどうだとか或は技巧だとか云つてゐるのを聞くと情なくなる。何がわかるものかと思ふ。私はそれらの技巧や気分など云ふものが真実とか力強い情熱の前に如何に小さく価値のないものに見えるかと云ふことを一層この脚本に依つてたしかめ得た。
私はその内容だとかそれから人物だとか云ふそんな批評は此処に試みたくはない。それよりも私は先づそれを読んで下さい、と皆にたのみたい。恐らくは、そんな雑誌の存在をさへ知らない人が多いだらうと思ふ。是非よんで頂きたい、屹度々々それを読んだ人たちはあの物ぐるほしい程に充実しきつた真実、力強い熱と呼吸の渦巻の中に巻き込まれないではゐないだらう。
○
九月号には婦人参政権運動について何か一寸かいて見たいと思つてゐる。それについてこの間「婦人評論」に掲げられた黒岩氏の「英国選挙婦人に同情す」と云ふ論文を読んで見た。一応の理屈は私たちも同感である。併しまだ〳〵黒岩氏は本当に衷心から婦人に理解や同情を持つてゐられるとは私にはどうしても信じられない。あの論文をとほしてさへ陋劣な態度がすかし眺められる。黒岩氏の婦人に対する態度はまだ本当のものではない。まだ腰のすはり処がちがつてゐる。私は今此処に生憎その雑誌がないので具体的な例を挙げて云ふことは一寸出来ないが黒岩氏はまだ頑として男尊女卑の信条にかぢりついてゐられるのがはつきりわかつてゐる。もしあの問題が外国といふ対岸の出来ごとでなく自国のことゝなつたら恐らく黒岩氏は私刑を絶叫されるであらうと思はれる。局外者だから根拠は単純でも貧弱でも兎に角婦人側に同情が出来たのだ。若しその渦中に投じたら屹度あの根本にひそんでゐるものが頭を出すにきまつてゐる。若しも同氏が腹のどん底から婦人側に対して充分な尊敬と同情とを寄せ得らるゝならば何故また私たち日本婦人としての一番手近かな痛切な問題に対して考へてゐる者に向つて理解を有せられないのだらう。私たちはまだそれを他人にまで強ひてやしない。たゞ自分の問題として考へつゝあるのだ。何等運動の形に於ても現はれてはゐない。それに対してさへも世間一般の有象無象の何の根拠もない「うわさばなし」に乗せられて妙な見当ちがいなことばかり云つてゐる人たちに何で本当の理解が出来やう。それは丁度意地の悪い姑が他家の姑の嫁いびりの話を聞いて其嫁に同情するものと何の違ひもない。私たちには寧ろ滑稽にしか見えない。英国婦人連はそんな人達に同情されるのを本当によろこぶかどうか。猶なほ同氏のその論文についてはもつと具体的に書いて見たいと思つてゐる。
[『青鞜』第四巻第八号、一九一四年八月号]
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自分のことを云つた序に、もう一つ云ひます。
市村座で、拙作「長閑なる反目」が、新派の所謂「若手」によつて上演された。
これが動機で、私は、それらの俳優諸君と話を交へ、なほ、有名な「金色夜叉」の舞台を初めて観た。そして、いろいろなことを考へた。
考へたことをみんな云ふ必要はないが、私の第一に云ひたいことは、新派劇の命脈は将に尽きんとしてゐるに反し、新派俳優の前途は却つて洋々たるものありといふことである。
かういふ議論は、恐らくもう誰かによつて唱へられてゐるかもしれないが、私には私一個の見方がある。
そこで、私の註文は、速かに新派劇といふ名称を廃することである。それは、女優劇といふ名称を廃するよりも容易な筈だ。何となれば、所謂新派劇と絶縁することによつて、現在の新派俳優は、立派に旧劇と対抗する現代劇の職業俳優たり得る地位にあるからである。
勿論、彼等は、ブウルヴァアル俳優たるに甘んじなければなるまい。然し、それは彼等の恥辱ではない。寧ろ、現代の観衆は、現代的なブウルヴァアル俳優を求めてゐる。彼等はジャック・コポオを求めてはゐない。ピエエル・マニエを求めてゐるのである。アンドレ・ブリュレを求めてゐるのである。イヴォンヌ・プランタンを求めてゐるのである。
さて、私がなぜこんなことを云ひ出したかといへば、私が、所謂新派劇の舞台なるものを観て、「なるほど、これが新派だな」と思つた部分は、俳優の「心がけ」一つで、どうにでも変へられるものらしく思はれたからである。そして、所謂新派俳優の強味は、「新派臭からざる部分」に於て、意外にも私の眼を惹いたからである。(一九二九・三)
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これは、大工、大勝のおかみさんから聞いた話である。
牛込築土前の、此の大勝棟梁のうちへ出入りをする、一寸使へる、岩次と云つて、女房持、小児の二人あるのが居た。飲む、買ふ、摶つ、道楽は少もないが、たゞ性来の釣好きであつた。
またそれだけに釣がうまい。素人にはむづかしいといふ、鰻釣の糸捌きは中でも得意で、一晩出掛けると、湿地で蚯蚓を穿るほど一かゞりにあげて来る。
「棟梁、二百目が三ぼんだ。」
大勝の台所口へのらりと投込むなぞは珍しくなかつた。
が、女房は、まだ若いのに、後生願ひで、おそろしく岩さんの殺生を気にして居た。
霜月の末頃である。一晩、陽気違ひの生暖い風が吹いて、むつと雲が蒸して、火鉢の傍だと半纏は脱ぎたいまでに、悪汗が浸むやうな、其暮方だつた。岩さんが仕事場から――行願寺内にあつた、――路次うらの長屋へ帰つて来ると、何か、ものにそゝられたやうに、頻に気の急く様子で、いつもの銭湯にも行かず、ざく〴〵と茶漬で済まして、一寸友だちの許へ、と云つて家を出た。
留守には風が吹募る。戸障子ががた〳〵鳴る。引窓がばた〳〵と暗い口を開く。空模様は、その癖、星が晃々して、澄切つて居ながら、風は尋常ならず乱れて、時々むく〳〵と古綿を積んだ灰色の雲が湧上がる。とぽつりと降る。降るかと思ふと、颯と又暴びた風で吹払ふ。
次第に夜が更けるに従つて、何時か真暗に凄くなつた。
女房は、幾度も戸口へ立つた。路地を、行願寺の門の外までも出て、通の前後を瞰した。人通りも、もうなくなる。……釣には行つても、めつたにあけた事のない男だから、余計に気に懸けて帰りを待つのに。――小児たちが、また悪く暖いので寝苦しいか、変に二人とも寝そびれて、踏脱ぐ、泣き出す、着せかける、賺す。で、女房は一夜まんじりともせず、烏の声を聞いたさうである。
然まで案ずる事はあるまい。交際のありがちな稼業の事、途中で友だちに誘はれて、新宿あたりへぐれたのだ、と然う思へば済むのであるから。
言ふまでもなく、宵のうちは、いつもの釣りだと察して居た。内から棹なんぞ……鈎も糸も忍ばしては出なかつたが――それは女房が頻に殺生を留める処から、つい面倒さに、近所の車屋、床屋などに預けて置いて、そこから内證で支度して、道具を持つて出掛ける事も、女房が薄々知つて居たのである。
処が、一夜あけて、昼に成つても帰らない。不断そんなしだらでない岩さんだけに、女房は人一倍心配し出した。
さあ、気に成ると心配は胸へ滝の落ちるやうで、――帯引占めて夫の……といふ急き心で、昨夜待ち明した寝みだれ髪を、黄楊の鬢櫛で掻き上げながら、その大勝のうちはもとより、慌だしく、方々心当りを探し廻つた。が、何処にも居ないし、誰も知らぬ。
やがて日の暮るまで尋ねあぐんで、――夜あかしの茶飯あんかけの出る時刻――神楽坂下、あの牛込見附で、顔馴染だつた茶飯屋に聞くと、其処で……覚束ないながら一寸心当りが着いたのである。
「岩さんは、……然うですね、――昨夜十二時頃でもございましたらうか、一人で来なすつて――とう〳〵降り出しやがつた。こいつは大降りに成らなけりやいゝがッて、空を見ながら、おかはりをなすつたけ。ポツリ〳〵降つたばかり。すぐに降りやんだものですから、可塩梅だ、と然う云つてね、また、お前さん、すた〳〵駆出して行きなすつたよ。……へい、えゝ、お一人。――他にや其の時お友達は誰も居ずさ。――変に陰気で不気味な晩でございました。ちやうど来なすつた時、目白の九つを聞きましたが、いつもの八つごろほど寂莫して、びゆう〳〵風ばかりさ、おかみさん。」
せめても、此だけを心遣りに、女房は、小児たちに、まだ晩の御飯にもしなかつたので、阪を駆け上がるやうにして、急いで行願寺内へ帰ると、路次口に、四つになる女の児と、五つの男の児と、廂合の星の影に立つて居た。
顔を見るなり、女房が、
「父さんは帰つたかい。」
と笑顔して、いそ〳〵して、優しく云つた。――何が什うしても、「帰つた。」と言はせるやうにして聞いたのである。
不可い。……
「うゝん、帰りやしない。」
「帰らないわ。」
と女の児が拗ねでもしたやうに言つた。
男の児が袖を引いて
「父さんは帰らないけれどね、いつものね、鰻が居るんだよ。」
「えゝ、え。」
「大きな長い、お鰻よ。」
「こんなだぜ、おつかあ。」
「あれ、およし、魚尺は取るもんぢやない――何処にさ……そして?」
と云ふ、胸の滝は切れ、唾が乾いた。
「台所の手桶に居る。」
「誰が持つて来たの、――魚屋さん?……え、坊や。」
「うゝん、誰だか知らない。手桶の中に充満になつて、のたくつてるから、それだから、遁げると不可いから蓋をしたんだ。」
「あの、二人で石をのつけたの、……お石塔のやうな。」
「何だねえ、まあ、お前たちは……」
と叱る女房の声は震へた。
「行つてお見よ。」
「お見なちやいよ。」
「あゝ、見るから、見るからね、さあ一所においで。」
「私たちは、父さんを待つてるよ。」
「出て見まちよう。」
と手を引合つて、もつれるやうに、ばら〴〵寺の門へ駈けながら、卵塔場を、灯の夜の影に揃つて、かあいゝ顔で振返つて、
「おつかあ、鰻を見ても触つちや不可いよ。」
「触るとなくなりますよ。」
と云ひすてに走つて出た。
女房は暗がりの路次に足を引れ、穴へ掴込まれるやうに、頸から、肩から、ちり毛もと、ぞッと氷るばかり寒くなつた。
あかりのついた、お附合の隣の窓から、岩さんの安否を聞かうとしでもしたのであらう。格子をあけた婦があつたが、何にも女房には聞こえない。……
肩を固く、足がふるへて、その左側の家の水口へ。……
……行くと、腰障子の、すぐ中で、ばちや〳〵、ばちやり、ばちや〳〵と音がする。……
手もしびれたか、きゆつと軌む……水口を開けると、茶の間も、框も、だゝつ広く、大きな穴を四角に並べて陰気である。引窓に射す、何の影か、薄あかりに一目見ると、唇がひッつゝた。……何うして小児の手で、と疑ふばかり、大きな沢庵石が手桶の上に、づしんと乗つて、あだ黒く、一つくびれて、ぼうと浮いて、可厭なものゝ形に見えた。
くわッと逆上せて、小腕に引ずり退けると、水を刎ねて、ばちや〳〵と鳴つた。
もの音もきこえない。
蓋を向うへはづすと、水も溢れるまで、手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が一條、唯一條であつた。のろ〳〵と畝つて、尖つた頭を恁うあげて、女房の蒼白い顔を熟と視た。――と言ふのである。
◇
山東京伝が小説を書く時には、寝る事も食事をする事も忘れて熱心に書き続けたものだが、新しい小説の構造が頭に浮んでくると、真夜中にでも飛び起きて机に向つた。
そして興が深くなつて行くと、便所へ行く間も惜しいので、便器を机の傍に置いてゐたといふ事である。
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詩と劇とは元來、本質的に切り離せぬ關係にあるが、「思想」が劇に不可缺のものであるとは特に言ひきれない。我々は「思想」のない劇には飽きる程觸れて來たし、美しいとか面白いとか云ふ點で稱讃もして來た。思想劇と云ふ名稱は或る時期には「退屈」の代名詞の樣にさへ使はれてゐた。美しいのはいい。面白いのはいい。だが、美しいだけでは、面白いだけでは間に合はぬ時代になつてしまつたやうである。劇の思想性が反省されねばならぬ時であらう。
僕はこの頃では、別に斬新奇拔な戲曲を書きたいなどとは思はないが、唯、舞臺を通して眞に今日的な世界像や人間像に僕自身のイデエを託したいと云ふ切實な希ひにしきりにとらへられる。新劇は今までのやうな日常的な小世界の描寫や心理風俗の展開から大きな此の時代のドラマにまで飛躍して行かねば、やがて命數が盡きてしまふのではないか、とさへ思ふ。演劇の言葉が多愛もない娯樂の爲だとか、さゝやかな心理的共鳴の爲にのみあるべき時代ではなくなつたやうである。人々は依然劇場へカタルシスを求めて行く。だが彼等は個人的苦惱よりももつと大きな時代的苦惱を背負つてゐる。彼等の求めるカタルシスの概念そのものが既に變つて來てゐるのだ。
寫實主義の時代にはカタルシスの概念は個別的であつた。可視的世界の描寫と人間性格のまことらしき再現に依つて人々は夫々の心裡に個別的なカタルシスを行つた。更に心理主義は演劇を見えざる人間心理の内面へと深めた。寫實主義と心理主義が結びつくと、登場人物の外的表情と内的表情の複雜な葛藤が尤もらしい事件や出來事を通じて異樣に鮮かに浮彫されて來るやうになつたがその感銘も矢張り個別的なもので、個人々々の内的苦惱が心理的共鳴を呼ぶに過ぎない場合が多い。
僕は人々の心にもつと此の時代に普遍的なカタルシスが行はれねばならないと思ふ。此の時代に生きてゐる我々に共通な、切實な普遍的感銘が生きて來なければならない、と思ふ。それはもはや、寫實主義や心理主義の能く爲すところではない。今日の人間達に共通な不幸、矛盾、不條理、或ひは又我々の望み得る何等かの可能性に對して作者の抱く「思想」のみがそのことを能く爲すであらう。己れの思想的貧困を嘆く若い劇作家の朝夕反省して止まぬ命題である。
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かなりストレスが溜まります
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S社の入口の扉を押して私は往來へ出た。狹い路地に入ると一寸佇んで、蝦蟇口の緩んだ口金を齒で締め合せた。心まちにしてゐた三宿のZ・K氏の口述になる小説『狂醉者の遺言』の筆記料を私は貰つたのだ。本來なら直に本郷の崖下の家に歸つて、前々からの約束である私の女にセルを買つてやるのが人情であつたがしかし最近或事件で女の仕草をひどく腹に据ゑかねてゐた私は、どう考へ直しても氣乘りがしなくて、ただ漫然と夕暮の神樂坂の方へ歩いて行つた。もう都會には秋が訪れてゐて、白いものを着てゐる自分の姿が際立つた寂しい感じである。ふと坂上の眼鏡屋の飾窓を覗くと、氣にいつたのがあつて餘程心が動いたが、でも、おあしをくづす前に、一應Z・K氏にお禮を言ふ筋合のものだと氣が附いて、私はその足で見附から省線に乘つた。
私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。
其日は紀元節で、見窄らしい新開街の家々にも國旗が飜つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四疊半の茶呑臺の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食み出た褞袍を着て前跼みにごほん〳〵咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄關の二疊には、小説で讀まされて舊知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛りの菰冠りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鐵瓶につけ、小蕪の漬物、燒海苔など肴に酒になつた。
やがて日が暮れ體中に酒の沁みるのを待つて、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへにと言つて蕎麥を出されたが、私は半分ほど食べ殘した。するとZ・K氏は眞赤に怒つて、そんな禮儀を知らん人間に談話は出來んと言つて叱り出した。私は直樣丼の蓋を取つておつゆ一滴餘さず掻込んで謝つたが、Z・K氏の機嫌は直りさうもなく、明日出直して來いと私を突き返した。
翌日も酒で夜を更かし、いざこれから始めようとする所でZ・K氏は、まだ昨夜の君の無禮に對する癇癪玉のとばしりが頭に殘つてをつてやれないから、もう一度來て見ろと言つた。仕方なく又次の日に行くと、今度は文句無しに喋舌つてくれた。四方山の話のすゑZ・K氏は私の、小説家になれればなりたいといふ志望を聞いて、斷じてなれませんなと、古い銀煙管の雁首をポンと火鉢の縁に叩きつけて、吐き出すやうに言つた。昔ひとりの小僧さんが烏の落した熟柿を拾つて來てそれを水で洗つて己が師僧さんに與へた。すると師僧さんはそれを二分して小僧さんにくれて、二人はおいしい〳〵と言つて食べた――といふ咄をして、それとこれとは凡そ意味が違ふけれど、他人の振舞ふ蕎麥を喰ひ殘すやうな不謙遜の人間に、どうしてどうして、藝術など出來るものですか、斷じて出來つこありませんね、と嶮しい目をして底力のある聲で言つた。さんざ油を取られたが、そんなことが縁になつてか、それからは毎日々々談話をしてくれた。するうち酒屋の借金が嵩んで長い小説の必要に迫られ、S社に幾らかの前借をして取懸つたのが『狂醉者の遺言』といふわけである。
私は自分の雜誌の用事を早目に片付けて午さがりの郊外電車にゆられて毎日通つた。口述が澁つて來ると逆上して夫人を打つ蹴るは殆ど毎夜のことで、二枚も稿を繼げるとすつかり有頂天になつて、狹い室内を眞つ裸の四つん這ひでワン〳〵吠えながら駈けずり廻り、斯うして片脚を上げて小便するのはをとこ犬、斯うしてお尻を地につけて小便するのはをんな犬、と犬の小便の眞似をするかと思ふと疊の上に長く垂らした褌の端を漸く齒の生え始めた、ユウ子さんにつかまらしてお山上りを踊り乍ら、K君々々と私を見て、……君は聞いたか、寒山子、拾得つれて二人づれ、ホイホイ、君が責めりや、おいら斯うやつてユウ子と二人で五老峰に逃げて行くべえ。とそんな出鱈目の馬鹿巫山戲ばかしやつた。或日私は堪りかねて催促がましい口を利くと、明日はS社で二百兩借りて來いと命じたので、斷じて出來ませんと答へるとZ・K氏は少時私をぢつと見据ゑたが、くそ垂れ! 手前などと酒など飮む男かよ、Z・Kともあらう男が! と毒吐き出して、折から夫人が怫然と色を爲した私に吃驚して、仲裁を頼みに酒屋の爺さんを呼びに行つて、小腰をかゞめてチヨコチヨコ遣つて來た爺さんが玄關を上るなり、Z・K氏は、爺さん〳〵、僕この小僧つ子に馬鹿にされたよと言つた。私はお叩頭ひとつして默つて退いた。C雜誌の若い記者が、この角を曲るとめそ〳〵泣けて來ると言つたその杉籬に添つた曲り角まで來ると、私も思はず不覺の涙を零した。が私はこゝで、一簣にして止めてはならぬ。
肚の蟲を殺して翌日は午前に出向くと、Z・K氏は大層喜んで、君昨夜は失敬、僕醉拂つてゐたもので、それにしても好く來てくれましたと丁寧に詫びて、夫人に向つて、これ〳〵、酒屋の爺さんにKさん來てくれたことを傳へて來い、爺さんひどく氣遣つてゐたから、と言付けた。夫人があたふたと出て行くと、Z・K氏は褌を緊め直して眞つ裸のまま一閑張の机に向ひ、神妙に膝頭に手を置いて苦吟し出した面貌に接すると、やはり、羸鶴寒木に翹ち、狂猿古臺に嘯く――といつた風格、貧苦病苦と鬪ひながら、朝夕に藝道をいそしむ、このいみじき藝術家に對する尊敬と畏怖との念が、一枚一圓の筆記料の欲しさもさること乍ら、まア七十日を、大雨の日も缺かさず通ひ詰めさせたといふものだらう……
あれこれと筆記中、肺を煩ふZ・K氏に對して思ひ遣りなく息卷いた自分の態度が省みられたりしてゐるうち、何時か三宿に着いた。
「さうでしたか、それで安心しました。實はS社のはうからお禮が出ないとすると、僕何處かで借りてもあなたにお禮しようと思つたところなんでした。……あ、あ、さう〳〵、主幹の方が行き屆いた方だから……さうでしたか、僕も安心しました。長々御苦勞さん。これからはあなたの勉強が大事。まあ一杯」
獨酌の盃を置いてZ・K氏は斯う優しく言つてから、私に盃を呉れた。
「發表は新年號? さうですか。どうでせう、失敗だつたかな、僕はあれで好いとは思ふけれど……君はどう思ひます?」
世評を氣にしてさう言ふZ・K氏も、言はれる私も、しばし憮然として言葉が無かつた。
が、だん〳〵醉ひが廻つて來た時、
「K君、君を澁谷まで送つて行くべえ、二十圓ほど飮まうや……。玉川にしようか」
「また、そんなことを言ふ、Kさんだつて、お歸んなすつて奧さんにお見せなさらなければなりませんよ。いつも人さまの懷中を狙ふ、惡い癖だ!」
と、夫人が血相變へて臺所から飛んで來た。
「何んだ、八十圓はちと多過ぎらあ、二十圓パ飮んだかつていゝとも、さあ、着物を出せ」
「お父さん、そんな酷いことどの口で言へますか。Kさんだつて、七十日間の電車賃、お小遣、そりや少々ぢやありませんよ。玉川へでも行つたら八十圓は全部お父さん飮んじまひますよ。そんなことをされてKさんどう奧さんに申譯がありますか!」
夫人は起ちかけたZ・K氏を力一ぱい抑へにかゝつた。
夫人に言はれる迄もなく、石垣からの照り返しの強い崖下の荒屋で、筆記のための特別の入費を内職で稼ぎ出した私の女にも、私は不憫と義理とを忘れてはならない。アーン、アン〳〵と顏に手を當ててぢだんだを踏んで泣き喚いても足りない思ひをしてる時、途端、ガラツと格子戸が開いて、羽織袴の、S社の出版部のAさんが、玄關に見えた。
私は吻として、この難場の救主に、どうぞ〳〵と言つて、自分の座蒲團の裏を返してすゝめた。
「先生、突然で恐縮ですが、來年の文章日記へ、ひとつご揮毫をお願ひしたいんですが、どうか枉げてひとつ……」
二こと三こと久闊の挨拶が取交はされた後、Aさんは手を揉みながら物馴れた如才ない口調で斯う切り出した。
「我輩、書くべえか……K君、どうしよう、書いてもいゝか?」
それは是非お書きになつたらいゝでせうと、私はAさんに應援する風を裝つて話を一切そつちに移すやう上手にZ・K氏に焚き附けた。机邊に戲れるユウ子さんを見て、「われと遊ぶ子」と書かうかとか、いや、「互に憐恤あるべし」に決めようとZ・K氏の言つてゐる、そのバイブルの章句に苦笑を覺えながらも、やれ〳〵助かつたはと安堵の太息を吐き〳〵、私は墨をすつたり筆を洗つたりした。
感興の機勢で直ぐ筆を揮つたZ・K氏は、縱長い鳥子紙の見事な出來榮えにちよつと視入つてゐたが、くる〳〵器用に卷いて、では、これを、とAさんの前に差出したかと思ふと、瞬間、手を引つ込めて、
「A君、これタヾかね?」と、唇を尖らした。
「いや〳〵、のちほど、どつさり荷物自動車でお屆けいたしますから」
「さうですか。たんもり持つて來て下さい。ハヽヽヽハ」
Z・K氏は愉快で堪らなかつた。たうとう私達を酒屋の爺さんとこへ誘つた。
酒屋へは、有本老人、疊屋の吉さん、表具屋の主人、などコップ酒の常連が詰掛けて、足相撲をやつてゐた。溜つた酒代の貸前が入つて上機嫌の爺さんが盆に載せて出したコップの冷酒を一氣に呷つたZ・K氏は、「さあ、片つ端から、おれにかゝつて來い」と、尻をまくつて痩脛を出した。有本老人はじめ「あツ、痛い、先生にはかなはん」と、後につゞく二三人もばた〳〵負けて脹脛をさすつてゐるのを、私とAさんとは上框に腰掛けて見てゐた。最後にZ・K氏は、恰幅の好いAさんに頻りに勝負を挑んだが、温厚で上品なAさんは笑つて相手にならなかつた。その時、どうした誘惑からか、足相撲などに一度の經驗もない私は、
「先生、私とやりませう」と、座敷へ飛び上つた。
「ヘン、君がか、笑はせらあ、老ライオンの巨口に二十日鼠一匹――と言ひたいところですなあ。口直しにも何んにもなりやせん。ヘヽヽヽだ」
二人は相尻居して足と足を組み當てた。
「君、しつかり……」
「先生から……」
Z・K氏は、小馬鹿にしてつん出してゐた頤を何時の間にか引いて、唇を結んでいきみ出した。
痩せ細つたZ・K氏の脛の剃刀のやうな骨が自分の肉に切れ込んで來て、コリ〳〵と言つた骨を削り取られる音が聞えるやうな氣がしたが私は兩手で膝坊主を抱いて、火でも噴きさうな眼を閉ぢて、齒を喰ひしばつた。
「……おいら、負けた、もう一遍。もう一遍やり直さう……何に、やらん? 卑怯だよ卑怯だよ……待て待て、こら、待たんか……」
その聲を聞き棄てて、私は時を移さずAさんと一しよに屋外へ出た。世田ヶ谷中學前の暗い石ころ道を、ピリツ〳〵と火傷のやうに痛む足を引きずり乍らAさんの後について夜更の停留場へ急いだが、きたない薄縁の上にぺちやんこに捩伏せた時の、Z・K氏の強い負け惜しみを苦笑に紛らさうとした顏を思ふと、この何年にもない痛快な笑ひが哄然と込みあげたが、同時に、さう長くは此世に生を惠まれないであらうZ・K氏――いや、私がいろ〳〵の意味で弱り勝ちの場合、あの苛烈な高ぶつた心魂をば、ひとへに生涯の宗と願ふべきである我が狸洲先生(かれは狸洲と號した)に、ずゐぶん御無禮だつたことが軈て後悔として殘るやうな氣がした。
(昭和四年)
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Hard
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関西では「昆布とろの椀」で通ずるようになっているので、ここではそうしておこう。これくらい簡単で、明瞭な美味さを感ずるものは、ほかに類がないかも知れない。
関西人はことに昆布を食いつけているので味が分り、充分に賞味できることから、多くの人が賞味しているようである。ただここでは昆布がよくないといけないのであって、東京では昆布をあまり知らないところから、とろろ昆布、もずくがあるけれども、粗末にするものが多い。いい昆布で、削って肉のないようなのがよいのだが、東京では特殊店に行かないとない。しかし、関西では自由に手に入る。上等品は白く、やわらかく、ふうわりとしていて、真っ白く削られたものがよろしい。日常の惣菜には黒いのでも美味いには美味いが、品がわるい。
なんにしても昆布だけの吸いものだから、昆布を中心にして、昆布の選択をするほど効果がある。また昆布の吸いものゆえに、そのだしはかつおぶしだけでよろしい。かつおぶしと言ってもよしあしがあるから、かつおぶし屋に行って、よく乾燥して高いものを買ったらよい。それだけで立派な吸いものができる。
ここでも薄口醤油を是非とも使って欲しい。東京のものより半額ほど安いのだから、手に入れて欲しいものである。
さて昆布とろをぞんざいにやる時だったら、椀の中にとろろ昆布を入れ、化学調味料でも少し入れ、醤油を加え、それに熱湯をさすだけでできるのであるが、それでは荒っぽいぞんざいな間に合わせ仕事で、料理らしく上等にするには、是非かつおぶしのだしを取り、それに薄口醤油を入れ、ふつうの汁よりちょっと水っぽくして、それを椀の中のとろろ昆布の上から注げばよろしい。ただし、それには条件がある。この中にねぎの微塵に刻んだのを入れるのと入れないのとでは、味が非常に違うということである。入れないと、なんだか物足りなくて、味の上に大いなる劣りがある。今までねぎを入れてやったことのない方があったら、是非お試し願いたいものである。
(昭和八年)
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Medium
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彼は19歳で念願のCDデビューを果たす
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